20 / 25
ノランコ
しおりを挟む
彼の簡素な部屋で、冷えた瓶コーラを飲んでいた。冬の冷たさがより一層、冷えた。冷凍庫の中にある氷になった気分だった。ただ、嫌な気はしない。ダウンジャケットを着て、マフラーも巻いたままだが、窓から入る陽の光が気持ちよかった。暗い冷蔵庫とは違う。『冷凍庫からの解放』。僕はその言葉を思い浮かべつつ、またコーラを一口飲んだ。
白い壁にはエアコンが当たり前のように設置してある。にも関わらず、彼はそれを平日の9時から17時までしかつけなかった。それはパソコンのためで、そして株取引のためだった。彼はトレーダーだった。金で金を稼ぐ人生に身を置いていた。
「ところで」と彼は言った。「質問があるんだけど」
またいつもの変な質問だとわかっていた。でも、拒否するほど僕は忙しくもなく、彼を嫌に思っているわけではなかった。だから、今日も答える。
「なに?」
「想像してみてほしい。公園の真ん中に、ブランコが一つ、あったとする。他の遊具はなく、ベンチも何もない。ただブランコが一つある。柏木くんは、そのブランコに座って、漕ぐ?」
僕はその公園を想像してみた。なぜか公園は夜で、何か出てきそうなくらい不気味だった。そして、公園の外はなぜか見えなかった。真っ暗闇。そして、何に照らされているのか、スポットライトを浴びているようにブランコだけが明るく見えた。ブランコは赤色だった。
「座りたくないけど、座ってしまうかも。そして、漕ぐかもなあ」
「じゃあ、部屋の中に椅子が一つあるとする。ぼろくて、ちょっと腐ってて、蜘蛛の巣も張っている。でも他に椅子はない。座る?」
僕はまた想像した。そこは廃墟になりかけの家のダイニングキッチンだった。
「嫌だけど、もしかしたら座ってしまうかも。恐々と。もちろん最初は座らない。でも、おそらく立つのに疲れて、そして、床はさらに汚いだろうから、座ると思う」
彼は頷いた。そして横を向いた。美しいシャープな輪廓が、そこにあった。
彼は、コーラの空き瓶をテーブルの中央に置いた。
「つまり、柏木くんの質問に対する俺の答えはこうだよ」
「質問? 質問をしたのはそっちだよ?」
「この前、会社辞めたいけど、どうしたらいいかなって言ったよね?」
「ああ……」と僕は電話の内容を思いだした。上司がしんどくて、と僕は言ったはずだ。
「柏木くんは、今、ボロい椅子に座っている。このコーラを飲むために」
「どういうこと?」
「人間は視野の狭い生き物だと思う。椅子なんて世界にはいくらでもあるはずなのに、目の前の椅子が空いていると、そこに座らなければならないと思う。そして、そこに座りさえすれば」と、彼はコーラの空き瓶にハンカチを被せ、それをすぐさま取った。「対価を得られる」
空き瓶には、コーラが満たされていた。手品は彼の趣味だった。
「でも、柏木くん。やはり、ボロい椅子は座り心地がよくないよね。だから、本当であれば別の椅子を探すべきなんだよ。でも、できない。別の椅子に座れるかどうかわからないし、コーラを十分に飲めるかどうかもわからない。公園の外に何があるのか、椅子を手放したらどうなるのか、怖くてたまらない」
僕は、そうだね、と頷いた。
「でも、柏木くん。大丈夫だよ。公園も、ブランコも、椅子も、柏木くんの頭の中にしかない。想像してみて、と言ったのはそういうことだよ。もっと世界は広いんだ。椅子も無限にあると言っていい。作ってもいいんだから」
「つまり、会社を辞めたほうがいいってこと?」
「不気味な空間でボロい椅子に座らない方がいいってことだよ」
「そうだね。確かに、そうだ」
彼は僕の返事に満足そうに微笑み、満たされたコーラを飲んだ。
「でも、そっちはどうなの? ここの椅子は満足なの?」
「実はそうでもない。投資家の才能は、全くないわけじゃないし、なんならインカムゲインだけで暮らしていける」
「配当金はどのくらいもらってるの?」
「月に三十万くらいはあるね」
「すごいな」
「働くのが苦手な俺には最高の贈り物だよ。でも、満たされていない」
「そうか」
「だから、例えば、手品を仕事にしたらどうかなと考えてる」
「手品? グッズでも作るの?」
「いや、実際に演る方だよ」
僕は彼が人前に出るところを想像してみた。彼の声は小さく、手品も地味なものをチョイスしていた。
「想像したでしょ?」
その言葉に、僕は無意識に下げていた視線を彼の目に合わせた。
「想像上の俺はどうだった? 上手くやれてた? 下手だった? でも、それもやっぱり想像上なんだよ。想像は現実ではない。想像できることは、存在できることだと誰かが言ったけど、想像していることは未だに存在していないことだとも言える」
「心配するだけ無駄ってこと?」
「無駄ではないけど、心をすり減らす必要はない」
「そうだね」
「俺はこの、想像上で苦心している状況から脱しようとしている人間、もしくは抜け出した人間を『ノランコ人間』と名付けることにする」
「ノランコ?」
「乗らないブランコ。想像上のブランコに乗らない人間のことだよ」
「わかりづらいな」
「別に発表するわけでもないからいいんだよ」
「じゃあ、僕が会社を辞めたらノランコ人間なんだな」
「いや、想像上の会社から抜け出そうとしたら、もう立派なノランコ人間だよ」
僕は椅子の背にもたれ、目を閉じた。そして、会社を想像した。皆が仕事をする中、僕は椅子から立ち上がり、オフィスを出た。開放感が空気に満ちていた。空は晴れていて、何が始まる気がした。
そして、目を開けて、その想像をやめた。
「手品師になったら、マネージャーになるよ」と僕は言った。
「それはいいね」と彼は言った。
白い壁にはエアコンが当たり前のように設置してある。にも関わらず、彼はそれを平日の9時から17時までしかつけなかった。それはパソコンのためで、そして株取引のためだった。彼はトレーダーだった。金で金を稼ぐ人生に身を置いていた。
「ところで」と彼は言った。「質問があるんだけど」
またいつもの変な質問だとわかっていた。でも、拒否するほど僕は忙しくもなく、彼を嫌に思っているわけではなかった。だから、今日も答える。
「なに?」
「想像してみてほしい。公園の真ん中に、ブランコが一つ、あったとする。他の遊具はなく、ベンチも何もない。ただブランコが一つある。柏木くんは、そのブランコに座って、漕ぐ?」
僕はその公園を想像してみた。なぜか公園は夜で、何か出てきそうなくらい不気味だった。そして、公園の外はなぜか見えなかった。真っ暗闇。そして、何に照らされているのか、スポットライトを浴びているようにブランコだけが明るく見えた。ブランコは赤色だった。
「座りたくないけど、座ってしまうかも。そして、漕ぐかもなあ」
「じゃあ、部屋の中に椅子が一つあるとする。ぼろくて、ちょっと腐ってて、蜘蛛の巣も張っている。でも他に椅子はない。座る?」
僕はまた想像した。そこは廃墟になりかけの家のダイニングキッチンだった。
「嫌だけど、もしかしたら座ってしまうかも。恐々と。もちろん最初は座らない。でも、おそらく立つのに疲れて、そして、床はさらに汚いだろうから、座ると思う」
彼は頷いた。そして横を向いた。美しいシャープな輪廓が、そこにあった。
彼は、コーラの空き瓶をテーブルの中央に置いた。
「つまり、柏木くんの質問に対する俺の答えはこうだよ」
「質問? 質問をしたのはそっちだよ?」
「この前、会社辞めたいけど、どうしたらいいかなって言ったよね?」
「ああ……」と僕は電話の内容を思いだした。上司がしんどくて、と僕は言ったはずだ。
「柏木くんは、今、ボロい椅子に座っている。このコーラを飲むために」
「どういうこと?」
「人間は視野の狭い生き物だと思う。椅子なんて世界にはいくらでもあるはずなのに、目の前の椅子が空いていると、そこに座らなければならないと思う。そして、そこに座りさえすれば」と、彼はコーラの空き瓶にハンカチを被せ、それをすぐさま取った。「対価を得られる」
空き瓶には、コーラが満たされていた。手品は彼の趣味だった。
「でも、柏木くん。やはり、ボロい椅子は座り心地がよくないよね。だから、本当であれば別の椅子を探すべきなんだよ。でも、できない。別の椅子に座れるかどうかわからないし、コーラを十分に飲めるかどうかもわからない。公園の外に何があるのか、椅子を手放したらどうなるのか、怖くてたまらない」
僕は、そうだね、と頷いた。
「でも、柏木くん。大丈夫だよ。公園も、ブランコも、椅子も、柏木くんの頭の中にしかない。想像してみて、と言ったのはそういうことだよ。もっと世界は広いんだ。椅子も無限にあると言っていい。作ってもいいんだから」
「つまり、会社を辞めたほうがいいってこと?」
「不気味な空間でボロい椅子に座らない方がいいってことだよ」
「そうだね。確かに、そうだ」
彼は僕の返事に満足そうに微笑み、満たされたコーラを飲んだ。
「でも、そっちはどうなの? ここの椅子は満足なの?」
「実はそうでもない。投資家の才能は、全くないわけじゃないし、なんならインカムゲインだけで暮らしていける」
「配当金はどのくらいもらってるの?」
「月に三十万くらいはあるね」
「すごいな」
「働くのが苦手な俺には最高の贈り物だよ。でも、満たされていない」
「そうか」
「だから、例えば、手品を仕事にしたらどうかなと考えてる」
「手品? グッズでも作るの?」
「いや、実際に演る方だよ」
僕は彼が人前に出るところを想像してみた。彼の声は小さく、手品も地味なものをチョイスしていた。
「想像したでしょ?」
その言葉に、僕は無意識に下げていた視線を彼の目に合わせた。
「想像上の俺はどうだった? 上手くやれてた? 下手だった? でも、それもやっぱり想像上なんだよ。想像は現実ではない。想像できることは、存在できることだと誰かが言ったけど、想像していることは未だに存在していないことだとも言える」
「心配するだけ無駄ってこと?」
「無駄ではないけど、心をすり減らす必要はない」
「そうだね」
「俺はこの、想像上で苦心している状況から脱しようとしている人間、もしくは抜け出した人間を『ノランコ人間』と名付けることにする」
「ノランコ?」
「乗らないブランコ。想像上のブランコに乗らない人間のことだよ」
「わかりづらいな」
「別に発表するわけでもないからいいんだよ」
「じゃあ、僕が会社を辞めたらノランコ人間なんだな」
「いや、想像上の会社から抜け出そうとしたら、もう立派なノランコ人間だよ」
僕は椅子の背にもたれ、目を閉じた。そして、会社を想像した。皆が仕事をする中、僕は椅子から立ち上がり、オフィスを出た。開放感が空気に満ちていた。空は晴れていて、何が始まる気がした。
そして、目を開けて、その想像をやめた。
「手品師になったら、マネージャーになるよ」と僕は言った。
「それはいいね」と彼は言った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる