水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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森の酒蔵

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 焼いた鯛を食べながら、祖母は白ワインをちょいと飲んだ。液体が僅かに減っているはずだが、それはまだ満足そうにグラスの中にあった。
 祖母の後ろの食器棚には、使いきれないくらいの茶碗や皿、湯呑みやコップが置かれている。昔、理科室で見た標本瓶のようにじっとして、使われる日を待っていた。
「おばあちゃん、そろそろ一緒に暮らさない?」
 私は頬杖をつきながら言った。おばあちゃんは、ほうれん草のおひたしを摘んで食べた。テーブルの上には丁寧に、箸置きが置かれている。私の家にはないものだ。
「私はここがよかと」
「でも、いざとなったとき、どうするの?」
「そんときは、そんとき」
 祖母はまた鯛を啄み、ワインを飲み、ほうれん草を食べた。どれも減っているはずなのに、少なくなったようには見えない。
「そいよりも、おまいもワインば飲まんね」
 祖母はそう言って椅子から立ち上がり、食器棚を開けた。グラスをひとつ取り出し、私の前に置いた。
「車で来てるんだけど」
「泊まっていかんね」
「白ワインは苦手」
「じゃあ、赤がある」
 祖母は昭和メトロを感じさせる米櫃の隣に、ワインセラーを置いていた。上と下に部屋が分かれているもので、温度も変えられた。
 祖母は、よっこらせと屈み、赤ワインを一本取った。
「森の酒蔵」
「なにが?」
「この赤ワインの名前たい」
「日本酒みたい」
「ペンフレンドが作っとるとよ」
 祖母がグラスにワインを注いだ。ルビー色の液体が、テーブルの色も変えていった。
「こんなに飲めないよ」
「飲める」
 おばあちゃんは笑って、一人で乾杯をした。カラン、という音が鳴った。
「ペンフレンドって、どこで知り合ったの?」
 私はグラスを自分の方に引き寄せた。
「どこって、雑誌よ。なんかの」
「なんかの。雑誌。そんなのあるんだ」
「あるさい」
「そのペンフレンドって、どんな人?」
「外国ん人で、なんかワインば作ろる人」
「外国? 手紙って英語?」
「いや、日本語」
「なんで、おばあちゃんと手紙交換してんの?」
「さあ、なんでやろうね」
「さあ、って……」
 私はおばあちゃんのおとぼけに呆れつつ、ワインを飲んだ。
 落ち葉の海に、誰かに落とされた。
 刹那にそう思った。
「森だ」私は思わず口に出していた。「おばあちゃん、これ、森の味がする」
「そげんね」
「いや、なんか、すごい風味。これ、バッーって、口の中に葉っぱとか、針葉樹とか紅葉樹とか、花とか木の実とかキノコが入ってくる。ワインを飲んで、なんか意味不明な味の説明する人いるけど、なんかわかった」
「不味かとね?」
「いや、おいしい」
 私はもう一口飲んだ。やはり、森だった。
「ワインを森の酒蔵で何年か寝かせるらしかよ」
「すごいな。これ」
「持って帰ってよかよ」
「いや、うち、ワインセラーないし」
「そうね」
「じゃあ、おばあちゃんごとワインセラーもらおうかな」
 私は思い出したように同居をすすめた。
「また、その話。私はここがよかと」
「どうしても?」
「どうしてもたい」
「なんで?」
「そのワインは、森の酒蔵で過ごすから、そのワインになると。おいもここにいるから、おいのままでいられると」
 そう言うと、おばあちゃんはまた、鯛とほうれん草に箸をつけ、白ワインを飲んだ。
 私もまた森を飲んだ。なんだか、もう少し落ち着けと、なだめられている気がした。
「じゃあ、もし、私がここで暮らしたらどうなるだろう」
「今のままじゃあ、なかろうね」
 私は、きっとそうだな、と自分ではない自分に思いを馳せた。性格はもう少し穏やかになり、良くも悪くも時間にもう少しだけルーズになり、自分のミスを許すことができ、お客さんの横暴をはいはいとスルーできて、鯛を焼き、ほうれん草を茹で、ワインを飲む。そして、箸置きを使う。
「悪くはないかな」
「そうか」
 私はもう少しとグラスを待ち、森の中へ入っていった。
 そこで私は、迷い込んだ白馬を見た。道から外れ、困ったように回っている彼を私はよしよしと撫で、人参を与えた。一晩家でもてなすと、翌朝、飼い主である男が現れた。ブルーの目、金色の髪、長い脚。
 彼はワインを作っていて、森の酒蔵で寝かせているという。
 私は頭を振った。
「これはダメだ。麻薬みたいなワインだ」
 だが、グラスを見ても量が減っているようには見えない。
 私は、おばあちゃんを見た。
 おばあちゃんも、グラスを持ち上げ、ワインをちびりと飲んだ。そして、満足そうに息をつき、微笑んだ。
「おばあちゃんが飲んでいる、その白ワイン、なんて名前なの?」
「さあ、なんて名前だったかねえ」
 真珠を溶かしたような色が、テーブルの上に置かれた。
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