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2話 しぐれの友愛

忍び寄る影

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 夕刻が訪れ、辺りがオレンジ色に染まる頃。

 しぐれは泣き腫らした顔を小さく綻ばせて、玄関先でまりあに別れを告げていた。


「今日は話を聞いてくれてありがとう。まりあちゃんの言った通り、少しすっきりしたかも」
「うん。またいつでも頼って。アルルも喜ぶし」
「にゃあ」
「うん。ふふ、また来るね、アルル」


 まりあの腕の中に抱かれた子猫と目線を合わせ、人差し指で優しく頬を突く。

 それから、まりあを見つめた。

 もう目を逸らすことも伏せることもしない。

 心の中はすっかり落ち着きを取り戻していた。


「不思議……。美羽ちゃんにいじめられてからずっと、友達って何だろうって思ってきたけれど。会ったばかりのまりあちゃんとこんな風になるなんて……」


 感慨深げに呟いた後、しぐれは心からの感謝を告げた。


「本当にありがとう、元気出た」
「うん。それじゃあまた学校で」


 まりあから笑顔の見送りを受けて、しぐれは帰路につく。




 一人で歩く道すがら、暮れゆく茜空に想いを巡らせる。

 こんなにも心晴れやかな気分は、本当にいつ以来だろう。

 誰かと楽しく時間を過ごすだなんて、随分と久しぶりのことだ。
 心なしか足取りも軽い。

 出口のない袋小路に追いやられ、煮詰まっているばかりだった思考も、少しずつ前へと進み始めた。

 ひとつ、決心を固めたおかげかも知れない。

 すなわち、美羽のことを諦めるのだ。


「それしかない、よね……」


 美羽との関係を断ち、決別し、はっきりと距離を置く。

 そうしなければ、しぐれは心から美羽のことを恨んでしまう。

 恐れ、憎しみ、目の前から消えて無くなってしまえばいいと願ってしまう。

 そうなっては、もう取り返しがつかない。

 溜め込んできた弱音をぶち撒けたことで、ずっと隠してきた本心を呼び起こしてしまった。

 美羽は大切な親友だった。

 引っ込み思案なしぐれがクラスの中で悪目立ちしないように、上手く溶け込めるように助力してくれた。

 心から感謝している。

 けれど、その時彼女がどんな顔で接してくれていたのか、どんな風に笑ってくれていたのか、何もかもが真っ黒に塗り潰され、分からなくなってしまった。

 我慢の限界だった。


「もうわたしが何をやったって、どうにも……」

 周囲との関わりが希薄だった。
 孤独になるのが怖かった。
 置いて行かれたくなかった。
 一人で立ち上がる勇気がなかった。

 酷いことをされようと頑なに美羽の傍に居続けたのは、彼女以外に友人と呼べる存在がいなかったからだ。

 今は違う。まりあがいる。


「こういう考え方は卑怯かも知れないけれど」


 それでも、心が軽くなった事実は曲げようがない。

 しぐれは、美羽よりもまりあと一緒にいたい。

 今の居場所に固執し続け、美羽に虐げられ続けるくらいなら、まりあやアルルと一緒に楽しく遊んでいたい。

 笑顔で日々を過ごしたい。

 そう思ってしまうのは、願ってしまうのは、決して間違いなんかじゃない。

 そう信じたかった。


「残念だけど、でも仕方のないことってあるよね。どうにもならないことって、あるよね……」


 どう言い訳しようとも自分本位な考えだし、実に自分勝手な決心だ。
 恩義のある美羽を裏切る行為に他ならない。

 恥ずかしいし、情けない。
 新しくできた友達まで利用して、なんて浅ましいのだろう。
 よく分かっている。

 だからしぐれは、無理やり自分に言い聞かせようとした。

 思い直させようとする良心の呵責を、全力でねじ伏せにかかる。

 もう何度も試した。仲直りしようと努力した。
 それでもできなかったのだ。


「だからもう、これしかないんだ……」
「本当にそれでいいのかい?」


 揺れて波立つ心の水面へ、疑問が一石投じられた。
 
 
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