攻略対象の婚約者でなくても悪役令息であるというのは有効ですか

中屋沙鳥

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55.大階段を転がり落ちる



 それは卒業式の直前に起きるイベントだった。まだ一月ほど先の話だ。
 そう思っていた。

 だから、クリスティアンは油断していたのかもしれない。



◇◇◇◇◇



 『コイレボ』には、卒業式の直前に主人公ノエルがホール近くの大階段から突き落とされるというイベントがある。もちろん犯人は悪役令息、悪役令嬢のうちの誰かである。

 ホール前の回廊は車止めに続いているため、大階段の辺りは登校時と下校時には人通りが多い。しかし、授業が行われている間は、学院の衛士がいるだけの寂しい場所だ。登下校以外で学生がその階段を利用するのは、ホールでのダンス授業や武術場での授業のための移動時ぐらいである。それも、別の階段を利用して大階段の上にある廊下を渡ってホールや武術場へ移動する学生の方が多い。
 その人目の無さを利用して、『コイレボ』の悪役令息は、主人公を巧みにその場所へおびき出し、危害を加えるという設定になっている。



「今日の武術は合同授業だな」
「ああ、そうだったな」

 ヘンリーの機嫌の良さそうな声に、クリスティアンは首を傾げた。ヘンリーは、武術の授業があまり好きではない。ヘンリーは、すらりとした体躯の美丈夫であるにもかかわらず、運動神経がよろしくないのである。むしろ、子どもの頃に病弱であったアラステアの方が、動きが良いぐらいなのだ。
 しかし、武術ではなく、合同授業であることを楽しみにしているのであれば思い当たる理由がないことはない。

「俺、武術の時間は別行動するから」
「ああ、わかった。恋人と行動するのだな。近づかないようお互いに気をつけよう」
「そういうこと! よろしくな」

 状況を理解して頷いたクリスティアンに、ヘンリーは満面の笑みを返した。

 今日の武術の合同授業は、第一学年だけのものだ。アルフレッドやレイフ、エリオットが参加することはない。
時間になると、ヘンリーはいそいそとノエルを迎えに行った。ランチの時や放課後にノエルと過ごすという場合も、ヘンリーは「恋人と過ごすから」と言って別行動をとっている。
 全く接点のないアラステアとローランドのことを、ノエルが異常に恐れていると感じたヘンリーは、それぞれを近づけないように配慮している。
 実際にノエルがアラステアとローランドを恐れていることはないのではあるが。

 クリスティアンには、ノエルが前世の記憶をもとにアラステアとローランドを『悪役令息』に仕立て上げるために、二人に虐められているのだと主張しているのだということが予想できる。しかし、そのようなことがわからないヘンリーから見れば、ノエルの言動は妄想と言っても良いのではないだろうか。
 それなのに、そんなノエルを可愛らしいと思っているのは、恋によってヘンリーの目が眩んでいるのだろうとクリスティアンなどは思っている。
 
 もちろん、口に出したりはしないけれども。

 そもそもヘンリーはそんな妄想すら可愛いと思うような嗜好傾向の持ち主なのかもしれないのだが、それはクリスティアンには知る由もないことである。



 武術場へ向かうため、アラステアとクリスティアン、ローランドは大階段の上の廊下を歩いていく。ちょうどその前の授業が終わったところで、武術場から出てくる第三学年とその廊下ですれ違うことになった。
 いつもは閑散としているその廊下に、珍しく人が溢れていたのだ。

「アルフレッド様」
「ああ、ローランドはこれから授業なのだね」

 その中にアルフレッドの姿を見つけたローランドは、いそいそと近づいて行く。それを迎えるアルフレッドは王族らしい読めない表情であるにも関わらず、嬉しそうであるように周囲からは見えていた。
 アラステアとクリスティアンは、二人のその微笑ましい邂逅を見ながら、その場で立ち止まった。



 ぱたぱたぱたぱたぱた


 廊下を走る足音が、アラステアの後ろから聞こえてくる。このように足音を立てて廊下を走る、子どものような学生は一人しか思い当たらない。
 もう一人いたのだが、彼女はすでに学院からいなくなっている。

「わーい、ヘンリー! 僕に追いついてごらんよー」
「ノエル、待ちなさい。廊下を走っては危ないだろう」

 アラステアが振り返ると、ノエルが廊下を走って来るのが見える。彼はどうやらアラステアの方に向かってきているようだ。
 このままではぶつかってしまうと思ったアラステアは、クリスティアンの方に身を寄せようとした。

「危ないっ!」

 大きな声とともに、アラステアの体に軽い衝撃が走った。

 目の前で、ピンク色の髪と砂色の髪がぶつかって、砂色の髪が大階段を転がり落ちていく。
 その光景は、現実ではないかのようにゆっくりと、アラステアの目の前で展開していった。

 大階段の上にはノエルが尻もちをつくようにへたり込んでいて、大階段の下には砂色の髪の、エリオットが倒れている。

「エリオット……?」

 アラステアは、思わず倒れている幼馴染の名前を口にした。その声を聞いたクリスティアンは、アラステアの体を抱くその腕に力を込めた。

 アラステアが体に受けた衝撃は、護衛がノエルとエリオットから身を挺して庇ってくれたためのものだった。アラステアは二人とはぶつかっていない。
 あの瞬間、危ないと声を上げたのはエリオットだ。そして、ノエルがアラステアにぶつかる前に、エリオットがノエルの前に飛び出て、二人はぶつかった。

 アラステアは護衛と、……エリオットに守られたのだろうか。

 アラステアは、クリスティアンに抱き込まれるような形でその場に立ち竦む。いや、クリスティアンがアラステアを強く抱きしめているために、身動きできない状況でもある。

 大階段の下で倒れているエリオットは、身動き一つしない。学院の衛士がエリオットに駆け寄るとともに、学生には近づかないよう注意を促した。

 アルフレッドの指示で、護衛の一人がエリオットの様子を見に行く。そして、クリスティアンの指示で護衛の一人が医務室に連絡をする。
 そして、ある者は武術場へ、ある者は職員室へと連絡に走る。

 皆が緊急事態だと思いながら行動していた。

 しかしその時、場違いなぐらい甲高い声が廊下に響いたのだ。

「酷いっ! エリオットを突き落とすなんて!」

 皆が声のする方に目をやると、ノエルがアラステアとクリスティアンの方を指さして叫んでいた。


 周囲の空気がざわりと揺れた。



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