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⑮ 決意の思い出
しおりを挟む昨晩、僕はどのようにして家に帰り、風呂に入り、布団に潜ったのかはよく覚えていない。
それでも、気が付くと朝日が昇り、僕は布団の中でいつもと変わらない一日を迎えていた。
頭は泥が詰まったみたいに重く、胸は妙に風通しが良かった。
何度も朝の日課を違えながら、事務的に朝食を済ませ、慣習的に朝顔に水をやり、機械的に宿題に取り掛かった。
淡々と午前の日々を消化し、太陽が天辺に昇ると、僕は訳もなく靴ひもを結んでいた。
家を飛び出し向かう先は、やっぱり、山の方だった。
あれから一晩経った今、頭の方は否応なしに整理が付いていた。
が、とは言え心の方はまだ諦めが付いていなかった。
「あれは嘘だよ~」「千風くんが慌てる姿、見たくなっちゃったから」
なんてことを言いながら、君が意地悪い笑顔で僕を迎えてくれる可能性だって残されているはずだろう。
いや、残されているに違いない。
そうでなくてはならない。
そうやって僕は、頭の中に都合の良い君の像を多数乱立させる。
昨日確かに見聞きした事実の輪郭を朧気にしてしまった。
すくすくと育ちつつある青い稲を無関心に眺めつつも、ひたすらにこれまでと変わらない道筋を往く。
雑木林をかき分け、緩い斜面を登る。
僕はシンボルツリーに辿り着いた。
君は居ない。
「…鈴音?」
その情けないほどに弱々しい声が、他でもない自分の喉から振り絞られたものだと思い知ったその時、僕は然程驚くことはなかった。
彼女の名を呼ぼうとも、君は大樹の裏からひょいと顔を見せることもなければ、後ろから僕を脅かしてくれることもない。
僕の縋り声は蝉の暴音に吞まれていく。
夏の音の中から、君の返事が聞こえることはなかった。
身体の内側から軋み音が聞こえた。
でも、それらの感情を検分することは全て後回しだ。
僕は手当たり次第に、鈴音を探し始めた。
この一年の間、君と一緒に過ごした場所の一つ一つを見て回らなければ、彼女が居ないことを決定付けることは出来ないのだから。
もちろん、そんなことないってことぐらい、本当はもう解っていたけれど。
急斜面。
小川。
竹林。
紅葉が綺麗だった場所。
二人でオナモミを投げ合った所…。
闇雲に山の中を駆け巡って、しかし、居ない、居ない、居ない。
君は何処にもいない。
頭の中に広げた地図にバツ印が増えていく。
僕は息が上がるほどに走力を振り切れさせた。
満足に呼吸が出来なくなってもなお、その足を止めようとはしなかった。
今は盲目的に動き続けなければ、やがて僕は窒息してしまう気さえしていた。
そのうちに日暮れ時がやって来た。
僕は生まれたての小鹿みたいに足を震わせながらシンボルツリーまで戻ってきた。
一日中走り回ったのに、終ぞ、彼女の姿を見つけることは叶わなかった。
でも大丈夫。
まだ大丈夫。
残りの三割に君がいるかもしれないから。
きっといるから。
段々と心に余裕がなくなっていることを他人事のように自覚しながら、僕は手を振って山を下りた。
そうして僕は、世界が終わった後の一日目に区切りをつけた。
二日目。
今度は朝から山にやって来た。
昨日酷使した筋肉は悲鳴を上げていたが、それを無視して森の中を彷徨った。
午前中のうちに、記憶に残る場所は全て回ってしまった。
そしてとうとう、僕は現実を受け入れざるを得なくなった。
鈴音は何処にも居ない。
僕は鈴音に拒否された。
もう、彼女は僕の前に現れてくれない。
途端、これまで良くも悪くも靄で覆われていた心が真っ白に染まった。
もうこれ以上は何も考えたくなかったし、何もしたくなかった。
僕は覚束ない足取りで山を後にし、自室に籠ってひたすら惰眠を貪った。
三日目。
僕は午後何時かに目を覚ました。
文字盤はよく見えなかった。
ぐっすり眠ったはずなのに、布団から這い出す気力の一滴も得られない。
僕は一日のほとんどを仰向けになって過ごした。
夏の奏でる音の全てが浅く聞こえた。
何を食べても味が薄った。
目にはあらゆるものが暗く映った。
いまは一秒でも早く、日々が過ぎ去って欲しかった。
君のいない一日は驚くほどに長かった。
四日目。
僕はひたすら机に向かった。
ただ茫然と日々を過ごしても、脳裏に君が過ってしまうというならば、僕はいっそ他のことに夢中になろうとした。
でも、意識して考えないようにすればするほど、煙みたいに君との記憶が全身に纏わりついた。
その度に僕は皮膚が抉り取られるような心地に陥り、世界の彩度は一段と下がった気がした。
最近、視界が歪むことが多くなった気がする。
五日目。
全て無かったことにしよう。
ふとそう思った。
こんなに辛い思いをするぐらいなら、もういっそ全部忘れてしまえばいいんだと自暴自棄になった。
もちろん、記憶を喪失出来るわけではない。
僕はその日、久々に日向達と遊び明かした。
全力で自転車を漕いだ。
プールに行って泳ぎ倒した。
帰り道には大きなかき氷も食べた。
その日、僕は彼らと存分に話した。
喉が枯れるほどに笑った。
ぶっ倒れるぐらいに全力で身体を動かした。
この上なく素晴らしい一日だ。
暮れ方の空の下で、彼らと自転車を押し歩いている時、僕は本当にそう思っていた。
家に帰ってご飯を食べて、熱い湯船に浸かって気怠い身体に鞭打って布団に入ったところで、不意と、凄まじい虚無感に襲われた。
夢から醒めた夢を見た気分だった。
一応言っておくと、彼らとの時間が楽しくなかったわけではない。
少なくとも、頭の中は今日一日を最良の日だと思っているようだった。
ただ、心の方は全く満足していなかったというだけの話だ。
胸の内にはやるせなさだけが募った。
六日目。
僕は性懲りもなく山に向かった。
当然の如く君は居なかった。
「なぁ、鈴音。どこに隠れたんだよ」
「頼むから…出てきてくれよ」
行く当てもなく森の放浪者となった僕は、時々無意識のうちに、乞い願うようにそんなことを呟いていた。
凡そ正気だとは思えなかった。
いや、もうとっくに頭はどうかしていたのだろう。
それほどに君という存在は、僕の精神的支柱として中枢に溶け込んでいたのだ。
夕方頃になってふらふらと大樹にまで戻ってくると、僕はなんとなく、その場にへたり込んだ。
あるのは絶望だけだった。
膝を抱えて顔を埋める影法師が伸びていた。
ヒグラシの他にも一匹泣き虫が、自分の居場所を叫ぶように鳴いていた。
星々が微かに輝き始めた頃、ぐちゃぐちゃの僕はのろのろと立ち上がった。
夜空に浮かぶ星彩は、そのどれも薄汚く見えた。
僕は死んだように眠った。
七日目。
目を覚ますと日が傾いていた。
でも一日を無駄にしたとは思わなかった。
それどころか、僕は一日が早く終わることに後ろ向きな喜びさえ感じていた。
望んだとおりにすぐに夜の時間が来ると、しかし、僕は上手く寝付けなかった。
仕方なく布団から這い出て、窓辺から詰まらない夜空を漠然と眺めた。
そうして長い間、頬杖をついていると、ゆくりなく、思った。
僕は何をしているのだろう、と。
その晩、僕はようやく真剣になった。
鈴音が姿を見せなくなった理由。
僕に足りなかったもの。
別れ際の彼女の様子。
そして、この一週間のこと。
思いつく限りについて一つ一つを取り上げては、僕は時間を掛けてじっくりと分析し、起きてしまったことの原因を究明することに努めた。
もう二度と、同じ過ちを繰り返さないように。
でも、その過ちをやり直したいたった一人の君はもういないんだ。
こんなことをしてなんの意味があるって言うんだ。
そんな風に、夜中に冴え渡った頭は余計なことまで抱え込んだ。
結果、僕が個別的に物事の検証を終えた頃には、窓枠に映る四角形の空が白み始めていた。
それらを全て繋ぎ合わせる前に、僕はゆっくりと意識を失ってしまった。
そしてまた、今日がやって来た。
僕は独りでに午後五時に目が覚めた。
突っ伏した机の上で、大きく身体を伸ばす。
一度睡眠を挟んだ頭は気持ちいいほどにすっきりしていて、僕は神託のように、一つの答えを導き出していた。
寝癖を直すことはない。
空いた腹を満たすこともない。
歯を磨いて、乾いた口にコップの水を流し込む。
僕は寝間着姿とサンダルの格好で、静かに玄関から出ていった。
それから、ちょっとした散歩にでも行く調子で山の中に入った。
暫くするとシンボルツリーに到着し、やっぱり、鈴音は姿を現さなかった。
「鈴音、居るなら出て来てくれよ。そろそろかくれんぼにも飽きてきたんだ」
僕はのんびりとした調子で彼女に問い掛ける。
その確かな芯の通った声色からは、ここ最近のみっともない僕が微塵も感じられなかった。
だから、その変わりように驚いて彼女は姿を現してしまった。
ということを微かに期待してみたのだが、そう上手くはいかないようだ。
まるで君がそこにいるかのようなその口調は、一見すると、とうとう僕が狂気に吞まれたかのように見えるだろう。
しかし、そこには揺るぎない確信があった。
その証拠に、今この瞬間も、僕の感覚は強く訴えているのだ。
そう、誰かに見られている、と。
思い返せばその奇妙な感覚は、この一週間山を訪れる度に僕に付き纏っていた。
昨晩、僕はそのことについてよく考え、とある結論を得た。
それすなわち、鈴音はずっと僕の近くに居るのだ、と。
まず彼女はあの日「もう来ないで欲しい」と僕に言った。
しかし一方で、自分が来ないとは言っていない。
そしてそもそもの話、彼女は他の人には見えない半透明な存在なのだ。
だから、何かの拍子に僕も皆と同じようになってもおかしくはないだろう。
要するに、彼女は形而上となって今も僕を見ている。
そう言うことだ。
であれば、後はどうやって彼女に姿を現させるか。
問題はそれだけだ。
そこで、閃いた一つの作戦を実行するというわけである。
そこには論理的思考など皆無だった。
それでも、僕にとってはそれが唯一の真実であるように思えた。
僕は堂々と、シンボルツリーの先を進んでいく。
やがて、見覚えのある崖地の手前に到着した。
注意深く、地面の切っ先にまで足を進める。
あの時のことは不思議と上手く思い出せないが、どうやら、身体は覚えているというやつらしい。
身を乗り出して遠い地面に視線を落とすと、身体のあちこちで嫌な脂汗が伝った。
僕は一呼吸挟み、強烈な自己暗示を塗り重ねた。
君のいない一週間を経て、僕はようやく真に理解した。
僕の世界は何をとっても君に始まり、そして君に終わるのだ、と。
君が隠れた世界は朝の来ない夜の世界に等しく、君のいない世界には何の価値もないのだ、と。
だったら、もう生きる必要はないんじゃないかな。
僕は単純に思った。
傍から見れば、それはただの狭窄なのかもしれない。
或いは気狂いの妄言と捉えるかもしれない。
でも、僕にはそれが全てだ。
鈴音こそが生きる意味だ。
なればこそ僕は、一度拾った命を投げ捨てようではないか。
頭から行こうか。
それとも足から行くべきか。
まぁなんでもいいか。
大きな深呼吸を終え、竦む身体を言い聞かせる。
僕はゆっくりと、右足を空中に繰り出した。
たちまち身体は重力に引っ張られ、僕は遥か大地に真っ赤な花を咲かせた、かに思われた。
ピタリと、前のめりになった身体が不自然に動きを止める。
アンカーで固定されたみたいに、僕の左手は空中の一点できつく貼り付いていた。
と思ったら、僕の身体が瞬く間に崖上に引っ張り上げられた。
その左手には、僕の大好きな温もりが伝わっている。
しかしそれは一瞬のことで、今度はその感触が抜け落ちそうになった。
僕はその一瞬を逃さず、すかさず空中に手を伸ばした。
目には見えないが、確かに、そこには細い手首があった。
決して離さないよう空間を強く握り締めた僕は、掴んだ先に強気な笑み浮かべた。
「見つけた」
その短い言葉にはどんな喜びにも勝るほどの興奮が色濃く表れていた。
僕は確信めいた眼差しで、空間の一点を見つめ続けた。
賭けに勝ったという自信があった。
高らかな勝利宣言が辺りに染み渡ると、それから長い間、蝉たちが夏の静謐を歌っていた。
僕は掴んだ手を必死に握り締める。
辛抱強く、その時を待った。
手の内に汗が滲み始めた頃、遂に、変化が訪れた。
「…ずるいなぁ、千風くんは」
どこからともなく、参った調子の澄声が響いてくる。
視線を向けていたその先で、魔法の粒子が拡散していくような淡い輝きが舞い散った。
観念したようにゆっくりと、君は僕の目に見える形で現われた。
そのあまりに美しい登場に、僕は思わず言葉を失った。
何にも汚れないような真っ白な肌。
目尻に流れる長いまつ毛。
艶やかな黒の髪。
容姿端麗な顔立ち。
ひとたび彼女を認知すると、ありとあらゆる感情が身体中に一挙に押し寄せ、それは間欠泉のように飽和した。
一週間ぶりに君を目に焼き付けた僕は、もう、我慢ならなかった。
「鈴音!!」
僕は無我夢中になって君の名前を叫んでいた。
鈴音は困ったような笑顔を崩さないでいた。
一瞬でも目を離せば、君はまた、何処かに行ってしまいそうな気がした。
僕は雪崩れ込むように君との間隔を狭める。
気が付くと、彼女の鼓動が僕の胸に響いていた。
僕は今、鈴音を強く抱き締めている。
それを自覚した時にはもう遅く、溢れ出る衝動が止まることはなかった。
「お願いだから、もう勝手に居なくならないでくれ。僕は鈴音といる時間が何よりも大切で、鈴音と一緒に居られないと頭がおかしくなりそうで…だからっ…頼むから、僕の隣に居てくれ…」
力の限り君を抱き締める。
僕は心から零れ落ちる感情を精査することなく、だだ流しにした。
そこには取り繕うべき体裁もなく、透き通るほどに純粋な祈りが伝わっていた。
鈴音は困惑したように、僕の腕の中で固まっている。
その間、僕は声を上ずらせて、同じような意味の言葉を繰り返していたのだろう。
やがて君は苦しそうに微笑みを作った。
我に返った僕が抱擁を解こうとすると、君はすかさず、僕の背中にそっと腕を回した。
僕の言葉に何一つ答えてくれないことは、どうしようもなく悲しかったし、君が僕に応えて優しく包んでくれたことは、どうしようもなく嬉しかった。
「本気でここから飛び降りようとするなんて…無茶が過ぎるよ」
僕の背中をぎゅっと抱き締めた君は、鈴を転がすような美しい声を以て、僕の耳元で囁いた。
「鈴音が止めてくれるって、分かってた。だからやったんだ」
僕は少しだけ腕に力を加え、そのように答える。
「止めなかったら、どうするつもりだったの?」
鈴音は優しい声でまた呟いた。
「どうもしない。それで終わりだ」
僕は呆気なく答えた。
「…もう二度と、しちゃ駄目だからね」
彼女は僕を諫めるように言った。
「めっ!」という擬音が聞こえそうな勢いで僕の胸を小突き、君はそっと、僕の身体から離れた。
そんな鈴音は、怒りながら笑っているようだった。
また君が居なくなったらどうしようかと気が気でなかった僕は、瞬きしても姿を消さない君に一安心した。
「うん、約束する」と大人しく返事をすると、君は満足げに頷いた。
思えばこの時、僕は初めて鈴音に黒星を叩きつけたのだろう。
とは言え、今はそんなことはどうだって良かった。
勝ち負けなどに拘る以前の問題として、もう充分過ぎるほどに僕は満たされていたのだ。
遅れて、自分のしでかしたことを脳裏に巡らせる。
僕の顔は秒読みで火照った。
それを見た鈴音は小さな笑い声を洩らした。
それから彼女は「さて」とでも言いたげに両手を合わせると、遠慮気味にこう言った。
「ね、千風くん」「明日、朝からまたいつもの場所に来て欲しいんだけど…良いかな?」
「構わない」と僕はそれに即応する。
すると鈴音は、悪戯めいた素振りで僕にこう言った。
「もしかしたら、また居なくなっちゃってるかもだよ?」
「なら、もう一度同じことをするだけだぞ?」
僕は彼女に負けじと言葉を返した。
「…千風くんは意地悪だなぁ~。こっちは気が気じゃないのに」
鈴音はしてやられたみたいにため息をついた。
そうして僕たちは大樹の下まで戻り、その日のお別れを告げようとした。
「朝一番だな?」
去り際に僕はもう一度、彼女に確認を取った。
「うん、ちゃんと全部話すから」
鈴音は何気なく言った。
僕は思わず目を見開いて立ち止まった。
「もう日が暮れちゃうよ。だからまた明日、ね?」
鈴音は僕に言い聞かせるよう手を振る。
背を押される形でその場を後にした僕は、その言葉に並々ならぬ予感を抱いた。
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