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群馬編
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降り注ぐ蝉時雨が、夏の湿った空気をさらに重くした。1993年、群馬。利根川のせせらぎが遠くに聞こえる、広大な敷地を持つ武藤家には、一風変わった熱気が満ちていた。当主の令嬢である葵(あおい)と桜(さくら)、そして夏休みで東京から戻ってきた幼馴染の大吾郎の三人が、涼しい居間で過ごしているからだ。
「もう!大吾郎くん、いつまでそのポケベルをいじっているのよ。つまらないわ」
フリルの袖をひらひらさせながら、葵が不満げな声を上げた。淡いピンクのオーガンジーに縁取られたフリルは、彼女の華やかな笑い声によく似合っていた。大吾郎は悪びれる様子もなく、手に持った黒いポケベルのボタンを叩いている。
「ごめん、ごめん。東京にいる友達から連絡が来てさ。それにしても葵ちゃんは相変わらず派手だなぁ。そのフリル、何枚重なってるの?」
悪意のない大吾郎の言葉に、葵はぷいと顔をそむけた。そんな姉の隣で、桜は静かに紅茶を淹れていた。彼女が着ているのは、レースの縁取りすらないシンプルな白いワンピース。髪には、姉とお揃いのはずなのに、ずっと控えめに見える白いリボンをひとつ結んでいるだけだった。
「葵姉さま、お気に召しませんでしたか?」
桜の問いかけに、葵はふんと鼻を鳴らす。
「そうじゃないの。もうすぐ花火大会でしょう?大吾郎くんと一緒に行きたかっただけよ」
大吾郎が顔を上げる。
「花火大会、いいな。行こうよ、桜も」
「私は……」
桜は俯きがちに言葉を濁す。いつだってそうだ。葵が望むものは、たとえそれが桜自身も望むものであっても、葵が手にするべきものだった。大吾郎の真っ直ぐな瞳が桜を捉えている。彼が東京に行ってから、こんなふうに二人で話す機会はめっきり減った。時折、大吾郎が電話をかけてくることがあっても、決まって「葵姉さまはいらっしゃいますか?」と尋ねられる。電話口で聞く大吾郎の声は、いつも明るくて、少しだけ遠い。
「桜、行こうよ。焼きまんじゅう食べたいだろ?」
大吾郎の言葉に、桜の心が小さく跳ねた。それは、二人だけの秘密の合言葉だった。子供の頃、大吾郎はいつも桜を誘ってこっそり屋台へ出かけ、二人で分け合って食べていたのだ。葵は、焼きまんじゅうのタレが着物につくのを嫌がり、いつも焼きそばを食べていた。
花火大会当日。葵は紫の朝顔が描かれた艶やかな浴衣に、髪に大ぶりのリボンをあしらっていた。一方、桜は白地に藤の花の柄の、控えめな浴衣。髪にはいつもの白いリボンをひとつ。
人混みの中、はぐれないようにと大吾郎は葵の手を引いた。華やかな姉と、その手を取る大吾郎の後ろ姿を、桜は静かに見つめる。その胸には、フリルのような幾重にも重なる複雑な感情と、ほどけてしまいそうな白いリボンがあった。
「大吾郎くん、あれ見て!」
葵が指差した先では、色とりどりの花火が夜空を彩っている。その鮮やかさに、大吾郎の目が奪われた。その隙に、桜はふと視線を落とす。大吾郎のポケットから、ポケベルのコードがわずかに覗いていた。
『サクラニハナシタイコトガアル』
カタカナで書かれた短いメッセージ。それは、彼女の胸にある白いリボンを、きゅっと締め付けるようだった。その文字を、大吾郎が誰に送ろうとしていたのか。大吾郎の視線の先には花火を見上げる葵の横顔。だが、桜は知っていた。その花火が、誰のために打ち上げられているのかを。
群馬の空に咲いた大輪の花火が、三人の影を濃く、そして曖昧に映し出した。フリルとリボン。そのどちらでもない、もう一つの物語が、静かに幕を開けようとしていた。
「もう!大吾郎くん、いつまでそのポケベルをいじっているのよ。つまらないわ」
フリルの袖をひらひらさせながら、葵が不満げな声を上げた。淡いピンクのオーガンジーに縁取られたフリルは、彼女の華やかな笑い声によく似合っていた。大吾郎は悪びれる様子もなく、手に持った黒いポケベルのボタンを叩いている。
「ごめん、ごめん。東京にいる友達から連絡が来てさ。それにしても葵ちゃんは相変わらず派手だなぁ。そのフリル、何枚重なってるの?」
悪意のない大吾郎の言葉に、葵はぷいと顔をそむけた。そんな姉の隣で、桜は静かに紅茶を淹れていた。彼女が着ているのは、レースの縁取りすらないシンプルな白いワンピース。髪には、姉とお揃いのはずなのに、ずっと控えめに見える白いリボンをひとつ結んでいるだけだった。
「葵姉さま、お気に召しませんでしたか?」
桜の問いかけに、葵はふんと鼻を鳴らす。
「そうじゃないの。もうすぐ花火大会でしょう?大吾郎くんと一緒に行きたかっただけよ」
大吾郎が顔を上げる。
「花火大会、いいな。行こうよ、桜も」
「私は……」
桜は俯きがちに言葉を濁す。いつだってそうだ。葵が望むものは、たとえそれが桜自身も望むものであっても、葵が手にするべきものだった。大吾郎の真っ直ぐな瞳が桜を捉えている。彼が東京に行ってから、こんなふうに二人で話す機会はめっきり減った。時折、大吾郎が電話をかけてくることがあっても、決まって「葵姉さまはいらっしゃいますか?」と尋ねられる。電話口で聞く大吾郎の声は、いつも明るくて、少しだけ遠い。
「桜、行こうよ。焼きまんじゅう食べたいだろ?」
大吾郎の言葉に、桜の心が小さく跳ねた。それは、二人だけの秘密の合言葉だった。子供の頃、大吾郎はいつも桜を誘ってこっそり屋台へ出かけ、二人で分け合って食べていたのだ。葵は、焼きまんじゅうのタレが着物につくのを嫌がり、いつも焼きそばを食べていた。
花火大会当日。葵は紫の朝顔が描かれた艶やかな浴衣に、髪に大ぶりのリボンをあしらっていた。一方、桜は白地に藤の花の柄の、控えめな浴衣。髪にはいつもの白いリボンをひとつ。
人混みの中、はぐれないようにと大吾郎は葵の手を引いた。華やかな姉と、その手を取る大吾郎の後ろ姿を、桜は静かに見つめる。その胸には、フリルのような幾重にも重なる複雑な感情と、ほどけてしまいそうな白いリボンがあった。
「大吾郎くん、あれ見て!」
葵が指差した先では、色とりどりの花火が夜空を彩っている。その鮮やかさに、大吾郎の目が奪われた。その隙に、桜はふと視線を落とす。大吾郎のポケットから、ポケベルのコードがわずかに覗いていた。
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カタカナで書かれた短いメッセージ。それは、彼女の胸にある白いリボンを、きゅっと締め付けるようだった。その文字を、大吾郎が誰に送ろうとしていたのか。大吾郎の視線の先には花火を見上げる葵の横顔。だが、桜は知っていた。その花火が、誰のために打ち上げられているのかを。
群馬の空に咲いた大輪の花火が、三人の影を濃く、そして曖昧に映し出した。フリルとリボン。そのどちらでもない、もう一つの物語が、静かに幕を開けようとしていた。
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