未完成のビリーフ

紫苑色のシオン

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未完成のビリーフ 4

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 あれから先輩はすぐに走り去ってしまったために何もいう事ができずに、家に帰るだけだった。先輩の様子はどう見ても異常だった。気になって仕方がなかったが、何も考えが纏まらないままに朝はやってくる。どんな顔して先輩に会えばいいというのか。
 体調はどこも悪くないが、食欲はなく、食パンを無理やり口に放り込む。もさもさとした食感が不快だったために、牛乳で流し込む。牛乳が染み込んだ、これまた違った不快な食感のパンが喉を過ぎていく。ヨーグルトで何とか口直しをしよう。…乳製品多くない?
 何とか朝食を食べ切きり、登校の準備をする。今日は体育があったな。体操服を忘れない様にしなくては。そういえば昨日、先輩がなぜ冬用の体操着を着ていたのか聞きそびれてしまった。でもまぁ、聞くに聞けなくなってしまったわけなんだけど。体操着を鞄に突込み、他の科目に必要な教材を鞄に入れて行く。憂鬱な気持ちを何とか持ち上げて学校に向かうことにする。
 こういう時に正門の前の勾配の急な坂は不愉快でしかなかった。普段であれば特に気にも留めない坂なのだが、自転車でこれを、徒歩通学の人たちを避けながら漕いで登るのは到底無理な話なので降りて自転車を押していく。これが実に手間なのだ。坂だと自転車も重く感じるし。しかも今日はいつもより足取りが重い。なぜこういう日に限って天候が曇りなのか。
 何とか駐輪場に自転車を停め、教室に向かう。その途中で。

「おはようございます、沢藤君」

 今一番会いたくないとさえ思える先輩と出会った。

「お、おはようございます」
「昨日はありがとうございました」

 先輩は丁寧に頭を下げる。頬の腫れは引いているようで、特に異常は見受けられなかった。今日も変わらず美人の顔立ちだ。だからこそ、違和感があって仕方がない。

「あ、あの、先輩…」
「昨日は『近くまで』荷物を運んでくれてありがとう」

 先輩はそれだけを言い残して去って行った。しかし、僕にとってはそれ『だけ』ではなかった。それを言った時の先輩の眼が、黒く淀んでいた。その眼は見ているというよりは睨んでいると表現した方が正しいような眼をしていた。あの目に睨まれた僕は文字通り蛇に睨まれ、竦んでいた。
 先輩は遠回しに昨日の事は忘れろと忠告しにきたのだ。先輩にとっては触れられたくない事なのだろうか。それでもこれ以上踏み込んで来るなら殺すと言われても違和感のない狂気を含んだ目をしているのが怖かった。となると、昨日の体操服の件も聞かない方が良い様な気がしてきた。何せ、理由はほぼ確信に近いほどの答えに行きついていたからだ。
 きっと先輩は父親に暴力的な虐待を受けている。身体のあちこちに痣や怪我があるに違いない。それを隠すために先輩は体育を冬用の体操着を着て臨んでいたのだ。しかしもう夏本番。冬用の体操着を着てできるほど太陽は優しくない。熱中症になるのを避けるために見学していたのだろう。幸いこの学校の夏用の制服は白いセーラー服で、長袖だが、通気性の良い薄い生地を使用しているお陰で割と涼しい。そのために体育の授業さえ何とか回避してしまえば、周囲にはそんなにバレずに済むのだろう。
 今にして思えば、先輩は家に帰りたく無さそうな事をチラホラと言っていた。セクハラまがいの事ばかりしてくる先輩がいる部活に律儀に毎日顔を出したり、本人にとってはする必要のない勉強をしに図書館に来たりと、いずれも家に居る時間を少しでも短くするためにしていた事なのだろう。
 虐待というのは非常に難しい問題だ。法的措置を取るにも公的機関は慎重にならざるを得ないし、少しでも調査されていると加害者に感知されれば、より陰湿な虐待になっていくに違いない。仮に立証し、加害者と被害者を引き離すことができたとして、その後も難しい問題だ。もう先輩ほどの年齢であれば、一人でもなんとか生活していくことができるだろう。アルバイトもできる年齢だし。だがもっと若い子が被害者だったら、生活は難しいだろう。引き取ってくれる親戚がいればいいが、最悪孤児院なんてのも視野に入ることになる。どちらにしろ被害者にとっていい結末というのは難しい事だろう。
 ただの一高校生に過ぎない僕に、先輩に何ができるというのか。仮に先輩を虐待する父親から救えたとして、その後は?経済的な方面でも社会的な方面でも助けることができない。となると今の段階で先輩に何かしようとするのは非常に無責任極まりないのではないだろうか。それに先輩には先ほどはっきりと関わるなと忠告されたばかりではないか。なら見てみぬ振りを貫き通すべきなのではないだろうか。
 様々な葛藤が頭を過る。僕はどうすればいいのだろうか。先輩はどうなりたいのだろうか。あのまま及川先輩の理不尽なセクハラに耐えながら少しでも家に居る時間を減らして、それでも家では虐待を受け。卒業後にはどうなる?先輩はこのままずっと耐えるだけの生き方をするのだろうか。そんなのあまりにも先輩は可哀想ではないか。
 放課後、部活の時間になり、僕は部室へと向かった。まだ先輩にどうすべきか、どんな言葉を向けるべきなのか分からないまま、それでも時間は過ぎていく。時間を停める超能力をこんなに欲しいと思ったのは生まれて初めてだった。
 しかし部室に着くや否や、そんな考えは地平線の彼方へと飛び去ってしまった。

「あんたいい加減にしてよ!」

 部室の外にまで聞こえてくる、桐生先輩のヒステリックな怒号。この時点でもう既に入りたくない。近野先輩と顔を合わせ辛いのに、それに加えて、桐生先輩もヒステリックになってるだなんて、胃が痛くて仕方ない。所詮ただの部活動だ、サボってしまっても問題ないだろう。うん、今日は腹痛による体調不良で欠席としよう。
 そう思って踵を返すと、会いたくない人がいた。

「おぉ、沢藤。良いところに来てくれた」

 篠崎部長だった。これはいよいよ部室に入らなくてはならない事態になってしまった。いや、待て。

「部長、僕か近野先輩を待ち伏せしてませんでした?」

 篠崎部長は「良いところに来てくれた」と言った。そして未だ中から聞こえるヒステリックな金切り声を聞いても何のアクションも取らないところを見ると、篠崎部長の方が先に部室に来ていた。しかし、中では既に桐生先輩が怒鳴っており、中に入るのを躊躇った。このままサボって家に帰ってもよいはずだが、篠崎部長は休む時には必ず同学年の誰かには連絡していたようで、連絡もなしに休むということはサボりというのが少なくとも三年生の二人にはバレてしまう。でも一人で入る勇気のなかった篠崎部長は残りの部員である僕か近野先輩が来るのを陰から待ち伏せしていたのだろう。

「ハッハッハッ。沢藤は頭がいいな。その回転の速さを二人の仲裁にも遺憾なく発揮してくれ」

 篠崎部長は見たまんま、体格が細く身長は高い典型的なヒョロっちいと評されること請け合いな人で、その体格を表すかのように神経も細い人で小心者だ。恐らく及川先輩も桐生先輩も部長という面倒ごとが嫌で篠崎部長に押し付けたに違いない。
 篠崎部長が僕の肩に腕を回し、逃げられないようにしたまま、部室のドアを開けた。僕はてっきり中では女癖の悪さにいい加減辟易した桐生先輩が及川先輩を糾弾しているのだと思っていた。しかし実際には、近野先輩と桐生先輩が睨み合っていた。いや、睨み合うというよりは、一方的に桐生先輩が近野先輩を睨んでいる形だった。近野先輩はただ無表情で桐生先輩を見つめていた。何この状況。

「おい桐生、やめんか」

 意外にも小心者と思っていた篠崎部長が一喝する。

「は?何、篠崎、近野の味方するわけ?」

 こういう時の女性って嫌に威圧的で怖いと思う。まさに蛇のようだ。実際、篠崎部長が蛇に睨まれた蛙状態だし。

「そ、そういうわけではない。一体何が原因でこうなっているんだ」
「原因も何も、この女が人の彼氏に色目使ってんじゃん」

 と、指を刺される近野先輩。理不尽極まりなかった。実際は近野先輩が及川先輩に言い寄られて迷惑しているというのに、桐生先輩にはそれが分からないのだろうか。まさに恋は盲目なり、というやつなのだろうか。僕にはまだ分からない感情だ。

「ですから、私が迷惑していると先ほどから」
「あんたのその態度が気に入らないのよ!」

 桐生先輩はどうにも情緒不安定というか、論理的思考が苦手なようだ。

「待て、桐生。近野が困っているのは事実だろう。実際悪いのは及川だ」
「さっきから何?うざいんだけど。あんたこいつの事好きなの?」

 いよいよ飛び火が凄いな。これではいつ僕の方にも火花が散って火事が起きるか分かったもんじゃない。すぐに退散したい所ではあるのだが、先ほどから、チラチラと近野先輩がこっちを見てくるのだ。恋が盲目にさせているのか、はたまた盲目だから恋をしているのか。どちらにしろ、桐生先輩の世界は及川先輩を中心に回っているようだ。
 ずっと二人を捲し立て、煽り、挙句には理屈の通らない滅茶苦茶な言い分は実に気に入らない。

「…繋ぎ留められない自分が悪いんでしょ」

 あ、思わず言っちゃった。いい加減僕もイライラが募っていたのかもしれない。いやぁ、うっかりうっかり。でもま、いっか。

「なんですって…?」

 わぁ、怖い。猛禽類のような鋭い目がこちらに向く。一瞬そっぽを向きそうになるが何とか堪えて、笑顔を向ける。

「何て言ったのよ」
「え?もう一回聞きたいんですか?」
「二人とも、やめないか」

 篠崎部長があたふたしながら入ってくるが、どうも桐生先輩の耳には入らない様子だ。全く、この部長は。

「いい加減にしてほしいです。部室で不純異性交遊したり、近野先輩にセクハラしてたりと」
「それはこの女が学に色目を使うから「そんなわけないでしょう」

 もういい加減限界だ。これが最善とは思わない。もしかしたら近野先輩に今以上に迷惑をかけるかもしれない。近野先輩に嫌われるかもしれない。それでも、だ。

「近野先輩は僕の彼女です。変な言い掛かりは辞めてください」

 空気が凍るという現象を始めて生で見、肌で感じた瞬間だった。
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