岐れ路

nejimakiusagi

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13 ただひたすらに鶏肉の脂肪があつい部分にナイフを入れていた

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彼女と出会ったのは、僕が生計を立てるために働いていた"ニンジン"という名前のジャパニーズ・レストランだ。

名前から察せられる通り、高級なレストランではなく、日本でいう定食屋のような店だ。
海外で手っ取り早く自ら生計を立てようとするとき、レストランというのはとても便利な場所だ。
語学力はそこそこでも経験があれば雇ってもらえる可能性が高いし、何より食事にありつける。
僕はそこでひたすら鶏肉を、チキン・カツレツ用に捌く仕事をしていた。
正確にいえば、その店でウエイターもやったし、野菜の切り出しやスタッフ用の食事も作ったりしたが、ここでそれについて語ることは相応しくないような気がする。

僕はただひたすらに鶏肉の脂肪があつい部分にナイフを入れていた。そして、そこに彼女が新人として雇われ、現れた。本質を説明するのにはそれで充分足りるのだ。

優実はとにかくよく笑う女の子だった。

微笑むとか、はにかむとかそういう種類の笑いではない。

腹を抱え、声をあげて、たまに涙まで流しながら笑う。そういう種類の笑いって少なくとも人を不幸にすることはないと思う。

ニンジンは彼女が来てから、季節が梅雨から夏に移り変わるように変化した。

彼女は僕の下らない冗談でとくによく笑ってくれた。
君は大阪に来てもやっていけるとも言ってくれた (彼女は大阪の出身で関西弁を話す)

僕は彼女の前では飾らず阿呆になることができていたような気がする。

一度、仕事帰りに二人でビールを飲みにいってからは、僕らの仲はより親密になった。

彼女も僕といるのは好きだったようだった。

彼女には3つ年上の恋人がいた。

しかし、そのことはとくに僕を苦しめたりしなかった。
彼女はおそらく・・・いや、間違いなく男を惹きつけるタイプの美しさと愛される無邪気さを兼ね備えていた。そして、いつも明るく太陽みたいな女の子だった。

僕は彼女のことが好きではあったけれど、彼女にゴールみたいなものは求めていなかった。

少しだけでもいい。

二人だけの秘密のような時間を笑いあい、楽しみ、繰り返せれば、手応えみたいなものは必要なかった・・・それは、ひたすら鶏肉の脂肪にナイフを入れる感覚に似ているのかもしれなかった。

しかし、僕自身がよく知っている一つの真実として、そういうのって結局のところはキッカケが存在していない状態の世界の戯言なのだ。

そして、キッカケはあるとき急に訪れる。

ときにそれは本人の意思すら無視してやってくるのだ。春の嵐のように、夏の夕立のように。

そのとき、彼女の恋人は日本に一時的に帰国をしていた。綺麗事を並べても人はチャンスがあれば、残酷にも姑息にもなれるのだ。そのことを僕らは・・・いや、僕はよく自覚しなければならない。そう思うのだ。
















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