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呪い専門
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薫が雨の音を店の中でしっかりと聞いたのは、随分と前だった。まだ祖母が店主としてきびきび働いていた頃で、薫はアルバイトとして一緒に過ごしていた。その日は警報が出るくらいの大雨でお客さんは来ず、二人してテレビをぼんやり見ていた。そのテレビの音もかき消すくらいの雨足。お客さんが扉を開けていないのにも関わらず、二人で扉の方を振り返ったのを覚えている。そのとき見たおばあちゃんの横顔、おばあちゃんの肌。何をどうしたのか、温泉に毎日入っているわけでもないのに、すべすべだった。さすがに手には苦労が見えたが、自分があの歳になる頃には、もっとぼろぼろかもしれない、と薫は自分の手を見ながら思った。
あの日のように、今日も雨が降っている。夕方には小降りだった雨も、今はもう土砂降りで、それを見越していたのか、客足も遠かった。
こういう日こそ、佐々木さんが来てくれないかしら、と薫はカウンター席で頰杖をつきながら思った。
だが、ここ最近、佐々木は来ていない。店に居座る理由がなくなったのか、それとも大事件が起きたのか。しかし、ニュースを見ても世間を揺るがす事件は起きていなかった。ある意味平和な芸能人の不倫騒動が、まるで世紀の大犯罪かのりように取り沙汰されているだけだ。
もう店終いしようかしら。
薫がため息を吐いて席を立つと、ザァーとさらに大きな雨音が聞こえてきた。
入り口扉を開けると、雨音が雪崩れ込んできた。目の前では、白い線が上から大量に落ちてきていて、夜の黒さも、虹色のネオンも塗りつぶされそうになっている。まるで滝を内側から見ているようだった。
そんな経験はないけど、と薫は心内で呟いた。
暖簾を下ろし、扉に鍵をかける。
さて、火の元を確認して帰ろう。いや、この雨だ。今日は二階の座席に布団を敷いて泊まろうかな。
そうこう思案していると、
ガシャ、ガシャ
という音が雨の中に聞こえた。その方向を振り返ると入り口扉だった。ガシャ、ガシャ、ドン、ドンと扉が震え、鳴っている。磨り硝子の向こうに影が見える。
ああ、佐々木さんだ。この間抜けたタイミングはそうに違いない。
薫は一歩、扉に近づいた。
プルルルルル
今度は何だと、音の方を振り返る。電話機のランプが光っている。扉を開けてから、電話を取ろう。そう思ったが、なんとなく電話機の方に足が向いていた。
「佐々木さん、ちょっと待っててくださいね」
薫はそう言ってから、受話器を取った。
「はい、居酒屋ミズエです」
「ああ、よかった」と男の声が聞こえた。「佐々木です」
「佐々木さん?」
「ええ。佐々木です」
確かにその声は佐々木だった。
「佐々木さん?」と薫はもう一度、確かめる。
「はい。佐々木です」
「あの、今、扉を開けようと思ってたんです。待っててください」
「開けちゃダメです」
「え? どういうことです?」
「誰か来たんですね?」
「佐々木さんでしょ?」
「僕はまだタクシーの中です。薫さん、今、外にいるのは僕じゃありません」
ガシャ、ガシャ
入り口扉がまた震えた。まだ雨は降っているはずなのに、聞こえない。
「薫さん。佐々木です。開けてください」
入り口から声が聞こえた。こちらも確かに佐々木の声だった。いや、どうだろうか。
「開けちゃダメですよ。僕が行くまで待っていてください」
受話器から声が聞こえている。
「薫さん。電話を切ってください」
扉からも声が聞こえている。
「薫さん。開けてはダメです」
「薫さん、早く」
「薫さん。ダメです」
交差する声に薫は動けなかった。
耳も、目も、縛られている。薫はそう思い、せめて意識は、と体から離そうとした。
「薫さん。意識はまだありますね?」
耳元の佐々木の声で、なんとか意識を繋ぎ止めた。
「扉のやつに何か僕らにしかわからない質問をしてみてください。答えられずに去っていくかもしれません」
「薫さん。雨でびしょ濡れです。早く開けてください」と扉がまた震えた。
薫はなんとか正気を保ち、息を整えようとした。扉はまだ叩かれていて、その向こうでは黒い影がゆらゆらと規則的に動いている。
薫は何を聞こうか逡巡した。だが、兎にも角にも今やってほしいことを聞くことにした。それ以外考えられなかった。
「お店を閉めたあと、私が佐々木さんに一番やって欲しいことはなんでしょう?」
耳元では笑いが起こった。しかし、扉の向こうはからは声がしない。ただ、ガシャガシと扉が動いている。
「何でしょう」
「薫さん。早く開けてください。雨が強いです」
「何でしょう!」
薫が叫ぶと扉はピンと糸を張ったように動かなくなった。店の中の静寂が聞こえた。薫の息遣いだけが部屋を支配した。それから、しばらくすると雨音が戻ってきた。動いていた影もいつの間にか消えていた。
薫は無意識に止めていた息を大きく吸った。ゆっくりと腰が折れ、両膝をついた。目を閉じて落ち着きたかったが、それと同時に閉じたくもなかった。閉じたら意識を失い、何かが来る気がした。
握り締めていた受話器からは何かが聞こえている。薫はゆっくりと耳に当てた。
「偽物は帰りましたね」
何なの。薫は思ったが言葉に出せなかった。
「本物はなかなか帰りませんからね」と佐々木は笑った。
薫はもう一度息を整えた。
「何だったんですか」
「もうすぐ着きます。今度は僕です。熱いお茶が飲みたいですね」
数分後、扉がコンコンと鳴った。薫はカウンター席から動けなかった。
「佐々木です。本物です」と扉の向こうから聞こえた。
「本当に佐々木さん?」
「はい。もう安心してください」
「安心できません」
「まあ、そうですよね。名刺を渡します」
「名刺?」
疑問に思っていると、扉の隙間から一枚の紙が覗いた。薫は恐る恐る立ち上がり、扉に向かい、それを抜き取った。
呪い専門 佐々木
「……なんですか、これ」
「僕の名刺です」
「呪い専門?」
「ええ」
「どういうことですか?」
「そのままの意味です」
「そのままの意味って?」
「熱いお茶を飲みながら話しますよ。薫さんに伝えたいこともありますし」
そう言われても、と薫は躊躇した。扉の向こうにいるのは、本当に佐々木なのか。もし違ったら。そんなことを考えつつ、それでも外にいるのは扉を叩いたりする人ではないと、鍵を開け、ゆっくりと扉を開けた。
佐々木の顔がそこにあった。
ほっとして、薫は息を吐いて、一歩身を引いた。佐々木はゆっくりと店に入ってきて、水滴のついた上着を脱いだ。薫は扉を閉めて、鍵をかけた。
「お茶淹れますね」
薫はキッチンへ行き、佐々木はいつものカウンター席に上着をかけて、座った。
お茶を佐々木の前に出し、薫も横に座って、水を飲んだ。水が食道を走っていくのを感じる。水を飲み込み、ようやく喉が渇いていたことに気付いた。
「あれ、なんだったんですか?」
薫の質問をひとまず置いといて、佐々木はお茶を啜り、あったまります、と呟いた。それからようやく薫の方に向き直って答えた。
「あれは呪いです」
その答えに、ああそうですか、と納得することが薫にはできなかった。
「呪い? 呪いって何ですか?」
「あるもの、または人物等から、ある対象に危害や災いを与える為の意思が発せられ、それが具現化したものです。主に所謂、霊的なものや、まあ、神的な事象が起こることが一般的ですかね。もしくは、おまじないもあります。こちらは願いを叶えたり、幸運を得るためのものですが、今回は違います」
「その、辞書的な意味はわかります。なんで、その、呪いがここに? というか、あれは呪いなんですか?」
「呪いです」
「なんで断言できるんですか。呪いって……。非現実過ぎて……」
「まず、なぜ呪いだと断言できるかどうかですが、それは僕が呪いを専門としているからです。霊媒とかお祓いとはまた少し違いますが、呪いの領域で収入を得ています。あとは調べたからです。簡単に言うと、薫さんが恨まれているかどうか。……あと、非現実かどうかという質問ですが、これは曖昧ですね。もう一つの世界に片足を突っ込んでいる。もしくはあっちに片足を突っ込まれている。そんなふうにも言えなくもないですね」
薫は水をまた飲んだ。まだ喉が渇いていた。
「いろいろわかりません」
「そう言う人が大半です」
「聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「まず、私は本当に呪われているんですか?」
「はい」
「誰に?」
「……カコさんという名前に聞き覚えはないですか?」
カコ?
薫はその音を頭の中で繰り返した。友人、親戚ではない。常連さん? いや、たぶん違う。
今まで出会ってきた何人もの顔に、カコという音を合わせてみたが、名前と揃うことはない。
「わかりません。誰ですか?」
「薫さんの元同僚です」
「私の?」
「はい。以前、事務の仕事をしていたって言いましたよね。そのときに一緒に働いたことのある人です」
薫は首を振った。
「カコさん。覚えがありません」
「一緒に働いたのは数日だけだと思います。彼女はすぐに辞めました」
「あの職場は派遣さんも多かったし、入れ替わりもよくあったから、そんな人はたくさんいます」
「そうですか。でも、彼女にとって、そんなことは関係なく、薫さんのことは特別でした」
「どんな人です?」
「風貌は、今は痩せています。昔の写真はもう少しふくよかでした。健康的な範囲で。髪は長くて」
「何歳くらいです?」
「三十五歳」
「年上……。やはり覚えていません」
「薫さんを恨んだきっかけは、些細なことでした。彼女にとっては重大なことでしょうけど」
薫は鼻で大きく息を吸って、吐いた。
「どんなことです?」
「仕事を頼んだことです」
「仕事?」と薫は眉を顰めた。「そんな、当たり前じゃないですか」
「ええ。ただのデータ整理です。書類に記載してある情報を打ち込んで、関数を使ってまとめたり。内容については、よくわかりませんでした。材料とか、資材とか、詳しいことは……。とにかく、その仕事が彼女にとっては難しかったらしく、こんな難しい仕事を新人の自分に渡すのは嫌がらせに違いないと。それから何も言わず派遣先の会社に行かなくなり、派遣会社も辞めて、今は水商売をやっているみたいです。でも、幸せは感じない。ストレスが多いらしく、鬱憤が溜まり、矛先が薫さんへ」
突然いなくなった人は何人か知っている。その中の誰かがカコさん。でも、わからない。
薫はカウンターをじっと見た。思い出そうとしたが、やはり無理だった。
「僕は相手が誰かわからないと対処できないんです。初めは呪いの方からやってくるかなと思ってのんびり構えていました。呪いを辿れば相手に繋がっている可能性が高いですからね。でも、なかなか来ない。もしかしたら、そんなに強い呪いではないのかもしれなと予想して、相手を探しに行きました。案の定、呪いの重さはそんなに。こういう雨の日にしか来れず、自分で扉を開けられない程度のやつです。運もよかった。薫さんの勤めていた会社に行ったら、カコさんに繋がりました」
「え、会社? どうやって見つけたんです? 教えてもいないのに」
「機密事項です。とにかく、カコさんを見つけました。住んでるところも。そして、呪いに繋がる発信がされていることも」
「信じられません」
「そうでしょうね。でも、先程、扉の前に何かが来ていたのは事実です。雨音と風のせいにしてもいいですけどね」
薫はそう言われると、少しだけ体を佐々木の方に向けた。
「私は呪われているんですね?」
「そうです」
「そのカコさんという人に」
「そうですね。私たちなりにもう少し訂正するならば、カコさんは薫さんが呪われるように祈っているというところでしょうか。呪いは事象で、誰かの行動ではないんです」
薫は『私たち』という言葉にひっかかったが、問うことはしなかった。それよりも自身に関係することを優先しなければならない。そう思い直した。
「それで、どうやって呪いを解くんですか?」
「私は呪いは解きません」
「え?」
「私は呪いをかえすのが得意でして」
「かえす?」
「そう。帰ってもらいます」
佐々木はお茶を啜った。
「帰ってもらうって?」
「はい。私は、お祓いはできません。だから、そのまま帰ってもらいます」
「どうやって?」
「方法はいろいろあります。多用するのはその呪いが嫌がるものを押し付けることですね。一般的に言うところのお札とか、聖水とか、ドラキュラなら十字架とかニンニクみたいな。もし、人の話が聞けるようなら説得しますけど、そんなコミュニケーションがうまくとれるような大それた呪いには幸運にも出会ったことがありません」
「……ちなみに、もう呪いは帰ったんですか?」
「まだです」
外の雨がまた強くなった気がした。何かが来る気配がなんとなく薫の中にあった。
「でも安心してください。帰しますよ」
そう言って佐々木はお茶を飲んだ。
ドンドン
「ほら来た」と佐々木は笑った。「でも入れない」
薫は無意識に両手を祈るように握り、カウンターに乗せた。
ガタガタ
「逃げないということは、やはりその程度のやつです。機会を得たら何とかすることしかできない。少しでも考えられる呪いなら、今日は諦めます」
佐々木はまたお茶を飲んだ。そして、立ち上がった。
どうやって帰すのか。疑問は薫の中にあったが聞くことはしなかった。不自然にがたつく扉がそうさせ、ただ佐々木を見ることしかできなかった。
「呪いには範囲もあるんです。たとえば地縛霊みたいに、限られたところにしか行けない、存在できない。いや、僕に霊感があるわけじゃないですよ? 例えばの話です」
ドン
早く対処しないのか。薫は思ったが、佐々木はそんな薫の視線を感じずに続けた。
「この呪いも範囲が限られていて、薫さんの住んでいるところには現れなかった。不幸中の幸いでした。もし範囲が広かったら、自宅で事故や事件に巻き込まれていてもおかしくなかった」
ガン
「何で私の家を知ってるんですか? いや、その前に佐々木さん、早くしたほうが」
「もし範囲が広かったら、僕がここにくることもなかったでしょう。その前にやられていたかも」
ドンドンドン
「佐々木さん!」
「わかっています。万が一にも扉が壊れたら雨が入ってきますからね」
そうじゃない。薫が言いかけたときに、佐々木は立ち上がり、扉に向かった。そして、揺れる扉の隙間に何か入れて、ぶつぶつと呟いた。その間も扉からは音が鳴り、揺れ続けた。
しかし、しばらくすると扉からは音が消えた。雨の音がまた聞こえてきた。
終わったの?
薫は小さく呟き、「終わったんですか?」と今度は佐々木に聞こえるように言った。
「はい。おそらく。カコさんが対処しなければ」
「対処って?」
「呪い帰し返しをしてこなければという話です」
佐々木は笑い、カウンター席に戻ってきた。
「まあ、カコさんにはそんな知識はないでしょう。他に頼る人もいなさそうでしたし」
薫は体の中にありそうな毒を息と共に吐き、空気を吸った。佐々木はそんな薫を見ながらお茶を飲んだ。
「佐々木さん」
「何でしょう?」
「私はまだ混乱しています」
「はい」
「一から話してくれますか?」
「一からとは?」
「このよくわからない話にも、事の始まりというのがありますよね?」
「そうかもしれません」
「では、話してくれますか?」
「どうでしょう。いや、やめときましょう。機密事項もありますからね」
「……そうですか」と薫は煮え切らない気持ちに蓋をしようとしたが、ふと思い直した。「あ、お酒飲みませんか?」
「お酒? ……お酒かあ」
「いい日本酒があるんです。お刺身はどうです?」
「……飲みましょうか」
鯛の刺身と鮪の山かけ、サイコロステーキ、枝豆と冷奴、ポテトサラダと明太卵焼きを食べ、日本酒を三合を飲み終えた頃には、佐々木は出来上がっていた。パクパクと無言で食べ、飲んでいたのに、ポツポツと薫と呪いについて呟いていた。
割と楽な仕事だった。報酬もよかった。霊は信じていないけど、残留思念だと思えば、まだ信じられる。
そんなことを口にしていた。薫は深く聞きたい気持ちをぐっと抑え、適度に相槌を打ち、佐々木が全部話し出すのを待った。
日本酒の後の、濃いめに作られたウーロンハイを半分飲んだところで、佐々木はいつものように話し始めていた。
「この話は、突然に始まります。脈略もあまりありません。強いて言うのであれば、私の血筋が呪いに対して術を持っていて、私がその少しを受け継いだからというところですが、そんなことを言ったら、全てに脈略が付いてしまうので無視します」
ちすじ? すべ?
薫は気になったが、聞くのをやめた。今は私の話だ、と水を呑んで堪えた。
「大体は私の生業を元々知っている人から依頼が来るのが本筋です。誰某が呪われている。恨まれているから呪われるかも。そういった類のことです。でも、今回は違います。初めての経験でした。僕がこの店に来始めた頃のこと覚えていますか?」
「はい。水曜日か、金曜日だったかな? とにかく空いていたカウンター席に座ってもらいました。とくに特別なことはありませんでしたよ?」
「そう。その日の午前中、たぶん十時くらいに、僕はこのお店の前を通りがかりました。ただの散歩です。僕の趣味は散歩です。とくに道路の狭い住宅地を歩くのが」
「そうですか」
「もちろん私道には立ち入りませんよ? でも、夢ですね。私道を持つのが」
「それで、お店の前で何か?」
佐々木は残り少なくなったウーロンハイを飲んだ。
「お店の前で呼び止められました。薫さんのおばあさんに」
「おばあちゃんに?」
「そうです」
「おばあちゃんは三年前に亡くなってますけど」
「はい。亡くなってるのはわかりました。三年前ということはわかりませんでしたけど」
「どういうことです?」
「一般的には幽霊と言っていいかもしれません。私にとっては残留思念、ということにしておきます。薫さんを守りたいという強い気持ちから生まれたプログラムみたいなものでしょうか。とにかくおばあさんに呼び止められました」
佐々木と目が合って、薫は頷いた。
「そこの人。呪いをどうにかできるかね?」
佐々木は人の気配を感じないところから声をかけられ、咄嗟に半歩、声の方から離れた。それから声の主を見て、それが腰の曲がりかけた一人のおばあさんということを認識した。そして、生きていないこともわかった。おばあさんの顔の血色は悪くなかった。生きていると錯覚してもおかしくないだろう。しかし、やはり、佐々木には生きているとは思えなかった。理由や理屈はない。感覚としかいえなかった。存在が異質。冷奴にソース。カレーライスに箸。そんな違和感があった。
生きている人間と呪い以外の何かに話しかけられたことのない佐々木は、少し戸惑いつつも返事をすることにした。なぜかお金のにおいがした。
「ええ、できますよ」
「じゃあ、助けてくれるか?」
「ものによります」
「孫娘が私にかわって、この店を切り盛りしているんだがね」
佐々木は建物を見た。そこにある小さな看板には、居酒屋ミズエ、とあった。
「ミズエ」
「そう。私がミズエ。孫はカオル。草冠によっこらせの重いに似たやつに、テンテンテンテン」
「薫……」
「そう。薫」
「その薫さんが呪いとどう関係が? まあ、呪われているということだとは思いますが」
「いや、まだ呪われてはいない。ただ、呪われそうな気がしている」
「……気がしている、とは?」
「わからん。ただ、そういう気がしている。薫は良くも悪くも真っ直ぐだからね。尊敬とか好意だけじゃなく、恨み辛みも持たれるんだよ」
「そういうもんですかね」
「そういうもんだよ。とにかく、その、やって来そうな呪いから薫を守ってほしいんだよ」
「その、やって来そうな呪いってのは、いつくるんでしょう?」
「わからない」
「なるほど。つまり、いつ来るかわからないけど、来そうな呪いに対処しろってことですね?」
「そうだね」
佐々木は顎を触った。このおばあさんの話は別に変なことではない。なんとなく嫌な予感が当たる人はいるし、それが呪いの可能性はゼロではない。しかし、問題はある。少なくとも二つ。一つは呪いが来るかどうかもわからないのに、期限なく対処しろという点。もう一つは一番大事なことだ。
「報酬は?」
「報酬?」
「ボランティアなら断る。仕事なら受けてもいいですよ。でも、その場合、報酬が必須条件です」
「報酬って、なんでもいいんか?」
「まあ、基本はお金です」と佐々木は言いながら、おばあさんを見た。「でも、お金になるものでも構いませんよ」
「じゃあ、宝くじは?」
「宝くじ?」
「私は昔から勘が鋭くてね。たまに当たるんだよ」
勘が鋭くて、たまに当たる。
佐々木は心の中で呟いた。
「宝くじですか。それなら、当たってからの仕事になりますが。それと、金額によっては請け負えなかったり、期間が短くなったりしますよ?」
「ええよ。わりと当たるから」
勘が鋭くて、たまに、わりと当たる。
佐々木はまた心の中で呟いた。
「じゃあ、あんた、駅前の宝くじ屋で今から言う数字のロトを買いなさい」
そう言うと、おばさんは目を閉じて、数字をぽつぽつと口に出した。その数字を佐々木は、携帯電話にメモした。
「じゃあ、それ、当たったら来て。当たらなくても、また来てよ。まれに外れるから、また数字を教えるよ」
勘が鋭くて、たまに、わりと当たる。まれに外れる。
「それで、この宝くじを買う費用は?」
「あんた持ちだな。それか、わたしの緊急用の銭かな。店の平皿がある棚の中の、上の板に一万円の入った袋を貼り付けとるから、そこから取りなさい」
「どうやって?」
「手で」
佐々木は首を振った。
「とにかくあんた、騙されたと思って買いなさい。小銭で買えるでしょ?」
佐々木はため息を吐きながらも、仕方ないと頷いた。
「当たらなかったら、働きませんよ?」
「ええよ。それで」
その日の夜、佐々木はミズエを訪れた。当たりくじは財布の中に入れて、それをしっかり持っていた。
暖簾をくぐり、扉を開けると焼き魚と酒のにおい、そして、賑やかな声がやってきた。
店内はこぢんまりとしていて、見渡さずとも満席に見えた。
「いらっしゃいませ! 何名様でしょうか?」
女店主がカウンター越しに、佐々木を見る。
彼女が孫か、と佐々木は思いながら、空いた手の人差し指を立てた。
「カウンターにどうぞ」
声に導かれるままカウンター席に座り、佐々木はビールを頼んだ。それから財布の存在を確かめ、当たりくじを想像し、久しぶりに贅沢をしてみようと思った。最近は、うまくもない町中華屋の、唯一うまいワンコインの大盛りチャーハンしか食べていなかった。そのせいか、お品書きの全てが輝いてみえた。
ビールジョッキがカウンターに置かれるのと同時に、佐々木はお造りとステーキとポテトサラダを頼んだ。すぐにやってきた馬鈴薯の形の残ったポテトサラダを食べ、一拍置いてビールを飲む。次にやってきた鯛と鮪の刺身を食べ感動する。ツマも紫蘇も食べる。ビールをお代わりし、その頃に熱々のステーキがやってくる。既に一口サイズに切られていて、小皿にソースとわさび醤油が入っていた。解ける肉に息を漏らし、口にあった甘く溶ける油をビールで流しこんだ。
二口目以降は時間をかけた。美術館で絵画を見るように、ゆっくりと味わった。生産者の人生を考えるくらいに。
どのくらいの時間が経ったのか、二つあるうちの一つのテーブルは空き、カウンターにいる客も一組になっていた。
佐々木はお品書きを手に取り、それから薫を見た。カウンターの客と話している。湯呑みを持っていて、中は水かお茶だろう。年齢は二十代か、いっても三十代半ば。快活で、元気がよい。性格的に真っ直ぐに見える。ただ、竹を割ったような感じなのかはわからない。もしかしたら八方美人かもしれない。
「すみません」
佐々木が言うと、薫は、はーい、とやってきた。
「海鮮丼を一つ」
「はい。少々お待ちください」
薫はてきぱきと働いていた。カウンターからはよく見えないが、料理の手つきもいいのだろう。
出てきた海鮮丼にはマグロの漬けと鯛とイクラが乗っていた。佐々木はそれをまたゆっくりと食べ始めた。その途中で、カウンターの客も会計を始めた。
海鮮丼を食べ終わると、佐々木はカウンターの裏に呪い感知の紙を貼って、席を立った。
会計はそこそこいった。とはいえ、それは町中華を日々食べているせいでそう思う気がした。高級レストランの常連であれば、格安だと思うのだろう。
もう一度、薫を見た。今日も一日働いた、という満足気な笑顔と疲れがみえた。
呪われてはいない。そういう気配はない。
「ありがとうございました。またお越しください」
「ごちそうさま」
佐々木はそう言って、店を出た。
夜はさっきよりも深くなっていた。人が減り、街の寝息が聞こえそうだった。
「薫のこと頼むよ」
その声の方を見ると老婆がいた。
「はい。仕事は受けます。薫さんは一人暮らしで?」
「もちろん」
「大変だ。そっちも監視しなきゃいけないのか」
「……何等が当選したんだい?」
佐々木は首を振った。
「教えたくないですね」
薫の借りている部屋は店から歩いて三十分のところにあった。帰宅路に関してはとくに呪いの準備段階のような嫌な気配はなく、ただの道だった。
薫は店の後片付けが終わると終電に乗り、最寄駅で降りてから五分歩くか、タクシーに乗って帰った。もしくは、そのまま店に泊まっているようだった。歩いて帰ることがないのは好都合だった。ストーカーのように尾行する必要もない。
佐々木は三度、薫の部屋まで行った。一度目は薫の乗ったタクシーを尾けて。二度目は昼間に。三度目は薫の働いている夜に行った。
もちろん何もなかった。呪いも変質者もいなかった。あったのは、小綺麗なマンションだけだった。日当たりも良い。少し行くと公園もあった。鬱蒼とした自然がなく、変な影もなかった。
あの店が現場になるのだろうか。
それでも念の為に、佐々木はエントランスの横のメールボックススペースに行き、薫の部屋番号の書かれた郵便入れの中に呪い避けの紙を貼った。
それから毎週、一回か二回程、薫の店に顔を出すことにした。必ずカウンターに座り、料理とお酒を楽しみつつ、カウンターの裏に貼った呪い感知の紙を貼り替えた。
しかし、感知はしなかったし、呪いの気配もなかった。本当に呪われるのだろうかと疑問に思い、おばあさんに今一度聞いた。
「呪われる」
おばあさんは不吉を予言する占い師のように言った。
我慢の限界が来たのは数ヶ月経った頃だった。半地縛霊のように店に縛られる日々に嫌気が差した佐々木は、呪いを待たずに、呪いの種を見つけに行くことにした。
薫が呪われるとしたら、どのようにしてだろうと佐々木は考えた。所謂、神やら霊やら自然やらといった人外由来のものは選択肢から除外した。そういった由来の呪いは速効性がある。例えば火事や水害。または急病。何もせずに見ていることはない。少なくとも佐々木には物陰から様子を伺う自然由来の呪いに対峙した経験はない。
じゃあ人由来だ。人由来の方が呪いのバリエーションは多いが、自然由来にはないものがある。それは機会を伺うということだ。例えば事故。誰かから押されて階段から落ちるなど、タイミングを計り、呪いを遂行する。
真綿を絞めるように追い詰める病の呪いもあるが、薫にはそういった兆候はない。すこぶる元気だ。
聞き込みや調査など、探偵紛いの仕事は好きではなかったが、佐々木は呪いの主を見つけ出すことにした。交友関係を調べるのが定石だろう。怨恨は顔見知りの場合が多い。交際相手の有無は聞いてないが、おそらくいないと思われる。念の為におばあさんに聞いてみたが、呪いのときと同じくらい、いない、と言い切った。
「あの子には男運がそんなにないみたいでな。付き合った二人の男に相次いで浮気されてたわ。あれだ、尽くし過ぎるんだな。尽くし過ぎると、男は安心して浮気する。ああこいつは心底俺に惚れ込んでいるし、俺がいなきゃ生きていけないんだなと、都合よく考える。情け無い。薫にはあんまり追いかけるといかんぞ、追いかけられるくらいが丁度いいぞと言ったんだがな。……とにかく恋人は今はいないね」
「友人は?」
「高校のときの友だちが一人いるよ。少し遠くに嫁いでいるみたいで、会うのは年に一回くらいかね」
「他には? 大学の友人とかいるのでは?」
「薫は大学には行ってないよ」
「専門学校とかも?」
「そう。私のツテでちょっとした会社に入れてやったのさ。事務職だけどな。私の顔も立てたのか五年くらいは勤めたかねえ。でも、性に合ってなかったのか、辞めて私の手伝いをし始めたよ。……あの頃は楽しかったね。助かったし」
「そのときに恨みを買ったとかいう話は?」
「聞いてないね」
「念の為、会社の名前聞いていいです?」
佐々木はおばあさんから会社の名前を聞き、メモをとった。
「ちなみに、薫さんが会社に入れたツテとは?」
「店の常連さんだよ。その人が会社の取締役の一人でね」
「その人の名前は?」
「もう亡くなってるけど?」
「じゃあ、大丈夫です。ちなみに常連さんに変な人は? 薫さんに恋愛感情持っていて、ストーカーになりそうな人とか」
「いないね。そんなやつはすぐに追い出すよ」
佐々木は、そんなにうまくはいかないな、とため息を吐いた。
それと同時に、根拠のない自信があった。自分は運がいい。棚ぼたではないが、動いたら必ず果報がある。不運があれば、幸運がある。
薫の元勤め先には、昼過ぎに行った。そこは二級河川の近くにあるオフィス街にあった。佐々木はその高いビルを上から下まで眺めた。
嫌な感じはしない。
人間的なネガティブな何かはあるが異質でなく、必要不可欠にも見えた。
佐々木はそのビルをぐるりと周ってみたが、やはり何かしらを感じることはできなかった。自動販売機で水を買い、飲む。ビルが見える公園を発見し、ベンチに座りながら、とにかく何かないか待つことにした。
夕闇が訪れた頃、少し嫌な感じがした。それは夜の顔が見えたせいかもしれないが、佐々木は腰を上げ、ビルに向かって歩き出した。
ビルからは定時帰りの社員たちがぞろぞろと出てきていた。その流れをじっと見ている女が一人いた。水を堰き止める岩のように動かず、容貌は滞留している枝のようだった。服装はオフィスカジュアルだったが、薄い青の膝丈のスカートとブランド物の黒いバッグが浮いていた。
女はビルの自動ドアから少し離れた植え込み近くに立っていて、目だけをぎょろぎょろと動かしていた。
佐々木は女の顔を見やり、人の流れに逆らってビルに入った。エントランスにあったソファに座り、女をさらに観察した。
女の化粧は薄く見えた。ただ、それは薄く見せた厚化粧かもしれない。そして、どこか幸薄さを感じた。それを彼女は自分のせいだと思っているのか、世界のせいだと思っているのか。佐々木は二者択一を自分に提示したが、答えは出なかった。ただ、なんとなく、どちらにしても、女の中に傲慢さが潜んでいる気がしてならなかった。
女は一時間ほど、そこに立っていた。そして、腕時計を見て、地面を二回踏んだ。
女は待ち人来ずといった感じで踵を返した。佐々木はすぐさまソファから立ち上がり、女の後をつけた。
女は電車に乗り、オフィス街から離れた。それから雑多な街で降りて、オートロックのある五階建ての小さなアパートに入っていった。
佐々木は入り口が見える場所に移動し、そこでスマホをいじるフリをしてじっと待った。幸い、警察官や存在を怪しむ地域住民はいなかった。
一時間少し待っただろうか。女がアパートから出てきた。その横には大学生くらいの男が一緒で、手を繋いでいた。佐々木は彼らを、三十メートル程度見送ってからつけた。幸いにも夜のネオンが明るく、夜の中でも見失うことはなかった。
二人は国道を横断し、それからホテル街へと向かった。そして、それが当然のようにラブホテルへと入った。
「ふーん」と佐々木は口に出し、そのホテルを素通りした。
次の角まで歩くと、佐々木は立ち止まり、またホテルの方へと歩いた。ネオンの光から隠れるような暗い玄関をまじまじ見つめたあと、アパートに戻った。
女を待ったところとは少し離れた場所に佐々木は立ち、携帯電話で風俗店を調べていった。地域を絞り、アパートの住所と合っているか確かめる。
人妻専門の風俗店が一致した。
勤めている風俗嬢の顔もわからないか調べたが、そこにある画像は顔を隠したランジェリー姿の女性だけで、存在自体が疑わしかった。もちろん女の姿も、それらしき画像もなかった。ミキとかマコとか、サユリとか、並べられた名前のどれかが女かもしれない。しかし、本名ではないだろうから、結局、どれも女ではない。
佐々木は息を吐き、携帯電話をしまった。
二時間と、もう少し待っただろうか。女が一人だけで歩いて戻ってきた。疲れているようには見えず足早だった。
佐々木は立つのに疲れて、早いところ事を済ませたくなった。自分は探偵でも、刑事でもない。待つのは疲れた、と腰を揉んだ。
タイミングを計り、オートロックを解除した女と一緒にアパートに入った。当たり前に女は警戒しているようだったが、逃げ出すことはなかった。
佐々木はエレベーターが五階から一階に降りてくるのを女と待った。ただ声はもう掛けることにした。
「水口薫という名前に聞き覚えは?」
女は人間とは思えない速さで首だけを動かし、佐々木を見た。そして、目を見開き、口をパクパクと動かした。
「お仕事、何時に終わりますかね」と佐々木は心の中で拳を握った。「とりあえず、駅前の24時間営業のファストフードで時間を潰しますよ。二階にいます。寝ていたら起こしてください」
佐々木はそれだけ言って、背中を向けた。嫌な視線が刺さるのがわかったが、気に止むほどではない、とアパートを出た。
女がやってきたのは、朝まで遊んだ学生たちが散らばり、早朝勤務の社会人が集まってきていた頃だった。
佐々木は窓から階下の人々をぼーっと見ていて、そこに声をかけられた。振り返ると女が立っていた。疲れているのがわかった。
「水口薫」と女は言った。青白い顔だが、瞳孔は開いていた。
「そう。水口薫」と佐々木は返し、席を立った。「詳しい話は、あなたの家で話しましょう。公共の場で話すことでもない。水口薫が今、何をしているか知りたいでょう」
女の家にはタクシーで向かった。三駅ほど離れた住宅街にあり、勤め先のアパートよりも古い四階建ての建物の306号室だった。ワンルームで、部屋の中はお世辞にもきれいだとは言えない。清潔感がないというより、雑多だった。買い物バッグとビニール袋が一緒に転がっていたり、ペットボトルの入れられたゴミ袋のすぐそばに空のペットボトルがあったり、どこか落ち着かなかった。良く言えば生活感がある。ただ、どれにも命が宿っていないような、嫌な雰囲気があった。
「どうぞ」
女は佐々木に、クッションを勧めた。佐々木は、どうも、とそこに座った。
小さなテーブル越しに、対面してみると、女の疲労度がよくわかった。ぐったり、といった体の疲れではない。顔の表面に感情が出てこない類の、精神的な疲れだった。女の顔は能面に似ている。
「水口薫」と女はテーブルに手をついて言った。
「水口薫」と佐々木は返した。
「あの女、今どこにいるの?」
「その前に、あなたの名前は?」
「私の?」
「そう」
「知らないの?」
「知りません」
「何で、あなたに名前を言う必要があるの?」
「僕だって、水口薫のことを誰かに言う必要はありません」
女は目線を壁、天井、窓に移したあとに佐々木を見て、名前を伝えた。
「じゃあ、あの女のことを教えて」
「カコさん。水口薫と何があったんです?」
「その前に、あの女の居場所を教えて。会社にいっても、出てこない。見つからない」
「会社に電話はしました?」
「電話? してない。電話は嫌い。怪しまれるのも嫌」
「そうですか……。彼女の居場所ですが、まだ教えられません」
「はあ?」
能面に少し表情が戻る。
「最後には必ず教えます。なので、まずは、いろいろ聞かせてください」
「いろいろって?」
「カコさんと、水口薫についてです」
「水口薫は最低な性格をしているよ」
そこからの女は饒舌だった。難しい仕事を入社そこそこの派遣社員に渡して、肩身の狭い思いをさせられた。そのせいで仕事も辞める羽目になった。鬱になった。金がなくなった。水商売をせざるえなかった。つらい。かなしい。悔しい。憎い。恨んでいる。
毒の成り立ちがそこにあり、呪いへの道筋ができあがっていた。線香の煙のように緩やかに、線香花火の玉のように、呪いの種子が埋め込まれているのを佐々木は認めた。
佐々木個人としては、環境や他人のせいにするカコの気持ちがわからなくもなかった。ただ同調はできない。
わかるよ、わかるよ、じゃあさようなら。
そんな気分だった。
「水口薫は、居酒屋で働いています」
佐々木は、カコの話を無視して、店の名前と住所の書かれた紙をテーブルに出した。
「ほんと?」と女は紙を手にとった。
「はい」
「ここで、働いてるのね?」
「はい」
「はっ、店員に成り下がったのかしら。それともお店開くのが夢だったとか? まさか結婚?」
「刺したりは、しないでくださいね」と佐々木はテーブルの上で手を組んだ。
「しないわよ。してやりたいけど。……そういえば、あなたとあの女の関係ってなに?」
「わかりません」
「わかりませんって……。じゃあ、なんで、あの女の情報を私に教えてくれるの?」
「教えられません」
「なぜ?」
「機密事項です」
「きみつ?」
「ええ」と言って佐々木は立ち上がった。「私の要件はこれだけです。何度も言いますが、刺したり、殴ったり、自分で何かを起こそうと思わないように。もし起こしたら、反撃します」
「……刺したりは、しないわよ」
「よかった。では」
佐々木はふっと笑い、部屋を出た。道路へ出て、カコの部屋が見える位置まで移動し、様子を眺めた。通勤する人々や通学する学生たちの幾人かは佐々木を怪訝な目で見た。
二時間もすると、佐々木は深く息を吐いた。安堵のそれだった。
呪いへのシグナルが、カコの部屋から発信されるのを感じていた。
「つまり、呪われるように仕向けたの?」
薫は驚きと怒りと、その他の説明できない感情を抱えて言った。
「そう、ですね。だって、薫さんが呪われるまでじっと居続けるわけもいかないでしょう」
「いや、いてください!」と薫は頭を片手で押さえた。なぜかはわからなかった。押さえてから頭が痛くなり始めた。
「いや、でも、帰ってほしがってましたよね?」
「そうです! でも、そうじゃないでしょう?」
佐々木は酔いに任せて、へへっと笑った。
「私を恨んでる人に店のこと話すなんてありえない」
「まあ、でも、そうしないと」
「自分勝手! 相談もしないで」
「先手必勝とも言います。虎穴に入らずんば虎子を得ずとも。相談については、考えてなかったですね。あなた呪われますよと言って、ああそうなんですねと思います? 例え、おばあさんの話をしても、実際に呪いが来ないと信じないでしょう」
「でも、今度はその、カコさんが直接やってきて、刺されるかも」
佐々木は肩をしゃくり上げた。
「おそらく大丈夫です。今ごろ、カコさんは痛い目にあっているでしょう」
「痛い目って?」
「死んでるか、再起不能の大怪我をしているか」
「それも目覚めが悪い! 他に方法があったんじゃ?」
「私には思い付きません。カコさんを鎮める術も、カコさんを呪うこともできません。そもそも自業自得だとは思いませんか? 薫さんは何一つ悪いことをしていないのに」
薫さんため息を吐いた。学生の頃の、あれこれがふと蘇った。よく勘違いされる。そのせいで、嫌がらせを受ける。私が悪いのかもしれない。勘違いされるようなことをしているのかもしれない。
「薫さんは悪くないですよ」
「そうで、すかね?」
「僕がわかる範囲ではそうです」
薫は頷いた。でも、顔は上げなかった。
「……カコさん、どうにかできないでしょうか」
「できないですね」
「私は、悪くないです」と薫は嫌な記憶を振り解くように言い切って、顔を上げた。「でも、カコさんも悪くないですよ?」
「呪いに繋がるくらい恨んでるのに?」
「勘違いをしただけです」
ふふっ、と佐々木は笑った。
「真っ直ぐなのはいいことです。でも、真っ直ぐが必ずしも幸せに繋がるとは限りません」
「べつに真っ直ぐのつもりはありません。何かないかと諦めきれないだけです」
佐々木は額を撫でた。
「……僕にはどうにもできませんが、別の人間ならどうにかできるかもしれません」
「本当に?」
薫は身を少し佐々木に寄せた。
「可能性はあります。僕にわかるのは可能性ってだけです」
「お願いします。その方に頼んでください」
薫の頭の中に、威厳のある高齢の男性もしくは女性の姿が行き来した。おそらく、彼らの世界の、それなりの人なら解決できるのだろう。
「お願いだけですよ。受けてくれるかどうかもわかりません」
佐々木は携帯電話を取り出し、電話をかけた。
相手は10コール目で出た。
「おう。久しぶり」
おう? 佐々木のラフな一声に、薫の想像が一瞬にして崩れる。
「うん。で、お願いがあるんだけどさ。あのー、呪いを返したんだけど、その呪いを返した相手を、なんと言ったらいいんだろ、マシな状態にしてほしいんだよね。…まあ、そうだよな。意味不明だよな」
薫は、うーん、とか、まあ、とか、そうだよな、と煮え切らない相槌をする佐々木を見ていた。
呪いの専門家と名乗る佐々木。しかし、思い出す。彼は、酔っている。このまま交渉を任せてもいいものだろうか。
「あの、佐々木さん?」
「え、ああ、ちょっと待って。うん、わかってる」佐々木は携帯電話から耳を離した。「なんです?」
「あの、私に代わってくれます?」
「薫さんに?」
「はい」
佐々木は一瞬考えたが、まあ、いいでしょうと頷いた。
「いいですよ。でも、相手はちょっと曲がってますからね」
「曲がってる?」
「まあ、いろいろあるやつなんです」
そう言いながら、佐々木は携帯電話を薫に手渡した。薫はすぐに耳に当てた。
「もしもし?」
「はい」と男の声が聞こえた。おじさんではない。若い。
「あの、佐々木さんからもお願いがあったかと思いますが、助けていただきたい人がいるんです」
「僕はお願いは受け付けていません」
鳩尾あたりが少し硬くなったのがわかる。
「どうしたら助けていただけるのでしょうか」
「僕は善意では動きません。正式な依頼をもって仕事をしています」
「では依頼をしたいです」
佐々木は首を振ったが邪魔はしなかった。グラスの底に残ったウーロンハイ飲み切った。
「どのような内容ですか?」
「私、どうやら呪われたみたいで、それを佐々木さんが相手に返してくれたんです。でも、本当のところ、私も相手も何も悪くないんです。ボタンの掛け違いみたいな。だから、その相手をどうにかして助けてほしいんです」
「助ける……。どのような状態が助かった状態なんですか?」
「たぶん、私のことなんかどうでもいい、気にしていない状態です」
「それなら、まだ、可能性はありますね。問題はそれよりも」
「待った!」と佐々木は口を挟んだ。「薫さん、『私には何もせずに、相手だけを対象として』と言ってください」
薫は不思議に思いながら頷いた。
「あの、私には何もせずに相手だけを対象としてください」
「そうしないと、薫さんが消されるかも」と佐々木は笑みか真面目かわからない表情で首を振った。
「わかりました」と男は言った。「……では、報酬ですが」
「報酬」と薫はそれを思い出した。「報酬ですね」
「二億円です」
「え?」
「全て込みで二億円です。それ以上はもらいません」
「いや、無理です」
「では、この話はなかったことに」
「いや! ちょっと待ってください」
薫は佐々木を見た。
「何です?」
「二億円らしいです。貸してください」
「無理です」
「いや、貸してください」
「無理です」
「お願いします。お食事代、ずっと一割引きにします」
「無理です」
それからまた押し問答を繰り返していると、携帯電話から声がした。薫はそれに思わず声を張って反応した。
「何ですか?」
「隣の男に代わってもらえますか?」
「となり? ああ、はい」
「もしもし」と佐々木は携帯電話を受け取った。
「二億円くらい払えるよね?」
「払えないね」
「そっちの報酬、えげつなかったんじゃない?」
「そっち? そっちって?」
「とぼけなくてもいいよ。なんとなくわかる。もう三年もこの世界にいるから」
まだ三年のくせに、と佐々木は心の中で拳を握った。
「まあ、そうだな。でも二億円も払えない」
「わかった。じゃあ、そっちでなんとか対処するしかないね」
「呪い返し専門だから、無理だ」
「いや、僕もいろいろ理解した。これはある意味では一族の尊厳に関わることだよ。とりあえず僕は、叔父さんの隣にいる女性の依頼には応えることにした」
「本当に?」
「うん。ただ、二億円の報酬がなければ、それ以上、僕は介入しない」
「二億円は高すぎるだろ」
「わかってない。叔父さんは。もう少し考えて行動した方がいい」
「何を?」
「今回の件、報酬に見合った仕事? 依頼は誰からされた? それって異常じゃない? ……まあ、いいや。あとで、対象者の名前と住所を送って。あと、隣にいる人に代わってくれる?」
佐々木は首を傾げつつ、また携帯電話を薫に渡した。
「もしもし」
「あなたの依頼は受けます。これはサービスです」
「よかった。ありがとうございます」
「でも、気をつけてください。隣にいる佐々木という男にはそれとなく言っていますが、あなたも」
「どういうことです」
男は何も言わず、電話はそのまま切れた。
「……なんか、気をつけろって言ってましたけど」
「はい」
薫から携帯電話を受け取りつつ、佐々木は考えた。しかし、酔った頭ではうまく物事を繋げないのか、何度も首を捻ったり、頭に手を置いていた
「でも、とりあえず大丈夫なんですよね。私も、カコさんも」
「ええ、彼がなんとかやってくれるでしょう」
「よかった。……そういえば、佐々木さん」
「何でしょう」
「私、佐々木さんのこと警察官か何かだと思ってました。事件のこと、いろいろ話すし、機密事項とか言うし」
「まあ、機密は機密ですけどね」
「あれって、全部本当の話なんですか?」
「さあ」
「さあ、って」
「機密事項ですからね」
沈黙。そこで、薫は雨音がしなくなっていることに気がついた。
「……雨、止みましたね」
「そうですか」
佐々木は立ち上がり、財布を出した。
「お会計お願いできますか?」
「お会計はいりません。サービスです」
「なぜ?」
「だって、呪いを返してくれたんですから」
佐々木はふふっと笑った。
「その報酬は貰ってますからねえ。でも、まあ、ご厚意に甘えましょう。でも、薫さん」
「なんでしょう?」
「呪いなんて、本当は信じないほうがいいんですよ。そんな世界、嘘の方がいいんです。その方が平和です。でも、気をつけることに越したことはありません。とくに薫さんは呪われやすそうだから」
「縁起でもない」
その言葉を聞いて、佐々木は笑った。
「じゃあ、私はこれで」
「タクシー呼びましょうか?」
「いいえ、歩いて帰ります」
佐々木はまだ乾ききっていない上着を羽織った。入り口へ向かうと、薫も付いてきた。
「佐々木さん、本当にありがとうございました」
「いいえ、仕事ですから」
「あの、仕事じゃなくても、たまにはお店に来てください」
「ええ。薫さんの美味しい料理が恋しくなったら、また」
入り口の扉を開けてもらうと、佐々木は外に出た。雨はしっかり上がっていて、寝ぼけたようにネオンが光っている。
「少し寒いですね」
「やっぱりタクシー呼びましょうか?」
「いえ、歩いて帰ります」
佐々木が歩き出し、薫はその背中を見送った。佐々木が一つ先の角を曲がるのを見て、薫は店に戻った。
呪いを返し終わり、薫の店を後にした佐々木は、店の一つ先の角を曲がり、そこで三分待った。角から店先を覗くが、薫はいない。
佐々木は踵を返し、店の近くまで戻った。そして、視線を下げた。
「仕事は終わりでいいですよね」
佐々木は依頼主である、薫のおばあさんに話しかけた。
おばあさんは佐々木を見上げ、にこりと笑った。
「ありがとう。でも、終わってないよ」
「いや、呪いは返し終わった。仕事はおわりでしょう」
「まだ」
「まだ?」
「残念ながら、まだ始まってない」
「始まってない? いや、始まって終わった」
「いや、始まっていない。あの子は、呪われる」
「誰に?」
おばあさんは首を振った。
「わからない。わからないから頼んでいる」
佐々木は唇を噛んで考えた。しかし、答えの想像さえできない。
「だけど、とりあえず終わりでしょう」
「どうだろうね。……というより、あの呪いを連れてきたのはあんたじゃないか。あんたが何もしなければ、呪いはあの子まで届かなかったんじゃないかしらねえ」
佐々木は鼻で息を大きく吸い、吐いた
「あと、残念だけど、私もそろそろ行かなきゃならないみたいだ」
「どこへ?」
「わからない。呼ばれている。行かなきならない。……でも、少し安心したよ。あんたに頼むことができた」
「孫を置いて行くのか」
「そういう運命さ。あの子が呪われるのも、あんたが対処するのも、きっと運命だね」
佐々木が黙っていると、おばあさんは口角を上げた。
「呪われる。知っているだけでも、いいほうじゃないか」
「どうだか」と佐々木は首を掻き、頭の中で呪いに対する知識を開いて、すぐに閉じた。
「とにかく、頼んだよ」
佐々木は仕方なく頷いた。甥の言っていたあれこれが酔った頭の中をぐるぐる回っている。眩暈がして、思わず目を抑える。手を退けると、おばあさんはいなくなっていた。
あの日のように、今日も雨が降っている。夕方には小降りだった雨も、今はもう土砂降りで、それを見越していたのか、客足も遠かった。
こういう日こそ、佐々木さんが来てくれないかしら、と薫はカウンター席で頰杖をつきながら思った。
だが、ここ最近、佐々木は来ていない。店に居座る理由がなくなったのか、それとも大事件が起きたのか。しかし、ニュースを見ても世間を揺るがす事件は起きていなかった。ある意味平和な芸能人の不倫騒動が、まるで世紀の大犯罪かのりように取り沙汰されているだけだ。
もう店終いしようかしら。
薫がため息を吐いて席を立つと、ザァーとさらに大きな雨音が聞こえてきた。
入り口扉を開けると、雨音が雪崩れ込んできた。目の前では、白い線が上から大量に落ちてきていて、夜の黒さも、虹色のネオンも塗りつぶされそうになっている。まるで滝を内側から見ているようだった。
そんな経験はないけど、と薫は心内で呟いた。
暖簾を下ろし、扉に鍵をかける。
さて、火の元を確認して帰ろう。いや、この雨だ。今日は二階の座席に布団を敷いて泊まろうかな。
そうこう思案していると、
ガシャ、ガシャ
という音が雨の中に聞こえた。その方向を振り返ると入り口扉だった。ガシャ、ガシャ、ドン、ドンと扉が震え、鳴っている。磨り硝子の向こうに影が見える。
ああ、佐々木さんだ。この間抜けたタイミングはそうに違いない。
薫は一歩、扉に近づいた。
プルルルルル
今度は何だと、音の方を振り返る。電話機のランプが光っている。扉を開けてから、電話を取ろう。そう思ったが、なんとなく電話機の方に足が向いていた。
「佐々木さん、ちょっと待っててくださいね」
薫はそう言ってから、受話器を取った。
「はい、居酒屋ミズエです」
「ああ、よかった」と男の声が聞こえた。「佐々木です」
「佐々木さん?」
「ええ。佐々木です」
確かにその声は佐々木だった。
「佐々木さん?」と薫はもう一度、確かめる。
「はい。佐々木です」
「あの、今、扉を開けようと思ってたんです。待っててください」
「開けちゃダメです」
「え? どういうことです?」
「誰か来たんですね?」
「佐々木さんでしょ?」
「僕はまだタクシーの中です。薫さん、今、外にいるのは僕じゃありません」
ガシャ、ガシャ
入り口扉がまた震えた。まだ雨は降っているはずなのに、聞こえない。
「薫さん。佐々木です。開けてください」
入り口から声が聞こえた。こちらも確かに佐々木の声だった。いや、どうだろうか。
「開けちゃダメですよ。僕が行くまで待っていてください」
受話器から声が聞こえている。
「薫さん。電話を切ってください」
扉からも声が聞こえている。
「薫さん。開けてはダメです」
「薫さん、早く」
「薫さん。ダメです」
交差する声に薫は動けなかった。
耳も、目も、縛られている。薫はそう思い、せめて意識は、と体から離そうとした。
「薫さん。意識はまだありますね?」
耳元の佐々木の声で、なんとか意識を繋ぎ止めた。
「扉のやつに何か僕らにしかわからない質問をしてみてください。答えられずに去っていくかもしれません」
「薫さん。雨でびしょ濡れです。早く開けてください」と扉がまた震えた。
薫はなんとか正気を保ち、息を整えようとした。扉はまだ叩かれていて、その向こうでは黒い影がゆらゆらと規則的に動いている。
薫は何を聞こうか逡巡した。だが、兎にも角にも今やってほしいことを聞くことにした。それ以外考えられなかった。
「お店を閉めたあと、私が佐々木さんに一番やって欲しいことはなんでしょう?」
耳元では笑いが起こった。しかし、扉の向こうはからは声がしない。ただ、ガシャガシと扉が動いている。
「何でしょう」
「薫さん。早く開けてください。雨が強いです」
「何でしょう!」
薫が叫ぶと扉はピンと糸を張ったように動かなくなった。店の中の静寂が聞こえた。薫の息遣いだけが部屋を支配した。それから、しばらくすると雨音が戻ってきた。動いていた影もいつの間にか消えていた。
薫は無意識に止めていた息を大きく吸った。ゆっくりと腰が折れ、両膝をついた。目を閉じて落ち着きたかったが、それと同時に閉じたくもなかった。閉じたら意識を失い、何かが来る気がした。
握り締めていた受話器からは何かが聞こえている。薫はゆっくりと耳に当てた。
「偽物は帰りましたね」
何なの。薫は思ったが言葉に出せなかった。
「本物はなかなか帰りませんからね」と佐々木は笑った。
薫はもう一度息を整えた。
「何だったんですか」
「もうすぐ着きます。今度は僕です。熱いお茶が飲みたいですね」
数分後、扉がコンコンと鳴った。薫はカウンター席から動けなかった。
「佐々木です。本物です」と扉の向こうから聞こえた。
「本当に佐々木さん?」
「はい。もう安心してください」
「安心できません」
「まあ、そうですよね。名刺を渡します」
「名刺?」
疑問に思っていると、扉の隙間から一枚の紙が覗いた。薫は恐る恐る立ち上がり、扉に向かい、それを抜き取った。
呪い専門 佐々木
「……なんですか、これ」
「僕の名刺です」
「呪い専門?」
「ええ」
「どういうことですか?」
「そのままの意味です」
「そのままの意味って?」
「熱いお茶を飲みながら話しますよ。薫さんに伝えたいこともありますし」
そう言われても、と薫は躊躇した。扉の向こうにいるのは、本当に佐々木なのか。もし違ったら。そんなことを考えつつ、それでも外にいるのは扉を叩いたりする人ではないと、鍵を開け、ゆっくりと扉を開けた。
佐々木の顔がそこにあった。
ほっとして、薫は息を吐いて、一歩身を引いた。佐々木はゆっくりと店に入ってきて、水滴のついた上着を脱いだ。薫は扉を閉めて、鍵をかけた。
「お茶淹れますね」
薫はキッチンへ行き、佐々木はいつものカウンター席に上着をかけて、座った。
お茶を佐々木の前に出し、薫も横に座って、水を飲んだ。水が食道を走っていくのを感じる。水を飲み込み、ようやく喉が渇いていたことに気付いた。
「あれ、なんだったんですか?」
薫の質問をひとまず置いといて、佐々木はお茶を啜り、あったまります、と呟いた。それからようやく薫の方に向き直って答えた。
「あれは呪いです」
その答えに、ああそうですか、と納得することが薫にはできなかった。
「呪い? 呪いって何ですか?」
「あるもの、または人物等から、ある対象に危害や災いを与える為の意思が発せられ、それが具現化したものです。主に所謂、霊的なものや、まあ、神的な事象が起こることが一般的ですかね。もしくは、おまじないもあります。こちらは願いを叶えたり、幸運を得るためのものですが、今回は違います」
「その、辞書的な意味はわかります。なんで、その、呪いがここに? というか、あれは呪いなんですか?」
「呪いです」
「なんで断言できるんですか。呪いって……。非現実過ぎて……」
「まず、なぜ呪いだと断言できるかどうかですが、それは僕が呪いを専門としているからです。霊媒とかお祓いとはまた少し違いますが、呪いの領域で収入を得ています。あとは調べたからです。簡単に言うと、薫さんが恨まれているかどうか。……あと、非現実かどうかという質問ですが、これは曖昧ですね。もう一つの世界に片足を突っ込んでいる。もしくはあっちに片足を突っ込まれている。そんなふうにも言えなくもないですね」
薫は水をまた飲んだ。まだ喉が渇いていた。
「いろいろわかりません」
「そう言う人が大半です」
「聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「まず、私は本当に呪われているんですか?」
「はい」
「誰に?」
「……カコさんという名前に聞き覚えはないですか?」
カコ?
薫はその音を頭の中で繰り返した。友人、親戚ではない。常連さん? いや、たぶん違う。
今まで出会ってきた何人もの顔に、カコという音を合わせてみたが、名前と揃うことはない。
「わかりません。誰ですか?」
「薫さんの元同僚です」
「私の?」
「はい。以前、事務の仕事をしていたって言いましたよね。そのときに一緒に働いたことのある人です」
薫は首を振った。
「カコさん。覚えがありません」
「一緒に働いたのは数日だけだと思います。彼女はすぐに辞めました」
「あの職場は派遣さんも多かったし、入れ替わりもよくあったから、そんな人はたくさんいます」
「そうですか。でも、彼女にとって、そんなことは関係なく、薫さんのことは特別でした」
「どんな人です?」
「風貌は、今は痩せています。昔の写真はもう少しふくよかでした。健康的な範囲で。髪は長くて」
「何歳くらいです?」
「三十五歳」
「年上……。やはり覚えていません」
「薫さんを恨んだきっかけは、些細なことでした。彼女にとっては重大なことでしょうけど」
薫は鼻で大きく息を吸って、吐いた。
「どんなことです?」
「仕事を頼んだことです」
「仕事?」と薫は眉を顰めた。「そんな、当たり前じゃないですか」
「ええ。ただのデータ整理です。書類に記載してある情報を打ち込んで、関数を使ってまとめたり。内容については、よくわかりませんでした。材料とか、資材とか、詳しいことは……。とにかく、その仕事が彼女にとっては難しかったらしく、こんな難しい仕事を新人の自分に渡すのは嫌がらせに違いないと。それから何も言わず派遣先の会社に行かなくなり、派遣会社も辞めて、今は水商売をやっているみたいです。でも、幸せは感じない。ストレスが多いらしく、鬱憤が溜まり、矛先が薫さんへ」
突然いなくなった人は何人か知っている。その中の誰かがカコさん。でも、わからない。
薫はカウンターをじっと見た。思い出そうとしたが、やはり無理だった。
「僕は相手が誰かわからないと対処できないんです。初めは呪いの方からやってくるかなと思ってのんびり構えていました。呪いを辿れば相手に繋がっている可能性が高いですからね。でも、なかなか来ない。もしかしたら、そんなに強い呪いではないのかもしれなと予想して、相手を探しに行きました。案の定、呪いの重さはそんなに。こういう雨の日にしか来れず、自分で扉を開けられない程度のやつです。運もよかった。薫さんの勤めていた会社に行ったら、カコさんに繋がりました」
「え、会社? どうやって見つけたんです? 教えてもいないのに」
「機密事項です。とにかく、カコさんを見つけました。住んでるところも。そして、呪いに繋がる発信がされていることも」
「信じられません」
「そうでしょうね。でも、先程、扉の前に何かが来ていたのは事実です。雨音と風のせいにしてもいいですけどね」
薫はそう言われると、少しだけ体を佐々木の方に向けた。
「私は呪われているんですね?」
「そうです」
「そのカコさんという人に」
「そうですね。私たちなりにもう少し訂正するならば、カコさんは薫さんが呪われるように祈っているというところでしょうか。呪いは事象で、誰かの行動ではないんです」
薫は『私たち』という言葉にひっかかったが、問うことはしなかった。それよりも自身に関係することを優先しなければならない。そう思い直した。
「それで、どうやって呪いを解くんですか?」
「私は呪いは解きません」
「え?」
「私は呪いをかえすのが得意でして」
「かえす?」
「そう。帰ってもらいます」
佐々木はお茶を啜った。
「帰ってもらうって?」
「はい。私は、お祓いはできません。だから、そのまま帰ってもらいます」
「どうやって?」
「方法はいろいろあります。多用するのはその呪いが嫌がるものを押し付けることですね。一般的に言うところのお札とか、聖水とか、ドラキュラなら十字架とかニンニクみたいな。もし、人の話が聞けるようなら説得しますけど、そんなコミュニケーションがうまくとれるような大それた呪いには幸運にも出会ったことがありません」
「……ちなみに、もう呪いは帰ったんですか?」
「まだです」
外の雨がまた強くなった気がした。何かが来る気配がなんとなく薫の中にあった。
「でも安心してください。帰しますよ」
そう言って佐々木はお茶を飲んだ。
ドンドン
「ほら来た」と佐々木は笑った。「でも入れない」
薫は無意識に両手を祈るように握り、カウンターに乗せた。
ガタガタ
「逃げないということは、やはりその程度のやつです。機会を得たら何とかすることしかできない。少しでも考えられる呪いなら、今日は諦めます」
佐々木はまたお茶を飲んだ。そして、立ち上がった。
どうやって帰すのか。疑問は薫の中にあったが聞くことはしなかった。不自然にがたつく扉がそうさせ、ただ佐々木を見ることしかできなかった。
「呪いには範囲もあるんです。たとえば地縛霊みたいに、限られたところにしか行けない、存在できない。いや、僕に霊感があるわけじゃないですよ? 例えばの話です」
ドン
早く対処しないのか。薫は思ったが、佐々木はそんな薫の視線を感じずに続けた。
「この呪いも範囲が限られていて、薫さんの住んでいるところには現れなかった。不幸中の幸いでした。もし範囲が広かったら、自宅で事故や事件に巻き込まれていてもおかしくなかった」
ガン
「何で私の家を知ってるんですか? いや、その前に佐々木さん、早くしたほうが」
「もし範囲が広かったら、僕がここにくることもなかったでしょう。その前にやられていたかも」
ドンドンドン
「佐々木さん!」
「わかっています。万が一にも扉が壊れたら雨が入ってきますからね」
そうじゃない。薫が言いかけたときに、佐々木は立ち上がり、扉に向かった。そして、揺れる扉の隙間に何か入れて、ぶつぶつと呟いた。その間も扉からは音が鳴り、揺れ続けた。
しかし、しばらくすると扉からは音が消えた。雨の音がまた聞こえてきた。
終わったの?
薫は小さく呟き、「終わったんですか?」と今度は佐々木に聞こえるように言った。
「はい。おそらく。カコさんが対処しなければ」
「対処って?」
「呪い帰し返しをしてこなければという話です」
佐々木は笑い、カウンター席に戻ってきた。
「まあ、カコさんにはそんな知識はないでしょう。他に頼る人もいなさそうでしたし」
薫は体の中にありそうな毒を息と共に吐き、空気を吸った。佐々木はそんな薫を見ながらお茶を飲んだ。
「佐々木さん」
「何でしょう?」
「私はまだ混乱しています」
「はい」
「一から話してくれますか?」
「一からとは?」
「このよくわからない話にも、事の始まりというのがありますよね?」
「そうかもしれません」
「では、話してくれますか?」
「どうでしょう。いや、やめときましょう。機密事項もありますからね」
「……そうですか」と薫は煮え切らない気持ちに蓋をしようとしたが、ふと思い直した。「あ、お酒飲みませんか?」
「お酒? ……お酒かあ」
「いい日本酒があるんです。お刺身はどうです?」
「……飲みましょうか」
鯛の刺身と鮪の山かけ、サイコロステーキ、枝豆と冷奴、ポテトサラダと明太卵焼きを食べ、日本酒を三合を飲み終えた頃には、佐々木は出来上がっていた。パクパクと無言で食べ、飲んでいたのに、ポツポツと薫と呪いについて呟いていた。
割と楽な仕事だった。報酬もよかった。霊は信じていないけど、残留思念だと思えば、まだ信じられる。
そんなことを口にしていた。薫は深く聞きたい気持ちをぐっと抑え、適度に相槌を打ち、佐々木が全部話し出すのを待った。
日本酒の後の、濃いめに作られたウーロンハイを半分飲んだところで、佐々木はいつものように話し始めていた。
「この話は、突然に始まります。脈略もあまりありません。強いて言うのであれば、私の血筋が呪いに対して術を持っていて、私がその少しを受け継いだからというところですが、そんなことを言ったら、全てに脈略が付いてしまうので無視します」
ちすじ? すべ?
薫は気になったが、聞くのをやめた。今は私の話だ、と水を呑んで堪えた。
「大体は私の生業を元々知っている人から依頼が来るのが本筋です。誰某が呪われている。恨まれているから呪われるかも。そういった類のことです。でも、今回は違います。初めての経験でした。僕がこの店に来始めた頃のこと覚えていますか?」
「はい。水曜日か、金曜日だったかな? とにかく空いていたカウンター席に座ってもらいました。とくに特別なことはありませんでしたよ?」
「そう。その日の午前中、たぶん十時くらいに、僕はこのお店の前を通りがかりました。ただの散歩です。僕の趣味は散歩です。とくに道路の狭い住宅地を歩くのが」
「そうですか」
「もちろん私道には立ち入りませんよ? でも、夢ですね。私道を持つのが」
「それで、お店の前で何か?」
佐々木は残り少なくなったウーロンハイを飲んだ。
「お店の前で呼び止められました。薫さんのおばあさんに」
「おばあちゃんに?」
「そうです」
「おばあちゃんは三年前に亡くなってますけど」
「はい。亡くなってるのはわかりました。三年前ということはわかりませんでしたけど」
「どういうことです?」
「一般的には幽霊と言っていいかもしれません。私にとっては残留思念、ということにしておきます。薫さんを守りたいという強い気持ちから生まれたプログラムみたいなものでしょうか。とにかくおばあさんに呼び止められました」
佐々木と目が合って、薫は頷いた。
「そこの人。呪いをどうにかできるかね?」
佐々木は人の気配を感じないところから声をかけられ、咄嗟に半歩、声の方から離れた。それから声の主を見て、それが腰の曲がりかけた一人のおばあさんということを認識した。そして、生きていないこともわかった。おばあさんの顔の血色は悪くなかった。生きていると錯覚してもおかしくないだろう。しかし、やはり、佐々木には生きているとは思えなかった。理由や理屈はない。感覚としかいえなかった。存在が異質。冷奴にソース。カレーライスに箸。そんな違和感があった。
生きている人間と呪い以外の何かに話しかけられたことのない佐々木は、少し戸惑いつつも返事をすることにした。なぜかお金のにおいがした。
「ええ、できますよ」
「じゃあ、助けてくれるか?」
「ものによります」
「孫娘が私にかわって、この店を切り盛りしているんだがね」
佐々木は建物を見た。そこにある小さな看板には、居酒屋ミズエ、とあった。
「ミズエ」
「そう。私がミズエ。孫はカオル。草冠によっこらせの重いに似たやつに、テンテンテンテン」
「薫……」
「そう。薫」
「その薫さんが呪いとどう関係が? まあ、呪われているということだとは思いますが」
「いや、まだ呪われてはいない。ただ、呪われそうな気がしている」
「……気がしている、とは?」
「わからん。ただ、そういう気がしている。薫は良くも悪くも真っ直ぐだからね。尊敬とか好意だけじゃなく、恨み辛みも持たれるんだよ」
「そういうもんですかね」
「そういうもんだよ。とにかく、その、やって来そうな呪いから薫を守ってほしいんだよ」
「その、やって来そうな呪いってのは、いつくるんでしょう?」
「わからない」
「なるほど。つまり、いつ来るかわからないけど、来そうな呪いに対処しろってことですね?」
「そうだね」
佐々木は顎を触った。このおばあさんの話は別に変なことではない。なんとなく嫌な予感が当たる人はいるし、それが呪いの可能性はゼロではない。しかし、問題はある。少なくとも二つ。一つは呪いが来るかどうかもわからないのに、期限なく対処しろという点。もう一つは一番大事なことだ。
「報酬は?」
「報酬?」
「ボランティアなら断る。仕事なら受けてもいいですよ。でも、その場合、報酬が必須条件です」
「報酬って、なんでもいいんか?」
「まあ、基本はお金です」と佐々木は言いながら、おばあさんを見た。「でも、お金になるものでも構いませんよ」
「じゃあ、宝くじは?」
「宝くじ?」
「私は昔から勘が鋭くてね。たまに当たるんだよ」
勘が鋭くて、たまに当たる。
佐々木は心の中で呟いた。
「宝くじですか。それなら、当たってからの仕事になりますが。それと、金額によっては請け負えなかったり、期間が短くなったりしますよ?」
「ええよ。わりと当たるから」
勘が鋭くて、たまに、わりと当たる。
佐々木はまた心の中で呟いた。
「じゃあ、あんた、駅前の宝くじ屋で今から言う数字のロトを買いなさい」
そう言うと、おばさんは目を閉じて、数字をぽつぽつと口に出した。その数字を佐々木は、携帯電話にメモした。
「じゃあ、それ、当たったら来て。当たらなくても、また来てよ。まれに外れるから、また数字を教えるよ」
勘が鋭くて、たまに、わりと当たる。まれに外れる。
「それで、この宝くじを買う費用は?」
「あんた持ちだな。それか、わたしの緊急用の銭かな。店の平皿がある棚の中の、上の板に一万円の入った袋を貼り付けとるから、そこから取りなさい」
「どうやって?」
「手で」
佐々木は首を振った。
「とにかくあんた、騙されたと思って買いなさい。小銭で買えるでしょ?」
佐々木はため息を吐きながらも、仕方ないと頷いた。
「当たらなかったら、働きませんよ?」
「ええよ。それで」
その日の夜、佐々木はミズエを訪れた。当たりくじは財布の中に入れて、それをしっかり持っていた。
暖簾をくぐり、扉を開けると焼き魚と酒のにおい、そして、賑やかな声がやってきた。
店内はこぢんまりとしていて、見渡さずとも満席に見えた。
「いらっしゃいませ! 何名様でしょうか?」
女店主がカウンター越しに、佐々木を見る。
彼女が孫か、と佐々木は思いながら、空いた手の人差し指を立てた。
「カウンターにどうぞ」
声に導かれるままカウンター席に座り、佐々木はビールを頼んだ。それから財布の存在を確かめ、当たりくじを想像し、久しぶりに贅沢をしてみようと思った。最近は、うまくもない町中華屋の、唯一うまいワンコインの大盛りチャーハンしか食べていなかった。そのせいか、お品書きの全てが輝いてみえた。
ビールジョッキがカウンターに置かれるのと同時に、佐々木はお造りとステーキとポテトサラダを頼んだ。すぐにやってきた馬鈴薯の形の残ったポテトサラダを食べ、一拍置いてビールを飲む。次にやってきた鯛と鮪の刺身を食べ感動する。ツマも紫蘇も食べる。ビールをお代わりし、その頃に熱々のステーキがやってくる。既に一口サイズに切られていて、小皿にソースとわさび醤油が入っていた。解ける肉に息を漏らし、口にあった甘く溶ける油をビールで流しこんだ。
二口目以降は時間をかけた。美術館で絵画を見るように、ゆっくりと味わった。生産者の人生を考えるくらいに。
どのくらいの時間が経ったのか、二つあるうちの一つのテーブルは空き、カウンターにいる客も一組になっていた。
佐々木はお品書きを手に取り、それから薫を見た。カウンターの客と話している。湯呑みを持っていて、中は水かお茶だろう。年齢は二十代か、いっても三十代半ば。快活で、元気がよい。性格的に真っ直ぐに見える。ただ、竹を割ったような感じなのかはわからない。もしかしたら八方美人かもしれない。
「すみません」
佐々木が言うと、薫は、はーい、とやってきた。
「海鮮丼を一つ」
「はい。少々お待ちください」
薫はてきぱきと働いていた。カウンターからはよく見えないが、料理の手つきもいいのだろう。
出てきた海鮮丼にはマグロの漬けと鯛とイクラが乗っていた。佐々木はそれをまたゆっくりと食べ始めた。その途中で、カウンターの客も会計を始めた。
海鮮丼を食べ終わると、佐々木はカウンターの裏に呪い感知の紙を貼って、席を立った。
会計はそこそこいった。とはいえ、それは町中華を日々食べているせいでそう思う気がした。高級レストランの常連であれば、格安だと思うのだろう。
もう一度、薫を見た。今日も一日働いた、という満足気な笑顔と疲れがみえた。
呪われてはいない。そういう気配はない。
「ありがとうございました。またお越しください」
「ごちそうさま」
佐々木はそう言って、店を出た。
夜はさっきよりも深くなっていた。人が減り、街の寝息が聞こえそうだった。
「薫のこと頼むよ」
その声の方を見ると老婆がいた。
「はい。仕事は受けます。薫さんは一人暮らしで?」
「もちろん」
「大変だ。そっちも監視しなきゃいけないのか」
「……何等が当選したんだい?」
佐々木は首を振った。
「教えたくないですね」
薫の借りている部屋は店から歩いて三十分のところにあった。帰宅路に関してはとくに呪いの準備段階のような嫌な気配はなく、ただの道だった。
薫は店の後片付けが終わると終電に乗り、最寄駅で降りてから五分歩くか、タクシーに乗って帰った。もしくは、そのまま店に泊まっているようだった。歩いて帰ることがないのは好都合だった。ストーカーのように尾行する必要もない。
佐々木は三度、薫の部屋まで行った。一度目は薫の乗ったタクシーを尾けて。二度目は昼間に。三度目は薫の働いている夜に行った。
もちろん何もなかった。呪いも変質者もいなかった。あったのは、小綺麗なマンションだけだった。日当たりも良い。少し行くと公園もあった。鬱蒼とした自然がなく、変な影もなかった。
あの店が現場になるのだろうか。
それでも念の為に、佐々木はエントランスの横のメールボックススペースに行き、薫の部屋番号の書かれた郵便入れの中に呪い避けの紙を貼った。
それから毎週、一回か二回程、薫の店に顔を出すことにした。必ずカウンターに座り、料理とお酒を楽しみつつ、カウンターの裏に貼った呪い感知の紙を貼り替えた。
しかし、感知はしなかったし、呪いの気配もなかった。本当に呪われるのだろうかと疑問に思い、おばあさんに今一度聞いた。
「呪われる」
おばあさんは不吉を予言する占い師のように言った。
我慢の限界が来たのは数ヶ月経った頃だった。半地縛霊のように店に縛られる日々に嫌気が差した佐々木は、呪いを待たずに、呪いの種を見つけに行くことにした。
薫が呪われるとしたら、どのようにしてだろうと佐々木は考えた。所謂、神やら霊やら自然やらといった人外由来のものは選択肢から除外した。そういった由来の呪いは速効性がある。例えば火事や水害。または急病。何もせずに見ていることはない。少なくとも佐々木には物陰から様子を伺う自然由来の呪いに対峙した経験はない。
じゃあ人由来だ。人由来の方が呪いのバリエーションは多いが、自然由来にはないものがある。それは機会を伺うということだ。例えば事故。誰かから押されて階段から落ちるなど、タイミングを計り、呪いを遂行する。
真綿を絞めるように追い詰める病の呪いもあるが、薫にはそういった兆候はない。すこぶる元気だ。
聞き込みや調査など、探偵紛いの仕事は好きではなかったが、佐々木は呪いの主を見つけ出すことにした。交友関係を調べるのが定石だろう。怨恨は顔見知りの場合が多い。交際相手の有無は聞いてないが、おそらくいないと思われる。念の為におばあさんに聞いてみたが、呪いのときと同じくらい、いない、と言い切った。
「あの子には男運がそんなにないみたいでな。付き合った二人の男に相次いで浮気されてたわ。あれだ、尽くし過ぎるんだな。尽くし過ぎると、男は安心して浮気する。ああこいつは心底俺に惚れ込んでいるし、俺がいなきゃ生きていけないんだなと、都合よく考える。情け無い。薫にはあんまり追いかけるといかんぞ、追いかけられるくらいが丁度いいぞと言ったんだがな。……とにかく恋人は今はいないね」
「友人は?」
「高校のときの友だちが一人いるよ。少し遠くに嫁いでいるみたいで、会うのは年に一回くらいかね」
「他には? 大学の友人とかいるのでは?」
「薫は大学には行ってないよ」
「専門学校とかも?」
「そう。私のツテでちょっとした会社に入れてやったのさ。事務職だけどな。私の顔も立てたのか五年くらいは勤めたかねえ。でも、性に合ってなかったのか、辞めて私の手伝いをし始めたよ。……あの頃は楽しかったね。助かったし」
「そのときに恨みを買ったとかいう話は?」
「聞いてないね」
「念の為、会社の名前聞いていいです?」
佐々木はおばあさんから会社の名前を聞き、メモをとった。
「ちなみに、薫さんが会社に入れたツテとは?」
「店の常連さんだよ。その人が会社の取締役の一人でね」
「その人の名前は?」
「もう亡くなってるけど?」
「じゃあ、大丈夫です。ちなみに常連さんに変な人は? 薫さんに恋愛感情持っていて、ストーカーになりそうな人とか」
「いないね。そんなやつはすぐに追い出すよ」
佐々木は、そんなにうまくはいかないな、とため息を吐いた。
それと同時に、根拠のない自信があった。自分は運がいい。棚ぼたではないが、動いたら必ず果報がある。不運があれば、幸運がある。
薫の元勤め先には、昼過ぎに行った。そこは二級河川の近くにあるオフィス街にあった。佐々木はその高いビルを上から下まで眺めた。
嫌な感じはしない。
人間的なネガティブな何かはあるが異質でなく、必要不可欠にも見えた。
佐々木はそのビルをぐるりと周ってみたが、やはり何かしらを感じることはできなかった。自動販売機で水を買い、飲む。ビルが見える公園を発見し、ベンチに座りながら、とにかく何かないか待つことにした。
夕闇が訪れた頃、少し嫌な感じがした。それは夜の顔が見えたせいかもしれないが、佐々木は腰を上げ、ビルに向かって歩き出した。
ビルからは定時帰りの社員たちがぞろぞろと出てきていた。その流れをじっと見ている女が一人いた。水を堰き止める岩のように動かず、容貌は滞留している枝のようだった。服装はオフィスカジュアルだったが、薄い青の膝丈のスカートとブランド物の黒いバッグが浮いていた。
女はビルの自動ドアから少し離れた植え込み近くに立っていて、目だけをぎょろぎょろと動かしていた。
佐々木は女の顔を見やり、人の流れに逆らってビルに入った。エントランスにあったソファに座り、女をさらに観察した。
女の化粧は薄く見えた。ただ、それは薄く見せた厚化粧かもしれない。そして、どこか幸薄さを感じた。それを彼女は自分のせいだと思っているのか、世界のせいだと思っているのか。佐々木は二者択一を自分に提示したが、答えは出なかった。ただ、なんとなく、どちらにしても、女の中に傲慢さが潜んでいる気がしてならなかった。
女は一時間ほど、そこに立っていた。そして、腕時計を見て、地面を二回踏んだ。
女は待ち人来ずといった感じで踵を返した。佐々木はすぐさまソファから立ち上がり、女の後をつけた。
女は電車に乗り、オフィス街から離れた。それから雑多な街で降りて、オートロックのある五階建ての小さなアパートに入っていった。
佐々木は入り口が見える場所に移動し、そこでスマホをいじるフリをしてじっと待った。幸い、警察官や存在を怪しむ地域住民はいなかった。
一時間少し待っただろうか。女がアパートから出てきた。その横には大学生くらいの男が一緒で、手を繋いでいた。佐々木は彼らを、三十メートル程度見送ってからつけた。幸いにも夜のネオンが明るく、夜の中でも見失うことはなかった。
二人は国道を横断し、それからホテル街へと向かった。そして、それが当然のようにラブホテルへと入った。
「ふーん」と佐々木は口に出し、そのホテルを素通りした。
次の角まで歩くと、佐々木は立ち止まり、またホテルの方へと歩いた。ネオンの光から隠れるような暗い玄関をまじまじ見つめたあと、アパートに戻った。
女を待ったところとは少し離れた場所に佐々木は立ち、携帯電話で風俗店を調べていった。地域を絞り、アパートの住所と合っているか確かめる。
人妻専門の風俗店が一致した。
勤めている風俗嬢の顔もわからないか調べたが、そこにある画像は顔を隠したランジェリー姿の女性だけで、存在自体が疑わしかった。もちろん女の姿も、それらしき画像もなかった。ミキとかマコとか、サユリとか、並べられた名前のどれかが女かもしれない。しかし、本名ではないだろうから、結局、どれも女ではない。
佐々木は息を吐き、携帯電話をしまった。
二時間と、もう少し待っただろうか。女が一人だけで歩いて戻ってきた。疲れているようには見えず足早だった。
佐々木は立つのに疲れて、早いところ事を済ませたくなった。自分は探偵でも、刑事でもない。待つのは疲れた、と腰を揉んだ。
タイミングを計り、オートロックを解除した女と一緒にアパートに入った。当たり前に女は警戒しているようだったが、逃げ出すことはなかった。
佐々木はエレベーターが五階から一階に降りてくるのを女と待った。ただ声はもう掛けることにした。
「水口薫という名前に聞き覚えは?」
女は人間とは思えない速さで首だけを動かし、佐々木を見た。そして、目を見開き、口をパクパクと動かした。
「お仕事、何時に終わりますかね」と佐々木は心の中で拳を握った。「とりあえず、駅前の24時間営業のファストフードで時間を潰しますよ。二階にいます。寝ていたら起こしてください」
佐々木はそれだけ言って、背中を向けた。嫌な視線が刺さるのがわかったが、気に止むほどではない、とアパートを出た。
女がやってきたのは、朝まで遊んだ学生たちが散らばり、早朝勤務の社会人が集まってきていた頃だった。
佐々木は窓から階下の人々をぼーっと見ていて、そこに声をかけられた。振り返ると女が立っていた。疲れているのがわかった。
「水口薫」と女は言った。青白い顔だが、瞳孔は開いていた。
「そう。水口薫」と佐々木は返し、席を立った。「詳しい話は、あなたの家で話しましょう。公共の場で話すことでもない。水口薫が今、何をしているか知りたいでょう」
女の家にはタクシーで向かった。三駅ほど離れた住宅街にあり、勤め先のアパートよりも古い四階建ての建物の306号室だった。ワンルームで、部屋の中はお世辞にもきれいだとは言えない。清潔感がないというより、雑多だった。買い物バッグとビニール袋が一緒に転がっていたり、ペットボトルの入れられたゴミ袋のすぐそばに空のペットボトルがあったり、どこか落ち着かなかった。良く言えば生活感がある。ただ、どれにも命が宿っていないような、嫌な雰囲気があった。
「どうぞ」
女は佐々木に、クッションを勧めた。佐々木は、どうも、とそこに座った。
小さなテーブル越しに、対面してみると、女の疲労度がよくわかった。ぐったり、といった体の疲れではない。顔の表面に感情が出てこない類の、精神的な疲れだった。女の顔は能面に似ている。
「水口薫」と女はテーブルに手をついて言った。
「水口薫」と佐々木は返した。
「あの女、今どこにいるの?」
「その前に、あなたの名前は?」
「私の?」
「そう」
「知らないの?」
「知りません」
「何で、あなたに名前を言う必要があるの?」
「僕だって、水口薫のことを誰かに言う必要はありません」
女は目線を壁、天井、窓に移したあとに佐々木を見て、名前を伝えた。
「じゃあ、あの女のことを教えて」
「カコさん。水口薫と何があったんです?」
「その前に、あの女の居場所を教えて。会社にいっても、出てこない。見つからない」
「会社に電話はしました?」
「電話? してない。電話は嫌い。怪しまれるのも嫌」
「そうですか……。彼女の居場所ですが、まだ教えられません」
「はあ?」
能面に少し表情が戻る。
「最後には必ず教えます。なので、まずは、いろいろ聞かせてください」
「いろいろって?」
「カコさんと、水口薫についてです」
「水口薫は最低な性格をしているよ」
そこからの女は饒舌だった。難しい仕事を入社そこそこの派遣社員に渡して、肩身の狭い思いをさせられた。そのせいで仕事も辞める羽目になった。鬱になった。金がなくなった。水商売をせざるえなかった。つらい。かなしい。悔しい。憎い。恨んでいる。
毒の成り立ちがそこにあり、呪いへの道筋ができあがっていた。線香の煙のように緩やかに、線香花火の玉のように、呪いの種子が埋め込まれているのを佐々木は認めた。
佐々木個人としては、環境や他人のせいにするカコの気持ちがわからなくもなかった。ただ同調はできない。
わかるよ、わかるよ、じゃあさようなら。
そんな気分だった。
「水口薫は、居酒屋で働いています」
佐々木は、カコの話を無視して、店の名前と住所の書かれた紙をテーブルに出した。
「ほんと?」と女は紙を手にとった。
「はい」
「ここで、働いてるのね?」
「はい」
「はっ、店員に成り下がったのかしら。それともお店開くのが夢だったとか? まさか結婚?」
「刺したりは、しないでくださいね」と佐々木はテーブルの上で手を組んだ。
「しないわよ。してやりたいけど。……そういえば、あなたとあの女の関係ってなに?」
「わかりません」
「わかりませんって……。じゃあ、なんで、あの女の情報を私に教えてくれるの?」
「教えられません」
「なぜ?」
「機密事項です」
「きみつ?」
「ええ」と言って佐々木は立ち上がった。「私の要件はこれだけです。何度も言いますが、刺したり、殴ったり、自分で何かを起こそうと思わないように。もし起こしたら、反撃します」
「……刺したりは、しないわよ」
「よかった。では」
佐々木はふっと笑い、部屋を出た。道路へ出て、カコの部屋が見える位置まで移動し、様子を眺めた。通勤する人々や通学する学生たちの幾人かは佐々木を怪訝な目で見た。
二時間もすると、佐々木は深く息を吐いた。安堵のそれだった。
呪いへのシグナルが、カコの部屋から発信されるのを感じていた。
「つまり、呪われるように仕向けたの?」
薫は驚きと怒りと、その他の説明できない感情を抱えて言った。
「そう、ですね。だって、薫さんが呪われるまでじっと居続けるわけもいかないでしょう」
「いや、いてください!」と薫は頭を片手で押さえた。なぜかはわからなかった。押さえてから頭が痛くなり始めた。
「いや、でも、帰ってほしがってましたよね?」
「そうです! でも、そうじゃないでしょう?」
佐々木は酔いに任せて、へへっと笑った。
「私を恨んでる人に店のこと話すなんてありえない」
「まあ、でも、そうしないと」
「自分勝手! 相談もしないで」
「先手必勝とも言います。虎穴に入らずんば虎子を得ずとも。相談については、考えてなかったですね。あなた呪われますよと言って、ああそうなんですねと思います? 例え、おばあさんの話をしても、実際に呪いが来ないと信じないでしょう」
「でも、今度はその、カコさんが直接やってきて、刺されるかも」
佐々木は肩をしゃくり上げた。
「おそらく大丈夫です。今ごろ、カコさんは痛い目にあっているでしょう」
「痛い目って?」
「死んでるか、再起不能の大怪我をしているか」
「それも目覚めが悪い! 他に方法があったんじゃ?」
「私には思い付きません。カコさんを鎮める術も、カコさんを呪うこともできません。そもそも自業自得だとは思いませんか? 薫さんは何一つ悪いことをしていないのに」
薫さんため息を吐いた。学生の頃の、あれこれがふと蘇った。よく勘違いされる。そのせいで、嫌がらせを受ける。私が悪いのかもしれない。勘違いされるようなことをしているのかもしれない。
「薫さんは悪くないですよ」
「そうで、すかね?」
「僕がわかる範囲ではそうです」
薫は頷いた。でも、顔は上げなかった。
「……カコさん、どうにかできないでしょうか」
「できないですね」
「私は、悪くないです」と薫は嫌な記憶を振り解くように言い切って、顔を上げた。「でも、カコさんも悪くないですよ?」
「呪いに繋がるくらい恨んでるのに?」
「勘違いをしただけです」
ふふっ、と佐々木は笑った。
「真っ直ぐなのはいいことです。でも、真っ直ぐが必ずしも幸せに繋がるとは限りません」
「べつに真っ直ぐのつもりはありません。何かないかと諦めきれないだけです」
佐々木は額を撫でた。
「……僕にはどうにもできませんが、別の人間ならどうにかできるかもしれません」
「本当に?」
薫は身を少し佐々木に寄せた。
「可能性はあります。僕にわかるのは可能性ってだけです」
「お願いします。その方に頼んでください」
薫の頭の中に、威厳のある高齢の男性もしくは女性の姿が行き来した。おそらく、彼らの世界の、それなりの人なら解決できるのだろう。
「お願いだけですよ。受けてくれるかどうかもわかりません」
佐々木は携帯電話を取り出し、電話をかけた。
相手は10コール目で出た。
「おう。久しぶり」
おう? 佐々木のラフな一声に、薫の想像が一瞬にして崩れる。
「うん。で、お願いがあるんだけどさ。あのー、呪いを返したんだけど、その呪いを返した相手を、なんと言ったらいいんだろ、マシな状態にしてほしいんだよね。…まあ、そうだよな。意味不明だよな」
薫は、うーん、とか、まあ、とか、そうだよな、と煮え切らない相槌をする佐々木を見ていた。
呪いの専門家と名乗る佐々木。しかし、思い出す。彼は、酔っている。このまま交渉を任せてもいいものだろうか。
「あの、佐々木さん?」
「え、ああ、ちょっと待って。うん、わかってる」佐々木は携帯電話から耳を離した。「なんです?」
「あの、私に代わってくれます?」
「薫さんに?」
「はい」
佐々木は一瞬考えたが、まあ、いいでしょうと頷いた。
「いいですよ。でも、相手はちょっと曲がってますからね」
「曲がってる?」
「まあ、いろいろあるやつなんです」
そう言いながら、佐々木は携帯電話を薫に手渡した。薫はすぐに耳に当てた。
「もしもし?」
「はい」と男の声が聞こえた。おじさんではない。若い。
「あの、佐々木さんからもお願いがあったかと思いますが、助けていただきたい人がいるんです」
「僕はお願いは受け付けていません」
鳩尾あたりが少し硬くなったのがわかる。
「どうしたら助けていただけるのでしょうか」
「僕は善意では動きません。正式な依頼をもって仕事をしています」
「では依頼をしたいです」
佐々木は首を振ったが邪魔はしなかった。グラスの底に残ったウーロンハイ飲み切った。
「どのような内容ですか?」
「私、どうやら呪われたみたいで、それを佐々木さんが相手に返してくれたんです。でも、本当のところ、私も相手も何も悪くないんです。ボタンの掛け違いみたいな。だから、その相手をどうにかして助けてほしいんです」
「助ける……。どのような状態が助かった状態なんですか?」
「たぶん、私のことなんかどうでもいい、気にしていない状態です」
「それなら、まだ、可能性はありますね。問題はそれよりも」
「待った!」と佐々木は口を挟んだ。「薫さん、『私には何もせずに、相手だけを対象として』と言ってください」
薫は不思議に思いながら頷いた。
「あの、私には何もせずに相手だけを対象としてください」
「そうしないと、薫さんが消されるかも」と佐々木は笑みか真面目かわからない表情で首を振った。
「わかりました」と男は言った。「……では、報酬ですが」
「報酬」と薫はそれを思い出した。「報酬ですね」
「二億円です」
「え?」
「全て込みで二億円です。それ以上はもらいません」
「いや、無理です」
「では、この話はなかったことに」
「いや! ちょっと待ってください」
薫は佐々木を見た。
「何です?」
「二億円らしいです。貸してください」
「無理です」
「いや、貸してください」
「無理です」
「お願いします。お食事代、ずっと一割引きにします」
「無理です」
それからまた押し問答を繰り返していると、携帯電話から声がした。薫はそれに思わず声を張って反応した。
「何ですか?」
「隣の男に代わってもらえますか?」
「となり? ああ、はい」
「もしもし」と佐々木は携帯電話を受け取った。
「二億円くらい払えるよね?」
「払えないね」
「そっちの報酬、えげつなかったんじゃない?」
「そっち? そっちって?」
「とぼけなくてもいいよ。なんとなくわかる。もう三年もこの世界にいるから」
まだ三年のくせに、と佐々木は心の中で拳を握った。
「まあ、そうだな。でも二億円も払えない」
「わかった。じゃあ、そっちでなんとか対処するしかないね」
「呪い返し専門だから、無理だ」
「いや、僕もいろいろ理解した。これはある意味では一族の尊厳に関わることだよ。とりあえず僕は、叔父さんの隣にいる女性の依頼には応えることにした」
「本当に?」
「うん。ただ、二億円の報酬がなければ、それ以上、僕は介入しない」
「二億円は高すぎるだろ」
「わかってない。叔父さんは。もう少し考えて行動した方がいい」
「何を?」
「今回の件、報酬に見合った仕事? 依頼は誰からされた? それって異常じゃない? ……まあ、いいや。あとで、対象者の名前と住所を送って。あと、隣にいる人に代わってくれる?」
佐々木は首を傾げつつ、また携帯電話を薫に渡した。
「もしもし」
「あなたの依頼は受けます。これはサービスです」
「よかった。ありがとうございます」
「でも、気をつけてください。隣にいる佐々木という男にはそれとなく言っていますが、あなたも」
「どういうことです」
男は何も言わず、電話はそのまま切れた。
「……なんか、気をつけろって言ってましたけど」
「はい」
薫から携帯電話を受け取りつつ、佐々木は考えた。しかし、酔った頭ではうまく物事を繋げないのか、何度も首を捻ったり、頭に手を置いていた
「でも、とりあえず大丈夫なんですよね。私も、カコさんも」
「ええ、彼がなんとかやってくれるでしょう」
「よかった。……そういえば、佐々木さん」
「何でしょう」
「私、佐々木さんのこと警察官か何かだと思ってました。事件のこと、いろいろ話すし、機密事項とか言うし」
「まあ、機密は機密ですけどね」
「あれって、全部本当の話なんですか?」
「さあ」
「さあ、って」
「機密事項ですからね」
沈黙。そこで、薫は雨音がしなくなっていることに気がついた。
「……雨、止みましたね」
「そうですか」
佐々木は立ち上がり、財布を出した。
「お会計お願いできますか?」
「お会計はいりません。サービスです」
「なぜ?」
「だって、呪いを返してくれたんですから」
佐々木はふふっと笑った。
「その報酬は貰ってますからねえ。でも、まあ、ご厚意に甘えましょう。でも、薫さん」
「なんでしょう?」
「呪いなんて、本当は信じないほうがいいんですよ。そんな世界、嘘の方がいいんです。その方が平和です。でも、気をつけることに越したことはありません。とくに薫さんは呪われやすそうだから」
「縁起でもない」
その言葉を聞いて、佐々木は笑った。
「じゃあ、私はこれで」
「タクシー呼びましょうか?」
「いいえ、歩いて帰ります」
佐々木はまだ乾ききっていない上着を羽織った。入り口へ向かうと、薫も付いてきた。
「佐々木さん、本当にありがとうございました」
「いいえ、仕事ですから」
「あの、仕事じゃなくても、たまにはお店に来てください」
「ええ。薫さんの美味しい料理が恋しくなったら、また」
入り口の扉を開けてもらうと、佐々木は外に出た。雨はしっかり上がっていて、寝ぼけたようにネオンが光っている。
「少し寒いですね」
「やっぱりタクシー呼びましょうか?」
「いえ、歩いて帰ります」
佐々木が歩き出し、薫はその背中を見送った。佐々木が一つ先の角を曲がるのを見て、薫は店に戻った。
呪いを返し終わり、薫の店を後にした佐々木は、店の一つ先の角を曲がり、そこで三分待った。角から店先を覗くが、薫はいない。
佐々木は踵を返し、店の近くまで戻った。そして、視線を下げた。
「仕事は終わりでいいですよね」
佐々木は依頼主である、薫のおばあさんに話しかけた。
おばあさんは佐々木を見上げ、にこりと笑った。
「ありがとう。でも、終わってないよ」
「いや、呪いは返し終わった。仕事はおわりでしょう」
「まだ」
「まだ?」
「残念ながら、まだ始まってない」
「始まってない? いや、始まって終わった」
「いや、始まっていない。あの子は、呪われる」
「誰に?」
おばあさんは首を振った。
「わからない。わからないから頼んでいる」
佐々木は唇を噛んで考えた。しかし、答えの想像さえできない。
「だけど、とりあえず終わりでしょう」
「どうだろうね。……というより、あの呪いを連れてきたのはあんたじゃないか。あんたが何もしなければ、呪いはあの子まで届かなかったんじゃないかしらねえ」
佐々木は鼻で息を大きく吸い、吐いた
「あと、残念だけど、私もそろそろ行かなきゃならないみたいだ」
「どこへ?」
「わからない。呼ばれている。行かなきならない。……でも、少し安心したよ。あんたに頼むことができた」
「孫を置いて行くのか」
「そういう運命さ。あの子が呪われるのも、あんたが対処するのも、きっと運命だね」
佐々木が黙っていると、おばあさんは口角を上げた。
「呪われる。知っているだけでも、いいほうじゃないか」
「どうだか」と佐々木は首を掻き、頭の中で呪いに対する知識を開いて、すぐに閉じた。
「とにかく、頼んだよ」
佐々木は仕方なく頷いた。甥の言っていたあれこれが酔った頭の中をぐるぐる回っている。眩暈がして、思わず目を抑える。手を退けると、おばあさんはいなくなっていた。
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