岐れ路

nejimakiusagi

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20 “歯車“という小説を知っているかい

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彼はそれ以来、僕の前に現れることはなかった。そう、今このときまでは。

僕は曾右衛門邸の縁側で彼と話したあと、とても奇妙な感覚に襲われた。

精神が崩壊したのかと思うようなこのうえなく怪しい体験をし、彼は慰めの言葉をかけてきたわけでもなく、一方的に好き勝手に喋りかけてきただけだったというのに、そのあと僕の心は急速に平静と安定を取り戻していったのだ。

理由はよくわからないが、「彼」の何かしらが作用し、僕の心に影響を与えたことには間違いなかった。

そして、それから僕は混乱する度に「彼」を求めるようになった。

自らの脳内に獣の着ぐるみを纏った彼の姿を造りだし、自分自身と仮想の対話をさせるようになった。

僕の出す"答え"はいつしか二人の対話から導き出される結論になっていた。

しかし、僕ははっきりと理解はしていたはずなのだ。

所詮、僕は「僕」なのだ、それは一種の独り遊びなのだと・・・。

それが一体どうしてこんなことになったのか。

「一体、どうしてこんなことになったんだ?」

僕は声に出し、質問をしていた。

「何が目的なんだ?」

「僕にだって分からない。目的も特にない。芥川龍之介の“歯車“という小説を知っているかい。ドッペルゲンガーについて書かれている。それによれば僕のような存在が現れると、君は不幸になったりするらしいけどね」

彼はニコリともせずに言った。

「ルナさんや皆に何をしたんだ?」

僕は堪らず一番気になっていることを聞いた。

「何もしちゃいないさ。酔っ払った桃花が、ロウソクの火を消すときに手についたストロベリー・クリームをふざけて竜太郎のほっぺにつけたんだ。それを見てたらなんか面白くなってきちゃって、後ろから思いっきり彼女の顔面にクリームを塗りたくってやった。そしたら、それを合図にケーキの投げ合いが始まったんだ」

僕は目の前が暗くなってきた。

「それで、ほっぺにクリームがついたルナさんがなんか困惑している顔をしてたから、可愛くなってクリームを舐めとってやった。それだけだよ」

「・・・芥川龍之介は最期に随分とまともな小説を書いたんだね。君のおかげでもうだいぶ不幸だよ」

僕は投げやりになってぼやいた。

「なんでさ?」

彼が心底不思議そうな顔でいう。

「みんな、ケーキのドッジボールがやれて楽しそうだったぜ。ルナさんだってきっと照れてただけで怒っちゃいなかったさ」

僕はさっき会ったみんなの態度を思い出してみる。そしてまた混乱する。

「・・・とにかく、勝手なことをしないでくれ。どうすれば君は消える?」

「僕が知るわけがないし、知ってても教えるわけがない。強いて云うならすべては君次第ということさ」

「僕次第?」

「そうさ。さて、君に従う気はまったくないけど、同じ顔の人物が二人いるのが露見したら、大騒ぎになって僕も自由に動けなくなってしまう。また、そのうちに」

彼はそう言い残すと、バスルームへと消えていった。


独りになった僕はベッドへ倒れこんだ。

甘ったるく噎せかえるような、ストロベリー・クリームの香りが僕のシーツに染み込んで、それが幻覚でなかったことを思い返させる。

もう、夜明けだ・・・僕はゆっくりと目を閉じた。

















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