未完成のビリーフ

紫苑色のシオン

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未完成のビリーフ 6

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 朝の陽ざしが顔を照らし、その暑さで勝手に目が覚める。顔を焼く気か、太陽は。このような経験は土日の、学校が休みの日にしか味わったことがない。つまり結構な頻度で遭遇しているわけなのだけど、決して学校に行かなくてはいけない日に味わう不快さではなかった。しかし今日は夏休みに入ったとはいえ、部活で学校に行かなくてはいけない。なのに、この顔が焼かれる感覚。つまり寝坊した。
 時計は八時半を回っていた。夏休みでなければもうすぐ朝のホームルームが始める時間だ。本当にまったく、何という事だ。本を読んだままいつのまにやら寝落ちてしまったようで、目覚まし時計もセットし忘れてしまったようだ。僕としたことがハハハ。

「おはよう」

 リビングでは母がいつも通り朝食を用意してくれていた。

「部活って何時からなの?」

 母のその一言で、ふと考える。あれ?具体的な時間知らないな…。
 部活というのは普通であれば放課後に行うものであって、休日にする部活動の普通を僕は知らなかった。体育会系の部活であれば朝早くから行うのかもしれないけども、新聞部はまごうことなき文化部だ。ひょっとしとたら午後から行う可能性ももちろんあった。

「え、知らない…」

 大きくため息を吐く母親に申し訳なさが僕を襲ってきた。
 仕方ないから僕は朝食を摂った後にすぐに学校に行くことにした。勝手に午後からと決め込んで、午前中に活動が終わってしまっていたらいけないから、早く行くことにした。冷水で顔をバシャバシャと洗う。うん、焼かれた顔は大分冷めたようだ。これで目もはっきりと覚めた。
 最低限必要そうな筆記用具を鞄に詰め込み、駐車ペースの脇に停めている愛用の自転車にまたがり、さぁ、出発。少し早めに自転車を漕いでいく。爽やかな風など全くなく、朝なのに気怠くなるような暑さが家に引き返したくなるように僕を包む。帰りたい。
 さてはて、どうしたものか。自転車を漕いでいる間に近野先輩と会ったりとか、怪奇現象に巻き込まれることか、曲がり角で運命の女性とごっつんこ、なんて特筆できるようなことは一切無く、普通に学校に到着した。では何に困っているかというと、部活はどうやらホームルーム開始時間を基準に始めるものではなかったようで、部室は閉まっていた。誰も中にはいないようで、完全に時間を持て余す事態になってしまったようだ。
 さて、どうしようか。

「あら、沢藤君、おはよう」

 右方から声がした。なんともまぁ、こいつはびっくり、先輩だった。

「近野先輩、おはようございます。近野先輩も時間が分からず来たクチですか?」

 極めて爽やかに。極めて日常的に、極めて友好的に僕は話す。

「いえ、時間は十三時からよ。私は知ってたわ」

 ...…。は?

「え、じゃあ何で…?」
「沢藤君に直接謝りたくて」

 少し目を伏せ気味に先輩は言った。先輩が僕に謝りたいこと?むしろ僕が先輩に謝らなくてはいけない事があるぐらいで、逆は全く思い当たる節が無い。一体、先輩は僕に何をしたというのか。

「夏休みの部活動の時間、沢藤君に連絡するのは私の役目だったの」
「え、じゃあ僕だけ知らなかったというわけですか?」
「えぇ、そうなの」

 いやまぁ、確かにそれは少し勘弁してほしいことではあったが、忘れるのは誰にでもあり得ることだ。無理に責めるわけにはいかない。こうして僕の連絡先を知っているにも関わらず、直接謝りに来てくれ…て…?

「朝にでも連絡くれればよかったのではないですか…?」

 確かに昨日の段階で僕に連絡するのを忘れていたのを良しとしても、今朝起きた時にでもメールでもラインでも送ってくれればそれでよかったのではないのだろうか。

「嫌よ、意図的に連絡網を止めていたのに」
「なぜ!!!!」

 思わず叫んでしまった。意図的にならなぜ謝る!訳が分からない!

「沢藤君に会いたかったからよ。時間までどこかでお茶でもしましょう」



 自転車は学校の駐輪場に停めたまま繁華街の方へ先輩と二人で出ることになった。しかし言ってもまだ九時を過ぎたばかりでは開店しているお店も少ない。ただぶらりと歩くだけになっていた。互いに無言で非常に気まずい雰囲気が漂っているが、どうしようか。とにかくあの事を謝りたいのだが、こんな往来の真ん中でする話でもないしなぁ…。

「あそこでいいかしら?」

 と先輩が指を差したのは全国にチェーン展開しているファーストフード店だった。確かにそういったお店ぐらいしか開いているお店はないし、別段、嫌いというわけでもない。金銭的に苦しい学生にとっては大きな味方だ。

「もちろん」

 入店した僕達を最初に歓迎してくれたのは冷房の効いた空調だった。なんとも有難い。その後にアルバイトのお姉さんが笑顔で「いらっしゃいませ」と言ってくれる。毎回思うけど、あんなにいい笑顔をすぐにできる人は凄いなと感心する。そんな僕には到底接客業なんて向いていないだろう。

「アイスコーヒー、Sサイズで」
「アイスティーレモンで」

 各々が飲み物だけを注文し、席に座る。流石にこんなに朝早いと店内は空いており、席は選びたい放題だった。折角んなので店内の奥の隅のテーブル席を陣取った。
 一口コーヒーを啜る。苦みが強く、とてもではないがシロップ無しでは飲めそうもなく、シロップを入れる。先輩はアイスレモンティーを無表情で飲んでいる。

「あ、あの、先輩…」
「何でしょう」

 おかしいな、冷房効きすぎじゃないか。寒いよ、背筋が。

「この前はすみませんでした」
「は?何がですか?」

 えぇ…。この人怖いよ…。

「僕と付き合ってるだなんて嘘ついて」
「あぁ、それですか。流石に桐生先輩から助けてくれたというのは分かってますよ。怒るわけないじゃないですか」

 あっけらかんと先輩はそう言った。

「でも最近目も合わせてくれなかったじゃないですか」
「貴方が避けるからでしょう。だからこうして無理やりにでも会う機会を作ったんです。部活の後もすぐに帰ってしまうし」
「すみません…」

 もうここまで責められると立つ瀬がない。
 でもよかった。勝手に僕が早とちりしただけで、先輩は特に僕を嫌ってなどいなかった。
 ひとまずその事で良しとしよう。お、この店、中々空調の調整が抜群じゃないか素晴らしい。コーヒーも美味い。

「先輩は僕と付き合ってるなんて嘘、嫌じゃなかったんですか?」

 恐る恐る、というにはあまりにも流暢に聞く。いやでも精一杯背伸びして言ってるだけで、これで「心底、嫌」なんて言われてみろ、夏休み終わるまで部活なんて行く気出ないよ。

「はぁ、まぁ、別に」

 何とも曖昧な返事。ポジティブに行こう。嫌ではない。という事は少なくともマイナスな感情は僕に対しては持っていないという事だ。そう考える事で心の平穏を保つ事にしよう、そうしよう。

「むしろ、沢藤君こそ嫌じゃないんですか。私みたいな地味な女」
「地味な格好してるかもですけど、先輩は充分美人の類に入るかと思いますよ」
「知ってます」

 ...えぇ。何この人。自分に自信あるのか無いのかよく分からない人だ。

「でも、実際、私は地味で暗い女です。ですから男性の眼には止まることは少ないはずなんですけど。…及川先輩は私の事をセフレでもと考えているようですし」

 さらっとまたこの人は凄いことを言う。だが実際、及川先輩の悪い話は一年生のところまで流れてくるほどだ。クラスメイトにも一人、及川先輩に手を出された子がいるとか何とか。貞操観念に関しては人それぞれだし、とやかく言う権利が無いのは分かっている。僕だってクラスメイトの女の子が及川先輩の牙にかかったとして、特に何も思わないし、及川先輩を恨む気持ちは全く芽生えない。しかし、近野先輩に手を出そうとしているのは、何とも許し難い。この黒い感情が好きになるという事なのだろうか。

「沢藤君は気にしなくていいですよ。及川先輩の事は私が何とかしますから」

 と、近野先輩はレモンティーを一口啜りながら言った。しかし、それは実際問題どうなのだろうか。僕の勝手な印象だけども、及川先輩は気性が少しばかり荒く見える。もし近野先輩が及川先輩に一言断りを入れたらどうなるだろうか。逆向してくる様子が
簡単に浮かんでくるではないか。

「それより沢藤君に見せたいものがあります」

 そう言って手渡された紙は手の平の上にちょこんと乗る程度のサイズだった。半折にされ、横の長さが縦の二倍ほどある、丁度付箋の様なその用紙は二回ほど見覚えがあった。
 テストが全て返却された日のホームルームで、担任に渡されたその用紙には、期末テストの全教科合計点数と、学年順位が書かれていた。僕は百六十三人中四十八位だった。
 近野先輩に渡されたその用紙を開くと驚きの数字が記されていた。

「約束したでしょう?一位を取る、と」

 確かに約束した。近野先輩の適当な勉強法を見た僕が訝しんだ結果、学年一位を取って証明するという約束をした。そして約束通り近野先輩は百五十九人中一位を取っていた。これは凄い。非常に凄い。しかし僕はなんとなく近野先輩は約束通り一位を取るだろうな、と思っていたのでこれはどちらかというと、予想通りなのだ。では何に驚いたのか。それは全科目の合計点数の方だ。期末テストは基本五教科である国、数、英、社、理に加えて三つの選択科目の計八つのテストが行われる。つまり、最大で八百点となる。そしてその手の平の上に乗る小さな付箋には、その八百点と記録されていた。
 この人は、一位意外あり得ない得点を叩き出していたのだ。確かに全教科満点を取ることが出来るのであれば一位を取るという約束もできてしまうだろう。他の人の出来など関係ないのだから。

「……」

 あまりに衝撃的すぎて言葉が出ない。口は開くが音が出ない。開いた口が塞がらないというやつか。

「言っておきますけど、カンニングなんてしてませんからね。まぁ、先生方には疑われましたけども」
「先輩はカンニングなんてしないと分かってますよ」
「あらそう」

 近野先輩はカンニングしてでも満点を取るぐらいなら、多少順位が下がっても、正直に謝ってくるだろう。なんとなくだけど、近野先輩はそんな人の気がした。

「また勉強見てあげますよ」

テーブルに肘をつっかえ、顎に手を添えた近野先輩は優しい聖母の様な微笑みをしていた。
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