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第3部 笑顔の裏に隠された真実
5-2マラソン会場まで走って行こうとしていたお馬鹿な子は私です
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水曜の早朝。時間は五時少し前。休日だけどかなり早起きし、目も完全に覚め、かなり気合が入っている。私はトレーニング・ウェア姿で、アパートの庭に立っていた。
まだ、日は登っておらず、あたりは暗闇と静寂に包まれている。空気が少し冷たく感じるが、走ればすぐに、気にならなくなるはずだ。
今日は『ノア・マラソン』の当日。スタートは、九時からなので、まだまだ時間はたっぷりある。それに昨日は、リリーシャさんのはからいで、仕事をお休みにしてくれた。なので、練習も休養もバッチリだった。
もちろん、私は『出勤します』と主張した。でも『本来、火曜はお休みだし、まだ一回も有休をとっていないから』と言われ、丸一日お休みになった。一応、火水の『週休二日制』なんだけど、私が自主的に、火曜は出勤してるんだよね。
仕事を休んで、体力があり余っているせいか、朝四時には目が覚めてしまった。再び眠りにつくことも出来ず、悶々としていた。なので、まだ早いけど、スタート地点の会場まで、ウォーミング・アップついでに、走って行くことにしたのだ。
ちなみに、本日の天気は曇りで、風は少し強め。午後から、ところによっては、雨が降る予報が出ていた。正直、マラソンをするには、あまりいい天気ではない。とはいえ、みんな条件は同じだし、練習通りにやるだけだ。
私はストレッチと準備運動を済ませると、ランニング・バックパックを背負い、その場で、トントンっとステップを踏んだ。
体もあったまったし、いざ出発! と思ったその時、
「ちょっと待ちな。もう行くのかい?」
後ろから声を掛けられる。
振り向くと、そこにはノーラさんが立っていた。
「ノーラさん、おはようございます。って、こんな朝早くから、どうされたんですか?」
「それは、こっちの台詞だよ。『ノア・マラソン』の開始は、九時なんだから、いくらなんでも早過ぎだろ? ちゃんと、朝ご飯は食べたのか?」
「いやー、早く目が覚めて、じっとしていられなったので。ご飯は、友達からもらった『マナ・チャージ』という、栄養ゼリーを飲みました」
先日フィニーちゃんにもらった、栄養食品だ。薬っぽい感じもなく、割とさっぱりして飲みやすかった。
「そんなもんで、カロリーが足りる訳ないだろ。ハンガーノックになるぞ」
「えーと、なんですか? そのハンガーなんとかって……?」
ハンガーって、洋服を引っ掛けるアレのこと? 基本、横文字は苦手だ。
「低血糖のことさ。早い話が、エネルギー切れで、体が全く動かなくなる症状だ。アスリートなら、それぐらい知っておきな」
うぐっ……何か前、どっかで聞いたことあるような気が。
「走る前は、あまり食べないほうがいいのかなぁー、と思ったので。学生時代、競技に出る前は、食べないようにしてたので」
下手に食べると、走ってる時、気持ち悪くなるし。少しでも、体を軽くしたほうが、走りやすそうな気がしたので。
「それは、短距離の話だろ? ロクに食わずに、五十キロもぶっ続けで、走れる訳ないだろうが」
「あははっ、ですよねぇー。あまり、おなかも空いてないので、ゼリーだけでいいかなぁーなんて」
朝は、あまり時間もないし、いつも適当に済ませてる。それに今日は、緊張のせいか、あまり食欲がなかった。
「朝食を抜いたせいで、途中でリタイアとか、笑えないぞ。ほら、これを食え」
ノーラさんは言いながら、紙袋を渡してくる。袋はほんのり温かく、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
「これって、もしかして――」
「焼きたてだ。走る前に食っときな」
「うわー、ありがとうございます!」
ノーラさんの焼きたてパンって、凄く美味しいんだよね。朝から超ラッキー!
「あと、まさかとは思うが、走って行く気じゃないだろうな?」
「はい、そのつもりですけど。時間も、たっぷり有りますし」
ゆっくり走って行っても、かなり早い時間につくはずだ。
「馬鹿かお前は! 走る前に、体力を消耗してどうする? いったい、どれだけの距離を走ると思っているんだ?」
ノーラさんは、怖い顔で私をにらみつけて来る。
「いや……でも『走る前にウォーミング・アップは必要かなぁー』って思って」
「ウォーミング・アップなんて、現地について、走る直前に軽くやればいい話だろ? まったく、これだからお馬鹿な子は」
「んがっ――」
まぁ、お馬鹿なのは認めるけど、そんなハッキリ言わなくても。レース前で、精神的に張り詰めている、こんな時に……。
「やっぱり、エア・ドルフィンで行ったほうがいいですかね? でも、会場に停める場所あったかな?」
「ちょっと、そこで待ってな」
ノーラさんは、ため息をつくと、アパートの裏に向かって行った。
取り残された私は、ポケ―っと立ちつくす。走って行く気満々だったので、予定が狂ってしまった。走りたくてウズウズする気持ちと、ノーラさんに言われた言葉がせめぎ合って、悶々とする。確かに、体力は温存すべきだとは思うけど――。
私は落ち着かずに、庭をうろうろ歩いていると、上空からエンジン音が聞こえ、エア・カートがゆっくり降りて来た。
私のすぐ真横に着陸すると、
「ほら、助手席にさっさと乗りな」
カートの中から、ノーラさんが声を掛けてくる。
青い流線型の機体で、ツーシーターの『スポーツカー』タイプだ。
「ノーラさんって、エア・カートにも乗られるんですね」
何かノーラさんが、エア・カートに乗ってる姿って、凄く新鮮だった。
「お前、馬鹿にしてるのか? これでも、元シルフィードだぞ」
「いえ、そういう訳じゃなくて。いつも、ほうきを持って掃除している、大家さんのイメージしかなかったので……」
「エア・カートぐらい、普通の一般人だって、乗ってるだろうが」
「あははっ、ですよねぇー」
とはいえ、普通の一般人は、こんな機体には乗らないと思う。ぴかぴかに磨き上げられた美しいボティー。大きなリアウイング。運転席についている、様々なメーター類。かなり大きな座席シート。
そもそも、エンジン音が全く違う。この機体、滅茶苦茶、お金が掛かってるんじゃないだろうか――?
私はそっと扉を開け、恐る恐る助手席に座る。
「ゆっくり飛んで行くから、その間に朝食を済ませちまいな」
「はい、ありがとうございます」
エア・カートは、スーッと上昇して行く。エア・ドルフィンなんかよりも、はるかに速い上に、全く揺れもなかった。上空に到達すると、静かに前進を始める。ノーラさんは、かなり手慣れた感じで、洗練された操縦をしていた。
考えてみたら『元シルフィード・クイーン』なんだから、操縦が上手くて当然だよね。色んな機体も、操縦できるんだろうし。ただ、私の中で、おっかない大家さんのイメージが強すぎて、元シルフィードであることを、つい忘れてしまう。
「ノーラさん、私がマラソンに参加する日を、覚えていてくれたんですね」
「そんな訳ないだろ。『ノア・マラソン』は、世界的にも有名なイベントだ。この町に住む人間なら、開催日を知っていて当然だ」
「ですよねぇー……」
でも、その答えが本当ではないのを、私は知っていた。だって、偶然にも早起きして、偶然にもパンを焼いて、偶然にも早朝、私に出会ったなんて、あり得ないもん。
ふわふわで、まだ暖かいパンからは、ノーラさんの優しさが伝わって来た。いつも、ぶっきらぼうで怖いけど、とても優しい人だ。
中に入っていた、マヨコーンパンも、ソーセージパンも、フィッシュサンドも、どれも凄く美味しそう。間違いなく、お店で売れるレベルだ。
それに、今日のパンは、いつもよりボリュームがある。しっかり、栄養も計算して、作ってくれたのかもしれない。
私が黙々と食べていると、
「ちゃんと、水分もとっておけよ」
ノーラさんは、前を向いて運転しながら呟く。
「はい、大丈夫です」
私はリュックから、スクイーズボトルを取り出し、ぐびぐびとスポーツドリンクを飲む。学生時代は毎日飲んでいた、懐かしい味だ。
やがて、全てを食べ終わると、私はホッと一息ついた。一口たべたら止まらなかったので、意外とお腹が空いていたのかもしれない。単に緊張してて、気付かなかったのかも。
でも、ノーラさんと話してたら、すっかり緊張もほぐれてしまった。というか、ノーラさんと一緒にいる緊張感のほうが、上回ったという話もある。相変わらず、威圧感が半端ないので――。
食事の時間をとるために、わざわざ遠回りしてくれたようで、海岸沿いをゆっくりと飛んでいた。空はどんより曇って、波も少し高めのようだ。少し進むと、今度は海岸から離れ、住宅地のほうに飛んでいった。
「そろそろ、着くぞ」
前方には、大きな駐車場が見えてくる。
ノーラさんがマギコンを操作すると、空中モニターが表れた。駐車場の見取り図が表示され、停車位置が赤く点滅している。侵入経路の矢印・高度・風速なども表示されていた。
「へぇー、停車する場所を案内してくれるんですか。これ、凄く便利ですね」
「シルフィードのくせして、駐車場ナビも入れてないのか?」
「いやー、こんなのが有るなんて、今初めて知りました」
いつも使ってるアプリって、ELぐらいだもんね。
「だから、お馬鹿な子なんだよ。気合だけで、シルフィードが勤まると思ってるんじゃないだろうな?」
「うぐっ……」
ノーラさん言葉は、いちいち図星すぎて、心に突き刺さる。でも、まったくもってその通りで、最近まで、気合で何とかなると思ってました――。
そんなやり取りをしている間にも、スーッと静かに、指定位置に降りて行く。枠線の中央に、寸分たがわず着地した。
流石は『最速のシルフィード』と言われてた人だ。隣で見ているだけで、いかに操縦技術が卓越しているかが、手に取るように分かった。速く飛べるってことは、通常の飛行だって、当然、上手いもんね。
「ノア・マラソンが、MVで生中継されるのは、流石に知っているんだろ?」
着地してエンジンを切ると、ノーラさんは真面目な顔で質問してきた。
「はい、友達がそんな話をしてました。MVを見ながら、応援してくれるって」
「言っておくが、ローカルじゃなくて『全世界中継』だぞ。そこのところ、分かってるのか?」
「ノア・マラソンが、世界的に有名だってことですよね? それなら、何となく」
「まったく、何も分かってないじゃないか」
ノーラさんは、額に手を当て、ため息をついた。
「えっ? 何か、間違ってましたか……?」
私には何のことだか、さっぱり分からない。
「全世界に放送されるってのは、もし情けない走りをしたら、それも世界中に伝わるってことだろうが」
「あぁー、そういう意味ですか。でも、三万人以上の選手が走ってる訳ですし。まず、映らないですよ。映るのは、先頭集団だけだと思うし、気にする必要ないと思いますけど――」
私みたいな、初参加で無名の選手が、注目されるはずがない。それに、後方のグループなんて、映らないもんね。
「一般人なら、それでいい。だが、シルフィードは特別な職業だ。この町だけじゃなくて、世界中でな。お前も、シルフィードの端くれなんだから、それぐらい分かるだろ?」
「それは、まぁ……」
確かに、シルフィードは、物凄く注目される職業だ。芸能人やアイドルみたいな存在だもんね。それに加え、神聖視されている部分もある。でも、あくまで、人気シルフィードの話だ。
「例え、お前が見習いだろうと、無名だろうと。シルフィードの看板を背負っている以上、誰もが一挙一動に、注目してるんだ。それを忘れるな」
「うっ――そんな、プレッシャーを与えないで下さいよ。初参加で、完走できるかも分からないのに」
「シルフィードってのは、見られる仕事なんだよ。だから常に、完璧じゃなきゃならない。その覚悟がないなら、出場するのは止めときな。今ならまだ間に合う」
静かだが、とても重い言葉だった。『シルフィード・クイーン』として、常に注目されて来たからこそ、身をもって知っているんだと思う。シルフィードは、皆の夢や希望として、完璧に振る舞わなければならないことを。
「覚悟はあります。そもそも、私が今シルフィードをやってること自体が、覚悟の証ですから。そこいらの、軽い気持ちでやっている子たちとは違いますよ。人生懸けてますから」
そう、家を出た時に、もう覚悟は決まっていた。いばらの道を進むことも、人世を懸けて臨むことも。
「なら、その覚悟を、世界中の奴らに見せてやれ。『シルフィードだから、完走できなくてもしょうがない』なんて、お飾りみたいに、見られたくはないだろ?」
「もちろんです! 私、体育会系のシルフィードですから」
「フッ、何だそりゃ? まぁ、いい。全力で行ってきな」
「はい、全身全霊で走ってきます!」
私は、エア・カートを降りると、深々と頭を下げた。
厳しい物言いだが、あれはノーラさんなりの、激励だったんだと思う。何だか、力一杯に背中を叩かれた気分だ。もうすっかり、緊張もプレッシャーもなくなっていた。
色々とありがとうございます、ノーラさん。シルフィードの底力を、世界中の人たちに、見せてやりますよ……。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次回――
『ジェットコースターと同じで走り出す前が一番緊張するんだよね』
ギリギリの緊張感がたまらないんだ
まだ、日は登っておらず、あたりは暗闇と静寂に包まれている。空気が少し冷たく感じるが、走ればすぐに、気にならなくなるはずだ。
今日は『ノア・マラソン』の当日。スタートは、九時からなので、まだまだ時間はたっぷりある。それに昨日は、リリーシャさんのはからいで、仕事をお休みにしてくれた。なので、練習も休養もバッチリだった。
もちろん、私は『出勤します』と主張した。でも『本来、火曜はお休みだし、まだ一回も有休をとっていないから』と言われ、丸一日お休みになった。一応、火水の『週休二日制』なんだけど、私が自主的に、火曜は出勤してるんだよね。
仕事を休んで、体力があり余っているせいか、朝四時には目が覚めてしまった。再び眠りにつくことも出来ず、悶々としていた。なので、まだ早いけど、スタート地点の会場まで、ウォーミング・アップついでに、走って行くことにしたのだ。
ちなみに、本日の天気は曇りで、風は少し強め。午後から、ところによっては、雨が降る予報が出ていた。正直、マラソンをするには、あまりいい天気ではない。とはいえ、みんな条件は同じだし、練習通りにやるだけだ。
私はストレッチと準備運動を済ませると、ランニング・バックパックを背負い、その場で、トントンっとステップを踏んだ。
体もあったまったし、いざ出発! と思ったその時、
「ちょっと待ちな。もう行くのかい?」
後ろから声を掛けられる。
振り向くと、そこにはノーラさんが立っていた。
「ノーラさん、おはようございます。って、こんな朝早くから、どうされたんですか?」
「それは、こっちの台詞だよ。『ノア・マラソン』の開始は、九時なんだから、いくらなんでも早過ぎだろ? ちゃんと、朝ご飯は食べたのか?」
「いやー、早く目が覚めて、じっとしていられなったので。ご飯は、友達からもらった『マナ・チャージ』という、栄養ゼリーを飲みました」
先日フィニーちゃんにもらった、栄養食品だ。薬っぽい感じもなく、割とさっぱりして飲みやすかった。
「そんなもんで、カロリーが足りる訳ないだろ。ハンガーノックになるぞ」
「えーと、なんですか? そのハンガーなんとかって……?」
ハンガーって、洋服を引っ掛けるアレのこと? 基本、横文字は苦手だ。
「低血糖のことさ。早い話が、エネルギー切れで、体が全く動かなくなる症状だ。アスリートなら、それぐらい知っておきな」
うぐっ……何か前、どっかで聞いたことあるような気が。
「走る前は、あまり食べないほうがいいのかなぁー、と思ったので。学生時代、競技に出る前は、食べないようにしてたので」
下手に食べると、走ってる時、気持ち悪くなるし。少しでも、体を軽くしたほうが、走りやすそうな気がしたので。
「それは、短距離の話だろ? ロクに食わずに、五十キロもぶっ続けで、走れる訳ないだろうが」
「あははっ、ですよねぇー。あまり、おなかも空いてないので、ゼリーだけでいいかなぁーなんて」
朝は、あまり時間もないし、いつも適当に済ませてる。それに今日は、緊張のせいか、あまり食欲がなかった。
「朝食を抜いたせいで、途中でリタイアとか、笑えないぞ。ほら、これを食え」
ノーラさんは言いながら、紙袋を渡してくる。袋はほんのり温かく、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
「これって、もしかして――」
「焼きたてだ。走る前に食っときな」
「うわー、ありがとうございます!」
ノーラさんの焼きたてパンって、凄く美味しいんだよね。朝から超ラッキー!
「あと、まさかとは思うが、走って行く気じゃないだろうな?」
「はい、そのつもりですけど。時間も、たっぷり有りますし」
ゆっくり走って行っても、かなり早い時間につくはずだ。
「馬鹿かお前は! 走る前に、体力を消耗してどうする? いったい、どれだけの距離を走ると思っているんだ?」
ノーラさんは、怖い顔で私をにらみつけて来る。
「いや……でも『走る前にウォーミング・アップは必要かなぁー』って思って」
「ウォーミング・アップなんて、現地について、走る直前に軽くやればいい話だろ? まったく、これだからお馬鹿な子は」
「んがっ――」
まぁ、お馬鹿なのは認めるけど、そんなハッキリ言わなくても。レース前で、精神的に張り詰めている、こんな時に……。
「やっぱり、エア・ドルフィンで行ったほうがいいですかね? でも、会場に停める場所あったかな?」
「ちょっと、そこで待ってな」
ノーラさんは、ため息をつくと、アパートの裏に向かって行った。
取り残された私は、ポケ―っと立ちつくす。走って行く気満々だったので、予定が狂ってしまった。走りたくてウズウズする気持ちと、ノーラさんに言われた言葉がせめぎ合って、悶々とする。確かに、体力は温存すべきだとは思うけど――。
私は落ち着かずに、庭をうろうろ歩いていると、上空からエンジン音が聞こえ、エア・カートがゆっくり降りて来た。
私のすぐ真横に着陸すると、
「ほら、助手席にさっさと乗りな」
カートの中から、ノーラさんが声を掛けてくる。
青い流線型の機体で、ツーシーターの『スポーツカー』タイプだ。
「ノーラさんって、エア・カートにも乗られるんですね」
何かノーラさんが、エア・カートに乗ってる姿って、凄く新鮮だった。
「お前、馬鹿にしてるのか? これでも、元シルフィードだぞ」
「いえ、そういう訳じゃなくて。いつも、ほうきを持って掃除している、大家さんのイメージしかなかったので……」
「エア・カートぐらい、普通の一般人だって、乗ってるだろうが」
「あははっ、ですよねぇー」
とはいえ、普通の一般人は、こんな機体には乗らないと思う。ぴかぴかに磨き上げられた美しいボティー。大きなリアウイング。運転席についている、様々なメーター類。かなり大きな座席シート。
そもそも、エンジン音が全く違う。この機体、滅茶苦茶、お金が掛かってるんじゃないだろうか――?
私はそっと扉を開け、恐る恐る助手席に座る。
「ゆっくり飛んで行くから、その間に朝食を済ませちまいな」
「はい、ありがとうございます」
エア・カートは、スーッと上昇して行く。エア・ドルフィンなんかよりも、はるかに速い上に、全く揺れもなかった。上空に到達すると、静かに前進を始める。ノーラさんは、かなり手慣れた感じで、洗練された操縦をしていた。
考えてみたら『元シルフィード・クイーン』なんだから、操縦が上手くて当然だよね。色んな機体も、操縦できるんだろうし。ただ、私の中で、おっかない大家さんのイメージが強すぎて、元シルフィードであることを、つい忘れてしまう。
「ノーラさん、私がマラソンに参加する日を、覚えていてくれたんですね」
「そんな訳ないだろ。『ノア・マラソン』は、世界的にも有名なイベントだ。この町に住む人間なら、開催日を知っていて当然だ」
「ですよねぇー……」
でも、その答えが本当ではないのを、私は知っていた。だって、偶然にも早起きして、偶然にもパンを焼いて、偶然にも早朝、私に出会ったなんて、あり得ないもん。
ふわふわで、まだ暖かいパンからは、ノーラさんの優しさが伝わって来た。いつも、ぶっきらぼうで怖いけど、とても優しい人だ。
中に入っていた、マヨコーンパンも、ソーセージパンも、フィッシュサンドも、どれも凄く美味しそう。間違いなく、お店で売れるレベルだ。
それに、今日のパンは、いつもよりボリュームがある。しっかり、栄養も計算して、作ってくれたのかもしれない。
私が黙々と食べていると、
「ちゃんと、水分もとっておけよ」
ノーラさんは、前を向いて運転しながら呟く。
「はい、大丈夫です」
私はリュックから、スクイーズボトルを取り出し、ぐびぐびとスポーツドリンクを飲む。学生時代は毎日飲んでいた、懐かしい味だ。
やがて、全てを食べ終わると、私はホッと一息ついた。一口たべたら止まらなかったので、意外とお腹が空いていたのかもしれない。単に緊張してて、気付かなかったのかも。
でも、ノーラさんと話してたら、すっかり緊張もほぐれてしまった。というか、ノーラさんと一緒にいる緊張感のほうが、上回ったという話もある。相変わらず、威圧感が半端ないので――。
食事の時間をとるために、わざわざ遠回りしてくれたようで、海岸沿いをゆっくりと飛んでいた。空はどんより曇って、波も少し高めのようだ。少し進むと、今度は海岸から離れ、住宅地のほうに飛んでいった。
「そろそろ、着くぞ」
前方には、大きな駐車場が見えてくる。
ノーラさんがマギコンを操作すると、空中モニターが表れた。駐車場の見取り図が表示され、停車位置が赤く点滅している。侵入経路の矢印・高度・風速なども表示されていた。
「へぇー、停車する場所を案内してくれるんですか。これ、凄く便利ですね」
「シルフィードのくせして、駐車場ナビも入れてないのか?」
「いやー、こんなのが有るなんて、今初めて知りました」
いつも使ってるアプリって、ELぐらいだもんね。
「だから、お馬鹿な子なんだよ。気合だけで、シルフィードが勤まると思ってるんじゃないだろうな?」
「うぐっ……」
ノーラさん言葉は、いちいち図星すぎて、心に突き刺さる。でも、まったくもってその通りで、最近まで、気合で何とかなると思ってました――。
そんなやり取りをしている間にも、スーッと静かに、指定位置に降りて行く。枠線の中央に、寸分たがわず着地した。
流石は『最速のシルフィード』と言われてた人だ。隣で見ているだけで、いかに操縦技術が卓越しているかが、手に取るように分かった。速く飛べるってことは、通常の飛行だって、当然、上手いもんね。
「ノア・マラソンが、MVで生中継されるのは、流石に知っているんだろ?」
着地してエンジンを切ると、ノーラさんは真面目な顔で質問してきた。
「はい、友達がそんな話をしてました。MVを見ながら、応援してくれるって」
「言っておくが、ローカルじゃなくて『全世界中継』だぞ。そこのところ、分かってるのか?」
「ノア・マラソンが、世界的に有名だってことですよね? それなら、何となく」
「まったく、何も分かってないじゃないか」
ノーラさんは、額に手を当て、ため息をついた。
「えっ? 何か、間違ってましたか……?」
私には何のことだか、さっぱり分からない。
「全世界に放送されるってのは、もし情けない走りをしたら、それも世界中に伝わるってことだろうが」
「あぁー、そういう意味ですか。でも、三万人以上の選手が走ってる訳ですし。まず、映らないですよ。映るのは、先頭集団だけだと思うし、気にする必要ないと思いますけど――」
私みたいな、初参加で無名の選手が、注目されるはずがない。それに、後方のグループなんて、映らないもんね。
「一般人なら、それでいい。だが、シルフィードは特別な職業だ。この町だけじゃなくて、世界中でな。お前も、シルフィードの端くれなんだから、それぐらい分かるだろ?」
「それは、まぁ……」
確かに、シルフィードは、物凄く注目される職業だ。芸能人やアイドルみたいな存在だもんね。それに加え、神聖視されている部分もある。でも、あくまで、人気シルフィードの話だ。
「例え、お前が見習いだろうと、無名だろうと。シルフィードの看板を背負っている以上、誰もが一挙一動に、注目してるんだ。それを忘れるな」
「うっ――そんな、プレッシャーを与えないで下さいよ。初参加で、完走できるかも分からないのに」
「シルフィードってのは、見られる仕事なんだよ。だから常に、完璧じゃなきゃならない。その覚悟がないなら、出場するのは止めときな。今ならまだ間に合う」
静かだが、とても重い言葉だった。『シルフィード・クイーン』として、常に注目されて来たからこそ、身をもって知っているんだと思う。シルフィードは、皆の夢や希望として、完璧に振る舞わなければならないことを。
「覚悟はあります。そもそも、私が今シルフィードをやってること自体が、覚悟の証ですから。そこいらの、軽い気持ちでやっている子たちとは違いますよ。人生懸けてますから」
そう、家を出た時に、もう覚悟は決まっていた。いばらの道を進むことも、人世を懸けて臨むことも。
「なら、その覚悟を、世界中の奴らに見せてやれ。『シルフィードだから、完走できなくてもしょうがない』なんて、お飾りみたいに、見られたくはないだろ?」
「もちろんです! 私、体育会系のシルフィードですから」
「フッ、何だそりゃ? まぁ、いい。全力で行ってきな」
「はい、全身全霊で走ってきます!」
私は、エア・カートを降りると、深々と頭を下げた。
厳しい物言いだが、あれはノーラさんなりの、激励だったんだと思う。何だか、力一杯に背中を叩かれた気分だ。もうすっかり、緊張もプレッシャーもなくなっていた。
色々とありがとうございます、ノーラさん。シルフィードの底力を、世界中の人たちに、見せてやりますよ……。
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次回――
『ジェットコースターと同じで走り出す前が一番緊張するんだよね』
ギリギリの緊張感がたまらないんだ
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