遠い記憶のクロシェット

うずまきしろう

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② 名前の思い出

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 薄く閉ざした瞼の向こうに、眩い朝日が差し込んでいた。
 

 眠っているとも起きているともつかない、いつもの不明瞭な寝覚めだ。
 

 身体に先立って意識だけが覚醒の手順を辿り始める。
 肉体がそれに追いつくよう、何度か寝返りを繰り返す。


 ようやく神経系が起床を把握したところで、僕はゆっくりと目を覚ました。
 

 覚束ない手取りで掛布団を剥がす。
 蒸れた両足で藺草を踏む。


 窓に向かって身体を解しながら、僕はぼうっと外の世界の様子を確かめた。
 

 照りつける白い太陽。
 眼下に広がる緑の畑。
 遠い蝉の声。
 今日も今日とて、世界は青空に包まれている。
 

 それらを形式的に認識すると、僕は目を擦りながら洗面所に向かった。


 ぬるい水で顔を濡らす。
 程よい爽やかさに目が冴えていく。


 床鳴りの激しい階段を降りる。
 そよ風に運ばれた朝の匂いが、寝ぼけた胃袋を叩き起こした。
 

「おはよう。ちゃっちゃと食べちゃって」


 香りに惹かれて居間に辿り着く。
 こちらに気が付いた母さんが僕に挨拶を投げ掛けた。
 もう化粧は完璧に済ませているようで、今は朝の準備に追われているようだ。
 

 一方、特別急ぐ必要のない僕は同じような言葉を返し、食卓にて合掌。
 天気予報を横目に朝食を食べ進めているうちに、徐々に頭が糖分を取り込んでいった。
 

 そこでふと、危うく忘れそうになっていた昨日のことを思い出す。
 というのは、今日、あの少女と遊ぶ約束を交わしたことだ。
 

 それと同時に、僕はその約束に一つ、重大な欠陥を見つけ出す。
 そう言えば、僕は彼女と約束したは良いものの、肝心の待ち合わせ時間を決め忘れていたのだ。
 

 一見なんともなさそうに思えることだが、これは深刻な問題である。
 

 いつもの面子で集まるのならば、身内での不文律が通用する一方で、昨日出会ったばかりの少女とはそうもいくまい。


 メモに残すなどの成文律が必要とまでは言わないが、何かしらの口約束はしておくべきだったろう。
 

 幸い、集合場所は判明している。
 だが遊ぶ時間が分からなければ、それだけですれ違いの生じる恐れがあるのだ。


 しかしそうは言ったものの、では昨日と同じ時間に向かったとして、あれでは日暮れ前で遊ぶ時間が皆無であることは、簡単に想像のつくことだった。
 
 
 となると、朝ご飯を食べたらすぐに向かうべきだろうか?
 いや、普通に考えてお昼頃からなのだろうか?
 

「食欲ないの?」
 

 形式的な確認の声掛けが、僕を思考の海から釣り上げた。


 どうやらすっかり箸が止まっていたらしい。
 時間のない母さんに急かされ、僕は慌てて汁ものを飲み干した。

 
 ♦♦♦


 連日晴天が続いており、今日もお天道さまは、遮蔽物のない田圃道をこれでもかと焼き焦がしている。
 

 数歩足を進めるごとに、路肩の小さな茂みから蛙が飛び退いていった。


 干乾びないよう水田に逃げ込んだ彼らは、残念ながら、そこに安息を見出すことはできない。
 白鷺にとって格好の獲物になることだろう。
 

 あれから少し経った今、僕は昨日辿った細い農道をたどたどしく逆行していた。
 その理由は当然、彼女との約束を守る為だ。
 

 色々と考えた結果、お昼過ぎというのが一番無難ではないか。
 僕はそのような結論に落ち着いた。
 

 もちろん、遊ぶ時間を決め忘れた以上、彼女との約束をなかったことにしてしまうという選択肢もあるにはあった。
 日向達との遊びであれば、そうする可能性も大いにあり得ただろう。
 

 けれど、昨日の独りぼっちな彼女を見た身としては、そういう訳にもいかなかった。


 ようやく一緒に遊べる人が見つかったというのに、期待のその人にまで無視されてしまう。
 なんてことがあれば、いくらなんでもあの少女が可哀想だろう。


 誰かを傷付けると解っている上でその行動を選べるほどに、僕は温かくない人間ではない。
 

 森の入り口に辿り着く頃には、既にシャツがびっしりと汗を吸っていた。
 この時期、太陽熱を直に受ける頭は暑くて敵わない。
 

 帽子でも持ってこれば良かった。
 そう思いつつも、僕は木陰の多い山に忍び込んだ。
 

 自然のさざめきに包まれながら、妙に覚え易かった山道を登っていく。
 案外迷うことなく突き進んでいくと、目印の大樹が伺えた。
 

 昨日の見間違えだったというわけではないらしい。
 それは、周囲の木々と比べても一段と背が高く、両手を広げても到底抱えられないような太い幹を持った巨木だった。
 

 しかし、そこに肝心の少女の姿は見えない。
 場所を間違えたとは思えないし、大方、彼女は来なかったという結果なのだろう。


 少しも残念でなかったと言えば噓になる。
 が、その事実に特段何を思うこともなく、僕は踵を返そうとした。


「あっ、来てくれたんだ」


 何処からともなく澄んだ声が聞こえてきたかと思ったら、大樹の裏から小さな影が飛び出した。


 昨日と同じ白いワンピースを身に着けた彼女は、手振りを交えながらこちらに笑い掛けてくれていた。
 

 彼女も今し方来たところだったのだろう。
 或いは、過剰な灼熱から逃れるために古木の日陰で休んでいたのかもしれない。
 
 
「こっちだよ」と手招きされた僕は、彼女と同じよう木陰の恩恵に預かった。
 

 少女は僕のすぐ隣で幹に背を預け、当たり障りのない会話を切り出した。
 

「随分早かったね~」


「…まぁ、遊ぶ時間がなくなったらあれだしさ」


 その旧友に喋り掛けるような軽い調子を前に、僕は思わず言葉に詰まった。
 図らずも目の焦点をあちらこちらに動かしながら、頭を掻いて言葉を返す羽目になった。
 

 何も自慢できるようなことではないが、僕には特別に仲の良い女の子はいない。


 普段行動を共にしている日向達が、女子の大グループと対立している。
 だから当然のように僕も、彼女らと親身にする機会がないのだ。
 

 だから客観的なことを言えるわけではないし、これは僕の気にし過ぎなのかもしれない。
 しかし、それを加味しても、彼女は物理的にも精神的にも距離が近過ぎはしないだろうか。
 

 だがまぁ、一緒に遊ぶ約束をした手前、もう半分ぐらいは友達みたいなものなのかもしれない。


 適当な所でそれを割り切った、若しくは自己解決したことにした僕は、そこからは目の前の彼女が日向達であるように振舞った。


「そんじゃ、今から何して遊ぶんだ?」


 第一声とは一転して、僕は少女の目を見てハキハキと問い掛けた。
 一方、彼女は入れ替わるようにその視線を下向けた。


「ん~…ん~…」と、悩ましそうな唸り声を上げている。
 

 それを十数秒続けた後になって、彼女はようやくこちらに目を向けた。


「君はいつも、何して遊んでるの?」


 もしかしたら、彼女もこういう場所で男の子と遊ぶのは初めてなのかもしれない。
 訊ね返された僕は彼女に一種の共感を得つつも、何気ない日々の記憶を辿った。


「僕、か。そうだな…僕は普段、虫を捕まえに行ったり、何気なく山の中を巡ったり…後は、最近だと山登りの勝負とか──」


「それ!それにしようよ!!」
 

 突如、彼女は大きな声をあげてバッとこちらに身を乗り出した。
 僕はびっくりして口を閉ざした。
 

 僅かな沈黙が訪れる。
 少女はそれがさも不思議でならなそうに首を傾げた。
 

「虫取り?」


 恐らく、少女はこちらの言葉を待っている。
 それに気が付いた僕がそう訊ねると、彼女は小さく首を横に振った。
 

 女子は虫が苦手な子も多い。
 そんな固定観念に僕は落ち着いた。


「…山巡り?」
 

 二度目の問い掛けに対して、彼女はまたも首を横に振った。


 十中八九で彼女がここで頷き、これから適当に散策することになるだろうと思っていた僕は、当てが外れたことを意外に思った。


「……山登り対決?」


「うん!競争しよーよ!」


 よもや有り得ないだろうと思っていた第三の選択肢を、僕は半信半疑でゆっくりと訊ねる。
 彼女は清々しいまでの笑顔で首肯した。
 

 まず己の耳を疑った。
 次いで言語を解釈した脳内を隈なく検査した。
 そのどちらもに異常がないことを確かめた上で、僕は最後に少女へと疑心を向けた。


 疑念の視線をぶつけられた彼女は、なんだか申し訳なさそうな表情を作った。


「…えっと、もしかして、嫌だったりする?」


「いや、嫌な訳じゃない。ただ…その、勝負にならないんじゃないかなー、って」


 慢心でもなんでもない。
 ただ単純に、華奢な彼女が僕に勝てるわけがないと思ったのだ。
 僕が歯切れの悪い様子で言葉を返すと、少女は心外そうに頬を膨らませた。
 

 ひとまず、遊びの方針は打ち立てられた。
 僕らは適当な斜面を探すために集合地点を出発した。


 彼女はこの辺りについて詳しいようだ。
 すぐに手ごろな登り坂へ案内してくれた。


 実際にはないのだろうが、四十五度ぐらいありそうな急斜面では、木々がそれに逆らうよう真っ直ぐに天へと伸びていた。


「じゃあ、先にここのてっぺんに着いた方が勝ちだからね?まぁ、私は負けないだろうけど」


 余程、実力を下に見られたのが腹立たしかったのだろう。
 さっきからちょっとばかりご機嫌斜めな彼女は、あからさまな敵視を僕にぶつけ、威勢よく啖呵を切った。
 

 僕はその言葉に軽く頷き返し、勝負のコースへと視線を移す。


 あの木々を支えにして、そこの岩を取っ掛かりにしようか。
 といった具合に、レースを勝ち抜くための道筋を模索し終えた僕は、準備完了の意を示した。


 少女も作戦を練り終えたのか、ゴールに視線を固定させながら大きく言う。


「よーいどん!」


 せめてカウントダウンぐらい取ってくれ。
 心の中でそんな悪態をつきながらも、僕はゴール目掛けて勢いよく駆け出した。
 

 目星を付けておいた岩を蹴り上げ、左手で太い枝を掴む。
 似たような動きを何度か続けたところで、目標地点まではあとどれくらいだろうか、と僕は視線を上向けた。
 

 今度は自分の目を疑った。
 

 あろうことか、ついさっきまで隣に居たはずの彼女は、既に二歩も三歩も僕の先を行っていたのだ。
 

 あまりの驚愕に足が張り付く。
 僕は彼女の動きに釘付けとなった。
 

 一体、あのか細い身体の何処にそんな力が隠されていたのだろう。
 彼女は流れるように木々を掴み、まるで平地を走るのと変わらない調子で、斜面をトップスピードに駆けていく。
 

 圧巻であった。
 もしや、彼女の背中には翼が生えているのだろうか。
 そんな錯覚を起こしてしまうぐらいに、彼女の動きは限りなく洗礼されていた。


 その華麗なる舞踊に目を奪われている内に、彼女は瞬く間にゴールへと辿り着いてしまった。
 

 井の中の蛙大海を知らず。


 当時の僕がそんな言葉を知っている訳もなかったが、知識ではなく実体験として、それを思い知ることになった。
 それはまるで、田圃で王者を気取っていたザリガニが、大空からやって来た鳥たちに悠々と喰われてしまったみたいだった。
 

 彼女に随分遅れてゴールに到着した僕は、その急こう配に息絶え絶えだった。
 対して彼女はと言えば、全く息を切らした様子もない。
 

 一から十まで彼女の独壇場であったことを痛感し、ちょっとした自負心をへし折られた僕は何も言えなかった。


 彼女は勝ち誇った笑顔で、こちらに勝利のvサインを見せつけてくれた。


「勝負にならないなんて言ってたの、どこの誰だったかな~?」


 と、彼女は如何にもわざとらしい様子で煽り文句を頂戴してくれる。


 けれども、ここまで完膚なきに打ちのめされては、いつものように負け惜しみをすることさえ憚れた。
 嫌味のない素直な拍手を送ってやると、彼女は満足そうに頷いてくれた。
 

 山登りで急上昇した心拍数を整えている間、僕はいつもの如く、呆然と周囲を俯瞰した。


 草が伸びて木々が生え渡り、それをツタ植物が覆い隠している。
 林冠で遮られた太陽光がまばらに差し込み、幾つもの透明なカーテンが作り出されていた。


 耳を澄ませば小鳥の羽ばたく音色が反復していて、そのどれもが、いつもと変わらない森中であった。
 

 だけど、いつもと一点違っていることがある。
 普段は聞こえないはずの柔らかな声が、すぐ隣から僕の耳奥を擽るのだ。


「ね。君はさ、この植物が何か分かる?」


 透き通った音色と共に、彼女は足元を指差した。
 

 そちらに視線を向けるも、そこに何か目ぼしい草木が見えることはない。
 僕は目配せで疑問を呈示する。
 彼女は身を屈めてその植物に触れた。
 

「ほら、よく見てよ。君も見覚えあるんじゃない?」


 彼女は優しく撫でた植物は、大きな丸い葉が特徴的な、だがどこにでもありそうな背の低い野草だった。
 

 それも、凛々しく一本咲き誇っている特別なものという訳でもない。
 向こうの方にまで群生しているもののうちの一つだ。
 

 僕はもう一度、少女へと視線を向けた。
 彼女は今にもため息を吐き出しそうな表情を作った。


「蕗だよ、蕗。ほら、蕗の薹とか聞いたことない?」


「あぁ、フキノトウか。でも、全然見た目が違うんだな」
 

 ようやく聞き覚えのある名前を耳にした僕は、謎の植物の正体に得心した。
 確かに、フキノトウは頻繁に食卓に並んでいる気がする。
 そういった意味では、足元の野草は僕にとっても馴染み深いものだった。


 けれど、目の前に生えている蕗の薹は、僕の見知った姿とは似ても似つかなかったわけだ。
 こちらの疑問の本質を見抜いたのか、彼女は意気揚々とその口を動かした。
 

「だって、蕗の薹は春の野草だからね。蕗は今みたいな暑い時期に採れるんだよ?あっ、蕗の薹って言うのは、蕾の部分を食べるんだけどさ、蕗は葉っぱの部分も食べられるから、言ってしまえばこの子は二度美味しい山菜で──」


 それからも少女は、間欠泉のように止めどなく蕗の魅力を語り続けた。
 僕は適当な相槌を打ち、彼女の話に耳を傾ける。


 それはいつまでも聞いていられそうな語り口だったけれど、ある時点で「あっ」と彼女は小さな声をあげた。
 

 僕と少女の目と目が合う。
 途端、饒舌であった彼女の口先は固く結ばれた。
 やがてその顔は林檎のように一色へ染め上げられた。
 

 その分かりやすい様子を前に、僕は思わず笑みを洩らす。
 彼女はしどろもどろに取り乱した。
 

「ご、ごめんね。私、ちょっと夢中になっちゃって…退屈、だったよね」


 取り返しのつかない失態を犯したかのように、彼女はその目を大きく伏せた。
 

「そんなことない。聞いていて面白かったし、為になった」


 卑屈が過ぎるとも取れる彼女の言動に、僕は反射的にそう返事をしていた。
 

「…ほんと?」


 彼女は逸らしていた視線を上向け、慎重に訊ね返す。


「あぁ、嘘じゃない。もっと聞きたいぐらいだ」


 僕は何の迷いもなくそう答えた。
 彼女はほっと微笑みを零した。

 
 それ以降、登った急斜面を下って集合場所に戻るまでに、彼女は森のあちこちを指差しては、その手の豆知識を次から次へと披露してくれた。


 そのあれやこれやについて、僕は子守唄を聞くように拝聴し続けた。
 

 大樹の傍まで戻ってくると、今度の彼女は年季の入った樹木の枝先を指し示した。
 そこでは、樹皮の茶色に混じって、青い蝉が鳴き声を響かせていた。


「この鳴き声は、どの蝉だと思う?」


 そいつは蝉の中でも一際高い音を奏で、消え入るような締め括り方をする。
 そして鳴き始めるのは、大体空が赤く染まり出した時だ。
 そこまで判断材料が揃っていれば、僕も間違うことなど有り得なかった。


「ひぐらしだろ?」


「おー、正解。意外だったなぁ」


「虫のことには自信があるんだ」
 

 彼女は心底驚いたような表情で、大袈裟に胸を張る僕を眺めていた。
 もしかせずとも、僕は今日初めて自信満々になれたんじゃないだろうか。
 

 山のことに関しては、知識でもフィジカルでも敵わなかったけど、昆虫についてまでそういう訳にはいかない。


 そんな風に僕は意気込んでいたというのに、彼女はにやりとした笑みを浮かべて、忘れずに言ってくれるのだ。


「植物に関してはてんで駄目だったけどね~」


「そっちが物知りすぎるんだよ」


 流れるように言葉を返し、僕らは示し合わせたみたいに小さな笑い声を交わした。
 僕は他人事のように、彼女とのやり取りにもだいぶと慣れてきたことを実感した。
 

 これなら大丈夫そうだ。
 そうして彼女に対する過度な気遣いを止めたところで、ふと気が付く。


 今日一日、何かが欠けているような気がしてならなかったが、ようやくその謎が解けたのだ。
 

 一度それを意識し始めると、縫い針に糸の通らないようなもどかしさが身体中を撫でた。
 

 時間的にもそろそろお別れだろうし、タイミング的にもここしかないのではないだろうか。
 あとになって訊ねたりしたら、それこそおかしいのではないだろうか。
 だがなんにせよ、早く訊ねておかなければ。

 
「なぁ」と、不思議な強迫観念に駆られた僕は会話を切り出した。
 

 彼女はこちらに目を向けた。
 一日一緒に遊んだ上で、今更こんなことを聞くのも奇妙な話だとは思ったが、僕はこう言った。


「あのさ…君の名前って、なんなんだ?」


 思い返せば、僕は彼女の名前を知らないままに今日一日を共に過ごしていた。
 

 これまでは適当な代名詞で会話を成立させていたが、わけにはいかないだろう。
 

 何か別段の理由があるわけではなかった。
 けれども、僕は僅かに手汗を滲ませ、割れ物に触れるような慎重さで彼女の名を訊ねた。
 

 すると、名無しの少女はほんの少しばかり身を強張らせた。


 それはよくよく考えると不自然な間隙であったが、通常であれば気にも止めないような間の置き方とも言えた。
 

 だから当時の僕は、それを気にすることはなかったのだと思う。
 その一足遅れた沈黙は僅かのことだった。
 彼女の表情には、すぐに無邪気な笑みが戻ってきた。


「んー、なんだと思う?当ててみてよ」


「え?」


 僕は思わず頓狂な声をあげた。
 現実的に考えて、なんのヒントもなしに名前を言い当てるなんてことは、不可能だと思えた。
 

「冗談だろう?」


 その唐突な無茶ぶりに、僕はつい苦笑いを浮かべる。
 彼女は微笑んだままこちらの答えを待つのみだ。
 

 そこから、彼女が自発的に名乗り出るつもりが微塵もないことは良く伺えた。
 無理だ無理だとは思いつつも、最終的には、僕は彼女の名前を推測することになった。
 

 数分か数秒か、彼女とのささやかな交友期間を振り返る。
 途端、驚くほど流暢に、頭の中には一つの答えが浮かび上がっていた。
 

 導き出した言葉は、一切つっかえることなく喉奥を通り抜けようとする。
 だが、言葉と化す前にもう一度吟味の機会を得るべく、それは一旦腹の中に納まった。
 

 反復するように脳内でその名前を呟く。
 それを目の前の彼女に重ね合わせる。


 その行為を繰り返せば繰り返すほどに、やっぱり、彼女にはこの名前が似合うと思えたし、何より一度思い浮かんでしまえば、もうそうであるとしか考えられなかった。


 大袈裟に言ってしまえば、良く晴れた夜空には必ず星々が煌めくように、その名前こそが彼女のあるべき姿を証明するに違いないと、僕は疑いなく信じられたのだ。


 気づかぬうちに、口の端からは彼女の名前が零れ落ちていた。


「……鈴音すずね……」


 その独りごちるような小さな呟きは、蝉しぐれに掻き消されてしまっただろうか。


 伏し目を上げて前方を見やる。
 彼女は深く瞳を閉ざし、胸に両手を当てていた。
 

 それから、彼女は口元を緩く綻ばせ、ゆっくりと瞼を開いた。


「鈴音……うん、良い名前だね。じゃあ、今日から私は鈴音だよ」


 答えの当否には一切触れることなく、彼女は良く分からないことを宣った。
 一日中振り回され続けている僕は、またも彼女に振り落とされないよう必死に空間へしがみ付きながら言葉を返した。


「…今日から?」


 僕の疑問を受け取った彼女は、大きく頷きながら続ける。


「そそ。せっかく君がくれた名前なんだから──って、もう君じゃ駄目だよね。ほら、君も名前教えてよ」


 彼女は催促するように僕の目を見据えた。
 偽名でも使おうか。
 なんてことが一瞬脳裏に過ったが、結局、僕は彼女の要望通りに自らの名を告げた。
 

「……千風ちかぜ、だ」


 その時の僕は、まるで記憶喪失者のように不確かな調子で名乗りを上げていた。


 これまでにも何度となく、自己紹介は繰り返してきている。
 けれどもこの時ばかりは、妙に自分の名前に自信を持てなかったのだ。
 

「君も良い名前なんだね」


 不安そうな僕に気が付いたのか、彼女は優しく言葉を返してくれた。


 その時、僕は不思議と心が温かくなったのを覚えている。
 その柔らかな声は、往々にしてある心にもないお世辞などではなく、彼女が心から僕の名前を褒めてくれているような気にさせてくれたのだ。
 

「…千風くん…ん~…千風くん?」


 彼女は発音の抑揚を確かめるように、僕の名前を繰り返し呟く。
 その間、僕は先程の彼女の言葉の意味について吟味していた。


 と言っても、彼女に名前を呟かれる度に、なんだか背中がこそばゆくなって、頭は上手く回らなかったんだけれど。
 

 恐らく、彼女の言い草からして、本当の名前はまた別にあるのだろう。
 要するに、彼女はあだ名みたいなものとして「鈴音」という名前を受け入れたのだ。
 僕はそのような結論に至った。
 

 だが何はともあれ、この時、少女は初めて鈴音になって、少女にとって僕は千風になったのだ。


 ♦♦♦


「そろそろ良い時間かなぁ」


 彼女は不意と呟き、徐に顔を上向ける。
 僕もまた同じように、その先にゆっくりと視線を移した。
 

 木々の隙間から伺えるはずであった青色は、いつの間にか、塗装屋の手に掛かっていたらしい。


 大空は見事なまでの赤黄色へと塗り替えられていた。
 その中で一匹黒いカラスが、一日の終わりを告げて回るように周囲を旋回していた。
 

 一日の初めと終わりを直接繋ぎ合わせたみたいに、今日という日は瞬く間に過ぎ去っていった。
 もう日照時間が終わってしまうのが名残惜しいぐらいだ。
 

 日が沈むと言うことは、当然、僕らにもお別れの時間がやってくる。
 まだまだ遊び足りなそうに空を眺める鈴音を見ていると、もう一度夕陽を東側に引っ張ってやりたくなった。
 

 何か言葉を交わしていたわけではないが、僕らはお別れの準備をしていた。
 大樹を境に僕は向こうへ、彼女はあちらへと足を向けた。


「それじゃあ、またね、千風くん」


「ああ、またな、鈴音」


 確かめるようにお互いの名前を呼び合うと、やがて僕らは離れ離れになった。


 緩やかな下り坂を辿り、森の切れ目に辿り着いたところで、僕は突発的に二つのことに気が付いた。
 

 気付いたことの一つ目は、また、僕らは詳細な待ち合わせをし忘れたことだ。
 しまった、と森の方へ首を向けたが、僕がもう一度山に向かうことはなかった。
 

 なるようになると思ったのだ。
 実際、今日の僕らは問題なかったわけだから。
 
 
 そしてもう一つは、僕は彼女の名前を知りたくなったその時から「また」が確実に訪れるものだと無条件に信じていたことだ。
 

 何気なく発見した事実に疑問を提唱してみるも、山のことを知り尽くした鈴音に感心した。
 だからまた一緒に遊んでみたくなった。


 頭の中にはその程度のことしか思い浮かんで来ない。
 いや、たぶん当時の僕は、本当にそうとしか思っていなかったのだと思う。
 

 とは言え、その時の僕には、これ以上その事実に目を向けるだけの余力はなかった。


 今はただ彼女の名を忘れぬよう、あぜ道の先に見える大きな斜陽を目指しながら、何度も何度も頭の上で君の名前を唱え続けていたから。
 

 このようにして、僕らの一日目は終わりを迎え、続く日々が幕を開けた。





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