水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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ノランコ

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 彼の簡素な部屋で、冷えた瓶コーラを飲んでいた。冬の冷たさがより一層、冷えた。冷凍庫の中にある氷になった気分だった。ただ、嫌な気はしない。ダウンジャケットを着て、マフラーも巻いたままだが、窓から入る陽の光が気持ちよかった。暗い冷蔵庫とは違う。『冷凍庫からの解放』。僕はその言葉を思い浮かべつつ、またコーラを一口飲んだ。
 白い壁にはエアコンが当たり前のように設置してある。にも関わらず、彼はそれを平日の9時から17時までしかつけなかった。それはパソコンのためで、そして株取引のためだった。彼はトレーダーだった。金で金を稼ぐ人生に身を置いていた。
「ところで」と彼は言った。「質問があるんだけど」
 またいつもの変な質問だとわかっていた。でも、拒否するほど僕は忙しくもなく、彼を嫌に思っているわけではなかった。だから、今日も答える。
「なに?」
「想像してみてほしい。公園の真ん中に、ブランコが一つ、あったとする。他の遊具はなく、ベンチも何もない。ただブランコが一つある。柏木くんは、そのブランコに座って、漕ぐ?」
 僕はその公園を想像してみた。なぜか公園は夜で、何か出てきそうなくらい不気味だった。そして、公園の外はなぜか見えなかった。真っ暗闇。そして、何に照らされているのか、スポットライトを浴びているようにブランコだけが明るく見えた。ブランコは赤色だった。
「座りたくないけど、座ってしまうかも。そして、漕ぐかもなあ」
「じゃあ、部屋の中に椅子が一つあるとする。ぼろくて、ちょっと腐ってて、蜘蛛の巣も張っている。でも他に椅子はない。座る?」
 僕はまた想像した。そこは廃墟になりかけの家のダイニングキッチンだった。
「嫌だけど、もしかしたら座ってしまうかも。恐々と。もちろん最初は座らない。でも、おそらく立つのに疲れて、そして、床はさらに汚いだろうから、座ると思う」
 彼は頷いた。そして横を向いた。美しいシャープな輪廓が、そこにあった。
 彼は、コーラの空き瓶をテーブルの中央に置いた。
「つまり、柏木くんの質問に対する俺の答えはこうだよ」
「質問? 質問をしたのはそっちだよ?」
「この前、会社辞めたいけど、どうしたらいいかなって言ったよね?」
「ああ……」と僕は電話の内容を思いだした。上司がしんどくて、と僕は言ったはずだ。
「柏木くんは、今、ボロい椅子に座っている。このコーラを飲むために」
「どういうこと?」
「人間は視野の狭い生き物だと思う。椅子なんて世界にはいくらでもあるはずなのに、目の前の椅子が空いていると、そこに座らなければならないと思う。そして、そこに座りさえすれば」と、彼はコーラの空き瓶にハンカチを被せ、それをすぐさま取った。「対価を得られる」
 空き瓶には、コーラが満たされていた。手品は彼の趣味だった。
「でも、柏木くん。やはり、ボロい椅子は座り心地がよくないよね。だから、本当であれば別の椅子を探すべきなんだよ。でも、できない。別の椅子に座れるかどうかわからないし、コーラを十分に飲めるかどうかもわからない。公園の外に何があるのか、椅子を手放したらどうなるのか、怖くてたまらない」
 僕は、そうだね、と頷いた。
「でも、柏木くん。大丈夫だよ。公園も、ブランコも、椅子も、柏木くんの頭の中にしかない。想像してみて、と言ったのはそういうことだよ。もっと世界は広いんだ。椅子も無限にあると言っていい。作ってもいいんだから」
「つまり、会社を辞めたほうがいいってこと?」
「不気味な空間でボロい椅子に座らない方がいいってことだよ」
「そうだね。確かに、そうだ」
 彼は僕の返事に満足そうに微笑み、満たされたコーラを飲んだ。
「でも、そっちはどうなの? ここの椅子は満足なの?」
「実はそうでもない。投資家の才能は、全くないわけじゃないし、なんならインカムゲインだけで暮らしていける」
「配当金はどのくらいもらってるの?」
「月に三十万くらいはあるね」
「すごいな」
「働くのが苦手な俺には最高の贈り物だよ。でも、満たされていない」
「そうか」
「だから、例えば、手品を仕事にしたらどうかなと考えてる」
「手品? グッズでも作るの?」
「いや、実際に演る方だよ」
 僕は彼が人前に出るところを想像してみた。彼の声は小さく、手品も地味なものをチョイスしていた。
「想像したでしょ?」
 その言葉に、僕は無意識に下げていた視線を彼の目に合わせた。
「想像上の俺はどうだった? 上手くやれてた? 下手だった? でも、それもやっぱり想像上なんだよ。想像は現実ではない。想像できることは、存在できることだと誰かが言ったけど、想像していることは未だに存在していないことだとも言える」
「心配するだけ無駄ってこと?」
「無駄ではないけど、心をすり減らす必要はない」
「そうだね」
「俺はこの、想像上で苦心している状況から脱しようとしている人間、もしくは抜け出した人間を『ノランコ人間』と名付けることにする」
「ノランコ?」
「乗らないブランコ。想像上のブランコに乗らない人間のことだよ」
「わかりづらいな」
「別に発表するわけでもないからいいんだよ」
「じゃあ、僕が会社を辞めたらノランコ人間なんだな」
「いや、想像上の会社から抜け出そうとしたら、もう立派なノランコ人間だよ」
 僕は椅子の背にもたれ、目を閉じた。そして、会社を想像した。皆が仕事をする中、僕は椅子から立ち上がり、オフィスを出た。開放感が空気に満ちていた。空は晴れていて、何が始まる気がした。
 そして、目を開けて、その想像をやめた。
「手品師になったら、マネージャーになるよ」と僕は言った。
「それはいいね」と彼は言った。
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