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第1話 明星
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雨が風に揺れ、はるか下方のネオン光も届かない雨夜の中。
二人の人影が、廃ビルの屋上で向かい合っていた。
一人は、濃紺色の外套を身に纏い、傷のついた狐面で顔を隠した長身痩躯の男。
もう一人は、スーツ姿の中肉中背でメガネをかけた男。だが、その左腕は肘上から切り取られ、左目は潰され失明していた。だが、残された右目に絶望の色は無く、むしろ燃えるような決意に染まり、見開かれていた。
「……これは、私の情けだったのだがな」
狐面の男は手にした左腕を……スーツ姿の男の左腕を見せつけるように掲げる。
「魔術師にとって、目は照準。腕は銃身、指は銃口。お前はこの1分間で武器の片方を失った。逃げたまえ。……命まで取らなかったのは、単純に私がお前を憐れに思ったからだよ」
「そんなの無用だよ」
スーツ姿の男は右腕を狐面の男に突き出し、吐き捨てるように言う。
「お前の言う情けなんて、必要ない」
「……そうか。残念だ」
狐面の男はそう短く答えると、手にした左腕を捨て、自身の両の掌を合わせる。
途端、スーツ姿の男の右腕は赤く。
狐面の男の両手は青く光り始める。
それは、科学と人の理が地表を覆う以前から星に潜む、偉大なる力の輝きだった。
あらゆる可能性を許容するもの。
万物を生み出すもの。
万物が行き着くもの。
その力の名は「魔力」。
彼ら「魔術師」の武器と呼べるものだった。
「さらばだ」
狐面の男は倍に膨張する青い光越しに、事も無げに告げる。
スーツ姿の男は、ただ死を確信し、口を噤み、それでも前を向き続けた。
両者の手からほぼ同時に放たれた赤と青の閃光が衝突し、ぶつかり合う。
その光と衝撃はさながら花火のようであったが、地上を行き交う人々はその光を認識することなく往来を闊歩していく。誰にも見えず、気づかれず、ただこの世に存在している。
それは正しく、現代を生きる魔術師と、魔術の姿だった。
……果たして、廃ビル屋上での戦闘は、狐面の男の勝利で終わった。
彼は靴のみを残して消えた男を無視して、屋上からビル階下へと通じる階段の扉を開く。
その向こう側に広がっていたのは、殺風景な階段などではなく、人工物と自然物が入り乱れて交わったような混沌とした世界だった。その彼方に、有角の人面熊と呼べるような怪物が存在している。
『異界』と、そこを根城にする魔物だ。
「狩場は私のものだ」
それは敗れた者への勝利宣言か。
あるいはその戦闘を遠くから見ていた他の魔術師達に対する警告か。
男は足を踏み出し、扉を潜ってその姿を消した。
▽
科学技術の発達に伴い、徐々にその姿を世界から消していった魔法の概念。
それは、『異界』と呼ばれるこの世ならざる世界から齎され、『異界』から来るこの世ならざる怪物……「魔物」に抗するためのものとして鍛え上げられてきた。
だが、人間の技術が発展していくのと反比例するように、いつからか大気に交じる魔力の濃度は薄まり、『異界』から魔物が来る機会は減り、魔術の存在を知る只人たちはいなくなり、魔術師達は自身の中の魔性を飼いならすに足る餌を獲れなくなっていった。
そして、異端弾圧からの逃走。2度の大戦。「人食いの時代」を越え、現代。
魔術師達は今もなお 現世と『異界』の狭間に立ち、現実に根を下ろそうとする魔物を狩っていたが、かつてそこにあった人界を守護するという役目 / 大義は、既に多くの者が忘れ去ってしまっていた。
今や魔術師達は、
己が野望と使命のために魔術を振るう者。
己のためだけに魔物を狩る者。
裏社会にその身を置き、血と鉄で明日を繋ぐ者。
『異界』を故郷と定め、帰郷を望む者。
魔術を通して万象を理解しようとする者等、
様々にその在り方を変え、今なお 世間に知られることもないまま、激しく闘争を繰り広げている。
だが、彼らは時に共通の目的や意志を基に集まり、組織と呼べるほどに大規模なクランを構築することがあった。
そういった組織の中に、未だ原初の役目と大儀を忘れず、魔と現の境を取り持つ者達がいた。
その組織の名は、「明星」。
記憶を失くした少年を「保護」した組織である。
▽
──夢を見たのは、随分と久しぶりなような気がした。
僕はどことも知れない、朽ち果てた建物の中を走っていた。踏む瓦礫は痛くなく、足に疲労は無く、冷たい石の感触も無い。本当に体を動かしているのかも分からない、奇妙な浮遊感が体にまとわりついてくる。
そういった全てが曖昧な世界の中で、後方の闇の中から迫るガサガサという群れの足音に対する恐怖心だけが真実だった。それは、腹を空かせたネズミの波のように感じられた。
「──ッ、──」
声を出す。助けを呼ぶ声を。だが、聞こえない。僕自身にも聞こえない助けに応えてくれる者はいない。声が泡のように消える。手足をまるで自由に動かせない。さながら水の中で溺れるかのようだった。
ついには足がもつれ、床に倒れ込んだ。音はすぐそこまで迫っている。
……──嫌だ。こんな形で終わりたくない──……。
僕は必死になって足を動かし、石の床に爪を立て、這ってでも逃げようと藻掻いた。出口はすぐそこ。床に敷かれたチューブの束が道標となって、ある一室を指し示していた。僕はそれを掴んで前へ、前へと進んでいった。どうしようもなく嫌な予感が胸をつついたが、前へ進む以外の能力を、夢の中の僕は持たなかった。
「────」
そこにあったのは、予感通りの、予想外の光景だった。
出口と思われた部屋の中では、浴槽と棺桶を合わせたかのような奇妙な道具が中央に置かれていた。それ以外の設置物は無く、出入り口も、今僕自身が入ってきた扉の他にない。逃げ場のない袋小路。
だが、人はいた。
奇妙な道具の中で、満たされた水に浸りながら安らかに眠る僕自身が。
ぼくは、驚いて思わず口を覆った。胃が痙攣し、食道が蠢く。何かを吐きそうだった。
目の前の僕は眠ったままだ。ぼくは背後の群れのことを思い出し、今すぐ起きるように叫ぶ。
しかし、ぼくの口から出たのは、とても人のものとは思えない、獣のような吠え声だった。
意味が分からず再び声を出す。獣の叫びが部屋中に反響する。ネズミの群れが踵を返し、逃げ去っていくのを感じた。何に恐れをなしたのか、考えたくなかった。
ふと気づくと、 の手は深い獣毛に覆われていた。
指先には黒ずんだ鋭い爪が。触れる口元には鋭い牙が。
そして、心の奥底には、どうしようもない飢餓感が──。
「────ア」
気が付くと、 は眠る僕の頭を抉っていた。
皮膚が陶器のように半壊し、破片がカラカラと音を立てて崩れる。その中からは、さながら脳漿のように、どろりとした灰色の物体が外部に漏れだした。
唖然としてその光景を見つめていると、不意に閉じられていた目が開かれ、 をじっと見つめた。
その口が何かを言おうと動き、唇を少し開けたところで──。
▽
僕は目を覚ました。
肩で息をしながらドクドクと撥ねる心臓を服の上から押さえつける。汗が出たのか、腋も背中もビショビショに濡れ、肌に服が張り付き不快だった。疲労感が全身にのしかかっているようで、とてもじゃないが起き上がれない。だが、また眠りにつこうものなら、さっきと同じ夢を見てしまう気がした。
僕は何度か瞬きをし、半身を起こして目を擦り、
「……なんだ、ここ」
そこで僕は、自分が白く清潔なベッドの上で眠っていたことに気が付いた。滑らかなベッドシーツと、柔らかな羽毛布団。よく洗濯されたそれは僅かに良い香りを漂わせていて、汗で汚してしまったことが少し申し訳なくなる。ベッドの外側は、厚いカーテンで仕切られていて見ることはできなかった。
だが、僅かに人の気配がすること。そして、倒れた自分がこんなベッドに寝かせられていたことを考えると、ここは病院なのかもしれない。僕はそう考え、とりあえずカーテンを開けようと手を伸ばし、
「あーーーーっ!起きてる!」
ジャッ、と音を立て、勢いよくカーテンが開かれた。無論、僕はまだ触っていない。外から誰かがカーテンを開け放った。遮られていた白い照明の光がベッドの上に落ち、その眩しさに思わず目を細める。狭まった視界の中で、カーテンを開けたと思われる人影が逆光の中で動いていた。
「目が覚めた? あなた、三日間も寝てたんだよ! それにね──」
それは、女性の声だった。はつらつとして、少し早口で、明るい声音。言っている内容はよく分からないが、兎に角テンションが高いことと、僕の起床を純粋に喜んでくれていることは分かった。
僕は数回瞬きをして、光に目を慣らしてからその声の主の顔を見た──。
新雪を連想させる煌めく銀の長髪。薄紫色の大きな瞳。口元に浮かぶ勝気な微笑み。
白いブラウスと、黒のロングスカートに身を包んだ細い体。
その顔立ちは「美しい」「可愛らしい」「整っている」と、様々な言葉で言い表すことができるほどの美貌ではあったが、僕個人の印象としては「人形のよう」だった。
造形美の粋を集められた存在が、人の形をしている。
現実感の無い美しさが、活力を内に秘めてエネルギッシュに弾けている。
それを見て僕は、目覚めた時、一番最初に目にしたいものは何か?と問われた時の答えを見つけられた気がした。
「……──それでね~……って、あれれ? だいじょぶかいな?」
「……あっ、すみません! まだ頭がぼんやりしていて……」
嘘だ。実は見惚れていた。
だが初対面の相手に、それも女性にそんな感情を抱くこと、ましてやそれを相手に悟られることは失礼な気がして、咄嗟に誤魔化した。彼女は僕の言葉を聞いて、少しハッとしたような表情をすると、
「ごめん! ちょっと偉いひと呼んでくるね! あっ、飲み物いる? いるよね! 飲みかけだけど、はい!」
そうまくしたてると、彼女はどこから取りだしたのか、中身が少し減っているオレンジジュースのペットボトルを僕の手に握らせ、「ちょっと待ってて~!」と手を振りながら目の前から消えた。
「…………」
呆然。
突然の豪雨や嵐に巻き込まれたかのような虚脱感。さっきまでは「美しいものを見た」と、心の底まで満たされた気がしたが、その、何というか……。
「……凄い人だったな」
外面、内面。そして言動。それらを総合すると、その言葉がどうもしっくりくる気がした。心と頭が痺れたように震え、うまく動けないほどだ。手に握ったペットボトルのことなど、目を向けなければ思い出せないほどだった。
とはいえ、本人が許可したものであっても、女性が一度口を付けた飲み物を飲むことは、僕にはできない。僕はベッドから降り、用意されたものだろうか、床に置かれたスリッパを履いて部屋の中に立った。
その部屋は、さながら学校の保健室……を大きくし、改造したかのような場所だった。
備え付けられたベッドと、白い壁に白い天井。床は木目調のフローリング材でできている。壁に向けられた机や、来客用と思われるソファも置かれていた。
ただ、壁際に据え付けてある本棚にはいくつもの分厚い書籍が並び、本棚の向かい側……部屋の反対側にはMRI……と呼べばいいのか。巨大なスキャナーを思わせる機械や、用途が良く分からない、人一人が丸ごと入れそうなポッド状の機械、専用のバッテリーと思われる箱等が置かれていた。
それらを見て判断すると、この部屋は保健室や病室というよりかは、研究室のそれのように見えた。
研究室。
機械を繋ぐケーブル類。
「……──うっ」
胃が痙攣し、食道が蠢く。実際にそんなことは無いにも関わらず、鼻先にカビと埃の臭いが触れた気がした。ざわざわ、と群れを成すネズミの足音が聞こえた気がした。だが、それ以上に、
「……あれは、夢では」
なかったのか。
言葉を続けようとして、慌てて口を両手で抑える。ごぼ、と音を立てて嘔吐物が口いっぱいに満ちたが、すぐに飲み込み、咄嗟に手にしていたペットボトルの中身を胃に流し込んだ。オレンジジュースの冷たさを内蔵で味わう。
三日間の寝たきり。
先程の嘔吐感でも分かったことだが、胃の中に何も無いことが、彼女の言葉を……あの廃墟の存在が現実であることをより際立てた。
……──ということは、つまり。
僕の首は、一度、あの怪物に。
僕は、僕の記憶は──……。
「ただいまーーーっ!」
そこまで考えた時、部屋の扉が開いて先程の女性が戻ってきた。見てみると、その後ろには背の高い男が一人、彼女に続いて部屋に入ってきていた。
黒い髪に赤・青・白の3色のメッシュを入れた派手な出で立ちの男だった。服装も、紺のダメージジーンズに派手な柄のTシャツ、その上にパーカーと、全体的に「軽く」、一見すればラッパーやバンドマンのようだ。しかしその表情は少し暗く、黒色の瞳は苦悩に曇っているように見える。端正な顔立ちだけに、その歪みは一層際立って見えた。
彼が、先程彼女が言っていた偉いひとだろうか。
そう訝しみながらその男を見上げていると、
「おい、そいつじゃないぞ。偉いひとは」
と、下の方から声が聞こえた。
その方を見てみると、白衣に身を包んだ、目付きの鋭い幼げな少女が青色の瞳で僕のことを見上げていた。
オレンジ色の艶やかな長髪を腰まで伸ばし、サイズ違いの大きな白衣をダボダボと着る少女。「白衣」という点だけであれば、ある意味この研究室めいた部屋に一番相応しい恰好をしていると言えるのかもしれないが、その外見はただの子供でしかない。だが、その眼には強い意志が込められ、その言葉には力があった。
「お前、名前は?」
「え……」
ドキリ、と心臓が音を立てたような気がした。
それは、今最もかけられたくない問いだった。
…………答えたくない。
答えられない、分からないと言ってしまえば、その時点で何かが失われる気がしたからだ。
黙り込んで目を泳がせる僕に、少女は何かを心得たように「ふむ」と呟くと、
「では、お前は今から『クレイン』だ」
「……──は?」
混乱し、思考を止めかけた脳が聞き馴染みの無い名前に困惑する。
今、この少女は何と言った?クラ……何?
今、僕はこの少女に名づけられたのか?
「そうだ。色々と迷っているところすまないが、仮の名前でも無いと話にならんのでな」
僕の思考を読んだかのように少女は言い、続ける。
「ようこそ、クレイン。魔導組織『明星』へ。私達はお前を歓迎しよう」
徐々に色を失っていく視界の中で、ニィと吊り上げる少女の口元に、煌めく牙が見えた気がした。
二人の人影が、廃ビルの屋上で向かい合っていた。
一人は、濃紺色の外套を身に纏い、傷のついた狐面で顔を隠した長身痩躯の男。
もう一人は、スーツ姿の中肉中背でメガネをかけた男。だが、その左腕は肘上から切り取られ、左目は潰され失明していた。だが、残された右目に絶望の色は無く、むしろ燃えるような決意に染まり、見開かれていた。
「……これは、私の情けだったのだがな」
狐面の男は手にした左腕を……スーツ姿の男の左腕を見せつけるように掲げる。
「魔術師にとって、目は照準。腕は銃身、指は銃口。お前はこの1分間で武器の片方を失った。逃げたまえ。……命まで取らなかったのは、単純に私がお前を憐れに思ったからだよ」
「そんなの無用だよ」
スーツ姿の男は右腕を狐面の男に突き出し、吐き捨てるように言う。
「お前の言う情けなんて、必要ない」
「……そうか。残念だ」
狐面の男はそう短く答えると、手にした左腕を捨て、自身の両の掌を合わせる。
途端、スーツ姿の男の右腕は赤く。
狐面の男の両手は青く光り始める。
それは、科学と人の理が地表を覆う以前から星に潜む、偉大なる力の輝きだった。
あらゆる可能性を許容するもの。
万物を生み出すもの。
万物が行き着くもの。
その力の名は「魔力」。
彼ら「魔術師」の武器と呼べるものだった。
「さらばだ」
狐面の男は倍に膨張する青い光越しに、事も無げに告げる。
スーツ姿の男は、ただ死を確信し、口を噤み、それでも前を向き続けた。
両者の手からほぼ同時に放たれた赤と青の閃光が衝突し、ぶつかり合う。
その光と衝撃はさながら花火のようであったが、地上を行き交う人々はその光を認識することなく往来を闊歩していく。誰にも見えず、気づかれず、ただこの世に存在している。
それは正しく、現代を生きる魔術師と、魔術の姿だった。
……果たして、廃ビル屋上での戦闘は、狐面の男の勝利で終わった。
彼は靴のみを残して消えた男を無視して、屋上からビル階下へと通じる階段の扉を開く。
その向こう側に広がっていたのは、殺風景な階段などではなく、人工物と自然物が入り乱れて交わったような混沌とした世界だった。その彼方に、有角の人面熊と呼べるような怪物が存在している。
『異界』と、そこを根城にする魔物だ。
「狩場は私のものだ」
それは敗れた者への勝利宣言か。
あるいはその戦闘を遠くから見ていた他の魔術師達に対する警告か。
男は足を踏み出し、扉を潜ってその姿を消した。
▽
科学技術の発達に伴い、徐々にその姿を世界から消していった魔法の概念。
それは、『異界』と呼ばれるこの世ならざる世界から齎され、『異界』から来るこの世ならざる怪物……「魔物」に抗するためのものとして鍛え上げられてきた。
だが、人間の技術が発展していくのと反比例するように、いつからか大気に交じる魔力の濃度は薄まり、『異界』から魔物が来る機会は減り、魔術の存在を知る只人たちはいなくなり、魔術師達は自身の中の魔性を飼いならすに足る餌を獲れなくなっていった。
そして、異端弾圧からの逃走。2度の大戦。「人食いの時代」を越え、現代。
魔術師達は今もなお 現世と『異界』の狭間に立ち、現実に根を下ろそうとする魔物を狩っていたが、かつてそこにあった人界を守護するという役目 / 大義は、既に多くの者が忘れ去ってしまっていた。
今や魔術師達は、
己が野望と使命のために魔術を振るう者。
己のためだけに魔物を狩る者。
裏社会にその身を置き、血と鉄で明日を繋ぐ者。
『異界』を故郷と定め、帰郷を望む者。
魔術を通して万象を理解しようとする者等、
様々にその在り方を変え、今なお 世間に知られることもないまま、激しく闘争を繰り広げている。
だが、彼らは時に共通の目的や意志を基に集まり、組織と呼べるほどに大規模なクランを構築することがあった。
そういった組織の中に、未だ原初の役目と大儀を忘れず、魔と現の境を取り持つ者達がいた。
その組織の名は、「明星」。
記憶を失くした少年を「保護」した組織である。
▽
──夢を見たのは、随分と久しぶりなような気がした。
僕はどことも知れない、朽ち果てた建物の中を走っていた。踏む瓦礫は痛くなく、足に疲労は無く、冷たい石の感触も無い。本当に体を動かしているのかも分からない、奇妙な浮遊感が体にまとわりついてくる。
そういった全てが曖昧な世界の中で、後方の闇の中から迫るガサガサという群れの足音に対する恐怖心だけが真実だった。それは、腹を空かせたネズミの波のように感じられた。
「──ッ、──」
声を出す。助けを呼ぶ声を。だが、聞こえない。僕自身にも聞こえない助けに応えてくれる者はいない。声が泡のように消える。手足をまるで自由に動かせない。さながら水の中で溺れるかのようだった。
ついには足がもつれ、床に倒れ込んだ。音はすぐそこまで迫っている。
……──嫌だ。こんな形で終わりたくない──……。
僕は必死になって足を動かし、石の床に爪を立て、這ってでも逃げようと藻掻いた。出口はすぐそこ。床に敷かれたチューブの束が道標となって、ある一室を指し示していた。僕はそれを掴んで前へ、前へと進んでいった。どうしようもなく嫌な予感が胸をつついたが、前へ進む以外の能力を、夢の中の僕は持たなかった。
「────」
そこにあったのは、予感通りの、予想外の光景だった。
出口と思われた部屋の中では、浴槽と棺桶を合わせたかのような奇妙な道具が中央に置かれていた。それ以外の設置物は無く、出入り口も、今僕自身が入ってきた扉の他にない。逃げ場のない袋小路。
だが、人はいた。
奇妙な道具の中で、満たされた水に浸りながら安らかに眠る僕自身が。
ぼくは、驚いて思わず口を覆った。胃が痙攣し、食道が蠢く。何かを吐きそうだった。
目の前の僕は眠ったままだ。ぼくは背後の群れのことを思い出し、今すぐ起きるように叫ぶ。
しかし、ぼくの口から出たのは、とても人のものとは思えない、獣のような吠え声だった。
意味が分からず再び声を出す。獣の叫びが部屋中に反響する。ネズミの群れが踵を返し、逃げ去っていくのを感じた。何に恐れをなしたのか、考えたくなかった。
ふと気づくと、 の手は深い獣毛に覆われていた。
指先には黒ずんだ鋭い爪が。触れる口元には鋭い牙が。
そして、心の奥底には、どうしようもない飢餓感が──。
「────ア」
気が付くと、 は眠る僕の頭を抉っていた。
皮膚が陶器のように半壊し、破片がカラカラと音を立てて崩れる。その中からは、さながら脳漿のように、どろりとした灰色の物体が外部に漏れだした。
唖然としてその光景を見つめていると、不意に閉じられていた目が開かれ、 をじっと見つめた。
その口が何かを言おうと動き、唇を少し開けたところで──。
▽
僕は目を覚ました。
肩で息をしながらドクドクと撥ねる心臓を服の上から押さえつける。汗が出たのか、腋も背中もビショビショに濡れ、肌に服が張り付き不快だった。疲労感が全身にのしかかっているようで、とてもじゃないが起き上がれない。だが、また眠りにつこうものなら、さっきと同じ夢を見てしまう気がした。
僕は何度か瞬きをし、半身を起こして目を擦り、
「……なんだ、ここ」
そこで僕は、自分が白く清潔なベッドの上で眠っていたことに気が付いた。滑らかなベッドシーツと、柔らかな羽毛布団。よく洗濯されたそれは僅かに良い香りを漂わせていて、汗で汚してしまったことが少し申し訳なくなる。ベッドの外側は、厚いカーテンで仕切られていて見ることはできなかった。
だが、僅かに人の気配がすること。そして、倒れた自分がこんなベッドに寝かせられていたことを考えると、ここは病院なのかもしれない。僕はそう考え、とりあえずカーテンを開けようと手を伸ばし、
「あーーーーっ!起きてる!」
ジャッ、と音を立て、勢いよくカーテンが開かれた。無論、僕はまだ触っていない。外から誰かがカーテンを開け放った。遮られていた白い照明の光がベッドの上に落ち、その眩しさに思わず目を細める。狭まった視界の中で、カーテンを開けたと思われる人影が逆光の中で動いていた。
「目が覚めた? あなた、三日間も寝てたんだよ! それにね──」
それは、女性の声だった。はつらつとして、少し早口で、明るい声音。言っている内容はよく分からないが、兎に角テンションが高いことと、僕の起床を純粋に喜んでくれていることは分かった。
僕は数回瞬きをして、光に目を慣らしてからその声の主の顔を見た──。
新雪を連想させる煌めく銀の長髪。薄紫色の大きな瞳。口元に浮かぶ勝気な微笑み。
白いブラウスと、黒のロングスカートに身を包んだ細い体。
その顔立ちは「美しい」「可愛らしい」「整っている」と、様々な言葉で言い表すことができるほどの美貌ではあったが、僕個人の印象としては「人形のよう」だった。
造形美の粋を集められた存在が、人の形をしている。
現実感の無い美しさが、活力を内に秘めてエネルギッシュに弾けている。
それを見て僕は、目覚めた時、一番最初に目にしたいものは何か?と問われた時の答えを見つけられた気がした。
「……──それでね~……って、あれれ? だいじょぶかいな?」
「……あっ、すみません! まだ頭がぼんやりしていて……」
嘘だ。実は見惚れていた。
だが初対面の相手に、それも女性にそんな感情を抱くこと、ましてやそれを相手に悟られることは失礼な気がして、咄嗟に誤魔化した。彼女は僕の言葉を聞いて、少しハッとしたような表情をすると、
「ごめん! ちょっと偉いひと呼んでくるね! あっ、飲み物いる? いるよね! 飲みかけだけど、はい!」
そうまくしたてると、彼女はどこから取りだしたのか、中身が少し減っているオレンジジュースのペットボトルを僕の手に握らせ、「ちょっと待ってて~!」と手を振りながら目の前から消えた。
「…………」
呆然。
突然の豪雨や嵐に巻き込まれたかのような虚脱感。さっきまでは「美しいものを見た」と、心の底まで満たされた気がしたが、その、何というか……。
「……凄い人だったな」
外面、内面。そして言動。それらを総合すると、その言葉がどうもしっくりくる気がした。心と頭が痺れたように震え、うまく動けないほどだ。手に握ったペットボトルのことなど、目を向けなければ思い出せないほどだった。
とはいえ、本人が許可したものであっても、女性が一度口を付けた飲み物を飲むことは、僕にはできない。僕はベッドから降り、用意されたものだろうか、床に置かれたスリッパを履いて部屋の中に立った。
その部屋は、さながら学校の保健室……を大きくし、改造したかのような場所だった。
備え付けられたベッドと、白い壁に白い天井。床は木目調のフローリング材でできている。壁に向けられた机や、来客用と思われるソファも置かれていた。
ただ、壁際に据え付けてある本棚にはいくつもの分厚い書籍が並び、本棚の向かい側……部屋の反対側にはMRI……と呼べばいいのか。巨大なスキャナーを思わせる機械や、用途が良く分からない、人一人が丸ごと入れそうなポッド状の機械、専用のバッテリーと思われる箱等が置かれていた。
それらを見て判断すると、この部屋は保健室や病室というよりかは、研究室のそれのように見えた。
研究室。
機械を繋ぐケーブル類。
「……──うっ」
胃が痙攣し、食道が蠢く。実際にそんなことは無いにも関わらず、鼻先にカビと埃の臭いが触れた気がした。ざわざわ、と群れを成すネズミの足音が聞こえた気がした。だが、それ以上に、
「……あれは、夢では」
なかったのか。
言葉を続けようとして、慌てて口を両手で抑える。ごぼ、と音を立てて嘔吐物が口いっぱいに満ちたが、すぐに飲み込み、咄嗟に手にしていたペットボトルの中身を胃に流し込んだ。オレンジジュースの冷たさを内蔵で味わう。
三日間の寝たきり。
先程の嘔吐感でも分かったことだが、胃の中に何も無いことが、彼女の言葉を……あの廃墟の存在が現実であることをより際立てた。
……──ということは、つまり。
僕の首は、一度、あの怪物に。
僕は、僕の記憶は──……。
「ただいまーーーっ!」
そこまで考えた時、部屋の扉が開いて先程の女性が戻ってきた。見てみると、その後ろには背の高い男が一人、彼女に続いて部屋に入ってきていた。
黒い髪に赤・青・白の3色のメッシュを入れた派手な出で立ちの男だった。服装も、紺のダメージジーンズに派手な柄のTシャツ、その上にパーカーと、全体的に「軽く」、一見すればラッパーやバンドマンのようだ。しかしその表情は少し暗く、黒色の瞳は苦悩に曇っているように見える。端正な顔立ちだけに、その歪みは一層際立って見えた。
彼が、先程彼女が言っていた偉いひとだろうか。
そう訝しみながらその男を見上げていると、
「おい、そいつじゃないぞ。偉いひとは」
と、下の方から声が聞こえた。
その方を見てみると、白衣に身を包んだ、目付きの鋭い幼げな少女が青色の瞳で僕のことを見上げていた。
オレンジ色の艶やかな長髪を腰まで伸ばし、サイズ違いの大きな白衣をダボダボと着る少女。「白衣」という点だけであれば、ある意味この研究室めいた部屋に一番相応しい恰好をしていると言えるのかもしれないが、その外見はただの子供でしかない。だが、その眼には強い意志が込められ、その言葉には力があった。
「お前、名前は?」
「え……」
ドキリ、と心臓が音を立てたような気がした。
それは、今最もかけられたくない問いだった。
…………答えたくない。
答えられない、分からないと言ってしまえば、その時点で何かが失われる気がしたからだ。
黙り込んで目を泳がせる僕に、少女は何かを心得たように「ふむ」と呟くと、
「では、お前は今から『クレイン』だ」
「……──は?」
混乱し、思考を止めかけた脳が聞き馴染みの無い名前に困惑する。
今、この少女は何と言った?クラ……何?
今、僕はこの少女に名づけられたのか?
「そうだ。色々と迷っているところすまないが、仮の名前でも無いと話にならんのでな」
僕の思考を読んだかのように少女は言い、続ける。
「ようこそ、クレイン。魔導組織『明星』へ。私達はお前を歓迎しよう」
徐々に色を失っていく視界の中で、ニィと吊り上げる少女の口元に、煌めく牙が見えた気がした。
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だが、勇者に選ばれたのはレオの幼馴染である少女ソフィだった。
その事実にレオは打ちのめされ、自堕落な生活を送ることになる。
だがそんなある日、勇者となったソフィが死んだという知らせが届き…?
才能のない村びとである少年が、幼馴染で、好きな人でもあった勇者の少女を救うために勇気を出す物語。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
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冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
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王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
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貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
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【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
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伯爵夫人が亡くなり、後妻が連れ子を連れて伯爵家に来た。俺、コーは連れ子も可愛い弟として受け入れていた。しかし、伯爵が亡くなると後妻が大きい顔をするようになった。さらに俺も虐げられるようになったし、可愛がっていた連れ子すら大きな顔をするようになった。
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