ゆかりさんとわたし

謎の人

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3話 ゆかりさんとわたしと、校舎裏にて

それじゃあ、わたしは恋をしない

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「――――――――――」


 わたしを呼ぶ、小さくて澄んだ声が聞こえた気がしました。

 いつの間にか机に突っ伏したまま眠っていたようです。
 まどろみの中、ゆかりさんの声が上から降ってきます。

 無理をしたらダメなのに……。
 身を起こしてそう言おうとしますが、変な体勢で寝入ったせいか、身体が強張ってしまってうまく動けません。
 そうしている間にもゆかりさんは言葉を紡ぎます。
 小さく途切れそうな声でポツリと。


「ねえ、あとどれくらい一緒に居られるかしら……」


 薄く開いたわたしの目に、ゆかりさんの切なそうな、でも優しさに溢れた顔が映ります。
 薄らいだ輪郭の向こう側が透けて見えて、そのまま夜の薄明かりの中に溶けていってしまいそうなくらい、儚げなゆかりさん。

 静かに唇が開きます。


「この先、みぃちゃんは恋をして。恋人を作って。結婚をして。家庭を持って。子供ができて……。どんどん私から離れていく。私のことを忘れていく……」


 ゆかりさんは、消え入りそうな声で悲しいことを言います。
 言葉に声を乗せてわたしに伝えてきます。
 聞こえていないはずのわたしに、聞かせるつもりのない言葉を。


「ねえ、あなたはあとどれくらい、こんな私と一緒に居てくれるかしら……」


 ゆかりさんの細い指先がわたしの指を絡め取って、きゅっと握ります。
 お風呂上がりで温かい、けれど徐々熱を失っていくゆかりさんの手。
 いつもの心地良いひんやりした手に戻りつつあります。


「私、みぃちゃんが羨ましい。あなたを見ているととっても眩しくて、目が眩んでしまいそう……」


 羨ましい。
 健康なわたしが羨ましい。

 病室に閉じこもっていた時も幽霊になってからも、ゆかりさんからそんな言葉を聞いたことなんて、今まで一度も……。


「あとどれくらい、あなたの笑顔を見ていられるかしら。あとどれくらい、私に笑顔を見せてくれるかしら……」
「……―――そんなのずっとに決まっているでしょ」


 ようやく、わたしは気持ちを言葉にできました。
 思いきり叫んだつもりで出した声は、どこか弱々しくて。

 けれど、ゆかりさんは目を丸くして驚きを隠せずにいます。
 絡まった手が強く握り締められました。
 そんな小さなことに構ってはいられませんでした。

 わたしは緩慢な動きで身を起こして、ゆかりさんの驚く顔を視界に入れて、彼女が姿を消えてしまう前にありったけの想いをぶつけます。


「恋をして。恋人を作って。結婚をして。家庭を持って。子供ができても。わたしはゆかりさんから離れない。ゆかりさんを忘れない。絶対に!」


 わたしの声は酷く震えていました。
 そんな風に思われているのが悔しくて、悲しくて。
 何よりそんな風にゆかりさんを不安にさせている自分に腹が立ちました。

 ゆかりさんの見開いた瞳に涙が滲みます。
 驚きから諦めへと表情を変え、力なく笑みを浮かべます。


「そんなこと、無理よ。できっこないわ」


 自虐的な笑みは、言葉は、自分自身へ語りかけているようでした。
 期待してはいけないと、必死で気持ちを抑え込んでいるようでした。

 自ら作り出した殻に閉じこもってしまう、気弱なゆかりさん。
 病弱だった彼女のこれまでが、不安定な今の状況が、鎖となって心を縛り付けてしまっているのです。
 期待して裏切られるくらいなら、卑屈なままでいようと。

 手を取って無理やり引っ張り出すことはできません。
 普通でない彼女は、わたしと一緒に外の世界を歩いてはくれないでしょう。
 そっとわたしの背中を押して、今のように寂しく微笑むのでしょう。
 たったひとりきり。小さな殻の中で。

 だったら、せめてわたしも一緒にその小さな世界で永遠の時を―――。


「それじゃあ、わたしは恋をしない」
「え?」
「恋人を作らないし、結婚しないし、家庭を持たないし、子供もできない。だから、ゆかりさんと一緒にいる」
「そんなの……」


 何か言いかけたゆかりさんを無視して、わたしは立ち上がります。
 これ以上、ゆかりさんの口からわたしを否定する言葉は聞きたくありません。
 悲しい言葉を、声に乗せて言って欲しくありません。
 言葉にするのは大切なお話の時だけって決めてあるから。


「人生で大切なものをひとつだけ決めるのなら、わたしは間違いなくゆかりさんを選ぶよ。そういう人生を送るって決めているの。うん、今決めた」


 わたしはゆかりさんの顔を見つめます。
 今まで見たことがないくらい、不安そうな顔でした。
 可哀想なくらい震えているように見えました。

 ゆかりさんに言葉を届けたくて、元気づけたくて、笑顔を見せて欲しくて、わたしはすうっと息を吸います。


「わたしの夢を教えてあげる。さっき、ううん、本当はずっと前から決めていたの」
「夢……?」
「わたし、ゆかりさんに看取ってもらいたい。お婆ちゃんになったゆかりさんに、最期を看取ってもらいたいの。どんな人生を送っても、最期にゆかりさんの笑顔が見られれば、きっととても安らかに眠れると思うから」


 ゆかりさんは驚きに目を見張り、信じられないと言わんばかりの顔でわたしを見つめてきます。
 ああ、この顔も初めて見るかも……。
 それはそうでしょう。どこの世界に幽霊に看取ってもらいたいなどと願う人がいるでしょうか。
 生まれつき病弱で今も眠り続けている人に、そんなことを願えるでしょうか。

 それでもわたしは願うのです。
 きっと、これこそがゆかりさんの求めているものだと信じて。
 自然と口元に笑みが浮かびます。わたしはありったけの想いを込めて、ゆかりさんに伝えます。


「だから、それまでずっと一緒に居るから。死ぬまで離れないから。……いいよね、ゆかりさん。それを許してくれるよね?」
「私は……」


 わたしが耐えられたのはそこまででした。


「じゃあ、お風呂入って来るね」


 いつものトーンで、いつもの調子で言えるように必死になって、そのひと言を絞り出して、その場から逃げるようにお風呂場へと駆け込んで、


「……っ」


 脱衣所の扉を背に膝から崩れ落ちました。
 涙が溢れて止まりませんでした。
 この分だと途中で泣いてしまっていたかもしれません。
 なんてダメなわたし。
 弱くて、泣き虫で。

 それでも、こんなわたしでもゆかりさんの側にいていいのなら。
 それを彼女が望んでくれるのなら。許してくれるのなら。
 きっといつまでも一緒に。

 嗚咽の声が漏れないよう必死で口を押さえながら、わたしは涙が止まるまでお風呂から出ることができませんでした。

  
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