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66. 灰かぶり姫の困惑
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いつもと変わらずに騒がしい社屋のエントランスを歩きながら、ため息をつく。私にとっては異常ともいえるこの状況でも、世界は変わらずに日常を繰り返す。それが世の常だ。
目の前で開いた扉を合図に、無表情のままエレベーターに乗り込む。今日はまだ、菊地さんを見かけていない。閉まりかけた扉の隙間が突然開き始めて、驚いて顔を上げてしまう。
もしかしたら、菊地さんかもしれない。
その考えが過ったとき、私は自分の抱く感情が負のものなのか正のものなのか、咄嗟に判別できなかった。新たにエレベーターに乗り込んできたのが仁科さんだと気づいた時にも、心のなかには安心感と同時に落胆を覚えてからだ。
「おはようございます」
いまだに気まずさを感じつつも、私は彼女に挨拶した。仁科さんの反応も微妙で、あいまいな挨拶のまま私に背を向ける。
不意に、今まで仁科さんが話していた菊地さんの話や、私たちの関係にまつわる様々な言動について、考えさせられた。
『悪いことは言わないから、菊地だけはやめておきなさい』
もっと早くにあの言葉を聞いていたら、何か変わったのだろうか。
『不毛だから。アイツのことを好きになったとしても、絶対に想いを返してくれるわけないから』
あの言葉の意味を、ついつい改めて考えてしまう。仁科さんは、すべてを知っていたのだろうか、と。
いつだったか、菊地さんが恋人っぽい人と手をつないでいるのを見たことがある、と仁科さんは言っていた。「背が高い人だった」と説明していたけれども、あれは皓人さんのことだったんじゃないだろうか。
急に、そんな考えが浮かんだ。
「あの、仁科さんが前に見かけた菊地さんの恋人って」
咄嗟の私の言葉に仁科さんは驚いた様子を見せたものの、私の表情から何かを悟ったのか、あきらめたような困ったような、不思議な表情を見せた。
「中谷さんも、見ちゃった?」
彼女の言葉に、私は静かに頷いた。
2人が一緒にいるところ、というよりもキスをしているところまで見てしまったんだ。ウソにはならないだろう。
「そっか。……そっかあ」
一度目は噛み締めるように。そして二度目は、安心したかのように仁科さんは言った。
「良かった、仲間が増えて」
そう言いながらニコニコと笑顔を見せる仁科さんの様子に、私は何となくもやもやとした気持ちを覚えた。
「私もさ、知った時は驚いちゃったわよ。まさか菊地がゲイだなんて、思ってもみないじゃない? でも、少し時間が経ったら腑に落ちたんだよね。アイツ、彼女がいるって話は聞かないし、人の恋愛話にも口を挟まないし。あんだけモテるなら彼女作り放題なのにさ、なんでだろう? って疑問だったのよ。その謎が全部解けて、スッキリ! みたいな?」
堰を切ったように話し始める仁科さんに、私は曖昧な笑顔を返した。最近は微妙な緊張感があったからか、こんなに生き生きと話す彼女を久しぶりに目の当たりにした。そうだった、彼女はこういう人だった、と思い出した時には、既に遅かった。
「けど、こういう他人のLGBTのこととか、勝手にしゃべっちゃいけないって会社で言われてるじゃない? だから、誰にも言えなくてさ。中谷さんに警告してあげたかったんだけど、なんかうまくいかなくって、ヤキモキしてたのよ。でも、気づいたなら良かった!」
エレベーターが執務室にあるフロアについても、仁科さんの口は止まらなかった。
「菊地さんには話したんですか? 仁科さんが、その、知ってるってこと」
周囲を確認しながら、おずおずと訊ねる。
「ううん。相手が知らないのに知ってるってのが良いんじゃない」
ニヤリ、と効果音が鳴りそうな表情を彼女は浮かべる。
悪い人では、ないと思う。他人のことを気にかけたり、世話好きだったりする部分もあるし。けれども、彼女に対してはどこか心を許しきれないというか、どこかノリについていききれない。
戸惑った表情を浮かべたままの私の肩に、いつの間にかポン、と仁科さんの手が乗る。
「まあ、中谷さんみたいに普通の子にとっては、なかなか衝撃的な事実よね。あこがれの先輩が、その、ね、ってことは。受け入れるのに、時間がかかると思う。でも、しばらくは私がカバーしてあげるから、安心して!」
笑顔でグーサインをされ、私は引きつり笑いを浮かべることしかできなかった。
やはり、仁科さんのノリにはどこかついていけない。
執務室に入ってまず視線が向かうのは、菊地さんのデスクだ。いつもなら彼がもう仕事を始めていてもおかしくないのに、今日は珍しくまだ空席だ。
私は何となく下唇をかみしめながら、自分のデスクにつく。PCの電源を入れ、昨日の出張で確認できていなかった、溜まっている週末分のメールに目を通す。頭の中を忙しくすることで、余計なことを考えないようにしたかった。
けれども、そんな小手先の技なんて、無意味だった。
「おはようございます!」
笹山さんの元気な挨拶が耳に入ったとたん、私の心臓はドクン、と大きな音を立てた。笹山さんは素直な人だ。慣れてしまえば、彼の声の調子で相手が誰だか、大体察しが付く。
「おはよう」
耳に入ったあの低い声を、なぜだか妙に懐かしく感じてしまった。
たった一日聞かなかっただけで、なぜこうも恋しく思えてしまうのだろうか。
私は顔を上げずに、こっそり横目で彼の姿を確認した。
ドクン。
視界の隅に入った彼の姿を見た瞬間、私の心臓は嫌な音を立てる。
彼の表情にはどこか覇気がなく、笑顔も明らかな作り笑いだった。目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。痛々しい。そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
「あれ? 菊地さん、寝不足ですか?」
笹山さんの指摘に、彼は困ったように微笑み返す。
「最近ちょっと、寝つきが悪くて。スマホの見すぎかな?」
答えながら、彼はデスクについた。その刹那、無意識に私と彼の視線がかち合った。
「おはよう、ございます」
いつも通りを心がけたものの、明らかにひきつってしまった私の笑顔に、菊地さんは悲しそうに眉毛を下げた。
「おはよう」
そう言って微笑む菊地さんの瞳は、まるで泣いているみたいに切なくて、思わず胸が痛んだ。
裏切られたのは、私の方なのに。
傷つけられたのは私の方なのに。
それなのにどうして、菊地さんの方が傷ついたような表情をしているんだろう?
胸が、ざわついた。
「あ、中谷さん、手が空いたら課長に改めて昨日の成果の報告しに行きましょう。行けそうになったら、教えてください」
笹山さんの言葉に、私は小さく頷いた。
このプレゼンがうまくいけば、きっと菊地さんが笑顔で褒めてくれて、頭を撫でてくれる。つい数日前までは、そんなのんきなことを考えていた。もしかしたら、ご褒美までくれるかもしれない、なんて、そんな能天気なことを。
たった数日でこんなにも、心持が変わってしまうのか。
たった数日でこんなにも、置かれている状況が変わってしまうのか。
思わず、ため息がこぼれた。
笹山さんと2人で課長に昨日のプレゼンの状況を報告し、再び自身のデスクに戻った。昨日の結果に課長は満足してくれて、手ごたえも感じてくれたようだ。あとは、クライアントからの正式な依頼が来るのを待つだけだ。
不意に、菊地さんのデスクへと視線をやる。そこに、彼の姿はなかった。
「アイツなら、郵便出しに行ったけど」
私があまりにもじっと見つめすぎていたからだろうか。菊地さんの隣席の先輩からそう告げられ、私は静かにお礼の言葉を述べた。それから業務に集中しようとしたものの、なんだかソワソワしてしまって身が入らないので、あきらめて休憩に入ることにした。
執務室を出て自動販売機のエリアへと向かうと、ちょうどエレベーターを降りてきた菊地さんが見えて、自然と足が止まった。
「えっと」
何かしゃべらないといけない。なぜだかそんな強迫観念を覚えて、無理やりに口を開く。なんだか口の中がカラッカラで、言葉が思うように出てこない。
「その、休憩、で」
言いながら、そっと自動販売機を指さした。
私はいったい、誰に何の言い訳をしているんだろう?
「そっか」
まるで喉に何かが突っかかっているかのような菊地さんの言葉に、私はぎこちなく頷いた。
ああ、本当に気まずいしぎこちない。幸い、今ここにいるのは私たち2人だけだが、誰かが見ていたら一瞬で私たちの間に何かがあったことが分かってしまうだろう。
「いつもの、でいいですか?」
不思議と、口が勝手に動いた。
目の前で菊地さんが驚いたように目を見開いているが、彼以上に私の方が自分の言葉に驚いている。私はいったい何を言っているのだろう、と自分で呆れてしまう。
私はそのまま彼の返事も聞かずに、自動販売機の前に立つ。小銭を入れて、ブラックコーヒーのボタンを押すのとほぼ同時に、浅黒い骨ばった手がミルクティーのボタンを押した。
取り出し口に落ちたのは、ブラックコーヒーだった。
「俺の負けだな」
寂しそうにそうつぶやきながら、菊地さんはしゃがみ込んで取り出し口に手を突っ込んだ。その背中には哀愁が漂っていて、思わず抱きしめたくなる衝動を必死で抑えた。
「じゃあ、勝ったのでおごってください」
私の言葉に、菊地さんは素早く顔を上げる。その瞳には、困惑の色が浮かんでいた。彼は黙ってうなずくと、そのまま自動販売機にスマートフォンをかざし、ミルクティーのボタンを押した。ゴトン、と落ちたいつものミルクティーのペットボトルを、私は無言で取り出した。
「私は、話したくないです」
素直な言葉が、重力に従って零れ落ちた。
昨日の、菊地さんからのメッセージを読んでから、ずっと考えていたことだった。
『改めて、話したい』
この言葉に、なんて答えたらよいだろうか、と。
改めて話すって、何を?
あのことについて、これ以上話を聞きたいとは、正直なところ思えなかった。
この混沌とした頭の中を整理するのにいっぱいいっぱいで。
この様々な感情がぐちゃまぜになった心の中を整理するのにいっぱいいっぱいで。
これ以上、何かを受け入れることはできるとは思えなかった。
「分かった。中谷の意思を、尊重する」
そう答える菊地さんの表情は今にも泣きそうで。
私が彼をこんな表情に刺せたのかと思うと、胸がぐっと締め付けられて苦しかった。
「でも、会社ではなるべく今までと変わらずに接してください。周りの人に、変に勘繰られるのはもう嫌なので」
早口で一気にいい終えた。先ほどまでカラッカラだった口が急に湿り気を帯びて、まるで滑ったみたいに言葉が零れ落ちた。
「そう、だよな。そうだよな。こんな状況に巻き込んで、ごめんな」
そう答える菊地さんの表情は、何かを諦めたみたいな表情をしていて。見ているのがつらくて、思わず目を背けた。
「じゃあ、私、先に戻るんで」
何かを置き去りにするようにそれだけ言うと、私は逃げるように足早に執務室へと戻っていった。
今まで決断できなかった、優柔不断な私の、精一杯の選択だった。
精一杯の選択のつもりだった。
それでも、頭の中は疑問と不安でいっぱいだった。
果たしてこれが本当に正しい選択なのか、と。
もしこれが正しい選択なのだとしたら、どうしてこんなにも胸が痛み、後悔の念に苛まれているのだろうか、と。
目の前で開いた扉を合図に、無表情のままエレベーターに乗り込む。今日はまだ、菊地さんを見かけていない。閉まりかけた扉の隙間が突然開き始めて、驚いて顔を上げてしまう。
もしかしたら、菊地さんかもしれない。
その考えが過ったとき、私は自分の抱く感情が負のものなのか正のものなのか、咄嗟に判別できなかった。新たにエレベーターに乗り込んできたのが仁科さんだと気づいた時にも、心のなかには安心感と同時に落胆を覚えてからだ。
「おはようございます」
いまだに気まずさを感じつつも、私は彼女に挨拶した。仁科さんの反応も微妙で、あいまいな挨拶のまま私に背を向ける。
不意に、今まで仁科さんが話していた菊地さんの話や、私たちの関係にまつわる様々な言動について、考えさせられた。
『悪いことは言わないから、菊地だけはやめておきなさい』
もっと早くにあの言葉を聞いていたら、何か変わったのだろうか。
『不毛だから。アイツのことを好きになったとしても、絶対に想いを返してくれるわけないから』
あの言葉の意味を、ついつい改めて考えてしまう。仁科さんは、すべてを知っていたのだろうか、と。
いつだったか、菊地さんが恋人っぽい人と手をつないでいるのを見たことがある、と仁科さんは言っていた。「背が高い人だった」と説明していたけれども、あれは皓人さんのことだったんじゃないだろうか。
急に、そんな考えが浮かんだ。
「あの、仁科さんが前に見かけた菊地さんの恋人って」
咄嗟の私の言葉に仁科さんは驚いた様子を見せたものの、私の表情から何かを悟ったのか、あきらめたような困ったような、不思議な表情を見せた。
「中谷さんも、見ちゃった?」
彼女の言葉に、私は静かに頷いた。
2人が一緒にいるところ、というよりもキスをしているところまで見てしまったんだ。ウソにはならないだろう。
「そっか。……そっかあ」
一度目は噛み締めるように。そして二度目は、安心したかのように仁科さんは言った。
「良かった、仲間が増えて」
そう言いながらニコニコと笑顔を見せる仁科さんの様子に、私は何となくもやもやとした気持ちを覚えた。
「私もさ、知った時は驚いちゃったわよ。まさか菊地がゲイだなんて、思ってもみないじゃない? でも、少し時間が経ったら腑に落ちたんだよね。アイツ、彼女がいるって話は聞かないし、人の恋愛話にも口を挟まないし。あんだけモテるなら彼女作り放題なのにさ、なんでだろう? って疑問だったのよ。その謎が全部解けて、スッキリ! みたいな?」
堰を切ったように話し始める仁科さんに、私は曖昧な笑顔を返した。最近は微妙な緊張感があったからか、こんなに生き生きと話す彼女を久しぶりに目の当たりにした。そうだった、彼女はこういう人だった、と思い出した時には、既に遅かった。
「けど、こういう他人のLGBTのこととか、勝手にしゃべっちゃいけないって会社で言われてるじゃない? だから、誰にも言えなくてさ。中谷さんに警告してあげたかったんだけど、なんかうまくいかなくって、ヤキモキしてたのよ。でも、気づいたなら良かった!」
エレベーターが執務室にあるフロアについても、仁科さんの口は止まらなかった。
「菊地さんには話したんですか? 仁科さんが、その、知ってるってこと」
周囲を確認しながら、おずおずと訊ねる。
「ううん。相手が知らないのに知ってるってのが良いんじゃない」
ニヤリ、と効果音が鳴りそうな表情を彼女は浮かべる。
悪い人では、ないと思う。他人のことを気にかけたり、世話好きだったりする部分もあるし。けれども、彼女に対してはどこか心を許しきれないというか、どこかノリについていききれない。
戸惑った表情を浮かべたままの私の肩に、いつの間にかポン、と仁科さんの手が乗る。
「まあ、中谷さんみたいに普通の子にとっては、なかなか衝撃的な事実よね。あこがれの先輩が、その、ね、ってことは。受け入れるのに、時間がかかると思う。でも、しばらくは私がカバーしてあげるから、安心して!」
笑顔でグーサインをされ、私は引きつり笑いを浮かべることしかできなかった。
やはり、仁科さんのノリにはどこかついていけない。
執務室に入ってまず視線が向かうのは、菊地さんのデスクだ。いつもなら彼がもう仕事を始めていてもおかしくないのに、今日は珍しくまだ空席だ。
私は何となく下唇をかみしめながら、自分のデスクにつく。PCの電源を入れ、昨日の出張で確認できていなかった、溜まっている週末分のメールに目を通す。頭の中を忙しくすることで、余計なことを考えないようにしたかった。
けれども、そんな小手先の技なんて、無意味だった。
「おはようございます!」
笹山さんの元気な挨拶が耳に入ったとたん、私の心臓はドクン、と大きな音を立てた。笹山さんは素直な人だ。慣れてしまえば、彼の声の調子で相手が誰だか、大体察しが付く。
「おはよう」
耳に入ったあの低い声を、なぜだか妙に懐かしく感じてしまった。
たった一日聞かなかっただけで、なぜこうも恋しく思えてしまうのだろうか。
私は顔を上げずに、こっそり横目で彼の姿を確認した。
ドクン。
視界の隅に入った彼の姿を見た瞬間、私の心臓は嫌な音を立てる。
彼の表情にはどこか覇気がなく、笑顔も明らかな作り笑いだった。目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。痛々しい。そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
「あれ? 菊地さん、寝不足ですか?」
笹山さんの指摘に、彼は困ったように微笑み返す。
「最近ちょっと、寝つきが悪くて。スマホの見すぎかな?」
答えながら、彼はデスクについた。その刹那、無意識に私と彼の視線がかち合った。
「おはよう、ございます」
いつも通りを心がけたものの、明らかにひきつってしまった私の笑顔に、菊地さんは悲しそうに眉毛を下げた。
「おはよう」
そう言って微笑む菊地さんの瞳は、まるで泣いているみたいに切なくて、思わず胸が痛んだ。
裏切られたのは、私の方なのに。
傷つけられたのは私の方なのに。
それなのにどうして、菊地さんの方が傷ついたような表情をしているんだろう?
胸が、ざわついた。
「あ、中谷さん、手が空いたら課長に改めて昨日の成果の報告しに行きましょう。行けそうになったら、教えてください」
笹山さんの言葉に、私は小さく頷いた。
このプレゼンがうまくいけば、きっと菊地さんが笑顔で褒めてくれて、頭を撫でてくれる。つい数日前までは、そんなのんきなことを考えていた。もしかしたら、ご褒美までくれるかもしれない、なんて、そんな能天気なことを。
たった数日でこんなにも、心持が変わってしまうのか。
たった数日でこんなにも、置かれている状況が変わってしまうのか。
思わず、ため息がこぼれた。
笹山さんと2人で課長に昨日のプレゼンの状況を報告し、再び自身のデスクに戻った。昨日の結果に課長は満足してくれて、手ごたえも感じてくれたようだ。あとは、クライアントからの正式な依頼が来るのを待つだけだ。
不意に、菊地さんのデスクへと視線をやる。そこに、彼の姿はなかった。
「アイツなら、郵便出しに行ったけど」
私があまりにもじっと見つめすぎていたからだろうか。菊地さんの隣席の先輩からそう告げられ、私は静かにお礼の言葉を述べた。それから業務に集中しようとしたものの、なんだかソワソワしてしまって身が入らないので、あきらめて休憩に入ることにした。
執務室を出て自動販売機のエリアへと向かうと、ちょうどエレベーターを降りてきた菊地さんが見えて、自然と足が止まった。
「えっと」
何かしゃべらないといけない。なぜだかそんな強迫観念を覚えて、無理やりに口を開く。なんだか口の中がカラッカラで、言葉が思うように出てこない。
「その、休憩、で」
言いながら、そっと自動販売機を指さした。
私はいったい、誰に何の言い訳をしているんだろう?
「そっか」
まるで喉に何かが突っかかっているかのような菊地さんの言葉に、私はぎこちなく頷いた。
ああ、本当に気まずいしぎこちない。幸い、今ここにいるのは私たち2人だけだが、誰かが見ていたら一瞬で私たちの間に何かがあったことが分かってしまうだろう。
「いつもの、でいいですか?」
不思議と、口が勝手に動いた。
目の前で菊地さんが驚いたように目を見開いているが、彼以上に私の方が自分の言葉に驚いている。私はいったい何を言っているのだろう、と自分で呆れてしまう。
私はそのまま彼の返事も聞かずに、自動販売機の前に立つ。小銭を入れて、ブラックコーヒーのボタンを押すのとほぼ同時に、浅黒い骨ばった手がミルクティーのボタンを押した。
取り出し口に落ちたのは、ブラックコーヒーだった。
「俺の負けだな」
寂しそうにそうつぶやきながら、菊地さんはしゃがみ込んで取り出し口に手を突っ込んだ。その背中には哀愁が漂っていて、思わず抱きしめたくなる衝動を必死で抑えた。
「じゃあ、勝ったのでおごってください」
私の言葉に、菊地さんは素早く顔を上げる。その瞳には、困惑の色が浮かんでいた。彼は黙ってうなずくと、そのまま自動販売機にスマートフォンをかざし、ミルクティーのボタンを押した。ゴトン、と落ちたいつものミルクティーのペットボトルを、私は無言で取り出した。
「私は、話したくないです」
素直な言葉が、重力に従って零れ落ちた。
昨日の、菊地さんからのメッセージを読んでから、ずっと考えていたことだった。
『改めて、話したい』
この言葉に、なんて答えたらよいだろうか、と。
改めて話すって、何を?
あのことについて、これ以上話を聞きたいとは、正直なところ思えなかった。
この混沌とした頭の中を整理するのにいっぱいいっぱいで。
この様々な感情がぐちゃまぜになった心の中を整理するのにいっぱいいっぱいで。
これ以上、何かを受け入れることはできるとは思えなかった。
「分かった。中谷の意思を、尊重する」
そう答える菊地さんの表情は今にも泣きそうで。
私が彼をこんな表情に刺せたのかと思うと、胸がぐっと締め付けられて苦しかった。
「でも、会社ではなるべく今までと変わらずに接してください。周りの人に、変に勘繰られるのはもう嫌なので」
早口で一気にいい終えた。先ほどまでカラッカラだった口が急に湿り気を帯びて、まるで滑ったみたいに言葉が零れ落ちた。
「そう、だよな。そうだよな。こんな状況に巻き込んで、ごめんな」
そう答える菊地さんの表情は、何かを諦めたみたいな表情をしていて。見ているのがつらくて、思わず目を背けた。
「じゃあ、私、先に戻るんで」
何かを置き去りにするようにそれだけ言うと、私は逃げるように足早に執務室へと戻っていった。
今まで決断できなかった、優柔不断な私の、精一杯の選択だった。
精一杯の選択のつもりだった。
それでも、頭の中は疑問と不安でいっぱいだった。
果たしてこれが本当に正しい選択なのか、と。
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