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44. 黒と過ごす日
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本日何個目か分からないバームクーヘンを一切れ、口に運ぶ。一気に広がる甘くて幸せな味に、私は思わず頬を押さえた。
「うん、これも美味しい」
頷く私の隣で、彩可はスマートフォンのメモ帳に真剣な表情で入力を始めた。
「さっきのより、こっちの方が軽い食感だよね。シンプルっていうか。あ、だから賞味期限が長めなのか。ね、2個前のとこれ、どっちの方が美味しかった?」
「2個前? えっと、どっちも美味しかった、よ?」
私の答えに彩可は深いため息を吐いた。眉間にはくっきりと皺が寄っている。
「ねえ、結婚式までまだ半年あるんだしさ、引き菓子はもうちょっと後で決めてもいいんじゃない?」
少しでも彩可の緊張を解こうとした私の言葉は、親友をしかめっ面にしただけでむしろ逆効果だったことに、瞬時に気付く。
「今じゃなきゃだめなの!」
おおよそ彼女らしくない大声に、周囲の人々も好奇の目を寄せてくる。私は彩可の背中を擦りながら、どこか落ち着けそうな所はないか、と辺りを見渡す。偶然、視界に入ったフルーツパーラーを指差し、奢るから、と説得して無理やり彩可を店内に押し込んだ。
「梨のジュースと」
「季節のパフェください。紅茶セットで」
口を尖らせて俯く彩可に、心配の眼差しを向ける。
子供の頃から、彩可は冷静なタイプだった。ちょっとミーハーで、私とは違ってキャイキャイとはしゃぐこともあったけれども、重要な選択には動揺せずに冷静な判断を下す。熟考することもあるけれども、どちらかというとすぐさまはっきりとした結論を出す。そんな彩可は、私にとって憧れでもあり、頼りになる唯一の親友だ。
そんな彩可がここまで唸るなんて、結婚式の準備って、よほど大変なんだな、と漠然と思った。まだ準備も始めたばかりだというのに。
「あれだけ試食したのに、よくパフェなんて食べられるね」
メニューを畳みながら、私は問いかけた。
「パフェは別腹。人のお金で食べるパフェほど格別なものはないし」
言いながら、彩可は再びスマートフォンに視線を落とした。
「私、焦りすぎかな?」
ポツリ、と彩可はつぶやく。
「ちょっと、ね」
そう答えながら、私は水の入ったグラスを傾けた。
「でもさ、折角みんなに渡すんだからさ、美味しいと思ったものを渡したいじゃん? だから、自分で食べて選びたい。でも、結婚式に向けてダイエットもしたい。そしたら、早いかもだけど今のうちに選んでおきたいじゃん」
彩可の言葉に、私は静かに頷いた。彩可の気持ちも考えも、よく分かる。結婚式は自分のためでもあり、周囲の人のためでもある。だからこその大変さがあるんだろうな。
「なんかさ、結婚式の準備を始めてから、茉里の気持ちが分かるようになってきたかも」
注文した品が届いた頃、おもむろに彩可はそう話し始めた。
「茉里って、ビックリするぐらい優柔不断で、小さなことでも自分じゃちっとも決められなかったじゃん?」
細長いスプーンを口に運びながら、親友は言う。
「なんでそんなに迷うんだろうって、今まではもどかしく思ってたけど、式の準備始めたらさ、なんか色々考えすぎちゃって、全然決められないんだよね。茉里もいつも、こんな感じだったのかなって」
苦笑しながら、彩可は梨をスプーンでつついた。そんな彼女に、私も苦笑を返す。
私の優柔不断さに、多くのクラスメートたちは呆れて、見放されてきた。友達もどんどんと離れていった。もう、付き合っていられない、と。そんな状況でも私を見捨てずに根気強く付き合ってくれたのが、彩可だった。時には一緒に考えたり、決める手助けをしてくれたりした。彩可は、私にとってかけがえのない存在。
私はゆっくりと自分のスマートフォンを手に取ると、いつものアプリを立ち上げる。
「大丈夫だよ。最終的には、奥の手があるから」
そう言いながら、私は彩可にルーレットアプリを突きつける。何度かまばたきをしたあと、久々に声を上げて笑い始める。親友のその姿に、私も思わず笑顔を浮かべる。
「そうだよね、最悪、それで決めればいいもんね」
目尻の涙を拭いながら、彩可は言った。いつの間にか鼻についている生クリームを指摘すれば、またも声を上げて笑いながら、ナプキンでそれを拭った。
「けど、そのアプリの登場回数、減ったよね」
何気ないことのように、彩可は言った。
「今日だってパンプス、そのアプリ使わないで、自分で考えて選んでたじゃん? いい変化だと思うよ、私は」
静かな彩可の言葉が、私の心にダイレクトに響く。
新しいパンプスを買わないと。そう思った時、最初は菊地さんを誘おうかと思った。前のパンプスは皓人さんに選んでもらったのだから、新しいものは菊地さんに選んでもらおうと。そう思ってすぐ、その考えを捨てた。まるで、皓人さんとの関係をなぞるみたいなことを、菊地さんとするのは間違っていると思ったから。
けれども、1人で行くのはなんだか腰が引けてしまって。結局、彩可を誘うことにした。彩可もちょうど、引き菓子を見に百貨店に行きたい、とのことだったので、お互いにぴったりのタイミングだったのだ。
「それに、菊地さんもいい相手だと思うよ」
安らかな笑顔で、彩可は言う。彩可はずっと、菊地さん推しだったもんな、と苦笑しながらも、はじめから彩可の言うことを聞いておけば良かったとも思う。そうすれば、皓人さんとのことで傷つくこともなかったのに。やっぱりなにかを選ぶって、難しい。
「うん、菊地さんがいい人なのは、間違いないと思う」
答えながら、私はストローを思い切り吸い上げた。
*************************
「プラネタリウム行くの、俺、何年ぶりかな?」
当たり前のようにつながれた右手に、当たり前のように歩幅を合わせてくれる。菊地さんとこうやってプライベートで出かけるのは初めてなのに、当たり前のようにしっくりと馴染んだ感覚に、思わず頬が緩む。
皓人さんとの関係に区切りをつけたと菊地さんに伝えたあの日、家に帰ってから改めて菊地さんに連絡した。何度かやり取りの往復があって、まずはデートに行こう、という話になった。なんとなく屋内でゆっくりできる場所が良い、というお互いの希望で、行き先はプラネタリウムで落ち着いた。
待ち合わせをして一緒にランチを食べて、少しだけぶらぶらと歩いて、ようやくプラネタリウムへと向かうことになった。完全なるプライベートで一緒に過ごすのは初めてなのに、菊地さんが隣にいることへの違和感が全くない。違和感のないことが、なんだか新鮮で、不思議な感覚だ。
「私も、小学生以来かもしれません」
私たちの間に、まだ決めごとはない。お互いをどう呼び合うかとか、どういう話口調にするかとか……私たちの関係を何て呼ぶのか、とか。そういう話をする前に、まずは2人でいつも通り、気負わずに過ごすことにした。
自然とチケット窓口へと私の足が向かうと、菊地さんがつないだ手を引いて私を止める。理由が分からずに首を傾げれば、菊地さんは笑いながらスマートフォンを揺らす。
「チケット、もう取ってあるから」
笑顔でそう言う菊地さんに、私は小さく感謝の言葉を返した。こういうスマートな優しさ、菊地さんらしいな。この人のこと、本当に好きだな。漠然とそんな想いが胸の中を占める。なんでもスマートにこなしてくれるからじゃない。何かを決める時は一緒に考えて結論を導き出すのに、決まったことについては相手に気を使わせずに先回りするその優しさとか、嫌味なくそれを告げる笑顔とか、そういうところがたまらなく好きだ。
QRコードをかざして中に入る。私が想像していたプラネタリウムとは異なる空間が広がっていて、思わず目を白黒させてしまった。普通の1人席のほかに、芝生に転がる人々や、雲のような白くてふわふわとしたソファまで用意されている。ソファ席がカップルをターゲットとしていることは明らかだった。人目もはばからずに密着するカップルの姿に、こちらの方が思わず赤面してしまう。
私の手を引いて菊地さんが目指したのは、やはりカップル向けのソファ席だった。どぎまぎしながらも、菊地さんに促されてそのまま腰を下ろす。緊張して、つい肩に力が入ってしまう。
「俺の知ってるプラネタリウムとは、なんか全然違うな」
動揺するような様子は一切見せずに、菊地さんは言った。
「ハイテクっていうか、こんな座席まであるなんて、予約するとき驚いたわ」
いつものようにクツクツと笑う菊地さんに、私は曖昧な笑みを返す。ドキン、ドキン、と心臓が大きな音を立てる。
「ごめん、こういう席、苦手だった?」
私の反応が悪かったからか、菊地さんは不安げな表情で私の顔をのぞき込んできた。私ってば、折角のデートなのになんで菊地さんにこんな表情させてるんだろう? 私は慌てて首を振った。
「そうじゃなくて、ちょっと緊張しちゃって」
「緊張?」
「はい」
「なんで?」
菊地さんの予想外の問いに、私はなんて返せばよいのか分からず、言葉を探す。
「距離が近い、から?」
そう答える私の瞳を、菊地さんはじっと見つめる。
あ、まただ。
心の中で、警告音が小さく鳴る。
今まで何度も、こんな風に菊地さんに見つめられたことがあった。そのたびに私は、目を逸らせなくなってしまって。何を考えたらよいのかわからなくなって。最後にはただ、菊地さんに触れたいという気持ちだけが残る。まるで、トランスゾーンか何かに入ってしまったかのようだ。
「もっと近いこともあったのに?」
たくさんの人がいて騒がしいはずなのに、彼の静かな言葉はダイレクトに私の耳に届く。まるで、この空間には私と彼の2人きりかのような錯覚に陥る。
ゆっくりと、菊地さんの右手が私の顔へと伸びてくる。暖かくてちょっぴり武骨な手がそっと、私の頬に添えられる。瞬きも、呼吸すらも忘れて、見えもしない彼の手の動きを視線で追おうとする。そのまま彼の親指が下唇と顎の間のくぼみへ触れたときにようやく、私はまた下唇をかみしめてしまっていたことに気づいた。
菊地さんがクっと親指に力を入れて、私に唇を開かせる。そして親指の腹でそーっと私の下唇をなぞっていく。触れるか触れないか程の距離感で、力もさほど入っていない。それでも彼の指が私の唇を撫でる感触は妙にリアルで妙に艶めかしく、身体の中心に小さな灯がともる。
キス、してくれないのかな。
人前だというのに、そんな考えが頭の中にほわりと浮かぶ。
キス、して欲しいな。
頭の中に浮かんだ答えは、恥ずかしくて口には出せなくて。テレパシーで伝わればいいのに、なんて思いながら菊地さんの瞳をじっと見上げた。
ドクン、ドクン。
緊張とは明らかに違う心臓の音が鳴り響く。
私の瞳を、菊地さんはまっすぐに見つめ返した。そのまま顔を近づけてくれればいいのに。それだけでいいのに。
そんな私の期待もむなしく、菊地さんの手は私の顔からだんだんと離れていった。一気に心が落胆していくのが嫌でも分かった。
会場内が徐々に暗くなっていく。その流れに乗るかのように、私たちもソファに身体を沈めていく。何気なく私の肩には菊地さんの腕が回されていて、ぐっと肩を抱き寄せられる。ドキン、と心臓がだいぶ派手な音を立てる。
この距離感、この密着度合いは、やはり緊張してしまう。
確実に菊地さんにも伝わっているであろう心臓の音を、収める方法を私は知らない。汗かいていないかな、とか、臭くないかな、とか、そんな心配事が頭の中を駆け巡り、なかなか目の前の星空に集中できない。
「あのさ」
唐突に耳元で菊地さんの低い声がささやき始める。耳にかかる熱い吐息に、私はもうくらくらしてしまう。
「俺も、緊張してる」
そう言いながら、菊地さんはつながれたままになっていた私たちの手を、自身の心臓の上に置いた。ドクン、ドクン、と速いスピードでリズムを刻むその音に、本当に彼も緊張していることが伝わってきた。
けれども、それ以上に私のドキドキのボルテージは上がっていて。今にも頭から煙を出してしまいそうな刺激の強さに、正直いっぱいいっぱいだ。そんな私を見ていたずらっぽく笑う菊地さんの笑顔に、私の心は陥落した。
「うん、これも美味しい」
頷く私の隣で、彩可はスマートフォンのメモ帳に真剣な表情で入力を始めた。
「さっきのより、こっちの方が軽い食感だよね。シンプルっていうか。あ、だから賞味期限が長めなのか。ね、2個前のとこれ、どっちの方が美味しかった?」
「2個前? えっと、どっちも美味しかった、よ?」
私の答えに彩可は深いため息を吐いた。眉間にはくっきりと皺が寄っている。
「ねえ、結婚式までまだ半年あるんだしさ、引き菓子はもうちょっと後で決めてもいいんじゃない?」
少しでも彩可の緊張を解こうとした私の言葉は、親友をしかめっ面にしただけでむしろ逆効果だったことに、瞬時に気付く。
「今じゃなきゃだめなの!」
おおよそ彼女らしくない大声に、周囲の人々も好奇の目を寄せてくる。私は彩可の背中を擦りながら、どこか落ち着けそうな所はないか、と辺りを見渡す。偶然、視界に入ったフルーツパーラーを指差し、奢るから、と説得して無理やり彩可を店内に押し込んだ。
「梨のジュースと」
「季節のパフェください。紅茶セットで」
口を尖らせて俯く彩可に、心配の眼差しを向ける。
子供の頃から、彩可は冷静なタイプだった。ちょっとミーハーで、私とは違ってキャイキャイとはしゃぐこともあったけれども、重要な選択には動揺せずに冷静な判断を下す。熟考することもあるけれども、どちらかというとすぐさまはっきりとした結論を出す。そんな彩可は、私にとって憧れでもあり、頼りになる唯一の親友だ。
そんな彩可がここまで唸るなんて、結婚式の準備って、よほど大変なんだな、と漠然と思った。まだ準備も始めたばかりだというのに。
「あれだけ試食したのに、よくパフェなんて食べられるね」
メニューを畳みながら、私は問いかけた。
「パフェは別腹。人のお金で食べるパフェほど格別なものはないし」
言いながら、彩可は再びスマートフォンに視線を落とした。
「私、焦りすぎかな?」
ポツリ、と彩可はつぶやく。
「ちょっと、ね」
そう答えながら、私は水の入ったグラスを傾けた。
「でもさ、折角みんなに渡すんだからさ、美味しいと思ったものを渡したいじゃん? だから、自分で食べて選びたい。でも、結婚式に向けてダイエットもしたい。そしたら、早いかもだけど今のうちに選んでおきたいじゃん」
彩可の言葉に、私は静かに頷いた。彩可の気持ちも考えも、よく分かる。結婚式は自分のためでもあり、周囲の人のためでもある。だからこその大変さがあるんだろうな。
「なんかさ、結婚式の準備を始めてから、茉里の気持ちが分かるようになってきたかも」
注文した品が届いた頃、おもむろに彩可はそう話し始めた。
「茉里って、ビックリするぐらい優柔不断で、小さなことでも自分じゃちっとも決められなかったじゃん?」
細長いスプーンを口に運びながら、親友は言う。
「なんでそんなに迷うんだろうって、今まではもどかしく思ってたけど、式の準備始めたらさ、なんか色々考えすぎちゃって、全然決められないんだよね。茉里もいつも、こんな感じだったのかなって」
苦笑しながら、彩可は梨をスプーンでつついた。そんな彼女に、私も苦笑を返す。
私の優柔不断さに、多くのクラスメートたちは呆れて、見放されてきた。友達もどんどんと離れていった。もう、付き合っていられない、と。そんな状況でも私を見捨てずに根気強く付き合ってくれたのが、彩可だった。時には一緒に考えたり、決める手助けをしてくれたりした。彩可は、私にとってかけがえのない存在。
私はゆっくりと自分のスマートフォンを手に取ると、いつものアプリを立ち上げる。
「大丈夫だよ。最終的には、奥の手があるから」
そう言いながら、私は彩可にルーレットアプリを突きつける。何度かまばたきをしたあと、久々に声を上げて笑い始める。親友のその姿に、私も思わず笑顔を浮かべる。
「そうだよね、最悪、それで決めればいいもんね」
目尻の涙を拭いながら、彩可は言った。いつの間にか鼻についている生クリームを指摘すれば、またも声を上げて笑いながら、ナプキンでそれを拭った。
「けど、そのアプリの登場回数、減ったよね」
何気ないことのように、彩可は言った。
「今日だってパンプス、そのアプリ使わないで、自分で考えて選んでたじゃん? いい変化だと思うよ、私は」
静かな彩可の言葉が、私の心にダイレクトに響く。
新しいパンプスを買わないと。そう思った時、最初は菊地さんを誘おうかと思った。前のパンプスは皓人さんに選んでもらったのだから、新しいものは菊地さんに選んでもらおうと。そう思ってすぐ、その考えを捨てた。まるで、皓人さんとの関係をなぞるみたいなことを、菊地さんとするのは間違っていると思ったから。
けれども、1人で行くのはなんだか腰が引けてしまって。結局、彩可を誘うことにした。彩可もちょうど、引き菓子を見に百貨店に行きたい、とのことだったので、お互いにぴったりのタイミングだったのだ。
「それに、菊地さんもいい相手だと思うよ」
安らかな笑顔で、彩可は言う。彩可はずっと、菊地さん推しだったもんな、と苦笑しながらも、はじめから彩可の言うことを聞いておけば良かったとも思う。そうすれば、皓人さんとのことで傷つくこともなかったのに。やっぱりなにかを選ぶって、難しい。
「うん、菊地さんがいい人なのは、間違いないと思う」
答えながら、私はストローを思い切り吸い上げた。
*************************
「プラネタリウム行くの、俺、何年ぶりかな?」
当たり前のようにつながれた右手に、当たり前のように歩幅を合わせてくれる。菊地さんとこうやってプライベートで出かけるのは初めてなのに、当たり前のようにしっくりと馴染んだ感覚に、思わず頬が緩む。
皓人さんとの関係に区切りをつけたと菊地さんに伝えたあの日、家に帰ってから改めて菊地さんに連絡した。何度かやり取りの往復があって、まずはデートに行こう、という話になった。なんとなく屋内でゆっくりできる場所が良い、というお互いの希望で、行き先はプラネタリウムで落ち着いた。
待ち合わせをして一緒にランチを食べて、少しだけぶらぶらと歩いて、ようやくプラネタリウムへと向かうことになった。完全なるプライベートで一緒に過ごすのは初めてなのに、菊地さんが隣にいることへの違和感が全くない。違和感のないことが、なんだか新鮮で、不思議な感覚だ。
「私も、小学生以来かもしれません」
私たちの間に、まだ決めごとはない。お互いをどう呼び合うかとか、どういう話口調にするかとか……私たちの関係を何て呼ぶのか、とか。そういう話をする前に、まずは2人でいつも通り、気負わずに過ごすことにした。
自然とチケット窓口へと私の足が向かうと、菊地さんがつないだ手を引いて私を止める。理由が分からずに首を傾げれば、菊地さんは笑いながらスマートフォンを揺らす。
「チケット、もう取ってあるから」
笑顔でそう言う菊地さんに、私は小さく感謝の言葉を返した。こういうスマートな優しさ、菊地さんらしいな。この人のこと、本当に好きだな。漠然とそんな想いが胸の中を占める。なんでもスマートにこなしてくれるからじゃない。何かを決める時は一緒に考えて結論を導き出すのに、決まったことについては相手に気を使わせずに先回りするその優しさとか、嫌味なくそれを告げる笑顔とか、そういうところがたまらなく好きだ。
QRコードをかざして中に入る。私が想像していたプラネタリウムとは異なる空間が広がっていて、思わず目を白黒させてしまった。普通の1人席のほかに、芝生に転がる人々や、雲のような白くてふわふわとしたソファまで用意されている。ソファ席がカップルをターゲットとしていることは明らかだった。人目もはばからずに密着するカップルの姿に、こちらの方が思わず赤面してしまう。
私の手を引いて菊地さんが目指したのは、やはりカップル向けのソファ席だった。どぎまぎしながらも、菊地さんに促されてそのまま腰を下ろす。緊張して、つい肩に力が入ってしまう。
「俺の知ってるプラネタリウムとは、なんか全然違うな」
動揺するような様子は一切見せずに、菊地さんは言った。
「ハイテクっていうか、こんな座席まであるなんて、予約するとき驚いたわ」
いつものようにクツクツと笑う菊地さんに、私は曖昧な笑みを返す。ドキン、ドキン、と心臓が大きな音を立てる。
「ごめん、こういう席、苦手だった?」
私の反応が悪かったからか、菊地さんは不安げな表情で私の顔をのぞき込んできた。私ってば、折角のデートなのになんで菊地さんにこんな表情させてるんだろう? 私は慌てて首を振った。
「そうじゃなくて、ちょっと緊張しちゃって」
「緊張?」
「はい」
「なんで?」
菊地さんの予想外の問いに、私はなんて返せばよいのか分からず、言葉を探す。
「距離が近い、から?」
そう答える私の瞳を、菊地さんはじっと見つめる。
あ、まただ。
心の中で、警告音が小さく鳴る。
今まで何度も、こんな風に菊地さんに見つめられたことがあった。そのたびに私は、目を逸らせなくなってしまって。何を考えたらよいのかわからなくなって。最後にはただ、菊地さんに触れたいという気持ちだけが残る。まるで、トランスゾーンか何かに入ってしまったかのようだ。
「もっと近いこともあったのに?」
たくさんの人がいて騒がしいはずなのに、彼の静かな言葉はダイレクトに私の耳に届く。まるで、この空間には私と彼の2人きりかのような錯覚に陥る。
ゆっくりと、菊地さんの右手が私の顔へと伸びてくる。暖かくてちょっぴり武骨な手がそっと、私の頬に添えられる。瞬きも、呼吸すらも忘れて、見えもしない彼の手の動きを視線で追おうとする。そのまま彼の親指が下唇と顎の間のくぼみへ触れたときにようやく、私はまた下唇をかみしめてしまっていたことに気づいた。
菊地さんがクっと親指に力を入れて、私に唇を開かせる。そして親指の腹でそーっと私の下唇をなぞっていく。触れるか触れないか程の距離感で、力もさほど入っていない。それでも彼の指が私の唇を撫でる感触は妙にリアルで妙に艶めかしく、身体の中心に小さな灯がともる。
キス、してくれないのかな。
人前だというのに、そんな考えが頭の中にほわりと浮かぶ。
キス、して欲しいな。
頭の中に浮かんだ答えは、恥ずかしくて口には出せなくて。テレパシーで伝わればいいのに、なんて思いながら菊地さんの瞳をじっと見上げた。
ドクン、ドクン。
緊張とは明らかに違う心臓の音が鳴り響く。
私の瞳を、菊地さんはまっすぐに見つめ返した。そのまま顔を近づけてくれればいいのに。それだけでいいのに。
そんな私の期待もむなしく、菊地さんの手は私の顔からだんだんと離れていった。一気に心が落胆していくのが嫌でも分かった。
会場内が徐々に暗くなっていく。その流れに乗るかのように、私たちもソファに身体を沈めていく。何気なく私の肩には菊地さんの腕が回されていて、ぐっと肩を抱き寄せられる。ドキン、と心臓がだいぶ派手な音を立てる。
この距離感、この密着度合いは、やはり緊張してしまう。
確実に菊地さんにも伝わっているであろう心臓の音を、収める方法を私は知らない。汗かいていないかな、とか、臭くないかな、とか、そんな心配事が頭の中を駆け巡り、なかなか目の前の星空に集中できない。
「あのさ」
唐突に耳元で菊地さんの低い声がささやき始める。耳にかかる熱い吐息に、私はもうくらくらしてしまう。
「俺も、緊張してる」
そう言いながら、菊地さんはつながれたままになっていた私たちの手を、自身の心臓の上に置いた。ドクン、ドクン、と速いスピードでリズムを刻むその音に、本当に彼も緊張していることが伝わってきた。
けれども、それ以上に私のドキドキのボルテージは上がっていて。今にも頭から煙を出してしまいそうな刺激の強さに、正直いっぱいいっぱいだ。そんな私を見ていたずらっぽく笑う菊地さんの笑顔に、私の心は陥落した。
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