水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

文字の大きさ
17 / 25

谷間の工場

しおりを挟む
 遭難してだいぶ時間が経った。俺は不安と死を明らかに感じていた。だが、まだ助かる見込みがあると、心のどこかで楽観視しようとしている自分もいた。
 山で迷ったら下らずに上れと誰かが言っていた気がして、俺はずんずんと上へと向かっていた。しかし、なぜか山頂にはたどり着けていない。どうしても登れない場所が現れ、迂回すると、まだ上へと行ける山が現れるのだ。おそらく、予想よりも遠いところに来てしまっている。携帯電話のバッテリーはすでに切れているから、確かめようもないが、おそらくそうだ。
 俺は野宿できそうなスペースがないか探しつつ、歩いた。夏の終わりなのか、少し肌寒さを感じる。それにしても、喉が渇いた。山頂よりも川を探すべきだったかもしれない。
 それでも一晩は我慢しようと、そのまま歩き続けた。そして、運がいいことにこれ以上、上がないところまでくることができた。
 太陽はもう少しで、落ちそうだった。その光を浴びながら、目を凝らすと、眼下に建物が見えた。この山と向こうの山の間、その狭い谷間にいくつかある。
 俺はその位置を間違いないように確認し、山を下りた。もしかしたら、朝まで待った方がいいのかもしれない。しかし、喉の渇きが我慢ならなかった。
 木の根に足をとられ倒れたり、小さな崖から落ちたりしながら、俺はなんとか下った。谷間とはいえ、ほとんど平らな地面は、俺を安心させた。
 そして、少し進むと山から見た建物がそこにあった。簡素な建物で、しばらく使われてなさそうな汚れた壁があった。屋根からは煙突が伸びている。その空に伸びる煙突を見上げていると、声が聞こえてきた。
「今日はもうおしまいかな」
「そうするしかねえ」
 老いた男女の声だった。
 助かったと思った。そして、この機会を逃すわけにはいかなかった。
 建物を周り、入り口を探した。茶褐色に錆びた金属のドアを見つけ、ドアノブを握り、押した。かたくて動かなかった。しかし、体重をかけるとズズズと地面の土を引きずりながらも、ドアが少しずつ開いた。
 助かる。そう思いながらドアを完全に開けると、中はがらんとしていた。人はおらず、コンクリート床からは雑草が生え、窓ガラスは割れて、そこからは木の枝と蔓が入り込んでいた。天井の鉄骨も剥き出しで錆びていて、空中には無数の埃や塵が舞っていた。
 あの声は幻聴か?
 俺は不安を胸に建物の中へ入った。
「すみません」と小さな声で言った。どこかに吸い込まれたかのように、響かない。
「すみません」と今度は少し大きな声で言った。しかし、何も返ってこない。
「すみません!」
 今度は大きな声で言った。
「なんだ残業か」
 耳元で囁かれ、振り向いたが、そこには誰もいなかった。
「材料が届いたね」
 また耳元で囁かれ、そっちを向いたが誰もいない。
 いつの間にか不安は消え、心内が恐怖に満たされていた。
 脱兎の如く、俺は建物を飛び出した。ドアから数メートル離れると、「逃げてもだめだぞお」という声が聞こえてきた。
 俺は来た道を戻り、山へ逃げた。それでも、彼らは追いかけてきた。崖の陰に隠れても、木の幹に隠れても、俺の場所がわかっているようだった。
「出てこい」
「もう無理だよ」
「水あるぞ」
「水飲めるよ」
「こっちが道だぞ」
「助かるよ」
 銃口を向けられているかのように、男女のしゃがれた声が俺の方へ届いた。その度に逃げ、彼らは追いかけてきた。
 俺は狂いそうになりながらも、耐えた。一晩中、森を彷徨った。
 太陽がまた昇る頃、俺は山を出ることができた。そこには舗装されたコンクリートの道があり、偶然にも通りかかった軽トラックに俺は拾われた。起きたことは話さなかった。まだ彼らが近くにいる気がした。
 あの場所が何だったのか、俺にはわからない。ただ、以前、知人に聞いたことがあるのを思い出した。
「谷間の工場に、老夫婦がいて、喰われかけた」
 そのときは笑い飛ばしたが、あれは事実だった。そして、知人はこうも言っていた。
「この話を知ってしまったら、いずれ行くことになる。いつの間にか山にいて、遭難している。否応なく、いつか、必ず」
 俺は呆れてため息を吐いた。そして、聞いた。
「お前はもう行かなくていいのか?」
 知人は、ほっとしたように息を吐いた。
「この話をしたから、たぶん大丈夫。とにかく、老夫婦は材料を探している」
 
 そして、俺は今、あなたに宛てて、これを書いている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...