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41. 黒と話す朝
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朝、目が覚めて最初に視界に入った見知らぬ天井をぼんやりと見つめる。自分のベッドよりもほんの少し大きなベッドに、私は1人で横たわっていた。1人きりのベッドに、1人きりの部屋。当たり前のことが、なんだか無性に虚しかった。
じわり、じわり、と昨晩の記憶が頭のなかに浮かび上がってくる。
「中谷が寝付くまで、ちゃんと傍にいるから。だから、安心して寝な」
昨日の夜、優しい眼差しで菊地さんはそう言った。おでこにキスして、右手を握ってくれて、その手にもキスをして、優しいリズムで布団の上から身体をポンポンと叩いてくれた。甘くて優しい時間に安心して、皓人さんとのことなど思い出す隙間もないぐらいに、熟睡してしまった。
けれども今、私の右手はもう冷たくなっていて。あの優しい熱を、恋しがっている。1人きりのベッドに、1人きりの部屋。昨晩とは違って静かで空虚な空間に、切なさが増す。
ゆっくりと上半身を起こして、ヘッドボードに身体を預ける。菊地さんの姿は、どこにも見当たらない。話していたとおり、自分の部屋に戻ったんだろう。そりゃ、そうだよね。この部屋に寝る場所はないもんね。理屈では分かっていても、つい寂しく思ってしまう。
それでも、今こうやって1人になるのは、良いことな気がする。一晩たってようやく、私は昨日の出来事について考える心の準備ができたと感じた。膝を抱えて目をつむり、鼻から息を目一杯吸って、口から吐き出した。
ノロノロと立ち上がり、知らぬ間に充電コードが繋がれていたスマートフォンを手に取る。メッセージアプリに届いていた皓人さんからのおやすみのメッセージを見て、やはり胸が強く締め付けられる。
『ただの、知り合いです』
あの言葉を、聞かずにすめば良かったのに、と思う自分がいる一方で、むしろ聞けて良かったのだ、と納得している自分もいる。遅かれ早かれ、私たちの関係には終わりが見えていた。いや、もうすでに終わりに突入していたように思う。
皓人さんのことは、本当に好きだった。
好きだ(・)っ(・)た(・)。
過去形にしてしまっている時点で、答えはもう出ていた。それなのに、最後の決心ができずにズルズルと関係を続けていた。だから、昨晩のことは仕方のないことだった気がする。
単純に、私たちは住む世界が違っていた。
今でも、どうして皓人さんが私と一緒にいてくれたのか、疑問が残るほどに。最後まで、その理由は分からずじまいだった。本当は、分かりたかった。でも、分からなかった。伝えてくれなかった。示してくれなかった。それが、辛かった。これ以上は、もう耐えられなかった。
潮時だったのだと思う。
カボチャの馬車は、所詮カボチャだ。いつまでも馬車のかたちを保っていられるわけではない。
スマートフォンに向かって大きなため息をついていると、新たなメッセージの受信を知らせる通知が浮かび上がった。菊地さんだ。
「おはよう。もう起きてる?」
シンプルなメッセージに、思わず頬が緩む。
昨日、菊地さんとの間で起きた出来事は、予想外だった。
菊地さんへの自分の想いを自覚してからも、何か行動を起こすつもりはなかった。皓人さんとのこととは関係なく、何もするつもりはなかった。職場の先輩と後輩。あくまでもその立場のままで居続けようと思っていた。それが、あるべき姿だと思っていたから。お互いに、その立場を揺らがすことはあったかもしれない。距離の取り方がだんだんと曖昧になってきていたのも事実だ。けれども、菊地さんとプライベートを共に過ごすという選択肢を、考えたことはなかった。
けれども今振り返ってみれば、昨日を菊地さんと過ごしてみて、彼と共に過ごす日々という選択肢がとても自然なことのように思えてきた。それこそが、あるべき姿のように感じられた。菊地さんと一緒にいると、安心する。勿論、ドキドキさせられることだって、驚かされることだってある。でも、その感情も含めて、安心するのだ。
菊地さんの想いを聞いたのは、完全なる不意打ちだった。思ってもみないことで驚いた。そして、たがが外れた。それまで理性で押し殺してきた気持ちを、抑えられなかった。
ふと、昨日デスクへ置きっぱなしにしていたチューハイの缶がなくなっていることに気づく。捨てた記憶はないものの、ゴミ箱を覗き込む。無い。床に落ちているわけでもない。浴室のゴミ箱も確認したが、見当たらない。外に持ち出した記憶もない。となると、考えられる可能性は1つしかなくて。ベッドに腰掛けながら、ゆっくりと瞼を下ろす。
このまま菊地さんとの関係を始めてしまっても、良いのだろうか。
職場のことも考えないといけないけれども、それ以前に、私の心がこのままではダメだと、待ったをかける。頭ではなく、心が。
皓人さんとの終わりは、まだなんとなく曖昧だ。始まりすらも曖昧ではある。そもそも関係自体も曖昧だ。でも、この曖昧なまま菊地さんとの関係を始めるのは、間違っている気がする。菊地さんとのことを、曖昧にはしたくない。
このまま仮に曖昧なままでいたら、北野さんと脇田さんの時からあまり進歩がないような気がする。
皓人さんのことが好きだったはずなのに、菊地さんにも惹かれた。それとも、菊地さんに惹かれていたのに、皓人さんを好きになった? 考えれば考えるほど、様々な境界線が曖昧になる。
想いは、曖昧だ。心の内は、曖昧だ。だからこそ、関係だけははっきりさせたい。両方などという選択肢はないのだから、今回こそはきちんとしたい。
目の前のラックにかけられたジャケットを見て、私は静かに頷いた。急いで身なりを整えると、昨晩とは対称的に確かな足取りで、私は菊地さんの部屋へと向かった。
「おはようございます」
頭を下げながら、私は昨日借りたジャケットを差し出す。菊地さんは戸惑い気味にジャケットを受け取ると、そのまま扉を大きく開けて私を部屋の中へと通した。
「二日酔いは?」
「大丈夫です。寝れば大体スッキリするので」
部屋に入ったのは良いものの、居所に困る。とりあえず入り口の辺りに立ったままでいると、菊地さんはポンポン、とベッドを叩いて私にそこへ座るように促した。菊地さん自身はデスク脇のイスに座る。私も言われた通りに腰掛けながら、不意に昨晩の口づけを思い出してしまい、体温が上がるのを感じた。朝っぱらから不埒なことを考える自分を、心のなかでつねる。
「それで? 返信も寄越さずに直接ここへ来たってことは、話があるんだろ?」
どうして菊地さんにはなんでもお見通しなんだろう。私の心、菊地さんには透けて見えているのかな? なんて考えながら、私はゆっくりと口を開いた。
「まずは、昨日は色々とすみませんでした。泣いたり、愚痴ったり、勝手に酔って、色々と、その、ご迷惑をおかけしたというかお世話をおかけしたというか、あの、とにかく、諸々、すみませんでした」
改めて頭を下げれば、菊地さんが深いため息をついたのが聞こえた。頭を上げづらいなと思いつつ、上げないわけにもいかないので、ゆっくりと体勢を戻す。こちらをじっと見据える菊地さんと目が合う。その視線からは感情が読み取れなくて、なんだか気まずさを感じて視線を逸らしてしまった。
「昨日の夜のこと、中谷は後悔してる?」
菊地さんの静かな問いに、私は躊躇しながらも頷く。彼に嘘をつきたくなかった。途端に、菊地さんの表情が切なげに歪む。その表情に、胸がぎゅっと痛んだ。昨日の夜とは正反対の、冷えきった空気が部屋のなかに広がる。
「そっか」
目を伏せてそう答える菊地さんの表情は、明らかに失望の色を浮かべていて、私の胸は更に痛んだ。彼を傷つけた。その事実を突きつけられて、私が今一番傷つけたくない人物は菊地さんなんだと実感してしまった。
「あんな形、望んでなかったんです」
ぽつり、と私は話し始めた。
「あんな、ぐしゃぐしゃな感情で、菊地さんを利用するみたいなこと、したくありませんでした」
朝、顔を洗いながら考えていたことを、なんとか言葉にして絞り出す。
「私、ちゃんと話そうと思ってます、彼と。向こうは私のことを恋人だと思っていなかったとしても、私はそう思っていたわけですから。それで、きちんと区切りをつけてから、改めて菊地さんと向き合いたいです。私にとって、菊地さんは特別だから」
「特別?」
「はい」
私は力強く頷くと、おもむろに立ち上がった。驚いた表情の菊地さんには何の説明もせず、その足元にあるゴミ箱を覗き込んだ。予想していた通り、昨日の夜に私が飲んでいたチューハイの缶が入っていた。彼のこういう優しさが、ずっと私を支えてくれていた。彼のこういう気づかいが、私に力を与えてくれていた。そんな人、特別に決まっているじゃない。
少し遅れて、ようやく私の行動の意味に気づいたらしい菊地さんは気まずそうに首の後ろに手を当てる。私が何も言わないでいると、彼の表情がだんだんと緩み、照れたような微笑みが浮かんだ。少しでも、私の想いが伝わっていて欲しい。そう願いながら、私は彼を見つめ続けた。
「それが、今の中谷が出した答え?」
「はい」
「じゃあ、俺はこのまま期待して待ってていいの?」
「待っていていただけると、嬉しいです」
はからずも彼を見下ろす体勢になってしまっていた私は、思わず目をつぶって、彼の答えを待った。まるで、彼が頷いてくれるのを祈るように。そんな私の右手に、そっと熱が伝わる。
「分かった」
菊地さんの静かな低い声が、私の耳にゆっくりと届く。瞼を押し上げれば、私の右手を彼がそっと握っていた。
「中谷がそう決めたなら、俺はそれに従う」
きっと、私はすごく間抜けな表情をしていたんだろう。私を見て菊地さんは、すぐにいつもの笑顔を見せてくれる。
「待ってる間は、今まで通りでいいんだろ?」
「はい」
こちらが拍子抜けしてしまうほどにあっさりと、菊地さんは納得してくれたようだった。私たちはお互いに微笑みあった。そしてすぐに、彼の手は私のそれから離れていった。それが、私たちの新しい距離感の合図となった。
部屋の中の空気が軽くなり、私たちはまるで昨晩のことなどなかったかのように、いつも通りの距離を保っていた。
一緒にホテルのバイキングで朝食をとり、同じタイミングでチェックアウトを済ませると、帰りの新幹線を予約した。新幹線までの時間を、市場を回ったり会社用のお土産を買ったりして過ごし、すっかり復旧した新幹線に並んで座った。
驚くほどに穏やかな時間で、隣にいるのがまるで当たり前のようだった。手を繋ぐこともできなければ、距離を詰めすぎる訳にはいかないため、気を使う部分もあったが、大きな問題にはならなかった。どんな関係であっても、隣に菊地さんがいてくれるだけで、私の心は安らかだった。
「そういえばさ」
リクライニングした新幹線のイスの背もたれに、無防備に寄りかかったまま、菊地さんは口を開いた。
「パンプスの時のお礼、まだ決めてなかったな」
オフモードだからか、いつもより心なしかゆったりとした話し方がなんだか新鮮で、ときめきが胸を掠めた。
「菊地さんへのお礼の気持ちなので、菊地さんが決めてください。できる限り、リクエストにお応えするので」
そう答えながら、リラックスしきった自分の声に驚いた。窓に反射する自分の表情も、すっかり緩みきっている。
「本当に? じゃあ、待ってる間に考えとくわ」
と答える菊地さんの瞳の奥が、いたずらに光る。どんなリクエストが来るのか、と少しばかり自分の言葉を後悔しつつも、菊地さんのことだから、無茶なことはないだろう、とも感じる。
平和だ。
漠然とそう感じながら、これが嵐の前の静けさであろうことも、私の心は分かっていた。
じわり、じわり、と昨晩の記憶が頭のなかに浮かび上がってくる。
「中谷が寝付くまで、ちゃんと傍にいるから。だから、安心して寝な」
昨日の夜、優しい眼差しで菊地さんはそう言った。おでこにキスして、右手を握ってくれて、その手にもキスをして、優しいリズムで布団の上から身体をポンポンと叩いてくれた。甘くて優しい時間に安心して、皓人さんとのことなど思い出す隙間もないぐらいに、熟睡してしまった。
けれども今、私の右手はもう冷たくなっていて。あの優しい熱を、恋しがっている。1人きりのベッドに、1人きりの部屋。昨晩とは違って静かで空虚な空間に、切なさが増す。
ゆっくりと上半身を起こして、ヘッドボードに身体を預ける。菊地さんの姿は、どこにも見当たらない。話していたとおり、自分の部屋に戻ったんだろう。そりゃ、そうだよね。この部屋に寝る場所はないもんね。理屈では分かっていても、つい寂しく思ってしまう。
それでも、今こうやって1人になるのは、良いことな気がする。一晩たってようやく、私は昨日の出来事について考える心の準備ができたと感じた。膝を抱えて目をつむり、鼻から息を目一杯吸って、口から吐き出した。
ノロノロと立ち上がり、知らぬ間に充電コードが繋がれていたスマートフォンを手に取る。メッセージアプリに届いていた皓人さんからのおやすみのメッセージを見て、やはり胸が強く締め付けられる。
『ただの、知り合いです』
あの言葉を、聞かずにすめば良かったのに、と思う自分がいる一方で、むしろ聞けて良かったのだ、と納得している自分もいる。遅かれ早かれ、私たちの関係には終わりが見えていた。いや、もうすでに終わりに突入していたように思う。
皓人さんのことは、本当に好きだった。
好きだ(・)っ(・)た(・)。
過去形にしてしまっている時点で、答えはもう出ていた。それなのに、最後の決心ができずにズルズルと関係を続けていた。だから、昨晩のことは仕方のないことだった気がする。
単純に、私たちは住む世界が違っていた。
今でも、どうして皓人さんが私と一緒にいてくれたのか、疑問が残るほどに。最後まで、その理由は分からずじまいだった。本当は、分かりたかった。でも、分からなかった。伝えてくれなかった。示してくれなかった。それが、辛かった。これ以上は、もう耐えられなかった。
潮時だったのだと思う。
カボチャの馬車は、所詮カボチャだ。いつまでも馬車のかたちを保っていられるわけではない。
スマートフォンに向かって大きなため息をついていると、新たなメッセージの受信を知らせる通知が浮かび上がった。菊地さんだ。
「おはよう。もう起きてる?」
シンプルなメッセージに、思わず頬が緩む。
昨日、菊地さんとの間で起きた出来事は、予想外だった。
菊地さんへの自分の想いを自覚してからも、何か行動を起こすつもりはなかった。皓人さんとのこととは関係なく、何もするつもりはなかった。職場の先輩と後輩。あくまでもその立場のままで居続けようと思っていた。それが、あるべき姿だと思っていたから。お互いに、その立場を揺らがすことはあったかもしれない。距離の取り方がだんだんと曖昧になってきていたのも事実だ。けれども、菊地さんとプライベートを共に過ごすという選択肢を、考えたことはなかった。
けれども今振り返ってみれば、昨日を菊地さんと過ごしてみて、彼と共に過ごす日々という選択肢がとても自然なことのように思えてきた。それこそが、あるべき姿のように感じられた。菊地さんと一緒にいると、安心する。勿論、ドキドキさせられることだって、驚かされることだってある。でも、その感情も含めて、安心するのだ。
菊地さんの想いを聞いたのは、完全なる不意打ちだった。思ってもみないことで驚いた。そして、たがが外れた。それまで理性で押し殺してきた気持ちを、抑えられなかった。
ふと、昨日デスクへ置きっぱなしにしていたチューハイの缶がなくなっていることに気づく。捨てた記憶はないものの、ゴミ箱を覗き込む。無い。床に落ちているわけでもない。浴室のゴミ箱も確認したが、見当たらない。外に持ち出した記憶もない。となると、考えられる可能性は1つしかなくて。ベッドに腰掛けながら、ゆっくりと瞼を下ろす。
このまま菊地さんとの関係を始めてしまっても、良いのだろうか。
職場のことも考えないといけないけれども、それ以前に、私の心がこのままではダメだと、待ったをかける。頭ではなく、心が。
皓人さんとの終わりは、まだなんとなく曖昧だ。始まりすらも曖昧ではある。そもそも関係自体も曖昧だ。でも、この曖昧なまま菊地さんとの関係を始めるのは、間違っている気がする。菊地さんとのことを、曖昧にはしたくない。
このまま仮に曖昧なままでいたら、北野さんと脇田さんの時からあまり進歩がないような気がする。
皓人さんのことが好きだったはずなのに、菊地さんにも惹かれた。それとも、菊地さんに惹かれていたのに、皓人さんを好きになった? 考えれば考えるほど、様々な境界線が曖昧になる。
想いは、曖昧だ。心の内は、曖昧だ。だからこそ、関係だけははっきりさせたい。両方などという選択肢はないのだから、今回こそはきちんとしたい。
目の前のラックにかけられたジャケットを見て、私は静かに頷いた。急いで身なりを整えると、昨晩とは対称的に確かな足取りで、私は菊地さんの部屋へと向かった。
「おはようございます」
頭を下げながら、私は昨日借りたジャケットを差し出す。菊地さんは戸惑い気味にジャケットを受け取ると、そのまま扉を大きく開けて私を部屋の中へと通した。
「二日酔いは?」
「大丈夫です。寝れば大体スッキリするので」
部屋に入ったのは良いものの、居所に困る。とりあえず入り口の辺りに立ったままでいると、菊地さんはポンポン、とベッドを叩いて私にそこへ座るように促した。菊地さん自身はデスク脇のイスに座る。私も言われた通りに腰掛けながら、不意に昨晩の口づけを思い出してしまい、体温が上がるのを感じた。朝っぱらから不埒なことを考える自分を、心のなかでつねる。
「それで? 返信も寄越さずに直接ここへ来たってことは、話があるんだろ?」
どうして菊地さんにはなんでもお見通しなんだろう。私の心、菊地さんには透けて見えているのかな? なんて考えながら、私はゆっくりと口を開いた。
「まずは、昨日は色々とすみませんでした。泣いたり、愚痴ったり、勝手に酔って、色々と、その、ご迷惑をおかけしたというかお世話をおかけしたというか、あの、とにかく、諸々、すみませんでした」
改めて頭を下げれば、菊地さんが深いため息をついたのが聞こえた。頭を上げづらいなと思いつつ、上げないわけにもいかないので、ゆっくりと体勢を戻す。こちらをじっと見据える菊地さんと目が合う。その視線からは感情が読み取れなくて、なんだか気まずさを感じて視線を逸らしてしまった。
「昨日の夜のこと、中谷は後悔してる?」
菊地さんの静かな問いに、私は躊躇しながらも頷く。彼に嘘をつきたくなかった。途端に、菊地さんの表情が切なげに歪む。その表情に、胸がぎゅっと痛んだ。昨日の夜とは正反対の、冷えきった空気が部屋のなかに広がる。
「そっか」
目を伏せてそう答える菊地さんの表情は、明らかに失望の色を浮かべていて、私の胸は更に痛んだ。彼を傷つけた。その事実を突きつけられて、私が今一番傷つけたくない人物は菊地さんなんだと実感してしまった。
「あんな形、望んでなかったんです」
ぽつり、と私は話し始めた。
「あんな、ぐしゃぐしゃな感情で、菊地さんを利用するみたいなこと、したくありませんでした」
朝、顔を洗いながら考えていたことを、なんとか言葉にして絞り出す。
「私、ちゃんと話そうと思ってます、彼と。向こうは私のことを恋人だと思っていなかったとしても、私はそう思っていたわけですから。それで、きちんと区切りをつけてから、改めて菊地さんと向き合いたいです。私にとって、菊地さんは特別だから」
「特別?」
「はい」
私は力強く頷くと、おもむろに立ち上がった。驚いた表情の菊地さんには何の説明もせず、その足元にあるゴミ箱を覗き込んだ。予想していた通り、昨日の夜に私が飲んでいたチューハイの缶が入っていた。彼のこういう優しさが、ずっと私を支えてくれていた。彼のこういう気づかいが、私に力を与えてくれていた。そんな人、特別に決まっているじゃない。
少し遅れて、ようやく私の行動の意味に気づいたらしい菊地さんは気まずそうに首の後ろに手を当てる。私が何も言わないでいると、彼の表情がだんだんと緩み、照れたような微笑みが浮かんだ。少しでも、私の想いが伝わっていて欲しい。そう願いながら、私は彼を見つめ続けた。
「それが、今の中谷が出した答え?」
「はい」
「じゃあ、俺はこのまま期待して待ってていいの?」
「待っていていただけると、嬉しいです」
はからずも彼を見下ろす体勢になってしまっていた私は、思わず目をつぶって、彼の答えを待った。まるで、彼が頷いてくれるのを祈るように。そんな私の右手に、そっと熱が伝わる。
「分かった」
菊地さんの静かな低い声が、私の耳にゆっくりと届く。瞼を押し上げれば、私の右手を彼がそっと握っていた。
「中谷がそう決めたなら、俺はそれに従う」
きっと、私はすごく間抜けな表情をしていたんだろう。私を見て菊地さんは、すぐにいつもの笑顔を見せてくれる。
「待ってる間は、今まで通りでいいんだろ?」
「はい」
こちらが拍子抜けしてしまうほどにあっさりと、菊地さんは納得してくれたようだった。私たちはお互いに微笑みあった。そしてすぐに、彼の手は私のそれから離れていった。それが、私たちの新しい距離感の合図となった。
部屋の中の空気が軽くなり、私たちはまるで昨晩のことなどなかったかのように、いつも通りの距離を保っていた。
一緒にホテルのバイキングで朝食をとり、同じタイミングでチェックアウトを済ませると、帰りの新幹線を予約した。新幹線までの時間を、市場を回ったり会社用のお土産を買ったりして過ごし、すっかり復旧した新幹線に並んで座った。
驚くほどに穏やかな時間で、隣にいるのがまるで当たり前のようだった。手を繋ぐこともできなければ、距離を詰めすぎる訳にはいかないため、気を使う部分もあったが、大きな問題にはならなかった。どんな関係であっても、隣に菊地さんがいてくれるだけで、私の心は安らかだった。
「そういえばさ」
リクライニングした新幹線のイスの背もたれに、無防備に寄りかかったまま、菊地さんは口を開いた。
「パンプスの時のお礼、まだ決めてなかったな」
オフモードだからか、いつもより心なしかゆったりとした話し方がなんだか新鮮で、ときめきが胸を掠めた。
「菊地さんへのお礼の気持ちなので、菊地さんが決めてください。できる限り、リクエストにお応えするので」
そう答えながら、リラックスしきった自分の声に驚いた。窓に反射する自分の表情も、すっかり緩みきっている。
「本当に? じゃあ、待ってる間に考えとくわ」
と答える菊地さんの瞳の奥が、いたずらに光る。どんなリクエストが来るのか、と少しばかり自分の言葉を後悔しつつも、菊地さんのことだから、無茶なことはないだろう、とも感じる。
平和だ。
漠然とそう感じながら、これが嵐の前の静けさであろうことも、私の心は分かっていた。
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