水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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マルカントーネ

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 そこに木がある。枝はしなやかで、風によく靡く。しかし、幹はどっしりと構えている。地中に縦横無尽の根を張っているのか、折れたり、倒れたりすることはない。その木は山の中腹にあり、他にいくつもの木々があるのにも関わらず、目立っていた。葉が枝の先にしかなく、枯れ木のように見えるせいかもしれなかった。
 高校の卒業式を抜け出してきた十八歳の彼女は、この木を約束の場所にしようと言った。同じく抜け出してきた十八歳の僕は、約束の内容を確かめもせずに、従順な犬のように、それに同意した。
 約束は慰めのようなものであり、一種のリスクヘッジだった。
「もし夢が破れたら、十二年後の四月の最初の日曜日、午後一時から二時の間に、ここにくること。そして、夢が破れた方のいいところを百個言うこと。お互いの夢が破れていたら……、お互いのいいところを百個言ったあと、夢をまた見つけること」
 彼女はそう言って、指切りを迫ってきた。僕は彼女のしなやかな小指に、小指を絡めた。彼女は懐かしいうたを歌い、僕はそれを聞いた。
 そして、僕らは、希望だけを持って東へ向かった。
 僕の夢は、三十歳までに作家として生活できるようになることで、彼女の夢は、三十歳までに女優として活躍することだった。
 そして、僕らはあの木に行くことはなかった。
 僕は二十五歳のときに賞を獲り、デビューした。それから、何作か小説を書き、ベストセラーとはいかずとも、アルバイトをせずに文章を綴ることで生活できるようになった。本が読まれることは嬉しかった。でも、本当に本にサインを書くんだなと、そこは現実離れしていた。
 彼女の方は上京後、小さな劇団に所属した。しかし、それは僅かな期間で、その美貌か演技が業界の誰かの目にとまり、大きな舞台の端役として出演し、またそれが誰かの目にとまり、別の舞台の主演を勝ち取り、映画に出て、ドラマに出て、CMに出て、バラエティ番組に出て、芸能界で暮らしている。
 彼女は高校生の頃より、だいぶ綺麗になった。当初から、かわいいとか綺麗だとか言われていたが、僕にとっては甚だ疑問で、せいぜい石が光ってるくらいだった。彼女以上の人は、いくらでもいる。田舎顔だし、おさげ姿の方が似合うんじゃないか、と今でも思う。
「例えるなら、美しいメークインだよ」
 僕がそう言うと、彼女はふふふと笑った。
「ポテトは好きだから、いいわよ」
 その日の彼女の機嫌は電話でもわかるくらいだった。赤ワインを飲んでいるらしく、程よく酔っていた。
 彼女は憑依系の俳優で、今度は、いいとこ出のお嬢様を演じるらしかった。
 僕は彼女の美しさよりも、その演技力に惚れていた。彼女はどんな役もこなした。美しい人も、醜い人も、いい人も、悪い人も、無味無臭の人まで、まるで彼女がいなくなったかのように演じた。自分を殺し、別の人間を入れていた。そうやって彼女は休みなく働き、みんなを楽しませていた。
 でも僕は、悲しくなるくらい昔を懐かしく思うことがある。
「今年が約束の年だけど」
 僕は言った。
「約束? なんの約束かしら」
「それが演技かどうか、わからないよ」
「嘘よ。覚えているわ」
「お互い、約束を守らずに済んだね」
「そうね。私、運がよかったわ」
 僕は頷いた。それは彼女の運に対してではなく、自分の運に対してだった。時代が違えば僕の作品は受け入れられないだろうなと思うし、賞に選ばれていなければ作家にはなれていないと思う。努力せずに、運だけで切り拓いたわけじゃない。でも、運がなければ僕はあの木の前にいただろう。彼女もきっと、同じだ。
「あの木、どうなってるかな」
「わからないわ。でも、まだ立っているわよ」
「確かめようがないね」
「夢を叶えてしまったから、仕方がないわよ」
 僕は氷入りの水を飲んだ。テーブルランプだけが光るビジネスホテルの一室で、僕は酔いを覚そうとしていた。だが、まだできていない。
「あの木と、あの約束のことを小説に書いていいかな」
「いいわよ。でも、どんな話?」
「二人の田舎者の夢が破れて、あの木の前でお互いのいいところを百個言って、新しい夢を見つける話」
「いいわね。どんな夢がいいかしら」
「僕は実家の土地を引き継いで、農家をやるよ。きみは、また女優を目指す」
「嫌よ。私はスーパーで働きながら、ピアノ教室を開いて、子どもたちに音楽の素晴らしさを教えるわ」
「ピアノなんて弾けないのに?」
「おっと失礼。役に入り過ぎてたわ」そう言って彼女はまた笑った。「じゃあ、私も農業を手伝うわ」
「おいしいメークインでも作るか」
「いいわね。そして、空き時間にあなたは小説を書いて、いつか大作家になるのよ」
「嫌だよ。僕は煮ても焼いてもうまいメークインを作る。本屋にも置かれるような」
 彼女はふふふと笑い、僕も笑った。
「ねぇ、その前のお互いのいいところは何て言うの?」
「そうだな」と僕は考え、まだ残っている酔いに任せて正直に言うことにした。「素晴らしい演技力。豪放磊落な性格。素朴な顔。可愛らしいえくぼ。しなやかな小指。真っ直ぐな目。電話をかけてきてくれるところ。忙しくて会えないのに、会おうって言ってくれるところ。消しゴムを使い切るところ。大きな音を出して鼻をかむところ。スニーカーを選ぶセンスがいい。化粧がうまくなった」
「それは、メイクさんにやってもらってるからよ」
「とにかく、いろいろある」
「私もいろいろあるわよ。心に残る物語を書く。文章が私好み。いつも私の心配をしてくれる。田舎生まれのくせに都会育ちのような顔。短い小指。トマトが好きなこと。いけすかない私に声をかけてくれたところ。努力家。どんなときでも電話に出てくれるところ。嘘や虚勢を受け止めてくれるところ。約束を覚えていてくれたところ。エトセトラ、かしら」
「ありがとう。続きは小説で、だね」
「そうね。舞台化したら、私を主役に抜擢してね」
「もちろんお願いする。女子高生役もできるだろうし。これは冗談でも、お世辞でもないよ」
「ありがとう」
 そう言うと、彼女はしばらく黙った。何かを考えているのだと、僕にはわかった。僕は彼女が先生のくだらない質問に対して悩み、授業終了間際に答えたことを思い出していた。どんな質問だったのか、どんな答えだったのかは、少しも覚えていない。
「ねえ」と彼女の声が耳元で聞こえた。「まだ聞こえてる?」
「聞こえてる」
「また約束しない?」
 久しぶりに聞いた、彼女自身の声だった。
「約束?」
「夢から覚めたら、あの木の前で、お互いのいいところを千個言うの。そして、また新しい夢を探すの」
「夢から覚めたら」と僕は繰り返した。
「そう。あのときは卒業式から抜け出したけど」
「けど?」
「今度はお葬式から抜け出すの。みんながシクシク泣いたり、笑ったりしているのを尻目に、空を飛んであの木に向かうの。そして、老体に鞭打って山を登ってきたあなたは、私のいいところを千個言うの」
「なるほどね。じゃあ、僕が先に死んだら、その逆になるわけだね?」
「そう。そして、お互いがおばけになったら、また新しい夢を見つけるの」
「いいね。どんな夢がいいだろう」
「どうせなら、今度は二人で叶える夢がいいと思わない?」
「そうだね。どんなことが出来るかな」
「わからない。でも、きっと、どんなことも出来るよ」
 僕は頷いた。彼女には見えなくても、わかったと思う。
 僕は二人で何ができるか考えた。それは、夢が叶っていなかったらできたことでもある気がした。例えば一緒にメークインを作ったり。
「夢から覚めたら」と僕は言った。
「そう。夢から覚めたら」と彼女も言った。
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