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4 その熊はあなたが思っているほど巨大ではない
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僕はいま、白い部屋の中にいる。
比喩ではない。本当に白いのだ。壁も床も。
窓の外には腐敗したダンボールが無造作に放置されていて、そこには、いつであっても数羽の鳩がとまっている。
クルッポー。
ベランダに出るとサッカーの公式戦ができそうなほどの駐車場が下に広がり、その奥に背の高いポールが桜並木のように行儀よく立っている。
夜になると真っ暗になる。
闇のなかにポールだけが煌々と光り、遠くまでそれがずっと続く。
僕はなんの因果か知らないが"ドバイ"にいる。
順番をたどることはできる。
日本にいた、ニュージーランドにいた、そしてドバイにいるのだ。
ゆっくり話そう。整理なのだ。
父から電話をもらった。
「ドバイで働くことに興味はある?」
「あるかないかで答えるなら、ある」
「お父さんが懇意にしている人のレストランがマネージャーがいなくて困っている。レストラン業の経験があって、英語が話せる人が必要なんだよ」
「・・・」
「英語の先生になる前にやってみたらどうかな?いい経験になると思うよ。やってみてから日本で再就職でも遅くはないんじゃあないかな」
「役に立てるのかな?英語もこの一年間集中して勉強しただけだし、レストランは・・・」
「ドバイでは英語は母国語ではないし、君が思っているよりは、大変ではないんじゃあないかな。やってみたら?」
僕は電話を耳にあてたまま、部屋の戸を引く。
ソファーには、知恵と優午が仲良くくっついてジブリ・アニメを観ている。
「少し考えさせてくれる?」僕はそういって電話をおいた。
そこは僕がニュージーランドで最後に住んだフラットだ。
その前は語学学校で出会ったブラジル人の友人(キリストが眼鏡をかけたような男で見た目と違わず慈愛に溢れたいいやつだった)とルームシェアをしていたのだが、フラット内に住んでいた、売春婦紛いの女と大柄なゲイのコロンビア人と折り合いが悪く、その友人が国に帰ると同時にそこを出た。
新しいそのフラットで暮らしはじめたときの面子はみんなクラスメイトだった。
いま思っても、なぜその面子だったのかはよく分からない。僕らは最初の頃、クラスの中で特に仲が良かったわけでもないのだ。それにもかかわらず僕らは一緒に住むことを決め、そして、とても穏やかに、よく笑いながら暮らしていた。
19歳にして、某有名IT企業の契約社員として働くブラジル人のグレゴール。
24歳のコロンビア人で、ジャーナリストを目指しているアンナ。
そして20歳の大学生、知恵だ。
4人で学校へ行き、食卓を囲み、冗談を言い合い、同じベッドで寝た。(リビング以外に部屋がふたつしかなかったので、男女に分かれてベッドシェアをしていた)
あれほど窮屈な時間と空間を共有しながら嫌悪感を抱かない友人とこの先どれだけ出会えるだろうか?
0でなくても1もないに違いない。
しかし、その時間はそれほど永くは続かなかった。
何があったわけでもない。元々期間が限られていたのだ。
グレゴールとアンナのふたりが去ったあとに来たのが優午だ。
優午は計算や打算なしに(というより、おそらくできないのだろう)自然に人から愛される男だった。そしてその注がれた愛情をそのまま、自然に還元する。
それは簡単にいえば、プラスのスパイラルだ。
彼もまた20歳の大学生だった。大学生で僕らのクラスメイトで、おまけに知恵に恋をしていた。誰がどの角度からどう見ても判るほどに。
彼はそのクラスメイト全員が判りきった真実を、フィッシュ・アンド・チップスの店で、僕に誰にも言わないでくれ、と前置きをして告白した。
おそらく僕が知恵と距離が近く、そして歳が離れていたからだろう。
僕はもちろん誰にも言わないと約束した。
別に僕が特に誠実な人間ということでもない。ただ、ばらしたところで驚いてくれる相手が誰も思い浮かばなかったのだ。
僕は他の友人がそうだったように、彼のことが好きだったし、かわいい弟から相談を受けたようで嬉しかった。
知恵とのこともなんとかしてやれるなら、してやりたいと思った。
だから、グレゴールとアンナが去った後、彼を新しい住人としてフラットに誘うことは、むしろ自然な流れだった。
彼と住むことも同じように、とても自然だった。
4人が3人になっただけだった。
いや、正確にいえば違う。それはそこに恋心というものと、それが向かうベクトルが存在していたし、想いは多かれ少なかれ日々、成長するからだ。
しかし、僕らの生活は優午がはっきりと知恵にそれを伝えるまでは、表面上は何も変わらなかったと思う。
知恵は聡明な女の子だったが、本人の恋愛においては致命的に鈍かった。
クラスの中で唯一、優午の恋に気づいていない生徒、それが知恵だった。
彼女もまた不思議な魅力を備えた女の子だった。
顔も胸の大きさも年齢よりも幼い、少女のような印象を与える。少女のように眠るし、笑うし、はしゃぐ。しかし時より驚かされるような男性的な芯の強さを感じさせる言動をする。
彼女は少し、のりこに似ていたかもしれない。
それが理由だろうか?
知恵と過ごした日々は楽しかったし、暖かかったし、ある種の愛はあったと思うが、彼女に恋はしなかった。
あるとき彼女にこんなことを訊かれた。
「あなたは森にいます。それはどんな森ですか?またその森には道がありますが、どんな道でしょう?頭のなかに思い浮かぶ通りに教えてください。」
食卓には僕と優午がいて、たしかその日の夕食は鶏の胸肉の料理だったと思う。
彼女は帰ってくるなり、とつぜん、そんな風に質問をした。
なんでも友人に教わった心理テストなんだそうだ。
僕の頭に浮かんだのは、とても、しっかりと整備された森だった。
道は広く、まっすぐと遠くまで続いている。それは並木道になっていて、道の両側に杉のような木が隙間なく、びっしりと繁っている。
そんな森だ。
「そしてその森には熊がいます。それはどんな熊でしょうか?また森のどこにいますか?」
熊はその広い道の真ん中にいる。
とても巨大で獰猛な熊だ。だから僕は恐ろしくて、その道を先へ進むことができない。
きっと僕はやつに喰われてしまうだろう。
「森はあなたの人生。道はあなたが進むべき人生の進路を表しています。そして熊はあなたがその道に進むときに、問題だと思っていることの大きさなどを表しています。」
彼らの森は、とても森らしい森だった。
無数の小径が走り、それらは道と呼ぶのにはあまりにも細い。
彼らの熊は彼らの前にいない。彼らに熊は見えていないし、熊の方も彼らを見つけていないのだ。
僕は彼らの若さを羨ましく想い、己の人生に絶望しそうになる。
僕は進むべき方向ははっきりと見えているのに、巨大な問題に阻まれて、それを怖れて、先に進めないのだ。
彼らのようにたくさんの小径が僕には視えない。
二人の姿やテーブルの上の鶏肉消えて、目の前が暗くなる。
「ただし、その熊はあなたの問題の大きさをそのまま表しているわけではありません。」
知恵がじっと僕の顔をみている。
僕もはっとして、彼女の顔をみる。
「その熊はあなたが思っているほど巨大ではない」
そう言って、彼女は少女のように頬笑んだ。
父の提案を受けてみようと思ったのはそのときだったかもしれない。
しっかりと覚えているわけではない。
そんな気がするだけだ。
比喩ではない。本当に白いのだ。壁も床も。
窓の外には腐敗したダンボールが無造作に放置されていて、そこには、いつであっても数羽の鳩がとまっている。
クルッポー。
ベランダに出るとサッカーの公式戦ができそうなほどの駐車場が下に広がり、その奥に背の高いポールが桜並木のように行儀よく立っている。
夜になると真っ暗になる。
闇のなかにポールだけが煌々と光り、遠くまでそれがずっと続く。
僕はなんの因果か知らないが"ドバイ"にいる。
順番をたどることはできる。
日本にいた、ニュージーランドにいた、そしてドバイにいるのだ。
ゆっくり話そう。整理なのだ。
父から電話をもらった。
「ドバイで働くことに興味はある?」
「あるかないかで答えるなら、ある」
「お父さんが懇意にしている人のレストランがマネージャーがいなくて困っている。レストラン業の経験があって、英語が話せる人が必要なんだよ」
「・・・」
「英語の先生になる前にやってみたらどうかな?いい経験になると思うよ。やってみてから日本で再就職でも遅くはないんじゃあないかな」
「役に立てるのかな?英語もこの一年間集中して勉強しただけだし、レストランは・・・」
「ドバイでは英語は母国語ではないし、君が思っているよりは、大変ではないんじゃあないかな。やってみたら?」
僕は電話を耳にあてたまま、部屋の戸を引く。
ソファーには、知恵と優午が仲良くくっついてジブリ・アニメを観ている。
「少し考えさせてくれる?」僕はそういって電話をおいた。
そこは僕がニュージーランドで最後に住んだフラットだ。
その前は語学学校で出会ったブラジル人の友人(キリストが眼鏡をかけたような男で見た目と違わず慈愛に溢れたいいやつだった)とルームシェアをしていたのだが、フラット内に住んでいた、売春婦紛いの女と大柄なゲイのコロンビア人と折り合いが悪く、その友人が国に帰ると同時にそこを出た。
新しいそのフラットで暮らしはじめたときの面子はみんなクラスメイトだった。
いま思っても、なぜその面子だったのかはよく分からない。僕らは最初の頃、クラスの中で特に仲が良かったわけでもないのだ。それにもかかわらず僕らは一緒に住むことを決め、そして、とても穏やかに、よく笑いながら暮らしていた。
19歳にして、某有名IT企業の契約社員として働くブラジル人のグレゴール。
24歳のコロンビア人で、ジャーナリストを目指しているアンナ。
そして20歳の大学生、知恵だ。
4人で学校へ行き、食卓を囲み、冗談を言い合い、同じベッドで寝た。(リビング以外に部屋がふたつしかなかったので、男女に分かれてベッドシェアをしていた)
あれほど窮屈な時間と空間を共有しながら嫌悪感を抱かない友人とこの先どれだけ出会えるだろうか?
0でなくても1もないに違いない。
しかし、その時間はそれほど永くは続かなかった。
何があったわけでもない。元々期間が限られていたのだ。
グレゴールとアンナのふたりが去ったあとに来たのが優午だ。
優午は計算や打算なしに(というより、おそらくできないのだろう)自然に人から愛される男だった。そしてその注がれた愛情をそのまま、自然に還元する。
それは簡単にいえば、プラスのスパイラルだ。
彼もまた20歳の大学生だった。大学生で僕らのクラスメイトで、おまけに知恵に恋をしていた。誰がどの角度からどう見ても判るほどに。
彼はそのクラスメイト全員が判りきった真実を、フィッシュ・アンド・チップスの店で、僕に誰にも言わないでくれ、と前置きをして告白した。
おそらく僕が知恵と距離が近く、そして歳が離れていたからだろう。
僕はもちろん誰にも言わないと約束した。
別に僕が特に誠実な人間ということでもない。ただ、ばらしたところで驚いてくれる相手が誰も思い浮かばなかったのだ。
僕は他の友人がそうだったように、彼のことが好きだったし、かわいい弟から相談を受けたようで嬉しかった。
知恵とのこともなんとかしてやれるなら、してやりたいと思った。
だから、グレゴールとアンナが去った後、彼を新しい住人としてフラットに誘うことは、むしろ自然な流れだった。
彼と住むことも同じように、とても自然だった。
4人が3人になっただけだった。
いや、正確にいえば違う。それはそこに恋心というものと、それが向かうベクトルが存在していたし、想いは多かれ少なかれ日々、成長するからだ。
しかし、僕らの生活は優午がはっきりと知恵にそれを伝えるまでは、表面上は何も変わらなかったと思う。
知恵は聡明な女の子だったが、本人の恋愛においては致命的に鈍かった。
クラスの中で唯一、優午の恋に気づいていない生徒、それが知恵だった。
彼女もまた不思議な魅力を備えた女の子だった。
顔も胸の大きさも年齢よりも幼い、少女のような印象を与える。少女のように眠るし、笑うし、はしゃぐ。しかし時より驚かされるような男性的な芯の強さを感じさせる言動をする。
彼女は少し、のりこに似ていたかもしれない。
それが理由だろうか?
知恵と過ごした日々は楽しかったし、暖かかったし、ある種の愛はあったと思うが、彼女に恋はしなかった。
あるとき彼女にこんなことを訊かれた。
「あなたは森にいます。それはどんな森ですか?またその森には道がありますが、どんな道でしょう?頭のなかに思い浮かぶ通りに教えてください。」
食卓には僕と優午がいて、たしかその日の夕食は鶏の胸肉の料理だったと思う。
彼女は帰ってくるなり、とつぜん、そんな風に質問をした。
なんでも友人に教わった心理テストなんだそうだ。
僕の頭に浮かんだのは、とても、しっかりと整備された森だった。
道は広く、まっすぐと遠くまで続いている。それは並木道になっていて、道の両側に杉のような木が隙間なく、びっしりと繁っている。
そんな森だ。
「そしてその森には熊がいます。それはどんな熊でしょうか?また森のどこにいますか?」
熊はその広い道の真ん中にいる。
とても巨大で獰猛な熊だ。だから僕は恐ろしくて、その道を先へ進むことができない。
きっと僕はやつに喰われてしまうだろう。
「森はあなたの人生。道はあなたが進むべき人生の進路を表しています。そして熊はあなたがその道に進むときに、問題だと思っていることの大きさなどを表しています。」
彼らの森は、とても森らしい森だった。
無数の小径が走り、それらは道と呼ぶのにはあまりにも細い。
彼らの熊は彼らの前にいない。彼らに熊は見えていないし、熊の方も彼らを見つけていないのだ。
僕は彼らの若さを羨ましく想い、己の人生に絶望しそうになる。
僕は進むべき方向ははっきりと見えているのに、巨大な問題に阻まれて、それを怖れて、先に進めないのだ。
彼らのようにたくさんの小径が僕には視えない。
二人の姿やテーブルの上の鶏肉消えて、目の前が暗くなる。
「ただし、その熊はあなたの問題の大きさをそのまま表しているわけではありません。」
知恵がじっと僕の顔をみている。
僕もはっとして、彼女の顔をみる。
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