水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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谷間の工場

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 遭難してだいぶ時間が経った。俺は不安と死を明らかに感じていた。だが、まだ助かる見込みがあると、心のどこかで楽観視しようとしている自分もいた。
 山で迷ったら下らずに上れと誰かが言っていた気がして、俺はずんずんと上へと向かっていた。しかし、なぜか山頂にはたどり着けていない。どうしても登れない場所が現れ、迂回すると、まだ上へと行ける山が現れるのだ。おそらく、予想よりも遠いところに来てしまっている。携帯電話のバッテリーはすでに切れているから、確かめようもないが、おそらくそうだ。
 俺は野宿できそうなスペースがないか探しつつ、歩いた。夏の終わりなのか、少し肌寒さを感じる。それにしても、喉が渇いた。山頂よりも川を探すべきだったかもしれない。
 それでも一晩は我慢しようと、そのまま歩き続けた。そして、運がいいことにこれ以上、上がないところまでくることができた。
 太陽はもう少しで、落ちそうだった。その光を浴びながら、目を凝らすと、眼下に建物が見えた。この山と向こうの山の間、その狭い谷間にいくつかある。
 俺はその位置を間違いないように確認し、山を下りた。もしかしたら、朝まで待った方がいいのかもしれない。しかし、喉の渇きが我慢ならなかった。
 木の根に足をとられ倒れたり、小さな崖から落ちたりしながら、俺はなんとか下った。谷間とはいえ、ほとんど平らな地面は、俺を安心させた。
 そして、少し進むと山から見た建物がそこにあった。簡素な建物で、しばらく使われてなさそうな汚れた壁があった。屋根からは煙突が伸びている。その空に伸びる煙突を見上げていると、声が聞こえてきた。
「今日はもうおしまいかな」
「そうするしかねえ」
 老いた男女の声だった。
 助かったと思った。そして、この機会を逃すわけにはいかなかった。
 建物を周り、入り口を探した。茶褐色に錆びた金属のドアを見つけ、ドアノブを握り、押した。かたくて動かなかった。しかし、体重をかけるとズズズと地面の土を引きずりながらも、ドアが少しずつ開いた。
 助かる。そう思いながらドアを完全に開けると、中はがらんとしていた。人はおらず、コンクリート床からは雑草が生え、窓ガラスは割れて、そこからは木の枝と蔓が入り込んでいた。天井の鉄骨も剥き出しで錆びていて、空中には無数の埃や塵が舞っていた。
 あの声は幻聴か?
 俺は不安を胸に建物の中へ入った。
「すみません」と小さな声で言った。どこかに吸い込まれたかのように、響かない。
「すみません」と今度は少し大きな声で言った。しかし、何も返ってこない。
「すみません!」
 今度は大きな声で言った。
「なんだ残業か」
 耳元で囁かれ、振り向いたが、そこには誰もいなかった。
「材料が届いたね」
 また耳元で囁かれ、そっちを向いたが誰もいない。
 いつの間にか不安は消え、心内が恐怖に満たされていた。
 脱兎の如く、俺は建物を飛び出した。ドアから数メートル離れると、「逃げてもだめだぞお」という声が聞こえてきた。
 俺は来た道を戻り、山へ逃げた。それでも、彼らは追いかけてきた。崖の陰に隠れても、木の幹に隠れても、俺の場所がわかっているようだった。
「出てこい」
「もう無理だよ」
「水あるぞ」
「水飲めるよ」
「こっちが道だぞ」
「助かるよ」
 銃口を向けられているかのように、男女のしゃがれた声が俺の方へ届いた。その度に逃げ、彼らは追いかけてきた。
 俺は狂いそうになりながらも、耐えた。一晩中、森を彷徨った。
 太陽がまた昇る頃、俺は山を出ることができた。そこには舗装されたコンクリートの道があり、偶然にも通りかかった軽トラックに俺は拾われた。起きたことは話さなかった。まだ彼らが近くにいる気がした。
 あの場所が何だったのか、俺にはわからない。ただ、以前、知人に聞いたことがあるのを思い出した。
「谷間の工場に、老夫婦がいて、喰われかけた」
 そのときは笑い飛ばしたが、あれは事実だった。そして、知人はこうも言っていた。
「この話を知ってしまったら、いずれ行くことになる。いつの間にか山にいて、遭難している。否応なく、いつか、必ず」
 俺は呆れてため息を吐いた。そして、聞いた。
「お前はもう行かなくていいのか?」
 知人は、ほっとしたように息を吐いた。
「この話をしたから、たぶん大丈夫。とにかく、老夫婦は材料を探している」
 
 そして、俺は今、あなたに宛てて、これを書いている。
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