水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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木々の中のバラ色の小屋

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 小屋に全裸の女が住んでいると噂になったのは、僕が中学二年生だった秋頃で、兄が小屋に住み始めたのと同時期だった。
 噂によると、女は全裸で小屋から出てきて、伸びをすると小屋に入っていったという。それ以上の話はない。胸がとか、お尻がとか、そういうのは謎で、ただただ全裸と女という言葉の組み合わせだけで、妄想するには事足りた。
 兄はというと、高校を卒業後、進学せずに地元の工務店に就職していた。大工となり、主にブティックや歯科医院の内装工事に従事しているという話だった。朝は早く、休みも少ない。金ばかり貯まると、お盆と正月に帰ってきた兄はぼやいていた。
 そんな兄は変わり者で、中学生の頃は凧揚げと数学に熱中していて、高校生になると歴史とチャーハンにはまっていた。なぜ、それとそれなんだという組み合わせが多かった。スパゲッティにタイカレーをかけて食べていたこともあるし、餅をレモン塩で食べていたこともある。理由は不明だった。というより、質問が面倒で聞かなかった。話も長くなる。
 全裸女の噂を耳にしたとき、そんな兄が脳裏に浮かんだ。第六感的に。
 そして、その小屋の場所を聞いて、確信に近づき、冷や汗が出た。
 その場所は、兄が叔父に借りている小屋の場所だった。兄はそこに住んでいた。
「行ってみようぜ」
 昼休みに暇をしていた同級生からの、至極当たり前な提案だった。
 危険回避の道筋を考えているうちに、仲間内で話はとんとん拍子に進んでいて、僕の「危ない人が出てきたらどうするんだ」という注意喚起も焼け石に水だった。
「次の土曜日に突撃する」
 男たちの判決のような決意の後、僕はすぐさま兄に電話をかけた。
「全裸女の噂を知ってる?」僕は開口一番にそう言って、「兄ちゃんだろ」と続けた。
 しばらくの沈黙があると思っていた。しかし、答えは呆気なく、さらに短く、受話器から飛んできた。
「違う。俺じゃない」
 違う。俺じゃない。心内で反芻すると、安堵が押し寄せてきた。
「でも、その女が何かは知ってる」
 引き波に足を攫われた。
「土曜日、友だちが、兄ちゃんの小屋に突撃するって言ってる」
「いいね。でも、複数人は困る。一人で来いって、言っておけ。一人じゃなきゃ、女は出ないとでも噂を流してな。あと一日一人だ。そして、当たり前だが仕事の日はいないぞ。じゃあ、俺は今から夜勤だから」
 新たな謎と噂を残して、電話は切れた。
 受話器を置いて、頭を抱え、天井を仰ぎ見た。なんの解決もしていない。じゃあ、もう、従うしかないじゃないか。
 僕は兄から聞いたと称して、別の噂を流した。
 複数人はやばい。一人ならいける。一日一人だけ。いない日もある。
 そう根も葉もない噂を友だちに伝えた。彼らは顔を見合わせつつ、「じゃあ、一人ずつ行くか」と納得していた。大人からの噂は、彼らにとって情報のようだった。
 土曜日に一人、日曜日に一人が行った。両日共に兄は日勤で、小屋にはいなかった。僕は胸を撫で下ろし、彼らは、噂は噂かと落ち込んでいた。
 それから何週かチャレンジしたようだが、誰にも会えなかったという。小屋のドアをノックしたり、カーテンの引かれた窓から中を覗き見ようとしたり、お前らの方が不審だという行為を武勇伝のように並べていった。そして、誰もが女に会えないことに次第に飽きてきたのか、あそこは幽霊が出るらしい、という噂が流れ始めた。
 僕は今度こそ安堵して、兄に電話をかけた。
「みんな全裸女の噂に飽きてきたよ」
「そりゃよかった。ちょうどいいや、今度の土曜日、こっちに来てくれ」
「なんでだよ。嫌だよ」
「小遣いをやる」
「仕方がない」
 僕は渋々といった感じでいいながら、欲しかったゲームソフトのことを考えていた。
 土曜日の昼に、僕は小屋へと向かった。小屋は鎮守の森のような、木々に囲まれているところにあった。昼間は木漏れ日が心地よい。でも、住宅街の先にある場所のせいか、外灯はなく、確かに夜なら幽霊が出てもおかしくなかった。
 僕が小屋のドアをノックすると、ロンT、短パン姿の兄が出てきた。
「おう。入れよ」
 兄がドアを開けっぱなしにして、中に入る。でも、中に入るのを躊躇した。
 小屋の中は、バラ色に照らされていた。壁から家具まで、バラ色の光に染まっていた。
「この色なに?」
「いいから入れよ」
 小屋に入り、ドアを閉めると、優しかった日差しが遮断され、中は一層バラ色になった。
「なに、この色?」
「最近、バラにはまってんのよ」
「バラ?」
「そう。バラ。そして、これがバラを使った香水」
 バラ色の、おそらく透明のスプレー容器を、兄は持っていた。それを僕に渡すのと同時に、お小遣いだ、と五千円をくれた。
 僕は右手に香水、左手に五千円札を持つという、変な組み合わせで立たされた。それが壁際にあったスタンドミラーでわかった。
「これ香水?」と僕は言いながら五千円札をズボンのポケットに入れた。
「そう。香水。俺が作った。なおかつ、販売していた。そして、完売した」
「待ってよ。話に追いつけないよ。これは自作?」
「そう」
「販売してたって?」
「そう。ここで」
「犯罪じゃないの?」
「別にいいじゃないか。まあ、これは服とか部屋に使うやつだから、たぶん大丈夫だ」
「誰に販売したの?」
「男子中高生」
「男子中高生?」と僕の声が小屋に響いた。「どうやって、そんな奴らをここに」
 そう言った途端に、兄の集客方法がわかった。
「全裸女の噂を流したのは、兄ちゃんか」
 にやりとした、いやらしい顔で、兄は僕を見た。そう思ったが、現実は違った。
「いや、違う」
 ホームランはファールとなった。
「噂を流したのは俺じゃない。俺は噂を利用しただけだ」
「どういうこと?」
「俺は副業で香水を作ってる。バラのエキスを使って。正直、めちゃくちゃいい出来で、男女問わず使えるし、モテ薬としても使える代物だよ。本当だぞ? 使ったやつには恋人ができている。これを恋人にプレゼントしたら、恋人に新しい男ができてしまったという話もある。それくらいの代物だ。ただ、問題は生産量が限られているのと、俺みたいな怪しい大人が作っているのと、めぼしい販売場所がないってことだ。俺は大工として働いているし、職場はおっさんが多いから売ろうにも売れないし。じゃあ、どうするか。若い奴らに売って、この香水の虜にして、奴らが大人になっていくのに合わせて少しずつ値段を釣り上げていこうって魂胆だよ。依存させるといえば聞こえは悪いが、まあ、ウィンウィンだろ。でも、大人数で買いにこられても困る。生産数は少ないし、希少価値が下がる。だから、買ってくれた奴には口止めをするか、違う噂を流させた。そのバランスが一番難しかったよ」
 兄はそう言うと、僕の手から香水を奪った。
「これは今年最後の香水。お前にやろうかとも考えたが、麻薬にも似てるからやめた」
「噂を利用した話は?」
「全裸女の噂な。あれは事実で、全裸女がこの小屋には出る」
「兄ちゃんが女装したのを見られたとか?」
「違うわ」
「じゃあ、恋人とか?」
「いねぇわ」
 僕は香水を奪い返した。
「じゃあ、なんだよ。不審者か」
「幽霊だよ。バラ色の幽霊だ」
 俺はふと気配を感じ、天井を見た。バラ色に透けた全裸の女が電灯にぶら下がってこっちを見ていた。
「襲いはしない。バラの化身みたいなもんだ」
 兄はそう言った。でも、その兄がどんな顔をしているかはわからなかった。僕は女と目線を合わせたまま動けなかった。目線を外して、おっぱいやお尻を見る勇気はなかった。
 ただただ、バラ色の女が、目線を外してくれることを祈るばかりだった。
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