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① 最初の思い出
しおりを挟む──誰もが、思い出を抱えて生きている。
一分一秒と命を燃やし続ける限り、側頭葉には続々と長期記憶が蓄積される。
その際に受け取った印象が鮮烈であればあるほど、記憶はより深くに刻み込まれる。
思い出の在庫というものは、各個人によって多い少ないの差はあれども、長い道のりを征く中で一方的に増え続けていくことになる。
──思い出の抱え方は人それぞれだ。
地に沈み込む程に思い出を引き摺り回す人もいれば、スノーボードみたく軽々と思い出を乗り回す人もいる。
そこには正解も不正解もない。
正義に明確な答えがないことと同じなのだろう。
『われわれが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である。』
近世に名を挙げた作家ジャン・パウルは、ある著書にこのような言葉を残した。
それは、ある側面では正しいことだし、もう一方の側面では酷く間違ったことだ、と僕は強く思う。
確かに、僕達は不意に立ち止まって、生き抜く中で必死にかき集めた思い出に浸り、ひと時の慰めを得ることはある。
それはまさしく、誰にも干渉されず、また、好きなだけ引き籠っていられる素敵な憩いの場であると言えよう。
その意味で思い出が楽園であることに疑いはないし、人が生きる上で、最後の絶対的な拠り所として思い出が君臨することにも異論はない。
だが、別方向から眺めてみると、こうも考えられはしないだろうか。
もし、楽園たる思い出の中に、毒林檎が混ざっていたら?と。
楽園に長居すれば、人は必ず腹を空かせてしまう。
これ幸いとよく熟れた林檎をもぎ取り、大きな口で瑞々しいそれを齧る。
その瞬間、楽園で味わうはずのない苦痛が舌先に広がる。
辛抱堪らずその顔は歪んでしまう。
こんなものは食えたものじゃないと、僕らはその毒林檎を吐き出さずにはいられない。
しかしそれでは腹の虫は収まらない。
そいつを宥めるために仕方なく、僕らはそこを発って食料を探しに行かねばならなくなる。
畢竟、他でもない自らが、己を追いやる羽目になるのだ。
他の誰かに邪魔されることはない。
しかし、最後に楽園であったはずの空間から逃げ出すのは、自分自身だ。
それでも、楽園で過ごした束の間の安楽は忘れられない。
挙句の果てに、僕らは痛い目を見ると解ったうえで、またそこに戻ってきてしまう。
要するに、思い出というものは、酷く不合理な両面的存在だということだ。
もちろん、その霧の如く不確かで掴みようのないものをどのように捉えるかはその人次第だ。
あくまでも、僕はこう考えるというだけの話である。
この世界に生を授かって二十年と少し、僕も多くの例に漏れず、山のように思い出を連れ歩いていた。
ふとその足を止め、振り返り一つ一つを眺めてみる。
けれどもその大部分は、一度も思い起こされることのなかった記憶たちだ。
彼らの多くは、もはや脳の検索が上手く行かないほどに重く埃を被っていた。
そんな腐るほどある灰被りの思い出に、一つ、宝石のように美しく磨き上げられたものを見つける。
がらくた同然の記憶を乱暴にかき分ける。
僕は僕のダイヤモンドへと、丁寧に手を伸ばした。
改めて手に取ってみると、それは異様なほどに光り輝いていた。
ともすれば限界以上に丁寧に磨き上げたせいか、もう元の輪郭が捉えられないようにも見えた。
しかしそれは、この思い出だけが何度となく楽園として機能したゆるぎない間接証拠とも言えるだろう。
結局のところ、記憶に難色を示す僕もまた、所詮は立派な思い出廃人の一人だった。
その果てに待ち受ける結末は、必ずこの胸奥を切り裂くことになる。
だのに性懲りもなく刹那的な快楽に身を浸してしまう。
元来、僕はそういう破滅的な人間なのだ。
少し、集中力が切れてしまっただろうか。
ジャン・パウル作 『目に見えぬ会話』の一節を読み終えると、僕は何気なく窓枠の向こうへ目をやった。
真昼の衛星都市が右から左へと早々に流れていく。
僕は何を見るでもなく、茫然とその街並みを眺めた。
列車は単調な律動で上下に揺れる。
その緩やかな揺動に合わせて、風鈴が軽やかに音を響かせる。
そしてそのメトロノームが、自然な流れで僕を遠くの日々へ運びゆく。
先程拾い上げた思い出を断ち切れず、僕はまた、輝きの中を覗き込もうとするのだ。
楽園の誘惑に抗えないことは、僕自身、重々承知していた。
大人しく手元の古い書物を閉ざす。
小さく息を吐き出し、回送列車みたいに頭を空っぽにして、僕はかつての記憶に身を投じた。
僕が今から逃げ込む一生の楽園は、十一歳から十二歳までの約一年間だ。
始まりは、ある夏の湿っぽい日だった。
♦♦♦
名も知れぬ雑草を踏みしめる。
ひび割れた樹皮を力強く掴む。
片脚で力いっぱい踏ん張り、やっとのことで急勾配を登り切った。
大きく息を吐き出す。
それからすぐ口を開けて新鮮な空気を吸い込む。
額から零れる汗が目に入らぬよう、服の袖先で雑に顔を拭った。
苦労して登り詰めた上り坂の先には、しかし、特別な景色が広がっているわけではない。
目線の先には、これまでと変わらない雑多な緑が生え広がっているのみであった。
それでも、労力を掛けた分だけ見える世界は美しく見える。
その自分にだけ価値のある光景を独り占めしようとするも、視界の端には先客が一人、僕の姿を認めていた。
一足早くゴールに到達していた褐色の少年に向けて、僕は牽制するように軽く睨みを利かせた。
「今日も俺の勝ちだな」彼は自慢げな面持ちで言う。
「…うるさいな、日向」「たったの三秒差じゃないか。そんなので僕に勝った気でいるのか」
僕は言い訳がましく言葉を返した。
日向、と呼ばれた色黒の少年は、僕が幼少期から仲良くやっている友達の一人だ。
僕よりも頭一つ分背が高くて、肩幅も大きい。
子供ながら体格に優れた奴だった。
勉強はてんで駄目だったが、そんなものは、当時の僕らに必要とされているものではなかった。
「なんだよ、負け惜しみか?」
僕の意図を読み取ったらしい日向は、今度は癇に障る笑顔で続けた。
図星を突かれた僕も僕で、何か言い返してやらないと気が済まなくなる。
そんな幼心の癇癪から、些細な口喧嘩が生まれようとした直前だ。
今度は隣から二つ分の声が聞こえてきた。
「こっちからしたら、二人共充分速いんだけどな」「明日はお前が勝つんじゃねーの?」
遅れて到着した二人が、息を切らしながら宥めるように言ってくれる。
その言葉に一旦の納得を覚えた僕は、くだらない口論を切り上げることにした。
この四人の面子で障害物競走の真似事をするのが、最近の僕らの間で流行っている遊びだった。
草木は四方八方無秩序に生い茂っている。
厚い緑に遮られた陽光が、不規則な形で大地を照らしている。
樹木は蟻たちの移動路になっていて、蝉が至る所から音波攻撃を仕掛けていた。
一度この状況を体験すれば、街に戻った時には、そこが音の失われた世界であるかのように思えてしまうものだ。
「じゃ、そろそろ戻ろうぜ」
飽きるほどの緑と土色に塗れた世界を眺め終えると、日向が肩を回しながら踵を返そうとした。
僕ら三人もそれに同調する。
今度は木々を足場として活用しながら急傾斜を下っていった。
来た時は汚れ一つなかった衣類は土で台無しになって、そのうえ、枝に引っ掛けて破れてしまったりと、帰る頃には大目玉な状態と化している。
でもそれはいつものことだから、母さんも何も言わずにいてくれるだろう。
噂に聞くと、都会の子供たちは公園やテーマパークなんて場所でよく遊ぶらしい。
一方、時代に取り残されつつある山間部の田舎町に生まれた子供にとって、男女隔たりのない一番の遊び場は山だった。
山には川があって、花が咲いて、木の実が落ちて、生き物が溢れている。
その大自然の一つ一つが天然の遊び道具で、性別問わずあらゆる子供たちを魅了していた。
かくいう僕も同様に、山の虜になっている少年だったというわけだ。
平坦な地形の場所まで戻ってくると、そのまま真っ直ぐに進めば、森の出口はすぐそこだった。
三人とはいつも通り、自然と田舎の境目で手を振って別れた。
しかし、僕はまだ家に帰ろうとしなかった。
彼らとは別方向に帰る素振りを見せた後、皆に悟られないよう気配を消し、そっと森の方へと向かった。
動機は至って単純だ。
次の山登り対決で一等賞を取る為に、ちょっとした特訓をしてやろうと思ったわけだ。
いつも日向にはあと一歩及ばないのだから、明日こそはあいつを負かしてやりたかった。
そういった子供らしい対抗心を燃やしながら、早く移動することだけを念頭に、僕は奥へ奥へと森を突き進んでいった。
毎日のように入り浸っている森林なのだから、多少の土地勘は持っている。
などと過信したのが間違いだった。
もう練習は充分か。
そう思って後ろを振り返ると、そこは、どうにも見覚えのない場所だった。
右へ左へと首を振っても、何か記憶に残っている目印が見えることはない。
目に映るのは、足元に草葉が覆い被さり、疎らに雑木が立ち並んでいる。
そんな静かな森の光景だけであった。
変わり映えのない周囲を、僕は身体を動かしておろおろと見回す。
そのうちに段々と、どちらが北で東なのかも分からなくなり始める。
そうして方向感覚が失われ、辿って来た道のりさえあやふやになったところで、ようやく、背筋には一滴の冷や汗が流れ落ちた。
──山で迷子になったのだ。
幼いながらも、それを認識するには充分過ぎる程の要素が揃っていた。
こういう状況になると、山地という場所の持つ意味合いは一転する。
身体を伝う嫌な湿り気と同じように、心の淵からはじわじわと、何か身体が強張るような感覚が浮かびつつあった。
右へ行こうか左へ行こうか、それとも後ろだろうか。
その場で立ち往生している間にも日は傾き、緑の地面の上には小さな影法師が伸びていった。
迷っても仕方がない、と適当に一歩足を進めた頃には、既に見上げる木々の隙間から、薄い橙の色が伺えた。
もう日没までに時間がないと思った。
山は上空が林冠で覆われている為に日照時間が短くなりがちで、実際はまだ夕方初めであることに、当時の僕が気が付けるはずもなかった。
一人で山を下りるとなると、途端、途方もない孤独感や無力感といったものが身体に押し寄せてくる。
そこには、誰かが傍に居てくれると心地良く感じる森林が、打って変わって凍てつく空気を醸し出しているような錯覚があった。
身体中を外側からも内側からも押さえつけられている気分で、日向の鼻につくような笑顔も今は恋しかった。
心細い時に限って、蝉しぐれはやけにうるさく聞こえる。
けれど、その力強い鳴き声が僕を勇気づけることは決してない。
寧ろ僕こそが世界の異物だと言うように、彼らは執拗に人間を責め立てていた。
その爆音が心身の圧迫に拍車をかけた。
森の出口を目指す足取りは急激に速まる。
心臓は大きく乱れ打ち、呼吸が浅くなっていく。
しかし、いつまで経っても木々の終わりが見える様子はない。
見覚えがある場所に辿り着くこともない。
言い表せない恐怖に心が屈し、とうとう、喉奥から堪え切れない悲鳴が飛び出そうとした、寸前のことだった。
そこは、一際大きな古木の聳え立っている場所だった。
いつもならその偉大な姿を見上げる余裕があっただろうが、その時の僕はそれに目をくれることもなかった。
焦りに駆り立てられた足取りで、すぐにそこを通り抜けようとした。
ちょうど、大樹から三歩ほど進んだ頃のことだ。
背後から、何か妙な物音が聞こえたのは。
音の大きさからして、小動物や虫がそこを通ったわけではなさそうだった。
明らかに大自然の規則から外れた音色を、己の聴覚は鋭く捉えていた。
たったそれだけのことで、蒸れた体温が一つ分冷え込み、身体は金縛りにあったように強張った。
足が杭に打ち付けられたかのようにピクリとも動かない。
その間にも、動悸は尋常ではない速度で激しさを増していく。
是が非でもこの場から逃げ出すべく、僕は藻掻くように心身を暴走させた。
そのお陰か、とうとう過度に力の伝わった両足が震え、身体は一目散に前方へと逃げ出そうとした。
だが相反するように、背後の謎を確かめるべく頭はそちらに振り返ろうとした。
その結果、僕は左脚を前に踏み出したまま、顔を背後に向けるという、なんとも中途半端な体勢で音の正体を突き止めようとした。
そして己の眼球が捉えたのは、全身が黒に染まり切った、細長い人型の『何か』だった。
思考は遠くへ放り投げられた。
僕は何もかもを忘れてその場に固まった。
愕然としたままに、地面に映ったそれを凝視した。
数秒、その状態は続いた。
ゆっくりと、黒のシルエットがこちらに向かって動き出した。
思い出したように顔を上向ける。
しかし、僕の行動はまたしても、唖然とそちらを見やるに留まった。
何せ、認識した光景が、にわかに信じ難いものだったから。
そこに居たのは、僕と歳が変わらないであろう少女であった。
ベージュっぽくもあり白っぽくもあり、いわゆるアイボリーカラーの薄っぺらいワンピースを、その少女は身に付けていた。
サンダルか草履か、日焼けを知らないように真っ白な肌は素足にまで露出している。
肩に掛かるか掛からないかの長さをした黒髪は、日差しを飲み込むかの如く光沢のある艶やかさを誇っていた。
つぶらな瞳は大きく丸々としていて、まるで彼女が世界の中心であるかのように、僕は思わず、彼女の両目に吸い込まれた。
少女の影が細長く見えたのは、森の奥に垣間見える斜陽のせいばかりではない。
背は僕と同じかそれより低いぐらいだが、その柔らかなラインを描く体つきには、女性特有の華奢さが秘められていた。
その整った小顔にしろ、流れる睫毛にしろ、彼女はまさしく黄金比の体現者であった。
いま目の前にいる彼女は、一言で言い表すのならば、可憐な少女であった。
しかし同時に、僕は彼女にある種の違和感を覚えていた。
それはまさに、地底で星空を眺めるように、或いは薄暗い路地裏で深窓の令嬢と出会うように、この少女には山という空間がまるで似合わないように思えたのだ。
色素が抜け落ちたみたいに透き通った肌をしている清純な少女は、とてもじゃないが、森林に入り浸り、山を駆け回るような人間には見えなかった。
場違いで奇妙で、何処か歯車が一つ分ズレているような、しかしその全てが、間違いなく彼女の為に存在している。
そういった言わば、必然的なシンクロニシティというものが、その場には演出されていた。
たっぷり数秒の間、僕は黙りこくって少女に視線を送り続けていた。
対して少女の方もまた、ただでさえ丸っこい目をより一層丸めてこちらを眺め続けていた。
先に沈黙を破ったのは、少女の方であった。
ほんのりと桃色に染まった薄い唇が、柔らかく動いた。
「どうして君は、こんな場所に居るの?」
風鈴の淡い響きが思い浮かべられた。
その一瞬、周囲にひしめく蝉の鳴き声が、耳に障る稚拙な楽音であるように思えてしまった。
それほどにまで少女の声は美しく透き通っており、且つ、雑音に掻き消されない程の張りが感じられた。
それが単なる美音の調べであるという以上に、少女から発せられた言葉であるということを認識するまでにやや時間を必要とした。
ようやく脳髄に彼女の言葉を反響させた頃、僕は反射的にこう答えていた。
「なんでって、山で遊んでたからだよ」
僕は涼しい顔でうそぶいた。
山で迷った、などと正直に答えるのは恥ずかしかったのだ。
しかし、彼女はそんなことを知る由もない。
僕の答えを聞いた少女は、その言葉を咀嚼するように瞳を閉ざし、次いで目を細めた。
「そっかぁ。君にとってこの場所は遊び場なんだ」
「そっちだって、その口だろ?」
「んー、どうだろうね?」
少女はのらりくらりと質問をかわした。
それから、彼女は人差し指を立てながら続けざまに言った。
「ね、このあたりから山を下りる近道、君は知ってたりする?」
「いや、知らないな」
今一番欲している情報を、目の前にいる少女は正確に把握しているようだった。
手がかりを掴んだ僕は、しかしそれを悟られないよう努めて冷静に言い返した。
だが、どういう訳だろう。
僕が彼女から視線を逸らしているうちに、辺りには鈴を転がすような笑声が木霊した。
「じゃあ、折角だし教えてあげる」「このまま真っすぐ進んで行ったら、森の切れ目が見えてくるはずだよ」
くすくすと上品な笑い声を抑えた彼女はあちらに手を向けた。
「ありがとう。助かった」
彼女が指差す方角を忘れぬよう目に焼き付け、僕は短く言葉を返す。
「どーいたしまして」と少女は間を置くことなく上機嫌に言った。
脱出経路を確保した今、僕はとにかく、山を下りることしか考えていなかった。
これ以上得も言われぬ不安感に苛まれるのはごめんだった。
電柱でも軽トラでもなんでもいいから、何か人の軌跡を見つけて些細な安堵を得たかった。
助言を皮切りに、僕は彼女に背を向けた。
そして草地を一歩踏み出した、その時だった。
「あっ」
後方六メートルあたりから、先程の良く澄んだ声が響いた。
後ろ髪を引かれるように振り返る。
少女は恐る恐るといった様子で、僕にこう訊ね掛けた。
「えっと、君は山でよく遊ぶんだよね?」
僕はその言葉に首肯する。
「じゃあ、明日もこの場所に来てくれるの?」
彼女は興味深そうな目で僕を眺め、その首を傾げた。
今度は二つ返事とはいかなかった。
闇雲に山を駆け巡った果てに辿り着いたこの場所に、明日もやって来れるのかと問われると、そんな無責任な約束は出来なかった。
「どうかな。それは分からないけど…」
それ故に僕は曖昧な返事をした。
途端、少女の表情は僅かに曇りを見せる。
それはほんの僅かなことだったけれど、僕は見逃さなかった。
なるほど、彼女は山で一緒に遊んでくれる友達がいないのか。
だからこんなところに一人でいるんだ。
と、一人勝手に納得した僕は「そっちも来るのか?」と試しに聞き返した。
「うん、そんな感じ。だから良かったら、明日も会えないかなー、って」
そう言って少女は気恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
頬を掻く彼女を眺め、同情心六割、恩返し二割と善意一割、そして残りの一割を合算した結果、僕は浅く息をついた。
「分かった、約束するよ」
了承を受けた少女は、太陽が雲の切れ目から覗いたみたいに表情を輝かせた。
その単純な様子を前に、僕はついつい相好を崩してしまう。
緊迫していた神経が緩み、残りの道中を恐れる微かな気持ちは何処かへ吹き飛んでしまった。
「本当!?楽しみにしてるね!じゃ、また明日!」
彼女は僕に向けて無邪気に手を振る。
同じように手を振り返し、僕は今度こそ、彼女の指差した先を歩いていった。
緩やかな山道を下っていくと、やがて森の端が伺えた。
その先には、懐かしい灰色のアスファルトが垣間見える。
それを目にした瞬間、我慢ならなかった僕は飛ぶようにように出口へと駆け出した。
茂った植物を身体ごと突き抜ける。
そこは、なだらかなカーブの坂道だった。
車体で何度も擦られたガードレールは、その大部分が錆傷に覆われている。
そしてその近くでは、くすんだカーブミラーが曇った西日を反射していた。
やっとのことで人間様がのさばる世界に戻って来たのだ。
見慣れた人工物を拝むや否や、身体は一気に脱力した。
思わずその場で膝をつきそうになる。
けれど僕はそれをぐっと堪えて、ゆっくりと坂道を下り始めた。
せっかく山から抜け出せたのに、そこはまた見知らぬ土地だった、などと言うことは起きまい。
そのまま道に沿って慣れ親しんだ農道を通り抜け、夕陽が落ちる目前に、僕はまもなく帰路へと着いた。
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