水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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木々(断片)

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 天井にある板張りの木目が、顔に見えたのは何歳くらいからだろうか。そして、その顔がまた木目に戻ったのは何歳くらいだろうか。
 祖父母の家の天井を、大の字で見ながら、彼はそう思った。
 横を見やると、蝉が庭を横切るのが視界に入った。彼はその蝉のざらつく鳴き声を片方の耳で聞き、片方の耳で畳のざらつきを感じていた。
 そして、また天井と向かいあった。木目のどこかに顔があるような、ないような。
「正解なんてないのかもしれない」
 彼は誰かに同意を求めるように呟いた。そして、目を閉じた。あと一時間。夕方まで寝ることにした。
 
 彼は夏休み入ると、家出をするかのように家を出た。自宅に蔓延るギスギスした夫婦関係とやらを、見る気はしなかった。うんざりという言葉をぶつけたい気持ちも、すでに遠くにあったくらいだった。
 彼らのせいか、男女関係の拗れた昼ドラは嫌いだった。芸能人のスキャンダルも嫌いだった。そして、恋愛関係も苦手だった。それは経験がなかったからで、欲望を話すのも恥ずかしかったからでもあった。だから、彼らのせいではないかもしれない。でも、彼らのせいにしてもいいだろうと思っていた。彼らは憎き親だった。
 あの場所に比べれば、祖父母の家は何倍もいい。とはいえ、純朴な田舎が好きなわけでもなかった。虫は苦手だし、自然に惹かれるわけでもない。つまらない。いや、刺激がない。
 それでも何もせずに引きこもっているわけにもいかず、彼は気温の低い朝方と夕方に散歩に出かけた。
 集落を抜け、車一台しか通れない坂道を、下に下に降りていく。行く当てもない道中、顔を合わせるのは老人ばかりで、青春の爽やかさや鬱陶しさは少しもなかった。山に住む老人に、背の曲がった人は一人も見かけなかった。
 彼の存在は、集落の誰もが知っているようで、みかんやら、お菓子やらをくれる人がいた。ありがたいがそれが連日になったときは、散歩に出かけるのをやめた。貢物目当てで、出歩いていると思われたくなかった。ハロウィンの単独仮装者になるつもりもなかったし、ただの珍しい若者にもなりたくなかった。しかし、結局、どれかになるしかないのだろうなと彼は思っていた。
 俺の居場所なんて世界のどこにもないんだなと、肩を落とした。しかし、受け入れるのには慣れていて、その強さもあった。何者かになりたい欲求は、ティーンエイジャーにしては弱かった。せいぜい大人になったら宝くじが当たらないかなといったくらいで、有名人になりたいだとか、自分の作った何かが持て囃されるとか、そういった類のものには興味を持てなかったし、それでよかった。青春に大きな葛藤はなく変だと思うときがあるくるい穏やかだった。ただし、両親の夫婦喧嘩だけはいただけなかった。水面に投げられた大きな石だった。子どもたちがふざけて投げた、ひどいものだった。心内の蛙や鯉が傷つき、何度か死んだ。そのまま死んでいればよかったのに、彼らは傷ついたまま生き返った。そして、新しい傷をつけ、また何度か死んだ。瘡蓋は皮膚を厚くした。できるだけ水面に顔を出さないようにもした。それでも、水中に響く、落石の振動に怯えた。
 
 目を開けると床の間が見えた。背中に太陽が前よりもわずかに低い位置にあるのを感じた。
 彼は靴下を履き、帽子を被り、ポケットに役に立たない小銭入れを念の為にいれて、外に出た。
 まだ昼のように暑かった。それでも幾分かましになっていると彼は歩を進めた。下に降り、それから山道に入った。日陰のおかげて、日差し分は涼しかった。小さな神社の鳥居の横を通り過ぎ、もう少し中に入る。そして、まだ行けるかもというところで引き返す。夏の山で万が一にも遭難したくなかった。全ての結果は死といことに変わりないが、虫にたかられ早めに腐るのは我慢できなかった。冬に凍死した方がまだいいと思う。自身の死体を俯瞰して想像する。寝ているようだが、しばらくは意識があるような気がしてならなかった。
「おう。タクさんちのお孫さんさんかえ」
 その突然の声に、彼は思わず肩をしゃくり上げた。
 声の方を見ると、小柄な老人が立っていた。見たことがない。
「そうじゃろ?」
「はい」と彼は小さく返事をした。
「山は危ないけ、はよ出た方がええよ」
「はい」
「まあ、でも、田舎は面白いもんなかろ。山が一番楽しいかな」
 老人は笑った。皺の多い顔にある小さな目がさらに狭くなった。その奥には黒目しか見えない。彼は怯えてはいなかった。でも、早く立ち去りたかった。
「まあ、面白いもんといえば、あの神社のお社さんの奥の方にある木は少しは面白いかもしれん」
 彼が黙っていると、老人は続けた。
「その木は少し削れとって、断面が見えるとさ。その断面が面白い。何が面白かというと、女の顔に見えるとさ。でも、それだけやと別に普通さ。木目が顔に見えるのと一緒。でも、その断面に見える女の顔は人によって違う。ある人には美人さん、ある人には醜女、ある人には亡くなったおっかさんに見える。まあ、一度見に行くといいさ。それくらいしか面白いもんなかもんね」
 老人はそう言うと、笑いながら彼を通り越して、さらに山を登っていった。彼は老人の背中が小さくなり、やがて見えなくなるまで目を離さなかった。そして、来た道を戻っていった。
 神社と木の話は一度も聞いたことがなかった。両親からも、祖父母からも、近所の人たちからも。子どもの頃から来ている田舎なのに、初耳だった。その事に、少し気味悪くなったが、神社には行くべきだろうと思った。今日行かなければ、気味の悪さは拡がり、二度とその木の断面を見ることはないだろう。
 興味と恐れに誘われて、彼は鳥居をくぐり、階段を登った。お社に着くと、念のために一礼をし、それから奥を覗いた。獣道のような狭い道が一本あった。
 道を進むと、すぐに行き止まりになった。そして、老人の言う木がどれなのか一目でわかった。それは杉の木で、表面が一箇所削られていた。
 その木の断面には、女性の顔があった。そんなふうに見える木目だった。白い肌で、目が大きく、茶色の長い髪があり、首は細かった。
 それだけだった。別に動いたり、喋ったりするわけではない。顔に似た木目がそこにあるだけだった。
 彼はそれを何を田舎の刺激の少なさからくる、一種の現実逃避だと結論付けた。理論も学説もない。ただ彼の中では、それで問題なかった。
 家に帰ると庭に祖父がいた。麦わら帽子を被り、洗濯物を干していた。
「夏やから今からでも乾くやろ」
 彼に気付いた祖父は言って、タオルを音を鳴らしながら伸ばした。
「ねぇ、山の神社の奥にある木って知ってる? 削れたところが顔に見えるやつ」
「神社? 顔? 知らん」
「そう」
「神社行ったんか」
「行った」
「去年はあそこでスズメバチ見たから、気ぃ付けな」
「わかった」と彼は言った。頭に老人の姿が出てきた。「山で、たぶん近所のおじいさんと会ったんだけど誰だったんだろう」
「ほぉ。誰かの」
「なんか、方言が違った気がする」
 祖父は二枚目のタオルを洗濯かごから取った。
「じゃあ、ヌマさんの弟だな。この前、ぶどう置いていってくれた人の弟だ。地方によく出稼ぎ行ってたから方言が混ざってるんだろうなあ」
「ふうん」
「何か言われたんか?」
「別に。神社の木のことを教えてくれただけ」
「へえ」
 祖父の反応を見て、それ以上会話がないのを確認すると彼は家に入った。手を洗い、うがいをすると、また和室に行き、クーラーのスイッチを入れて大の字になった。後頭部の髪越しに畳の厚さを感じながら、天井の木目を見た。
 どれもこれも、同じだった。顔にも見えるし、他の何かにも見えたし、でも木目だった。
 親の顔がなぜか木目に浮かんだ。消したかったが、難しかった。憎かった。罵詈雑言をまだ浴びせたかった。それでも、それはただの木目だった。
「親であり、男女であり、ただの人間か」
 彼はそう結論付けた。それが最も簡単だった。
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