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ムツァーノ

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 六十歳の上司は嫌なやつだ。自分の計画やストーリーに合わないことがあると怒鳴り散らす。パワハラ回避のためか相手は指定せずに一人怒鳴りをやっているのも、癪に触る。例えば、若手社員の書類の不備で、入札期限に間に合わなかったときの上司はこんな感じだ。
「クソ! 何でだよ! 馬鹿野郎!」
 全くもってうるさい。
 しかも、この嫌な上司は変な行動にも出る。
 上司は怒りに任せて席を立ち、自分の腹と太ももを殴る。そして、その度に顔を痛そうにしかめている。
 誰もが若手のミスに対する怒りだとはわかっていて、場の雰囲気は悪くなるが、上司の不可思議な行動を見ると一気に笑ってはいけない我慢大会が始まる。
 持ち主に殴られるシャツの下の腹や、スラックスの下の太ももが赤くなっているのを想像すると耐えられなくなる。だから、違うことを考える。
 例えば、ムツァーノのことだ。
 ムツァーノはレストランの名前で、なかなか予約が取れない。というか、取る方法が開示されていない。ウェブサイトも電話番号も何もわかっていない。情報も一切転がっていない。あるのは飲屋街のビルとビルの間を抜けて、住宅街に差し掛かったところにある公園に入り、階段を登った先にある一軒家に、レストラン『ムツァーノ』という小さな看板が立てかけられているという事実だけだ。そして、ドアにはいつも、『今夜は予約専用』と貼り紙がされている。
 僕は毎晩そのムツァーノを見てから家に帰っている。二十分ほど遠回りになるが、それよりもムツァーノが気になって仕方がなかった。たまに気が狂いそうになる。ムツァーノと無意識に呟いているときがあるくらいに。
 もちろん店のドアに手をかけたこともある。しかし、ドアには鍵がかかっていて店の人に予約云々を聞くことはできていない。
 そもそも、どんな料理が出てるのかもわからない。イタリアンなのか、フレンチなのか、ターキーなのか。シックなのか、カジュアルなのかもわからない。
 もしかしたら閉店しているのかもしれないと思ったこともあるが、予約専用の貼り紙には日付が書いてあり、それはいつも、その当日の日付だった。
 土日の朝、昼、晩はもちろん、有給休暇を取って平日の朝と昼に行ったこともあるが、やはり看板と貼り紙がそこにあるだけだった。
 一軒家の外観に特別変わったところはない。少しだけ古ぼけた壁があり、オレンジ色の屋根はおしゃれかもしれないが、隣町を探せばどこかに同じものがありそうだった。
 パン!
 音の方を振り返ると、上司がビンタを自分の頬に放っていた。
 僕は辛抱たまらずにデスクの下に屈んだ。何かを落としたと装いつつ、歯を噛み締めた。
 そんな上司とムツァーノが関係していると知ったのは、冬に差し掛かろうとしている時期だった。
 その日もまた若手がヘマをして、上司は怒り狂っていた。腹や太ももを叩き、低く唸っていた。
 そして、上司は忙しい部下を尻目に定時で帰っていった。
 僕も運良く仕事を終わらせることができ、定時で会社を出た。ビルを出ると、数メートル先に上司の後ろ姿を確認した。
 上司はバス通勤なのにも関わらず、バス停を通り過ぎて私鉄の駅へと向かった。そして、偶然にも僕と同じ電車に乗り、同じ駅で降りた。
 上司は周りに目を配っていないのか、ただただ嫌なやつなのか、二度も他人と肩をぶつけていた。謝りもせず、真っ直ぐ歩いていた。なぜか僕がその他人とすれ違うときに軽く首を垂れた。僕の上司がすみません、と心の中で呟き、なぜ僕が謝らなければいけないのかと腹が立った。
 上司は僕の前を歩き、飲み屋街のビルとビルの間を抜けて、住宅街に差し掛かったところにある公園に入り、階段を登った。途中から行く道が同じになるのを気味悪く感じながらも、僕はムツァーノのこともあり、踵を返すことはしなかった。
 道路には上司と僕以外に誰もいなかった。もし、上司が振り返ったら、僕はまるで尾行がバレた探偵のように知らぬふりをして通り過ぎるか、偶然を装っておべんちゃらをぬかすしかない。
 幸運にも、上司は歩き続けた。そして、あのムツァーノの前で立ち止まった。僕も思わず立ち止まり、すぐさま手前の角を曲がって、そこから様子を見ることになった。
 上司はムツァーノの一軒家を仰ぎ見て、それから反対側を向いた。そして、向かいにある日本家屋のチャイムを鳴らした。
 しばらくすると、着物を着た妙齢の女性が出てきて、「いらっしゃいませ」と上司を家の中に案内して行った。
 僕はその一連を見え終えてから、ムツァーノの前へと向かった。
 ムツァーノのドアをちらりと見やると、相変わらず貼り紙がしてあった。今日の日付と、予約専用の文字が堂々とあった。
 僕も上司と同じく反対側を向いた。なんの変哲もない日本家屋があった。強いてうのなら、少しだけ格調高く見えて、その他の住宅と比べて浮いていた。
 近付くと、チャイムと木格子の玄関が見えた。表札も何もなかった。
 僕は思い切って、チャイムを押した。よく考えれば近所の誰かにムツァーノについて聞くという手段があったな、とふと思った。
 しばらく待つと「はい」と女性の声が聞こえた。さっきのいらっしゃいませと同じ声だった。
「あの、ムツァーノというレストランについて聞きたいのですが」
「はい?」
「前の、貼り紙が貼ってあるレストランです」
「ああ、予約専用ですよ」
「どうやって予約できるか、ご存知ですか?」
「さあ。わかりかねます」
 そう答えられると、インターフォンの切れる音がした。拒絶にも似た音だった。
 それから近くにある何軒かのインターフォンも押したが、出てきてくれる人はいなかった。飛び込み営業の人たちは大変だなと、心のどこかで、しかし他人事のように思った。
 翌日、僕は指示されていた見積書を手に、上司にムツァーノについて聞いてみた。僕の中にはまだ飛び込み営業の亡霊がいた。
 上司は見積書をめくる手を止め、僕を見上げてきた。
「ムツァーノ?」
「はい。ムツァーノです」
「きみはムツァーノを知っているのか?」
「レストランですよね?」
「ある意味では」
「ある意味では?」
「……その様子だと、何も知らないみたいだね」
 上司は首を振り、見積書に戻った。
「あの、教えていただけませんか?」
「いや、何も言うことはないよ。いい見積書だよ。データをあとで送っておいて」
「ムツァーノは?」
「二度とその名前を出すなよ」
 上司は僕の目を見て、そして、苛立ち隠さずに言った。そう思えた。
 それから一か月も経たないうちに、僕は会社を辞めた。上司が怒り狂う職場のストレスからは解放されたが、ムツァーノの謎は残った。
 数少ない友人の一人にもムツァーノについて聞いてみた。もちろん彼はそのレストランについて何も知らなかったが、ひとつ仮説を立ててくれた。
「それは料亭みたいなものじゃないかな」
「料亭?」
「自由恋愛の料亭だよ」
「それって、つまり、そういうところ?」
 彼は頷いて、瓶コーラの栓を抜いた。真冬にも関わらず、それはキンキンに冷えていて、ほとんど何もない彼の部屋は一層冷えていった。
「でも、予約専用の?」
「そっちの方がリスクが低いからじゃないかな」
「それって自由恋愛になるの?」
「知らない。でも、街で出会って、レストランでデートということもある」
 僕はため息をついた。
「結局、ムツァーノについてはわからず終いか」
「じゃあ、別のムツァーノについて考えよう」
「別のムツァーノ?」
「ムッツァーノともいう。イタリアにある」
「そこはどんな場所?」
「わからない。ただ小さい場所で、ただただ美しい」
「わからないのに?」
「わからないのに、わかることもある」
「わからないな」
「わからないことこそ、素晴らしい。想像するムッツァーノは美しい。山があり、川があり、道があり、人がいて、生活がある。予約制でもない。行くのも去るのも自由だ。それだけでいい。想像で終わらせるのもいいと思うけどな」
「確かに」と僕は言った。確かに、想像上のムツァーノは興味をそそるものだった。現実で、上司の摩訶不思議な行動を見るよりも、飛び込み営業よろしくインターフォンを押すよりも、素晴らしいレストランだった。「そうだね。確かに、僕の中のムツァーノは素晴らしかった。行けなかったのは残念だけど」
「行けなかったのは残念だけど」と彼も繰り返した。そして、テーブルにある放っておいたコーラの瓶をこちらに押した。
 僕はそのコーラの栓を抜いた。
「乾杯」
「乾杯」
 おそらくムツァーノでは、最初にコーラを飲むはずだ。そう、想像した。
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