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幸福論
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1
この世の中は何かがおかしいと思いつつも、結局はこれが普通なのだろうと自分に言い聞かせて毎日を過ごしていた。
HQシステム。幸福数値化システムというものが開発されたのが二百年前。開発当初は不安定で数値の誤差が大きいやマイナス値やプラス値が逆転したりと欠陥品扱いだったかが、時代が進むに連れ、その数値の正確さが徐々に確固たるものとなっていき、人々はそれを生活の基準に取り入れるようになっていった。更なる進化を遂げたHQシステムは、人の未来の幸福値までたたき出すようになっていった。
挙句の果てには、恋人ができたときにシステムで測り、数値が低いと、今の気持ちは無視して別れるのである。それが何と、当たり前になっている世の中なのだ。
俺はそれが怖い。数値に支配されたこの世界で、気持ちや意思を二の次三の次にして何よりも数値を遵守する。そんなの、果たして生きていると言えるのだろうか…。
「HQマイナス二百五十六デス」
冷たい機械の声が俺の幸福値を告げる。何が基準なのかは国民の大半知らず、俺も例に漏れず知らない。なのに国民はこの数値を絶対の基準としているのだ。
「やはり彼はまだこの社会に反発を」
「システムに疑心を抱いているから」
「彼の数値をプラスにするには」
「システムへの信用性を高めるように」
「教育しなくては」
だが、推論はある。恐らく、このシステムを信じない限り、数値はマイナスのままだろう。
このシステムが今や、神なのだと。
さらに恐ろしいのは、その数値が売買できてしまう、という点にある。
あまりに高い数値を持つ人は幸福値を他人に売ることができ、人に譲渡が可能なのである。売買できる幸福。人から買う幸福。信じられないかもしれないが、実際に人から幸福を買い、今までは自他共に認める不幸な人間の人生が百八十度変わったという話もある。
しかし、機械が叩き出す数値が絶対というなら、恋人ができたとしてもマイナスを叩き出し、結局は別れるしかないのだろう。俺は一生独り身で生きていかなくてはいけないのだろうか。
2
大学で、人並みに勉強し、人並みの大学に入り人並みにバイトして人並みにサークル活動をして。至って普通の大学生らしく充実していた。システムへの不信感さえなければ。
万年マイナス男と呼ばれているのも不幸の要因の一つではないだろうか。
しかし、数値が絶対視されるこんな社会でも、世界は広いもので、こんな俺でも恋人ができたのだ。彼女もシステムに不信感を抱いており、その点で気が合ったのだ。
彼女はどこか儚げな雰囲気があり、どことなく深窓の令嬢という形容がとてもしっくりと来る。病的に白い肌にモデルのようにほっそりとした体は、触れると折れてしまいそうと錯角するほどだった。
なぜ彼女がシステムに嫌悪感を抱いてるのかは理由を教えてくれなかったが、無理に聞こうとも思わなかった。彼女は唯一の俺の共感者であり理解者だ。無理やり聞こうとするのは無粋というものだろう。
だからこそ、俺達は付き合ってからというもの、恋人相性というの数値を一度も測っていないのだ。
彼女とはほぼ半同棲状態で俺が彼女の家に入り浸っていた。今日も今日とて彼女の家に居り、泊まるつもりだった。
「何食べたい?」
「んー...ホワイトシチュー」
「はーい」
彼女は料理が得意で、いつも食べたい物を言うと作ってくれる。それは作れないと断られた経験は一度も無かった。
安らぎの空間がワンルームの部屋には完成していた。これでももし、システムがマイナスを出そうと言うものなら何が幸せだというのか。俺と彼女は間違いなく幸せだと言いきれるのだから。
二人で晩御飯を済ませた後、彼女が重々しい雰囲気で俺に話がある、と言ってきた。目を見れば分かる。真剣な話なのだと。
「あのね...私、病気なんだ」
3
彼女の告白から三ヶ月。すっかり寒くなり防寒着無しで外に出ようものなら間違いなく風邪を引くような冬になった。
街を鮮やかに緑で彩っていた木々も葉を枯らし、逆に寂しさを感じさせるものになっていた。普段はこんな街路樹なんて気にもとめなかった俺だが、最近はよく目に止まる。
今日も彼女がいる病室に向かっていると、尚更そう感じてしまうのだ。
「入るよ」
ノックはせずに声だけかけて入る。
彼女は沢山の管に繋がれ、ベッドに横たわっていた。身体を起こすのもできないほどに病気が進行しているらしい。
これだけ科学が進歩し、それに伴い医学も進んだが、神は嘲笑うかのように新たな病気を人に与える。
彼女の病気も今の医学では治療法が見つかっていない不治の病らしい。
「いつもごめんねー」
病気で苦しいはずなのに彼女は笑顔で俺を見る。弱々しく見える細い体格とは反して、彼女はとても強い。
「何言ってんだ、当たり前だろ」
あの日、彼女が病気なのだと告白してきたのは、これから入院しなくてはいけなくなり、隠し通せなくなったと考えたかららしい。
今まで隠されていた事自体はショックだったが、相当悩んでの決断だったのだろう。話してくれている彼女の表情を見れば一目瞭然だった。だから怒ったり悲しんだりなんて出来なかった。ただただ、彼女を愛する事しか俺には出来なかった。今までで一番優しく、最後の晩、愛した。
彼女の病は不治の病の中でも特に致死率が高く、ほぼ百パーセントとの事だった。
彼女が何時、目を開けなくなっても不思議じゃない。覚悟はしておいてほしい。と医者は言っていた。彼女を見ていて、言われるよりも早くに俺は察していたし、覚悟もしていた。
俺が今してやれる事はただ一つ。一秒一瞬たりとも逃さず、彼女を愛する事。最後まで俺は彼女の傍にいる。
なんて綺麗事を言っても、結局のところ、俺がそうしたいだけなんだろう。
弱々しい彼女の手を、そっと優しく包み込むように握った。
4
とうとうその時が来た。入院してから四ヶ月目に突入し、もう少しで五ヶ月になりそうという時だった。
突然喀血し、彼女はとても苦しそうに身を捩り始めた。ただ事じゃないと感じ取った俺はすぐ様ナースコールを押し、医者を呼んだ。
治療室に運ばれるまでの間、ずっと彼女の手を握り、彼女の名を呼び続けた。覚悟はしていた。でも、それでも、涙を堪える事なんて、出来なかった。
半日、治療室の前で待ち続けた結果、医者から告げられた言葉は「全力は尽くしました」というものだった。医者は神様じゃない。同じ人間だ。救える命とそうでない命があることぐらい分かってる。でも、受け入れたくは無かった。
次の日になり、彼女がいた病室の片付けを彼女の両親と一緒にしている時だった。
「ちょっと、いいかな」
医者に呼ばれ、中庭に連れ出された。
「彼女がね、残していったものだ」
そう言ってつばが悪そうに医者が懐から出した物は。
「幸福譲渡申請書...」
自分の幸福値を他人に譲渡する申請書だった。しかも承認が通っている。受取人は。
「君に、幸せになってもらいたいそうだ」
彼女の幸福値は千二十四。俺のマイナスを差し引いても有り余る、近年稀に見る数値の高さだった。
「そんな...申請したから...死んだんじゃ...」
俺に幸福値を渡してしまうから、彼女は死んだのではないか。申請していなければまだ生きられたんじゃないか。そう頭に過ぎって仕方がなかった。
「馬鹿をいいんじゃない。彼女が一番、自分の状態を分かっていたんだ」
その証明と言わんばかりに、申請日は彼女の命日の三日前だった。
「君は彼女と共に生きるんだよ」
医者の言葉を聞いた俺は、中庭で他の人がいようともお構い無しに泣いてしまった。
彼女が残した俺への贈り物。当然俺は拒むことなんて微塵も考えなかった。
_____
HQシステム管理センター。HQに関する全てを扱っている巨大なビルで、システムのメンテナンス等の管理、HQの検査、譲渡や売買など、幸福値に関する全てを扱っている。
彼女が残した申請書を手に、俺はこのビルに入っていった。申請書を受付に見せ、待合室で順番が来るのをひたすら待つ。
これがまた、長く感じる。周りのざわざわとした喧騒は一切耳に入ってこず、申請書をただ見つめていた。しかし目に映っているのは申請書の内容ではなく、彼女と過ごした一時だった。
初めは大学一回生の時、講義でたまたま横に彼女が座ったところからだった。人気の講義で生徒も多い中、彼女は電車の遅延のせいで遅れて入ってきた。席はほとんど埋まっており、たまたま俺の真横が空いていただけだった。そこを彼女が見つけて、「隣いいですか?」と来たのだ。
最初は何とも思ってなかった。確かに綺麗な人だな、とは思った。でも芸能人レベルまでは行かないとも思ったし、何より幸薄そうな感じが最初の印象だった。
でも、その最初の講義で隣合った時に、彼女が遅れた分聞けてないところを教えている内にこの講義だけでも彼女とよく一緒に隣合って受けるようになった。
そして、彼女と二人で大学の食堂で昼食を取っている時にHQシステムの事について触れた。そこで初めて彼女もシステムを嫌悪していると知った。共感してくれる人がいたのがとても嬉しかったのは今でも鮮明に覚えている。
告白はどちらから、というのは無く、なんとなく一緒にいる時間が増えていき、互いの家に泊まったりすることも増え、付き合おうかとなった。
植物園に行ったり、水族館に行ったり、色んな所に行った。彼女と一緒なら何処に行っても楽しかった。彼女の作ってくれた料理はどれも凄く美味しかった。
数値に支配された世界は嫌いで仕方ないが、彼女がいる事だけは、この世界で唯一好きなところだった。
「次、三百三十二番の方ー」
受付に、自分が持っている番号表の番号が呼ばれた。とうとう、彼女からの最後の贈り物を受け取る時が来たのだ。
「幸福の譲渡ですね」
担当の人は淡々と進めていく。時より、ボソリと凄い数値だな、と呟いたりしていた。
「では次は貴方の数値を測りますね」
そして俺の今の数値は...。
「マイナス二百九十三」
前よりマイナス値が上がっていた。それもそうだ。最愛の恋人を失ったばかりなんだから。
その時も担当の人はこれまた凄い数値だな、と呟いた。
「うん、君の数値のマイナスはとても大きいが、この譲渡で君の数値は完璧にプラスになる。良かったね」
数値上では確かにプラスになる。これからは幸せになるのだろう。数値では。
そして、幸福の譲渡が行われた。特殊な機械を使って、何やら専門家達が操作しているが、詳しい事は俺には分からない。
機械の中で、眠るような時間が経ったと思ったが、時計の針は殆ど動いていなかった。
「終了しましたよ」
担当の人が機械の中にいる俺に手を伸ばしながらそう言った。
彼女の最後の贈り物が、俺の中に贈られた瞬間だった。
機械を操作していた専門家の中には以前から俺を問題児扱いしていた奴らの姿もあった。
「マイナス二百九十三」
最後の検査できちんと幸福の譲渡がされているかのチェックの時だった。
俺の数値は全く変わっていなかった。
専門家達がざわめき立つ。
「すみません、すぐにシステムの点検しますので」「そんな馬鹿な!」「有り得ない」「システムにエラーなど」「そもそも彼は元よりシステムに反して」
色んな意見が飛び交っていた。それが俺にはとても_____
「当たり前だろ...」
馬鹿馬鹿しかった。
「こっちは最愛の恋人失ってんだぞ!それで幸福なわけ無いだろ!俺には彼女しかいなかったんだぞ!」
「何を言っているんだ!システムは完璧だ!数値に間違いなど_____」
「人の幸せを数値化できるわけないだろ!今の俺の気持ちわかるか!数字じゃなく!言葉で!」
悔しい。歯ぎしりしている。唇を噛みきってしまいそうだ。
こんな奴らに、こんな奴らに彼女からの最後の贈り物を穢されて...。腹立たしい。殺してしまいたい。
「自分の気持ちなのに自分で言葉にできないほど苦しいんだよ!辛いんだよ!悲しいんだよ!絶望しかないんだよ!この今の気持ちが...たかが数字で表せるかよ...」
涙が止まらない。こんなにも...苦しいなんて。
「人の気持ちを、何だと思ってるんだ!!!」
今まで溜め込んだ不満不平不服の全てがこの一言に詰められた。
結果的に俺は追い出されただけだった。幸福譲渡の証明書だけを渡されて。それでも何かをやり切った気分でいっそ清々しかった。
彼女のシステムへの嫌悪の理由を、彼女の両親が教えてくれた。
最初は彼女もシステムを信じていたし、それを基準にしていた。
だが、病気が発覚し、それも不治の病。死が確定したと告げられたも同然のものだった。彼女は絶望しただろう。
システムで測ったらきっとマイナスに違いない。私は不幸のまま死ぬのか。そんな気持ちが日に日に大きくなっていき、システムが怖くなったのだと言う。
そして彼女は決めた。システムなんか信用せずに自分の幸せは自分で見つける。残された時間は自分の幸せのために生きるのだと。
そう、語ってくれた彼女のご両親は辛そうだったが、どこか誇らしげでもあった。
「そんな中、貴方に出会ったとあの娘はそれはもうとても嬉しそうに話してくれました」
ご両親にいつも俺の話をしていたそうだ。良い人に会えた。好きになった。付き合う事になった。とても今が幸せ。そう毎日電話で両親に報告していたそうだ。
「俺は...彼女を幸せに...出来ていたんですね...っ」
「えぇ...ありがとう...あの娘と出会ってくれて...あの娘の傍にいてくれて...」
それから、ずっと彼女の両親と一緒に、彼女との思い出話を肴に、お酒を交わした。
俺の数値はずっとマイナスだ。それもとても大きいマイナスだ。
でも俺は不幸なんかじゃない。だって、心の底から愛した人を、幸せにできたのだから。
それだけで俺は、一生誇れる幸せだ。
この世の中は何かがおかしいと思いつつも、結局はこれが普通なのだろうと自分に言い聞かせて毎日を過ごしていた。
HQシステム。幸福数値化システムというものが開発されたのが二百年前。開発当初は不安定で数値の誤差が大きいやマイナス値やプラス値が逆転したりと欠陥品扱いだったかが、時代が進むに連れ、その数値の正確さが徐々に確固たるものとなっていき、人々はそれを生活の基準に取り入れるようになっていった。更なる進化を遂げたHQシステムは、人の未来の幸福値までたたき出すようになっていった。
挙句の果てには、恋人ができたときにシステムで測り、数値が低いと、今の気持ちは無視して別れるのである。それが何と、当たり前になっている世の中なのだ。
俺はそれが怖い。数値に支配されたこの世界で、気持ちや意思を二の次三の次にして何よりも数値を遵守する。そんなの、果たして生きていると言えるのだろうか…。
「HQマイナス二百五十六デス」
冷たい機械の声が俺の幸福値を告げる。何が基準なのかは国民の大半知らず、俺も例に漏れず知らない。なのに国民はこの数値を絶対の基準としているのだ。
「やはり彼はまだこの社会に反発を」
「システムに疑心を抱いているから」
「彼の数値をプラスにするには」
「システムへの信用性を高めるように」
「教育しなくては」
だが、推論はある。恐らく、このシステムを信じない限り、数値はマイナスのままだろう。
このシステムが今や、神なのだと。
さらに恐ろしいのは、その数値が売買できてしまう、という点にある。
あまりに高い数値を持つ人は幸福値を他人に売ることができ、人に譲渡が可能なのである。売買できる幸福。人から買う幸福。信じられないかもしれないが、実際に人から幸福を買い、今までは自他共に認める不幸な人間の人生が百八十度変わったという話もある。
しかし、機械が叩き出す数値が絶対というなら、恋人ができたとしてもマイナスを叩き出し、結局は別れるしかないのだろう。俺は一生独り身で生きていかなくてはいけないのだろうか。
2
大学で、人並みに勉強し、人並みの大学に入り人並みにバイトして人並みにサークル活動をして。至って普通の大学生らしく充実していた。システムへの不信感さえなければ。
万年マイナス男と呼ばれているのも不幸の要因の一つではないだろうか。
しかし、数値が絶対視されるこんな社会でも、世界は広いもので、こんな俺でも恋人ができたのだ。彼女もシステムに不信感を抱いており、その点で気が合ったのだ。
彼女はどこか儚げな雰囲気があり、どことなく深窓の令嬢という形容がとてもしっくりと来る。病的に白い肌にモデルのようにほっそりとした体は、触れると折れてしまいそうと錯角するほどだった。
なぜ彼女がシステムに嫌悪感を抱いてるのかは理由を教えてくれなかったが、無理に聞こうとも思わなかった。彼女は唯一の俺の共感者であり理解者だ。無理やり聞こうとするのは無粋というものだろう。
だからこそ、俺達は付き合ってからというもの、恋人相性というの数値を一度も測っていないのだ。
彼女とはほぼ半同棲状態で俺が彼女の家に入り浸っていた。今日も今日とて彼女の家に居り、泊まるつもりだった。
「何食べたい?」
「んー...ホワイトシチュー」
「はーい」
彼女は料理が得意で、いつも食べたい物を言うと作ってくれる。それは作れないと断られた経験は一度も無かった。
安らぎの空間がワンルームの部屋には完成していた。これでももし、システムがマイナスを出そうと言うものなら何が幸せだというのか。俺と彼女は間違いなく幸せだと言いきれるのだから。
二人で晩御飯を済ませた後、彼女が重々しい雰囲気で俺に話がある、と言ってきた。目を見れば分かる。真剣な話なのだと。
「あのね...私、病気なんだ」
3
彼女の告白から三ヶ月。すっかり寒くなり防寒着無しで外に出ようものなら間違いなく風邪を引くような冬になった。
街を鮮やかに緑で彩っていた木々も葉を枯らし、逆に寂しさを感じさせるものになっていた。普段はこんな街路樹なんて気にもとめなかった俺だが、最近はよく目に止まる。
今日も彼女がいる病室に向かっていると、尚更そう感じてしまうのだ。
「入るよ」
ノックはせずに声だけかけて入る。
彼女は沢山の管に繋がれ、ベッドに横たわっていた。身体を起こすのもできないほどに病気が進行しているらしい。
これだけ科学が進歩し、それに伴い医学も進んだが、神は嘲笑うかのように新たな病気を人に与える。
彼女の病気も今の医学では治療法が見つかっていない不治の病らしい。
「いつもごめんねー」
病気で苦しいはずなのに彼女は笑顔で俺を見る。弱々しく見える細い体格とは反して、彼女はとても強い。
「何言ってんだ、当たり前だろ」
あの日、彼女が病気なのだと告白してきたのは、これから入院しなくてはいけなくなり、隠し通せなくなったと考えたかららしい。
今まで隠されていた事自体はショックだったが、相当悩んでの決断だったのだろう。話してくれている彼女の表情を見れば一目瞭然だった。だから怒ったり悲しんだりなんて出来なかった。ただただ、彼女を愛する事しか俺には出来なかった。今までで一番優しく、最後の晩、愛した。
彼女の病は不治の病の中でも特に致死率が高く、ほぼ百パーセントとの事だった。
彼女が何時、目を開けなくなっても不思議じゃない。覚悟はしておいてほしい。と医者は言っていた。彼女を見ていて、言われるよりも早くに俺は察していたし、覚悟もしていた。
俺が今してやれる事はただ一つ。一秒一瞬たりとも逃さず、彼女を愛する事。最後まで俺は彼女の傍にいる。
なんて綺麗事を言っても、結局のところ、俺がそうしたいだけなんだろう。
弱々しい彼女の手を、そっと優しく包み込むように握った。
4
とうとうその時が来た。入院してから四ヶ月目に突入し、もう少しで五ヶ月になりそうという時だった。
突然喀血し、彼女はとても苦しそうに身を捩り始めた。ただ事じゃないと感じ取った俺はすぐ様ナースコールを押し、医者を呼んだ。
治療室に運ばれるまでの間、ずっと彼女の手を握り、彼女の名を呼び続けた。覚悟はしていた。でも、それでも、涙を堪える事なんて、出来なかった。
半日、治療室の前で待ち続けた結果、医者から告げられた言葉は「全力は尽くしました」というものだった。医者は神様じゃない。同じ人間だ。救える命とそうでない命があることぐらい分かってる。でも、受け入れたくは無かった。
次の日になり、彼女がいた病室の片付けを彼女の両親と一緒にしている時だった。
「ちょっと、いいかな」
医者に呼ばれ、中庭に連れ出された。
「彼女がね、残していったものだ」
そう言ってつばが悪そうに医者が懐から出した物は。
「幸福譲渡申請書...」
自分の幸福値を他人に譲渡する申請書だった。しかも承認が通っている。受取人は。
「君に、幸せになってもらいたいそうだ」
彼女の幸福値は千二十四。俺のマイナスを差し引いても有り余る、近年稀に見る数値の高さだった。
「そんな...申請したから...死んだんじゃ...」
俺に幸福値を渡してしまうから、彼女は死んだのではないか。申請していなければまだ生きられたんじゃないか。そう頭に過ぎって仕方がなかった。
「馬鹿をいいんじゃない。彼女が一番、自分の状態を分かっていたんだ」
その証明と言わんばかりに、申請日は彼女の命日の三日前だった。
「君は彼女と共に生きるんだよ」
医者の言葉を聞いた俺は、中庭で他の人がいようともお構い無しに泣いてしまった。
彼女が残した俺への贈り物。当然俺は拒むことなんて微塵も考えなかった。
_____
HQシステム管理センター。HQに関する全てを扱っている巨大なビルで、システムのメンテナンス等の管理、HQの検査、譲渡や売買など、幸福値に関する全てを扱っている。
彼女が残した申請書を手に、俺はこのビルに入っていった。申請書を受付に見せ、待合室で順番が来るのをひたすら待つ。
これがまた、長く感じる。周りのざわざわとした喧騒は一切耳に入ってこず、申請書をただ見つめていた。しかし目に映っているのは申請書の内容ではなく、彼女と過ごした一時だった。
初めは大学一回生の時、講義でたまたま横に彼女が座ったところからだった。人気の講義で生徒も多い中、彼女は電車の遅延のせいで遅れて入ってきた。席はほとんど埋まっており、たまたま俺の真横が空いていただけだった。そこを彼女が見つけて、「隣いいですか?」と来たのだ。
最初は何とも思ってなかった。確かに綺麗な人だな、とは思った。でも芸能人レベルまでは行かないとも思ったし、何より幸薄そうな感じが最初の印象だった。
でも、その最初の講義で隣合った時に、彼女が遅れた分聞けてないところを教えている内にこの講義だけでも彼女とよく一緒に隣合って受けるようになった。
そして、彼女と二人で大学の食堂で昼食を取っている時にHQシステムの事について触れた。そこで初めて彼女もシステムを嫌悪していると知った。共感してくれる人がいたのがとても嬉しかったのは今でも鮮明に覚えている。
告白はどちらから、というのは無く、なんとなく一緒にいる時間が増えていき、互いの家に泊まったりすることも増え、付き合おうかとなった。
植物園に行ったり、水族館に行ったり、色んな所に行った。彼女と一緒なら何処に行っても楽しかった。彼女の作ってくれた料理はどれも凄く美味しかった。
数値に支配された世界は嫌いで仕方ないが、彼女がいる事だけは、この世界で唯一好きなところだった。
「次、三百三十二番の方ー」
受付に、自分が持っている番号表の番号が呼ばれた。とうとう、彼女からの最後の贈り物を受け取る時が来たのだ。
「幸福の譲渡ですね」
担当の人は淡々と進めていく。時より、ボソリと凄い数値だな、と呟いたりしていた。
「では次は貴方の数値を測りますね」
そして俺の今の数値は...。
「マイナス二百九十三」
前よりマイナス値が上がっていた。それもそうだ。最愛の恋人を失ったばかりなんだから。
その時も担当の人はこれまた凄い数値だな、と呟いた。
「うん、君の数値のマイナスはとても大きいが、この譲渡で君の数値は完璧にプラスになる。良かったね」
数値上では確かにプラスになる。これからは幸せになるのだろう。数値では。
そして、幸福の譲渡が行われた。特殊な機械を使って、何やら専門家達が操作しているが、詳しい事は俺には分からない。
機械の中で、眠るような時間が経ったと思ったが、時計の針は殆ど動いていなかった。
「終了しましたよ」
担当の人が機械の中にいる俺に手を伸ばしながらそう言った。
彼女の最後の贈り物が、俺の中に贈られた瞬間だった。
機械を操作していた専門家の中には以前から俺を問題児扱いしていた奴らの姿もあった。
「マイナス二百九十三」
最後の検査できちんと幸福の譲渡がされているかのチェックの時だった。
俺の数値は全く変わっていなかった。
専門家達がざわめき立つ。
「すみません、すぐにシステムの点検しますので」「そんな馬鹿な!」「有り得ない」「システムにエラーなど」「そもそも彼は元よりシステムに反して」
色んな意見が飛び交っていた。それが俺にはとても_____
「当たり前だろ...」
馬鹿馬鹿しかった。
「こっちは最愛の恋人失ってんだぞ!それで幸福なわけ無いだろ!俺には彼女しかいなかったんだぞ!」
「何を言っているんだ!システムは完璧だ!数値に間違いなど_____」
「人の幸せを数値化できるわけないだろ!今の俺の気持ちわかるか!数字じゃなく!言葉で!」
悔しい。歯ぎしりしている。唇を噛みきってしまいそうだ。
こんな奴らに、こんな奴らに彼女からの最後の贈り物を穢されて...。腹立たしい。殺してしまいたい。
「自分の気持ちなのに自分で言葉にできないほど苦しいんだよ!辛いんだよ!悲しいんだよ!絶望しかないんだよ!この今の気持ちが...たかが数字で表せるかよ...」
涙が止まらない。こんなにも...苦しいなんて。
「人の気持ちを、何だと思ってるんだ!!!」
今まで溜め込んだ不満不平不服の全てがこの一言に詰められた。
結果的に俺は追い出されただけだった。幸福譲渡の証明書だけを渡されて。それでも何かをやり切った気分でいっそ清々しかった。
彼女のシステムへの嫌悪の理由を、彼女の両親が教えてくれた。
最初は彼女もシステムを信じていたし、それを基準にしていた。
だが、病気が発覚し、それも不治の病。死が確定したと告げられたも同然のものだった。彼女は絶望しただろう。
システムで測ったらきっとマイナスに違いない。私は不幸のまま死ぬのか。そんな気持ちが日に日に大きくなっていき、システムが怖くなったのだと言う。
そして彼女は決めた。システムなんか信用せずに自分の幸せは自分で見つける。残された時間は自分の幸せのために生きるのだと。
そう、語ってくれた彼女のご両親は辛そうだったが、どこか誇らしげでもあった。
「そんな中、貴方に出会ったとあの娘はそれはもうとても嬉しそうに話してくれました」
ご両親にいつも俺の話をしていたそうだ。良い人に会えた。好きになった。付き合う事になった。とても今が幸せ。そう毎日電話で両親に報告していたそうだ。
「俺は...彼女を幸せに...出来ていたんですね...っ」
「えぇ...ありがとう...あの娘と出会ってくれて...あの娘の傍にいてくれて...」
それから、ずっと彼女の両親と一緒に、彼女との思い出話を肴に、お酒を交わした。
俺の数値はずっとマイナスだ。それもとても大きいマイナスだ。
でも俺は不幸なんかじゃない。だって、心の底から愛した人を、幸せにできたのだから。
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