水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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赤いあずまや

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 六月の雨の日に、盛況になる場所がある。そこは紫陽花が美しく咲いている公園で、僕はそこを散歩道にしていた。
 晴れの日は昼過ぎに家を出て、雨の日は昼前に家を出た。悠々自適にも思えるが、働いていない僕に、残されている時間はあまりない。貯金が尽きれば、死ぬか社会に出るかを選ばなければならなかった。行動しなければじきに死ぬだろうし、行動すればすぐに死ぬかもしれない。もしくはなんとか生きながらえるかもしれない。死にたい気持ちを抱えながら。
 ところどころ錆びた傘をさしながら、僕はそんなことを考え、歩いた。嫌な気分と、そんなことどうでもいいという無責任さが同居しているのを感じていた。
 公園の入り口にあるアーチをくぐると、カメラを持った人がちらほらいるのを見つけた。皆が高そうなカメラとレンズを、濡らさぬように抱えていた。彼らは坂道を上り、丘の向こう側に咲いている紫陽花を撮りに行くのだ。
 僕はというと、坂道の前にある赤いあずまやに向かう。
 あずまやの中に入り、傘を閉じて、木製のベンチに座る。そうすると人息つく間に、必ず、公園の入り口の方から女性が歩いてくる。梅雨になってから知り合った、雨の日にだけ散歩をする彼女が、きっと、今日もやってくる。僕はそう思いながら、入口の方を見ていた。
 一分も経たずに、紫陽花に反発するような赤いワンピースを着た彼女が歩いてきた。赤い傘をさし、そこから長い髪がだらんと見えている。
 すらりとした背の高い彼女の顔と、傘の裏側が少しずつのぞき見えてくる。
「こんにちは」
 彼女は傘をさしたまま言った。左目尻の泣きぼくろが心を動かす、美しい顔だった。石像か、誰かのポートレートのようだった。
 彼女はあずまやに入り、傘を閉じて、僕の隣に座った。
「雨ですね」と僕は言った。たぶん、一昨日も言った。
「ええ」
 彼女はそう返してきた。一昨日とは違う、どこか悩んだ顔を見せた。
「何かあったんですか?」
「私、気付いたんです」
「気付いた?」
「はい」
「何に?」
「驚かないでくれます?」
「できるだけ」
「私、死んでるんです」
 僕はその言葉の向こう側にあるだろう意味を捉えようとした。しかし、わからず、黙り込んでしまった。
「驚きますよね」
 僕は頷きつつ、首を振った。
「死んでるって、どういうことですか。それがよくわからなくって」
「そのままの意味です」
「生きてますよね」
「いいえ。私、きっと幽霊なんです」
 あずまやの周りには誰もいない。彼女が僕以外の誰かに見えているか、わからない。
「私、公園に入る前と、出た後の記憶がないんです。いつの間にか傘をさして公園のアーチの前にいるんです。絶対に雨の日で、太陽を見た記憶がありません。自分の名前は覚えています。本を読むのが好きで、いろんな場所を旅行したことも覚えています。でも、それ以外はちっとも」
「……例えば、記憶障害とか。例えばですが」
「そんな人間が、散歩に出ようとするなんて考えられません」
「雨がトリガーになって外に出てしまうとか」
 彼女は首を振った。さらさらと髪が揺れた。
「二重人格とか」
「考えられないです」
「でも、幽霊の方が考えられない」
 彼女は僕の方を見た。白い肌は、確かに幽霊のようにも見えた。
「手を握ってもいいですか?」
 彼女は悩んだのか数秒黙り、それからこくりと頷いた。
 僕は膝の上にのっていた彼女の手を触ろうとした。しかし、なんの感触もなく、赤いワンピースとその先にあるだろう太ももにも触れなかった。
「ほら」
 やっぱり、と彼女は悲しげに微笑んだ。僅かに期待していた生を諦めたかのような顔だった。
「幽霊なんです。私」
 僕は宙に浮いた自分の手を、元に戻した。
「でも、あなたはあなたです」
 恐怖と不可思議さと、彼女への感情を保持したまま、何も考えずに僕は言った。
「いいんです。慰めは不要です。そんなことより、私がなぜここにいるのかを考えたいんです。なぜ、あなたと出会い、話しているのか」
「……僕も、もうすぐ、そっちに行くからかもしれません」
「どうして?」
「生きる気力がないんです。何もかもが、薄っぺらくて、置いていかれている気がしています」
「そんなに、生きているのに」
「いえ、半ば死んでいます」
「自分の胸に手を当ててみれば、わかります。生きています」
 彼女は僕の手を取り、僕の胸に当てるように動いた。もちろん全てが空を切ったが、僕は彼女のいう通りにした。
 手のひらで、心臓が鳴っていた。
「生きてますね?」
 僕は頷いた。
「生きてます」
「じゃあ、生きてください」
「こんなにも生きたくないのに?」
「……私には夢があります」
「夢?」
「満開の彼岸花を見ることです。秋晴れの心地良い日に、真っ赤な彼ら、彼女たちを見たいんです。それだけは、なぜか心にあるんです」
 僕は真っ赤な彼女の服と、傘を見た。
 彼女も僕の目線を追うように、そうした。
「なるほど」と彼女は納得いったような声を出した。「私がここにいるのは夢を託すためだったのかもしれません」
「夢?」
「そう。私の代わりに、ぜひ、彼岸花を見てください」
 ザッ、と雨が強く振ってきた。夕立のような、梅雨には似合わない強烈な雨だった。
 ベンチに立て掛けていた彼女の赤い傘が、すべり落ちた。あっ、と思い、僕はそれを拾った。
 拾った?
 僕が顔を上げると、彼女の姿はなかった。代わりに、僕の手に赤い傘が残っていた。

 それから僕は彼女を見ていない。雨の日も、晴れの日も、彼女はあの公園の、あの赤いあずまやに姿を現さなかった。
 僕に残ったのは傘と、彼女の夢と、もう少し前向きに生きてみようかという気持ちだけだった。
 あれから僕はいくつかのアルバイトをやってみて、ローカルなフリーペーパーを発行する会社のライターだけに専念するようになり、お金を貯めて、秋に咲き誇る彼岸花を見に行った。
 もちろん、そこに彼女はいなかった。ただ、あの公園と同じような赤いあずまやがあった。
 僕はそこのベンチに座り、持ってきた赤い傘をさした。傘から覗く、彼岸花はとても美しかった。
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