遠い記憶のクロシェット

うずまきしろう

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⑯ 真相の思い出

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 久しぶりに鈴音の姿を見られたこと。
 君と話せたこと。
 感極まってつい、彼女を抱き締めてしまったこと。


 それから、色々を口走ってしまったこと。
 鈴音にも抱き締められてしまったこと。
 

 その晩、僕は心に刻むように、一日の出来事を反芻していた。


 明日の為に身体を休めなければならないというのに、頭も身体も高揚が収まらなかった。
 無理やり目を閉ざして羊を数え、真夜になってようやく、意識は手放された。


 それでも、朝は自分でも驚くほどに素早く目が覚めた。
 用意した目覚まし時計が鳴る頃には、既に布団まで畳み終えていた。
 

 その日は、気持ちが良いほどの快晴だった。
 

 窓際に覗く太陽が、自室に深い陰影を作り出している。
 窓の向こうに見える雑木林から、重厚な蝉時雨が聞こえた。


 窓を開け放つ。
 部屋いっぱいに、湿った空気の匂いが舞い込んでくる。


 いかにも夏らしい夏だ。


 朝ご飯を食べ終えた僕は、すぐさま外へと繰り出した。
 

 農道の両端に広がる田んぼには、もう緑の絨毯は見えない。
 稲穂の先が仄かな黄金色を帯び始めており、そこでは、青緑色の腹部が美しいハグロトンボが翅を休めていた。
 

 行く小路の傍らで、立ち並ぶ向日葵が空高くを見上げている。
 山の緑に近づくにつれて、徐々に人工と天然の比率が入れ替わっていった。


 やがて僕は、自然のほら穴の如き青葉の蔓延る森の入り口に吞み込まれた。
 透いた林冠から洩れる幾つもの光芒が、僕の身体を差し込んでは陰りを落とした。
 

 じわじわとその足取りが速まる。
 逸る気持ちを抑えられない。


 辛抱堪らず、僕は慣れ親しんだ道なき道を跳ぶように進み始めた。


 ものの数十秒で緩い傾斜を登り終える。
 遠くに、一際背の高い大樹が伺えた。


 目的地はすぐそこだったが、だからと言って駆ける足が止まることはなかった。
 

 居るのか、居ないのか。
 鈴音は本当にあそこで待ってくれているのか。
 今度という今度ばかりは、何も言わずに僕の前から去ってしまうのではないか。
 

 次から次へと、頭の中には嫌なことばかりが浮かんでは沈んだ。
 身体中が、言葉にならない焦燥に駆り立てられていた。
 

 鈴音の言葉が信じられなかったわけではない。
 それでも、一抹の不安は瞬く間に膨らみ、破裂寸前にまで僕の胸いっぱいに広がった。
 

 ただ、君の姿を一目でも見られたなら、この胸に巣食う風船も落ち着くのだ。
 

 僕は気の急くままに掩体のような木々を躱していく。
 やっとのことで、大樹の聳え立つ地へと駆け込んだ。
 

 と同時に、僕の全身は鎖で絡め取られたように、微動だにしなくなった。


 その場からは空気がごっそりと抜き取られている。
 僕は息を吸うことさえままならず、茫然と、一点を見つめることになった。
 

 初め、僕は自らの眼球が捉えた光景を疑った。


 夢まぼろしの類を軽々と上回るほどに、この現こそが浮世離れしていたのだ。
 こんなにも胸に響く現実が存在するなんて、僕には到底信じることが出来なかった。
 

 視界の中心で動く白はこれまで通り美しく、だが、これまでになく気高き品性を放っている。


 その後光が射して見える姿に目を奪われるあまり、僕はどう足掻いても、その場から動き出すことが出来なかった。
 

 その時、僕の脳裏には今更ながら、提灯と釣り鐘が思い浮かべられた。
 

 途端、僕の抱く薄汚い欲望で、彼女を汚すことはあってはならないと強く思わされた。
 

 すっぽんが月に近づけるはずがない理屈と同じだ。
 僕という人間が君に近づくことなど、許されるはずがない。
 

 正直に言おう。
 並外れて高踏的な君を前に、僕は思わず、怯んでしまったのだ。


 じわじわと、身体が無意識に後退りをする。
 物理的にも精神的にも、僕は彼女から距離を取ろうとしていた。
 

 そんな僕をよそに、君はひらひらと手を振りながら、近くて遠い距離を縮めた。


 そうして、


「おはよう、千風くん」


 と、屈託のない笑顔で僕の名前を呼んでくれた。

 
 たったそれだけのことで、僕の中に芽生えた心理的障壁は音を立てて崩れ去った。
 

 いつもと恰好が違うからなんだというのだ。
 鈴音は変わらず鈴音だ。


 だから僕も、これまで通りの僕でいればいい。
 それだけのことではないか。
 

 畏怖の念に似た感情さえ呼び起こす鈴音から逃げ出そうとした寸前、僕は正気を取り戻した。
 それは、君がいつも通りの声色で、僕と同じ言葉で語り掛けてくれたからこそだった。
 

 僕は頭の中を切り替えるように一呼吸を置く。
 自然と綻びた微笑みと共に、彼女へ挨拶を返した。
 

 鈴音は確かめるように自身の身体のあちこちを眺める。
 その場で、ふわりと一回転した。


 そして、僕にでも分かるぐらいに、あざとい笑顔を浮かべて言った。
 

「どう、似合ってる?」


 何を隠そう、今日の鈴音は例のワンピース姿ではなかった。
 

 清流を思わせる淡い水色をした装束は、彼女の華奢な身体によく馴染んでいる。
 その色合いもまた、見事なまでに彼女の乳白色の肌に溶け込んでいた。
 

 鈴音の変化は服装だけに留まらない。


 後頭部に添えられた藤色の髪飾りは、彼女の翡翠の髪差をこれ以上になく引き立てている。
 髪飾りで結われたその髪が、これまでの自然体とは異なる形で、彼女の美しさを体現していた。

 
 飾りに使われている花は本物のようだ。
 辺りには、芳しい香りが揺れている。


 しかし、一年以上植物に関することを勉強してきた僕にでも、その花の正体には見当もつかなかった。
 

 そうして改めて君の姿を見つめ直したうえで、僕は、彼女の問い掛けに答える準備を整えた。
 

 それを素直に認めることは中々に悔しいし、それ以上に恥ずかしいことだったが、実際、非の打ちどころは何処にも見当たらなかった。


「うん、凄く似合ってる」と僕は大きく頷いた。


「可愛い?」君は一歩踏み込んで僕を覗き込んだ。


「うん、信じられないぐらいに可愛い」僕はまた頷いた。


「…見惚れちゃった?」段々と顔が綻びつつある君は更に訊ねた。


「うん、今もまだ、目が離せない」僕はもう一度、馬鹿正直に答えた。
 

 遂に表情を抑えられなくなった君は「えへへ…」と照れくさそうに口元を綻ばせた。


 僕はそんな君に幾度となく魅入っていた。
 

「もっと前からこの格好でいれば良かったなー」


 彼女はこっそりと呟く。
 その口惜しそうな言葉を前に、僕は連鎖的に昨日の言葉を思い出した。
 

 ──全部話すから。
 

 一体、その言葉が何を意味するのか。
 本音を言うと、僕はもう、そんなことを知りたくはなかった。


 出来ることなら耳を塞いで、永遠にこの時間を続けたいと思っていた。
 だって、彼女の服装から、僕は大体の顛末を推測出来てしまったから。
 

 その時の僕がどんな表情を浮かべたのかは、目の前に鏡があった訳じゃないから、今も分からないままだ。
 でも、鈴音は僕を見ると、慰めるような表情を浮かべた。


「千風くん」


 彼女は改まったように僕を呼んだ。
 僕は現実から目を逸らそうとしたが、君はそんな僕を逃がすまいと真っ直ぐに見つめた。
 

 長い躊躇いの末に、僕は返事をしてしまった。


 すると鈴音は、何気なく僕の手を取り、


「何から何まで全部話しちゃう前にさ、最後にちょっと散歩しよーよ!」


 と明るい調子で僕を引っ張った。


 僕はその手を離さないように、強く握り返した。
 僕を導く彼女に、後ろから付いていった。
 

「あんなこともあったね」「こんなこともあったね」


 といった具合で、鈴音は適当に森の中をそぞろ歩いては、これまでの日々を振り返るように僕に笑い掛けてくれる。
 

 連れ回された僕は相槌を打ちながら、綱渡りの笑顔を保ち続けた。


 彼女と散策すること自体は楽しかった。
 でも、この後のことを考えると、心は何処までも重かった。
 

 僕が気乗りしていないことを察したのだろう。
 鈴音は途中で大樹まで戻ってきた。
 既に太陽は頂点に昇っていた。


「どうにも千風くんは、私の話が聞きたくてしょうがないみたいだね」


 彼女は僕と面と向かうと、堪え性のない子供を見るみたいに言った。
 

「…その逆だ」僕は投げやりに答える。


 すると鈴音は、意外そうに眼を丸めて「じゃあ」と言葉を繋いだ。


「まずは、千風くんの推理でも聞いてみようかな。種明かしはその後ってことで」


「推理?」


 ついつい状況を忘れて、僕は思わず素の調子で聞き返した。


「うん。私と一緒に過ごす中で、千風くんはどう考えたのかなー、って」


 彼女は遊び感覚のように軽い調子で催促した。
 

 僕は口を固く結んだ。
 その暗黙の了解を言葉にしてしまっては、君が終点に運ばれてしまうだろうから。
 

 押し黙る僕に対して、鈴音はジッと僕の目を見て、我慢強く待ち続けるという選択を選んだ。
 

 きっと、彼女は知っていたのだろう。
 そうして君に見つめられてしまえば、僕がいつかは口を開くことを。
 

 彼女の狙い通り、とうとう、鉛のように重い口が動く時が来た。
 僕は断腸の思いで喉を震わせ、君との答え合わせをしてしまった。


「鈴音は……幽霊、なのか?」


 本来、君は人の目には映らぬ存在だ。
 ずっと昔に彼女の正体を探ろうとした時に、僕はほとんどその答えに辿り着いていた。
 

 加えて、今日の君は死装束を思わせる姿で現れた。
 

 かつては君が幽霊などではないと思い込もうとした時期もあった。
 が、こうにまで色々な証拠を見せられては、それも無理な話だった。
 

 その言葉を最後に、僕の世界は音が失われたみたいに静まり返った。
 

 鈴音はきょとんとこちらを眺めている。
 僕は祈るような気持ちで両目を瞑る。
 ただ、君の答えを待った。
 

 数拍の間があった。


 何処からともなく、愉快そうな声が聞こえてくる。
 

 面食らった僕は大きく目を開けた。


 そこには、お腹を抱えて苦しそうに笑う君がいた。


 僕は呆然と、抱腹絶倒の君を眺めた。
 

 暫くして、ひーひー言いながら笑みを抑えた君は、


「私はお化けじゃないよ~。残念でした~」


 と両肘を軽く曲げ、それっぽく手の甲をこちらにだらんと向けた。
 

 鈴音の言葉によって、僕の世界はひっくり返った。


「参考までに、どうして私が幽霊だと思ったのか聞かせてよ」

 
 彼女は可笑しそうに微笑みながら言う。
 僕は困惑したままに、推論の基となった情報を伝えた。


「だって、びっくりするぐらい肌が白いし、髪とかも伸びてなさそうだし、いつも白いワンピース着てたし…今日なんて、死装束そっくりの服着てるじゃないか」

 
 僕の話を聞いた君は軽く首を傾げた。
 続いて反証するように、帯近くに手を添えた。


「なるほどー。でも、私の装束は左前じゃないよ?」


「あっ」僕は思わず声をあげた。

 
 鈴音の言う通り、確かに彼女の水色な装束は、きちんと右前であったのだ。


「千風くんは抜けてるね~」と、のんびりとした君の声が聞こえる。
 
 
 鈴音は流し目で僕を見やると、ありきたりな即興のお話を物語った。
 

「他人の温もりを求めた幽霊は、ある日、少年と出会いました。彼女は彼と日々を過ごすうちに温かな気持ちを知り、最後には安らかに成仏しましたとさ。なんてね?」
 
 
 それが実現しなくて本当に良かった。
 と、僕は仮初の安堵に身を置いた。
 

「まぁ、確かに君達からしたら、私は幽霊みたいなものなのかもしれないけどさ」


 君は曖昧に笑いながら、小さくそう付け加えた。
 

 僕が生まれたその時、或いは生まれるずっと以前から、宿命は用意周到に手ぐすねを引いていたのだろう。


 だから、直前になって僕が暴れ出そうとしたって、もう身体中は運命の糸で雁字搦めになってしまっていた。
 だとしても、僕は醜く足掻くことをやめようとは思えなかった。


「だったら…鈴音は幽霊じゃないんだったら、もう何処にも行かないで──」


 本当は、僕も心の何処かでは、分かっていたんだ。
 

 そう、昨日に、君が何も言ってくれなかったその時から。
 

 だからきっと、今から君が言うことは、単に、遥か昔から既定されていた未来が訪れたということ以上の意味はないのだろう。


 しかし、であるからこそ、僕は無理くりにでも、彼女の次なる言葉を掻き消してしまいたかったのだ。
 

「──私はね」


 鈴音の透き通った一声は、僕の逃避発言をいとも簡単に霧散させた。
 

 今日も明日もこれからも、君と笑い合って過ごす穏やかな毎日。
 そんな脳裏に描いた淡い日々さえもが露と消えたその時、彼女は静かに、止めを刺した。


「帰らなきゃ、いけないの」


 続きの言葉は、もう出てこなかった。


 僕はやりきれない気持ちでいっぱいになった。
 

「…何処に」と、僕は自分でも驚くほどに無機質な声で訊ねる。


 鈴音はふっと視線を上向け、遠い天上を指差した。


「高天原だよ」


 鈴音の澄み切った一言が響いたその瞬間、僕はぽかんと、君の指の向いた何処までも青い大空を眺めていた。


 何から何まで僕の想像していた顛末は間違いだらけで、頭の方が追い付いてこなかった。
 

 やや間を置いてから、脳内はその聞き覚えのあるようなないような言葉を奥から取り出す作業に移った。
 意外にも、その単語はすぐに見つかった。
 

 と同時に、僕の頭は巨大な鐘に打たれたような大き過ぎる衝撃に見舞われた。
 数度口をもごつかせながらも、弾けるように本当の答え合わせをしようとした。


「…は?た、高天原っ…!?」「…ってことは、鈴音ってもしかして──」


 しかし、僕がその全てを言葉にしてしまう前に、鈴音は神秘めいた微笑みを僕にぶつけた。
 

 僕はその神々しさに呆気なくやられた。
 それ以上二の句は継げず、魅惑の微笑に頭をぼんやりとさせていた。


「ん、そう言うことだよ。これまで黙っててごめんね」


 君は済まなそうに謝る。
 そしておずおずと、遠慮がちに僕の手を取った。


「でも…もう少しだけ、あと少しだけで良いから、私に付き合って欲しい」


 彼女はそう言って僕を優しく引っ張ると、そのまま大樹の幹にもたれ座った。
 

 そのか弱い導きは簡単に振り解けただろうけれど、僕は誘われるままに、鈴音の隣に腰を下ろした。
 

 長い沈黙が流れた。


 大樹にしがみ付いたアブラゼミが、一際近くで翅を鳴らしている。
 一頻り自分の居場所を示し終えると、彼は別の木に飛び移っていった。
 

 夏の音が遠ざかったところで、君はぽつぽつと話し出した。


「…本当はね、千風くんとは、お祭りの日にお別れするつもりだったの」


「そうすれば、私の正体を君に知られなくて済むから」
 

「知っちゃ不味かったのか?」


 僕は彼女に正体を隠す義務のようなものがあるのかと思った。


「ううん、違うの」


 僕の予想に反して、鈴音は首を横に振った。
 想いを振り絞るように、彼女は話を続ける。


「…私は、怖かった。もし、私が人間じゃないって知ったら、君はもう一緒に居てくれないんじゃないかな、って」


 鈴音は不意と、僕から目を逸らした。


「気味悪がったり、煙たがられたりするんじゃないかなって思うと、どうしても言い出せなかった。私と君は姿形も扱う言葉も変わらないけど、決定的に異質な存在であることは確かだからさ」


「寧ろ、下手に同じ部分があるからこそ、その絶対的な差異が破滅的なんだろうなって思ってた。…君たちが、異人種を差別してきた過去と同じように」
 

 一呼吸挟むように、彼女は嘆声を洩らした。
 

「そんな憂苦の小片が胸を渦巻いて、私はそれに耐えられなくて…遂には。君から逃げ出した。…私は、君といる時間が好きだったからこそ、君がこれまで通りに私を見てくれなくなる可能性に怯えた」


「そんなことない」


 いつになく弱々しい表情を見せた鈴音を見て、僕は堪らずその形に口を動かそうとした。
 

 だけどその一歩前に、君は軽く頷き、握る手のひらに力を加えた。


「うん、分かってるよ。君はこんなにも近くで、私を見つめていてくれたのにね。一度は見ない振りまでしてくれて、それからも君は、何度となく教えてくれたのにね。…私は最後の最後まで、君を信じ抜くことが出来なかった」


「…ごめんね」と自罰的な含みを込めた表情で彼女は言った。
 

 鈴音は本来、語る必要のなかった自分の負の側面さえ包み隠さず話した。
 だから反射的に、今度は僕の番だと思った。


「ううん、鈴音が謝る必要なんてない。…実を言うと、僕だってついさっき、君の前から逃げ出そうとしたんだ」


 鈴音が真に恐れたことは、一歩誤れば踏み込んでしまいそうな程に、すぐ近くにある結末だった。
 

 そのような趣旨の言葉を受け取った君は、その目を大きく見開いた。
 僕は用水路のへどろを掘り起こすように、醜い自分を曝け出した。


「今日の鈴音は、恰好も相俟って物凄く超然としてたから、その時、僕は思ったんだ。僕なんかが君の傍に居ていいのかな、って。君の近くにいるべきは、僕みたく恥ずかしいほどに卑小な人間じゃなくて、もっと相応しい存在がいるんだろうな、って」


 この期に及んで言い訳をしている自分に、しかもその原因を鈴音に押し付けようとしている自分に、甚だ嫌気が差してくる。


 堪らず、僕は自嘲的に哂った。
 

「…いや、理由なんてどうだっていいか。事実、僕は君から距離を取ろうとした。僕は君との間に大きな隔たりを築き上げようとしたんだ。結局のところ、僕は君の怯えた通りに愚図だった」


「そんなことないよ」


 僕の浅ましい部分を知った鈴音は、距離を取るでも軽蔑するでもなく、僕に優しい言葉を掛けようとしてくれていた。
 

 そしてだからこそ、僕はさっきの君と同じように、彼女がそう言い出す前に手のひらを強く握った。


「うん、分かってる。でも、途端に自信のなくなった僕を連れ戻してくれたのは、他でもない鈴音なんだ」


「単純すぎて驚くかもしれないけど、鈴音がいつも通りの笑顔で『おはよう』って言ってくれたから、僕は君に伝え続けたことの意味を思い出せたんだ」


「だから、ある意味で鈴音の憂慮は正しくて、そして、最後の最後に僕が変わらないでいられたのは、紛れもなく、鈴音のお陰なんだ」


「ありがとう」と僕は情けない笑顔で独白を締め括った。
 

 多分、浅はかな自分に一言、二言の文句を言われることはあれども、よもや感謝を伝えられるとは思っていなかったのだろう。
 

 お礼の言葉に目を丸めた鈴音は、暫く、何か言いたげに表情を動かしていた。
 でも結局は「どーいたしまして」と微笑んでくれた。


「少し、聞きたいことがあるんだ」


 確かめ合うようにお互いの痛いところを舐め合った後に、僕はそのように一つ問い掛けた。
 彼女は目配せで応えた。


「どうして、僕にだけは鈴音が見えるんだ?鈴音が見えるように計らってくれたのか?」


 なぜ、周りには見えない君が視認できているのか。
 一番気になるのはこれだった。


 別にこれまでの僕は、寺社に行けば幽霊や君のような高尚な存在が捉えられたわけじゃないし、それが不思議でならなかったのだ。


 もちろん、僕がただの人だと思っていただけで、実はその彼らが不可視の存在だという可能性も大いにあるのだろうが。
 

 僕はそれなりに腑に落ちる解答を欲していた。
 対して彼女は、共感するように大きく頷いた。


「それ、私にも分かんないんだ。私はてっきり、千風くんが珍しい属性の人だと思ってたんだけど」


 鈴音は尋ね返すように言った。
 

「いや、違うと思う。少なくとも、これまでにそんな経験はなかった」


 全てが彼女の仕業でなかったことに驚きながらも、僕はそう言葉を返した。


「そうなんだ。まぁ、どうだっていっか。だからね、初めて千風くんに出会った日、私はすごくびっくりしたんだよ~『え?私のこと見えてるの?』って」


 鈴音は在りし日を懐かしむように言った。
 結構気になっていたことを一蹴されて、僕はちょっと気に食わなかった。
 

 だから僕は、仕返しでもするつもりで、


「あぁ、あれはこっちも驚いたよ。こんなに綺麗な子が森の中に居たからさ」


 と、わざとらしく言ってやったのだ。
 

 途端、鈴音の身体はピタリと固まってしまった。
 時間がズレたみたいな刹那の間を置いてから、彼女は再び動きを取り戻した。


「ふーん…」と、鈴音からもの言いたげな目が向けられる。


「まだ私にそういうこと言うんだ。って、君にはそんなの関係ないんだったね」


 君はまんざらでもなさそうな様子で、そのように自己完結した。

 
 それから鈴音は、可視化してしまいそうなほどに深いため息を吐き出した。


「…あーあ、もっと私に勇気があればなぁ…千風くんだって、あんなに傷付かなかったのに」


 君は誰に言うでもなく、青い空に視線を移しながら後悔を零す。
 その瞬間、僕は無意識のうちに強く言葉を返していた。


「それは違う」


 言葉に合わせて彼女の腕を引っ張る。
 鈴音は驚いたようにこちらを向いた。
 

 いつか失くした夏の魔法の断片をかき集める。
 足りない分は今の自分を奮い立たせる。
 

 心に薪をくべ、燃え上がった炎の熱さに堪らず言葉を飛び出させるようにして、僕は君に言わなきゃいけなかったこと、言うべきだったこと、そして何よりも、僕自身が言いたかったことを伝えようとした。


「一歩踏み出そうとしなかったのは、僕の方だ。僕だって、鈴音との心地良い時間を失いたくなくて、ずっと曖昧なままでいたから。絶対的な安全圏から君を小突いては、何度も君の反応を確かめて。その癖に、目の前の境界線を越えようとはしなくて。…そんな風に、僕は臆病だったんだ」


 意外にも、言葉は流れるように繰り出された。
 僕はその度に自分の頬が熱くなっていくのを実感した。


 最初はぽかんとしていた鈴音も、何かを察したように身を強張らせた。
 

「…でも、この一週間君に会えなくて、僕はこれまでの自分がどれだけ愚かだったのかを思い知った。もう、僕はそんな自分から逃げたくない。現状維持の自堕落に溺れたくない。だから、言わせてくれ」


 心臓が痛いほどに胸を叩いている。
 視界がぼやけるぐらいに頭の中が燃え上がっている。
 血液の鼓動は、指先にまでどくどくと伝わっていた。
 

 心なしか、君の頬が熱を帯びているように見える。
 それは夢か誠か幻か。
 だがなんにせよ、僕の行動は変わらなかったろう。


 その言葉を繰り出す寸前、僕の喉元は焼き焦げたかのような灼熱に包まれた。


「僕は……僕は、鈴音のことが──」


 顔全体に広がった熱を一点に集中させる。
 口から火を噴くみたいに、僕は君への思いの丈を叫ぼうとした。


 けれどもその一瞬前、鈴音の空いている手がさっと動いた。


 その小さな人差し指は、気が付くと、そっと僕の唇に添えられていた。
 

 途端、顔中真っ赤な僕の温度が彼女の人差し指に吸い込まれていく。
 代わりにその小さな指先からは、何か、ひんやりとした風を吹き込まれていた。


 不思議と冷静さを取り戻してしまった僕は、もう、思いの限りを伝えることが出来なくなってしまった。
 

 熱に浮かされていない目で見る君は、それでも、頬を桜色に染めていた。
 

 君は今し方の出来事を深く味わうよう、その瞳を閉ざす。
 長い時間を掛けてゆっくりと、瞼を持ち上げていった。


 僕を眺める鈴音は、堪らなく嬉しそうに、


「それ以上は、駄目だよ。私も君も、後戻り出来なくなるから」


 と言ってから、何処までも無念そうに、


「言ったでしょ。私は帰らなきゃいけないって」


 と嘆息をついた。


「どうしても、帰らなきゃいけないのか?」


 僕は縋るように問い掛けた。
 

「うん。…本当は、私もずっと千風くんと一緒に居たいよ。でも、人の子が学校に行くみたいに、私達にも学ぶべきことがあるの」


 君は微かに頬を綻ばせた。
 

「ずっと一緒に居たい」


 そのたったの一言だけで、僕の胸は馬鹿みたいに高鳴った。
 直後、頭から冷や水をぶちまけられた。


「それにどれぐらいの歳月が掛かるかは分からない。もしかしたらすぐに終わるかもしれないけど…或いは、君が生きているうちはこっちに来られないかもしれない。それぐらい、難しい事なの」


 そこで僕は初めて、正しくそのことを理解した。
 

 僕と君とでは、時間の流れ方が違うのだということを。
 

 恐らく、鈴音はずっと前からそのことを分かっていたのだろう。
 唖然としている僕を、なんとも言えない表情で眺めていた。


 放心する僕に向けて、ズキズキと張り裂けそうな胸を抑えるように、彼女は細い声を振り絞った。


「だから…今日で、私のことは忘れて。千風くんには千風くんの人生があるんだから、君はまた新しい幸せを見つけて。短い命を、君なりに精一杯楽しんで」


 その際に鈴音が浮かべた笑顔は、これまでになく綺麗な作りものだった。
 ともすれば心の底から溢れた笑顔だと勘違いしてしまいそうな程に、それは完成された微笑みだった。
 

 でも、その微笑みの後ろでは、そうじゃないんだよ、と必死に叫ぶ君が薄っすらと見えている。
 

 繋ぐ君の手は小刻みに震えていて、その様子から、空いた右手で僕に手を伸ばそうとしている君の姿がありありと浮かんだ。
 

 だから、彼女の笑顔が苦しみのやせ我慢だということには、簡単に気が付けた。
 

 その時、僕は大きな決断を下した。
 もちろん、鈴音になんと言われようとも、僕は元よりそのつもりだった。
 でも、今一度、僕は彼女にきちんと決意を表明しようと思った。
 

 瞼を閉ざし、大きく深呼吸を挟む。
 僕は君の瞳を真っすぐに見つめ、堂々と強固な意志を言葉にした。


「待ってる」


 その短い言葉を前に、君は大きく瞳を震わせ、言葉なき動揺にかき乱されていた。
 

 僕は、僕の人生が最良のものとなるように、君に向けて赤裸々に語った。


「僕はずっと、鈴音を待ってる。例えもう二度と会えないんだとしても、僕は君が戻ってくるのを待ってる。だから『忘れて』なんて言わないでくれ」


「僕は鈴音のことを絶対に忘れない。だって、もう決して忘れられないぐらいに、鈴音は僕の中心になってるから」


「だから僕は、待ち続けるよ、この命の限り」


 僕は真摯なる心持ちで、君に向けて決意の言葉を伝えきった。


 長らく、鈴音は困惑一色にその顔を染め上げていた。


 どうしてそんなことを言ってしまったのか?
 自分の言っていることの意味が分かっているのか?
 

 そう言いたげに君は僕を見つめていた。
 僕は目を逸らすことなく、鈴音の瞳を見据え続けた。
 

 僕の頑固な意志は、何があっても折れないことを理解したのだろう。
 ある瞬間を境にして、鈴音はこの上なく、満たされたような表情を浮かべた。


「…そっか…そっかぁ…」


 噛み締めるように同じ言葉が繰り返される。
 君は何度も何度も頷き、満足げに笑顔を綻ばせる。


 徐々にこみ上げてくるものを嚙み殺すよう、彼女は強く歯を食い縛った。
 でも、結局は抑え切れなかったみたいだ。


 僕を見つめる君は、たちまちその表情を歪ませた。
 もう隠し切れないほどに喉を震わせながら、細々と、続けた。


「……あぁ……私って本当に、幸せ者なんだろうね……」
 

 こんなにも感情が直に伝わる声を、僕は聞いたことがなかった。
 君が僕と同じ気持ちでいてくれていることをひしと実感できて、胸は燃えるように熱かった。
 

 奥底で抱えるものが決壊してしまう前に、すとんと、鈴音は僕の胸に顔を埋めた。
 やがて僕の胸元にはじわじわと、温かな湿り気が広がっていった。


 僕が君の背を優しく撫でている間、鈴音は力の限り、僕を抱き締めていた。

 
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勢いを増す、ブレバリーズ女子部と、直美。 率いる沙也加は、自信の夢であった帝プロマット参戦を直美に託し、本格的に動き出す。 一方、不振にあえぐ男子部にあって唯一、気を吐こうとする修平。 己を見つめ直すために、女子部への入部を決意する。 が、そこでは現実を知らされ、苦難の道を歩むことになる。 志桜里らの励ましを受けつつ、ひたすら練習をつづける。 遂に直美の帝プロ参戦が、現実なものとなる。 その壮行試合、沙也加はなんと、直美の相手に修平を選んだのであった。 しかし同時に、ブレバリーズには暗い影もまた、歩み寄って来ていた。

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