Boundary Balance ー世界を量る少女は教室ではよくしゃべるー

おぼろ藍

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お嬢様

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 転校生の周囲には、控えめな人垣ができている。
 けれど、誰も積極的には話しかけられずにいた。
 少女は、静かに立っているだけだった。
 淡い色の髪が、朝の光を受けて柔らかく透けている。
 長い睫毛の下で、視線はわずかに伏せられていた。
 その少し後ろ。
 黒いスーツ姿の男性が、距離を保って立っている。
 姿勢は真っ直ぐだが、存在感は意図的に薄い。
 咲夜は、靴を履き替えながらちらりと視線を向けた。
「ほら、あの子!」
 隣で佐紀が小声ではしゃぐ。
「……うん」
 咲夜は頷く。
 その時だった。
 少女が、ふと顔を上げた。
 そして。
 迷いなく、こちらへ歩いてくる。
「え」
 佐紀が固まる。
「来てる来てる来てる!」
「落ち着いて」
「咲夜、絶対咲夜に来てる!!」
「そんなわけ――」
 言い終わる前に。
 少女は、咲夜の前で立ち止まった。
 ほんの一歩分の距離。
 静かに、視線が重なる。
 少女は言葉を発さない。
 代わりに、ゆっくりと小さく会釈した。
「……あ、えっと」
 咲夜の背筋が、無意識に伸びる。
「お、おはようございます……?」
 語尾が、わずかに揺れる。
 少女は微笑む。
 花びらが落ちる瞬間みたいに、柔らかな笑みだった。
 その後ろから。
 黒服の男性が、一歩だけ前に出る。
「失礼いたします」
 落ち着いた声だった。
「お嬢様は、人との交流に慣れておられません」
 咲夜は、慌てて頭を下げる。
「い、いえ、そんな……!」
「ですが」
 執事は視線を咲夜へ向ける。
「先ほどから、お嬢様があなた様を気にされているご様子で」
「え、わ、私ですか」
 少女は、こくりと頷く。
 咲夜の心臓が、小さく跳ねる。
「ご迷惑でなければ」
 執事は続ける。
「学園生活に慣れるまで、傍にいていただければと」
「え、あの、その」
 咲夜の言葉が絡まる。
ーあー、これ面倒見る系かな?
「わ、私なんかでよろしければ……!」
 完全に変な敬語になっていた。
 佐紀が横で口を押さえている。
 少女は、少しだけ目を細めた。
 嬉しそうに見える微笑だった。
 そして。
 ゆっくりと、咲夜の袖をつまむ。
「……っ」
 咲夜が一瞬固まる。
「えっと……その……移動、されますか?」
 少女は、また小さく頷く。
 執事が、静かに一歩下がる。
「ありがとうございます」
 それだけ言うと、再び影の位置へ戻った。
 まるで最初からそこにいなかったかのように。
 ***
 廊下を歩く。
 咲夜は、隣をちらちら見てしまう。
「えっと……教室、二年A組ですよね……?」
 少女は、頷く。
「私は相原咲夜と申します……あ、いや、します……です……」
 言い直して、咲夜は小さく咳払いした。
「咲夜でいいです」
 少女は、少し考えるように瞬きをする。
 そして。
 胸元に手を当て、静かに会釈した。
 その仕草は、とても上品だった。
「お名前……お聞きしても……?」
 少女は、数秒迷ったあと。
 小さなカードを取り出した。
 そこには、丁寧な筆跡で名前が書かれていた。
 咲夜は目を落とす。
 ー久遠灯
「……綺麗な名前…お名前…ですね」
 素直に言う。
 少女は、わずかに頬を緩めた。
 廊下の窓から光が差し込む。
 その瞬間。
 少女の耳元の装飾が、かすかに煌めいた。
 王冠を模した紋様が、ほんの一瞬だけ浮かび上がる。
 誰にも気づかれないほどの、微かな光。
 少女は、それに気づいたように指先で飾りを押さえた。
 そして。
 咲夜を見上げる。
 優しい、守られそうな微笑。
 だが。
 その瞳の奥には、静かな計測が宿っていた。
 ***
「……えっと」
 咲夜はぎこちなく笑う。
「困ったことあったら、言ってくださいね」
 少女は、少しだけ考える。
 それから。
 咲夜の袖を、もう一度つまんだ。
 離さない、というより。
 信号のような仕草だった。
 咲夜は、小さく頷く。
 その表情は、完全に面倒見のいい先輩だった。
 ただの、よく喋る女子学生。
 けれど。
 少女は知っている。
 その袖を掴んでいる相手が。
 国家均衡を量る《境界の天秤》であることを。
 そして。
 廊下の天井。
 換気口の影で。
 一匹のヤモリが、瞬きもせずに二人を見下ろしていた。
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