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境内にて
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「そんなこともあったな。既に懐かしく感じるわ」
二人が乗る灰色のワゴンアール。夜中にも関わらず、少し走るだけで同じ種類の車と何度もすれ違っている。男がこの目立たない車に乗っていたことは、二人にとって幸運だったと言えるだろう。
「懐かしいって、昨日の話よ? あ、もう一昨日か」
カーナビに表示された時計を見ると、午前零時を三分だけ回っていた。
「まだそんだけしか経ってないんか。こんなに時間の流れが遅いんは久しぶりやわ」
男はハンドルから左手を話し、その手で目の周りをこする。
「今日の晩はどうするの? あなた、長い間寝てないんじゃない?」
申し訳なさそうに「私は助手席で寝ちゃってるけど」と付け加える。朱音の言葉を受けて、男は軽く声に出して笑った。
「そんなことないで、朱音が隣で寝てるのを見て、俺もちょこちょこ車停めては寝てるんや。じゃなかったら三重県なんてとうに越えてるわ」
「そうなの? イメージしていたよりも遠いとは思っていたけど……。やっぱり新幹線や飛行機じゃ、いまいち距離感覚がつかめないものね」
走る車の数が随分と減ってくる。周囲には大小様々な木々が、数多く見受けられるようになっていた。
「せやなあ。確かに飛行機の方が速いけど、車もいいとこあるんやで。こんな風に道中の発見もその一つや。ほら見てみ」
男が指さした方へ顔を向けると、幾重にも重なった深い森が車窓にその姿を映していた。その切れ間からは、一定の間隔でほのかに灯る明かりと、荘厳な建物の一部分が見え隠れしている。
「あれ、なに?」
初めて見たものに対する赤ん坊のような瞳をする朱音に対して、嬉しそうな顔で男がその場所の名前を告げてやる。
「伊勢神宮や」
車がさらに進む。「伊勢神宮参拝車用駐車場」と書かれた看板が二人の視界に入ってきた。
「ここが伊勢神宮。すごい。こんなとこにあったんだ」
表情を緩ませた朱音は、はっきりと見えないその建物を想像して形作る。その表情を男が横目で捉えていた。
「行くか? 途中までやったらいけるはず」
「いいの?」
男は頷き、車を道路の端に寄せ停車させる。
「こんな真夜中やったら大丈夫やろ。でも念のため顔は隠しときや」
「わかってる。どこで誰が見ているかわからないものね。他人の目には人一倍臆病よ」
朱音のその言葉には、公の世界で生きてきた人間の社会に対する恐れが重みとなってのしかかっていた。既に車から半分体を出していた男は、特に返答することなくそのまま車を降りた。
「行こうや」
境内へと続く道、二人の他にはほとんど人がいない。たまにすれ違う人も鈴木桜花の存在に気が付いている様子はなかった。朱音がそっと口を開く。
「ねえ、あなたのことも聞かせてよ。私が言うのもなんだけど、あんなところで何をしてたの? 今だってこうやって付き合ってくれてるし」
二人の歩調が心地よいリズムで重なり合い、石畳の上で音を奏でる。
「俺か? 俺はなあ……」
言い淀む男の顔をちらりと確認した朱音は、男が再度口を開くよりも先に言葉を重ねた。
「いいのよ、言いたくなかったら。いきなりこんなこと聞いてごめんね」
「俺も一緒や、逃げてるんや」
声の調子を微塵も変えることなく、石畳に奏でられる音よりも随分と低い声で男が口を開いた。
「逃げてる?」
鼻の頭を掻く男の左手の動きが、次なる言葉への助走のように見える。その指が三度往復しきったとき、そのリズムに乗せるようにして、続く言葉を発した。
「いや、一緒にしたらあかんか。俺は朱音と比べたら、随分と自分勝手な理由で逃げてるんや。いわゆる夜逃げってやつやな」
「私だって自分勝手よ」
朱音の言葉に、男は黙って首だけを横に動かした。立ち並ぶ木々の葉が風で揺れる。そのさらさらという音が、次に男が発する言葉へのアプローチになった。
「実は俺、こう見えて三十過ぎのおっさんやねんけどな」
「どう見ても三十過ぎのおじさんだけど?」
「うるさい」
「なによ」
男が小さく咳払いをする。
「まあそれはええわ。ちょっと事業で失敗して、莫大な金額の借金を抱えることになったんや」
さっきよりも大きく見える社を遠目に眺めながら、理由なく二人同時に立ち止まる。
「そうだったのね」
男が軽く頷く。
「それで、これからどないしようか考えてるうちに、小さいときに好きやった海を見に行ってた。現実と向き合うことから逃げてたんや」
「そこに私が現れたってわけ?」
「せやな。どうや、自分勝手やろ?」
男が話を終えても、朱音から言葉は返ってこない。突然吹いた強風が、辺りの木々の葉を盛大に散らした。
「そろそろ戻るか」
男が踵を返す。その背中に朱音が声をかけた。
「ねえ」
足を止めた男は振り返る。その目は朱音の奥に見える建物を捉えていた。
「どないした?」
何かを考えている様子の朱音だったが、それが言葉となって口から出てくることは無かった。
「ううん、何でもない。戻ろっか」
「一休みしたら出発するで」
「はーい」
車の方へと黙って歩く二人。車内へと戻るまで、二人が言葉を交わすことは無かった。
「なあ朱音」
「なに? どうしたの?」
車内に戻った男は既にエンジンをかけていた。愛媛県までのルートを調べる指がピタリと止まる。
「温泉でも行かんか? 遠回りにはなってまうけど、白浜とかどうや」
男の提案を聞いた朱音の目には輝きが灯る。男の車に乗ってからもうすぐ丸二日。朱音としては願っても無い提案だった。
「行きたい! けど大丈夫なの? いくらスッピンだからって、気が付く人はきっといるわよ」
「貸し切り風呂にしたらええねん。昔行ったところに確か日帰りもあったはず」
「あなたがいいのなら。行きたい」
「よし、決まりやな」
男はナビを入力する手をハンドルに収め、車を発進させた。朱音が浮かれた顔をしている。その振る舞いは、失踪中のそれでは無く、まだ見ぬ浴槽への思いを馳せ、ただただ夢見心地だった。
「なあ朱音。ちょこちょこニュースとかを見てるんやけど、全然報道されんなったな。もっと警察とかに追われるもんやと思っててんけど」
「そりゃそうでしょ」
朱音の口調は素っ気なく、それでいて確信的だった。
「警察に動かれたりしたら自分たちの身の方が危ないからね。報道なんて、いくつも揉み消してるみたいよ」
言い捨てた朱音は、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「そういうもんか。やとしたら猶更、温泉でも入ってゆっくりしようや。後で予約しとくわ」
「私がするよ、あなたは運転に集中して。携帯電話借りるね」
そう言って男の左側のポケットから、真っ黒いスマートフォンを抜き取ると、「パスワードは?」と尋ねる。
「お前、俺が言うと思ってんのか?」
「うん」
言うと信じてやまないようなその声に、男も気が抜けたようだった。
「0610や。電話帳に番号入ってると思うから予約頼んだ」
「誕生日?」
「……結婚記念日。やった日や」
男から聞いた数字を一つずつロック画面に打ち込んでいた朱音が、はっとしたように顔を上げる。
「そう、だったんだ。ごめん」
「いいから早く予約してくれ」
ぶっきらぼうに言葉を放った男の姿に、車が散らす若葉の姿が重なった。散り散りになった葉は、もう二度と集まることは無い。
車内にどんよりと広がった陰鬱な空気を一蹴したのは、鈴木桜花の明るい声だった。
「任せて! 最高の部屋を取るね! 私はほとんど現金を持ってないし、一部屋でいいよね?」
「え? 泊まるんか?」
男の声は先ほどとは打って変わって、あどけない子供のような声だ。
「泊まらないの? せっかくの温泉なのに」
「あほ、日帰りもあるって言うてたやろ。第一朱音、お前は失踪中の身やろ?」
「あなたも同じようなものじゃないの? それも私よりも必死に探されてるかも」
茶化すように言った朱音の顔には陰りが見えていた。話しながら、男のスマートフォンを指で操作している。
「なんかびっくりするニュースでも出てたか?」
「えっ?」
画面上の指を止め、咄嗟に画面を伏せた。
「使っててもええで、俺はもう使わんし」
「いいの?」
男は頷く。
「温泉は日帰りな」
「それはいや」
即答した朱音は、再びスマートフォンの画面上を指でなぞっている。
「図々しいやつやなあ。まあいい、運転するのは俺やからな」
「予約するのは私よ?」
「携帯返せ!」
そのやり取りは和歌山県に突入した頃、気を失うように朱音が眠るまで続いた。
進路を白浜へと定めた車は、ガソリンスタンドに停車していた。
時刻は午前五時。眠っていないとき特有のゴミが溜まった脳を、眠らないようにするためだけに男は動かしている。
男のぼうっとした頭は、ガソリンタンクが尽きてしまいそうなのに気が付かず、慌てて近くのスタンドに飛び込んだ。
二度目の給油は、今では珍しくなったフルサービスのスタンド。給油の他に、灰皿の掃除なども行ってくれる。
「いらっしゃいませー」
二十五、くらいだろうか。少し無精髭の残った若い青年が上手な笑い方で男に声をかける。
「レギュラー満タンで」
「あいよー。灰皿は?」
男は車のドリンクスタンドの辺りを見る。そもそも、この車には灰皿がついていないことに気が付いたようだった。
「いや、ええわ。ありがとう」
「いえ! 給油口だけ開けてもらってもいいですか?」
「ちょっと待ってや」
男は促されるままに運転席のドアを開くと、そこから現れるレバーを軽く引いた。青年は慣れた手つきで給油を始めると、車のガラスを拭き始める。
「眠っ。朱音も寝てることやし、どっかで休むか」
独り言を漏らした男に返事するように、寝返りを打った朱音が小さく唸る。体を動かしたことで、その顔が青年に晒された。
「わっ」
気遣いのできたその青年は、寝顔を見るまいと目を逸らす。タイミングのいいことに給油も終わり、青年自身も救われたようにその場を去った。
「有難うございましたー」
給油を終えた灰色の車を見送った青年は、ポケットからスマートフォンを取り出すと車の後ろ姿を写真に収めた。その指が素早く動く。
『うちのスタンドに鈴木桜花似の美人来店! マジ本人かと思った』
これで問題ないかと言わんばかりに、ナンバープレートの部分が黒く塗りつぶされた写真。その写真は鈴木桜花の名と共に、彼を発信源として世界中に流れ、独自に捜索を続けていた朱音の事務所が、それを見逃すことは無かった。
そんなことなど知る由もない男は、眠気と戦いながらも白浜へと車を走らせる。
結局一泊の宿を取ることになった二人。それなら到着してからゆっくりしようと決めた男だったが、結果的にこれが功を奏し、事務所の捜索の手から逃れることに成功していた。
「おはよ。ねえ今どこ?」
ぼさぼさの髪を掻き分けて、その隙間から朱音が声をかける。
「もうすぐ白浜や、よう寝とったなあ」
男は、その声に不満を隠そうともしていない。
「うっそ、もう着くんだ。お疲れ様、着いたらゆっくり休んでね」
「あー、そうさせてもらうわ。結局一泊の宿になってるしな」
「してあげたのよ? あなたも言ってたじゃない。女優と旅行なんて中々できないって」
「だからと言ってなあ」
珍しく困った様子の男は、左手で頭の後ろを軽く掻く。
「手を出してもいいわよ。一回だけなら見逃してあげる」
「出すか! 今すぐ放り出すぞ!」
からかうような朱音の言葉には、間髪入れず男が反論する。その焦っている様子が、朱音はおもしろいようだった。
「ごめんなさい、冗談よ」
言いながらクスクスと笑う朱音を横目に、言葉を失った男のやり場のない怒りが、アクセルを踏む右足にぶつけられる。上り坂に差し掛かり苦労していた車が、勢いをつけてそこをかけ登った。
二人が乗る灰色のワゴンアール。夜中にも関わらず、少し走るだけで同じ種類の車と何度もすれ違っている。男がこの目立たない車に乗っていたことは、二人にとって幸運だったと言えるだろう。
「懐かしいって、昨日の話よ? あ、もう一昨日か」
カーナビに表示された時計を見ると、午前零時を三分だけ回っていた。
「まだそんだけしか経ってないんか。こんなに時間の流れが遅いんは久しぶりやわ」
男はハンドルから左手を話し、その手で目の周りをこする。
「今日の晩はどうするの? あなた、長い間寝てないんじゃない?」
申し訳なさそうに「私は助手席で寝ちゃってるけど」と付け加える。朱音の言葉を受けて、男は軽く声に出して笑った。
「そんなことないで、朱音が隣で寝てるのを見て、俺もちょこちょこ車停めては寝てるんや。じゃなかったら三重県なんてとうに越えてるわ」
「そうなの? イメージしていたよりも遠いとは思っていたけど……。やっぱり新幹線や飛行機じゃ、いまいち距離感覚がつかめないものね」
走る車の数が随分と減ってくる。周囲には大小様々な木々が、数多く見受けられるようになっていた。
「せやなあ。確かに飛行機の方が速いけど、車もいいとこあるんやで。こんな風に道中の発見もその一つや。ほら見てみ」
男が指さした方へ顔を向けると、幾重にも重なった深い森が車窓にその姿を映していた。その切れ間からは、一定の間隔でほのかに灯る明かりと、荘厳な建物の一部分が見え隠れしている。
「あれ、なに?」
初めて見たものに対する赤ん坊のような瞳をする朱音に対して、嬉しそうな顔で男がその場所の名前を告げてやる。
「伊勢神宮や」
車がさらに進む。「伊勢神宮参拝車用駐車場」と書かれた看板が二人の視界に入ってきた。
「ここが伊勢神宮。すごい。こんなとこにあったんだ」
表情を緩ませた朱音は、はっきりと見えないその建物を想像して形作る。その表情を男が横目で捉えていた。
「行くか? 途中までやったらいけるはず」
「いいの?」
男は頷き、車を道路の端に寄せ停車させる。
「こんな真夜中やったら大丈夫やろ。でも念のため顔は隠しときや」
「わかってる。どこで誰が見ているかわからないものね。他人の目には人一倍臆病よ」
朱音のその言葉には、公の世界で生きてきた人間の社会に対する恐れが重みとなってのしかかっていた。既に車から半分体を出していた男は、特に返答することなくそのまま車を降りた。
「行こうや」
境内へと続く道、二人の他にはほとんど人がいない。たまにすれ違う人も鈴木桜花の存在に気が付いている様子はなかった。朱音がそっと口を開く。
「ねえ、あなたのことも聞かせてよ。私が言うのもなんだけど、あんなところで何をしてたの? 今だってこうやって付き合ってくれてるし」
二人の歩調が心地よいリズムで重なり合い、石畳の上で音を奏でる。
「俺か? 俺はなあ……」
言い淀む男の顔をちらりと確認した朱音は、男が再度口を開くよりも先に言葉を重ねた。
「いいのよ、言いたくなかったら。いきなりこんなこと聞いてごめんね」
「俺も一緒や、逃げてるんや」
声の調子を微塵も変えることなく、石畳に奏でられる音よりも随分と低い声で男が口を開いた。
「逃げてる?」
鼻の頭を掻く男の左手の動きが、次なる言葉への助走のように見える。その指が三度往復しきったとき、そのリズムに乗せるようにして、続く言葉を発した。
「いや、一緒にしたらあかんか。俺は朱音と比べたら、随分と自分勝手な理由で逃げてるんや。いわゆる夜逃げってやつやな」
「私だって自分勝手よ」
朱音の言葉に、男は黙って首だけを横に動かした。立ち並ぶ木々の葉が風で揺れる。そのさらさらという音が、次に男が発する言葉へのアプローチになった。
「実は俺、こう見えて三十過ぎのおっさんやねんけどな」
「どう見ても三十過ぎのおじさんだけど?」
「うるさい」
「なによ」
男が小さく咳払いをする。
「まあそれはええわ。ちょっと事業で失敗して、莫大な金額の借金を抱えることになったんや」
さっきよりも大きく見える社を遠目に眺めながら、理由なく二人同時に立ち止まる。
「そうだったのね」
男が軽く頷く。
「それで、これからどないしようか考えてるうちに、小さいときに好きやった海を見に行ってた。現実と向き合うことから逃げてたんや」
「そこに私が現れたってわけ?」
「せやな。どうや、自分勝手やろ?」
男が話を終えても、朱音から言葉は返ってこない。突然吹いた強風が、辺りの木々の葉を盛大に散らした。
「そろそろ戻るか」
男が踵を返す。その背中に朱音が声をかけた。
「ねえ」
足を止めた男は振り返る。その目は朱音の奥に見える建物を捉えていた。
「どないした?」
何かを考えている様子の朱音だったが、それが言葉となって口から出てくることは無かった。
「ううん、何でもない。戻ろっか」
「一休みしたら出発するで」
「はーい」
車の方へと黙って歩く二人。車内へと戻るまで、二人が言葉を交わすことは無かった。
「なあ朱音」
「なに? どうしたの?」
車内に戻った男は既にエンジンをかけていた。愛媛県までのルートを調べる指がピタリと止まる。
「温泉でも行かんか? 遠回りにはなってまうけど、白浜とかどうや」
男の提案を聞いた朱音の目には輝きが灯る。男の車に乗ってからもうすぐ丸二日。朱音としては願っても無い提案だった。
「行きたい! けど大丈夫なの? いくらスッピンだからって、気が付く人はきっといるわよ」
「貸し切り風呂にしたらええねん。昔行ったところに確か日帰りもあったはず」
「あなたがいいのなら。行きたい」
「よし、決まりやな」
男はナビを入力する手をハンドルに収め、車を発進させた。朱音が浮かれた顔をしている。その振る舞いは、失踪中のそれでは無く、まだ見ぬ浴槽への思いを馳せ、ただただ夢見心地だった。
「なあ朱音。ちょこちょこニュースとかを見てるんやけど、全然報道されんなったな。もっと警察とかに追われるもんやと思っててんけど」
「そりゃそうでしょ」
朱音の口調は素っ気なく、それでいて確信的だった。
「警察に動かれたりしたら自分たちの身の方が危ないからね。報道なんて、いくつも揉み消してるみたいよ」
言い捨てた朱音は、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「そういうもんか。やとしたら猶更、温泉でも入ってゆっくりしようや。後で予約しとくわ」
「私がするよ、あなたは運転に集中して。携帯電話借りるね」
そう言って男の左側のポケットから、真っ黒いスマートフォンを抜き取ると、「パスワードは?」と尋ねる。
「お前、俺が言うと思ってんのか?」
「うん」
言うと信じてやまないようなその声に、男も気が抜けたようだった。
「0610や。電話帳に番号入ってると思うから予約頼んだ」
「誕生日?」
「……結婚記念日。やった日や」
男から聞いた数字を一つずつロック画面に打ち込んでいた朱音が、はっとしたように顔を上げる。
「そう、だったんだ。ごめん」
「いいから早く予約してくれ」
ぶっきらぼうに言葉を放った男の姿に、車が散らす若葉の姿が重なった。散り散りになった葉は、もう二度と集まることは無い。
車内にどんよりと広がった陰鬱な空気を一蹴したのは、鈴木桜花の明るい声だった。
「任せて! 最高の部屋を取るね! 私はほとんど現金を持ってないし、一部屋でいいよね?」
「え? 泊まるんか?」
男の声は先ほどとは打って変わって、あどけない子供のような声だ。
「泊まらないの? せっかくの温泉なのに」
「あほ、日帰りもあるって言うてたやろ。第一朱音、お前は失踪中の身やろ?」
「あなたも同じようなものじゃないの? それも私よりも必死に探されてるかも」
茶化すように言った朱音の顔には陰りが見えていた。話しながら、男のスマートフォンを指で操作している。
「なんかびっくりするニュースでも出てたか?」
「えっ?」
画面上の指を止め、咄嗟に画面を伏せた。
「使っててもええで、俺はもう使わんし」
「いいの?」
男は頷く。
「温泉は日帰りな」
「それはいや」
即答した朱音は、再びスマートフォンの画面上を指でなぞっている。
「図々しいやつやなあ。まあいい、運転するのは俺やからな」
「予約するのは私よ?」
「携帯返せ!」
そのやり取りは和歌山県に突入した頃、気を失うように朱音が眠るまで続いた。
進路を白浜へと定めた車は、ガソリンスタンドに停車していた。
時刻は午前五時。眠っていないとき特有のゴミが溜まった脳を、眠らないようにするためだけに男は動かしている。
男のぼうっとした頭は、ガソリンタンクが尽きてしまいそうなのに気が付かず、慌てて近くのスタンドに飛び込んだ。
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「レギュラー満タンで」
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「いや、ええわ。ありがとう」
「いえ! 給油口だけ開けてもらってもいいですか?」
「ちょっと待ってや」
男は促されるままに運転席のドアを開くと、そこから現れるレバーを軽く引いた。青年は慣れた手つきで給油を始めると、車のガラスを拭き始める。
「眠っ。朱音も寝てることやし、どっかで休むか」
独り言を漏らした男に返事するように、寝返りを打った朱音が小さく唸る。体を動かしたことで、その顔が青年に晒された。
「わっ」
気遣いのできたその青年は、寝顔を見るまいと目を逸らす。タイミングのいいことに給油も終わり、青年自身も救われたようにその場を去った。
「有難うございましたー」
給油を終えた灰色の車を見送った青年は、ポケットからスマートフォンを取り出すと車の後ろ姿を写真に収めた。その指が素早く動く。
『うちのスタンドに鈴木桜花似の美人来店! マジ本人かと思った』
これで問題ないかと言わんばかりに、ナンバープレートの部分が黒く塗りつぶされた写真。その写真は鈴木桜花の名と共に、彼を発信源として世界中に流れ、独自に捜索を続けていた朱音の事務所が、それを見逃すことは無かった。
そんなことなど知る由もない男は、眠気と戦いながらも白浜へと車を走らせる。
結局一泊の宿を取ることになった二人。それなら到着してからゆっくりしようと決めた男だったが、結果的にこれが功を奏し、事務所の捜索の手から逃れることに成功していた。
「おはよ。ねえ今どこ?」
ぼさぼさの髪を掻き分けて、その隙間から朱音が声をかける。
「もうすぐ白浜や、よう寝とったなあ」
男は、その声に不満を隠そうともしていない。
「うっそ、もう着くんだ。お疲れ様、着いたらゆっくり休んでね」
「あー、そうさせてもらうわ。結局一泊の宿になってるしな」
「してあげたのよ? あなたも言ってたじゃない。女優と旅行なんて中々できないって」
「だからと言ってなあ」
珍しく困った様子の男は、左手で頭の後ろを軽く掻く。
「手を出してもいいわよ。一回だけなら見逃してあげる」
「出すか! 今すぐ放り出すぞ!」
からかうような朱音の言葉には、間髪入れず男が反論する。その焦っている様子が、朱音はおもしろいようだった。
「ごめんなさい、冗談よ」
言いながらクスクスと笑う朱音を横目に、言葉を失った男のやり場のない怒りが、アクセルを踏む右足にぶつけられる。上り坂に差し掛かり苦労していた車が、勢いをつけてそこをかけ登った。
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