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48.十三番目の月に
しおりを挟むアントワーヌの唇は、フロレルの唇に少しの湿り気と熱を与えて離れて行った。唇がすぐに離れて行ったことをなぜか寂しいと思いながら、フロレルは目を開く。目の前にあるアントワーヌの濃い青色の瞳はわずかに細められていて、フロレルには微笑んでいるように見えた。
この気持ちは何だろうか。
フロレルは目の前にいる男が、とても愛しい者のように感じて少しばかり狼狽えていた。家族を愛しているという気持ちとも違う感情。
フロレルは、そのような気持ちをこれまで他者に抱いた覚えはない。そういう気持ちが自分の中にあるということを知らなかっただけなのだが、フロレルにとっては大きな認識の転換であった。
そして、アントワーヌ以外にこのような感情は持てないのではないかということを自覚した瞬間でもあったのだ。
アントワーヌは、フロレルの瞳の黄金色の空を見ていて恋しい気持ちがつのってしまい、思わずその唇にキスしてしまったのだ。
あわてて唇を離したのだが、キスをした後のフロレルの顔に嫌悪感がなく、むしろ好意的な表情が浮かんでいるのを見て、アントワーヌは安心したように微笑んだ。
アントワーヌは、プラネタリウムを見る間につないでいた手を、指を絡めるようにつなぎ直し、自分の手に軽く力を込める。その手をフロレルが握り返してくれたことで、アントワーヌは底知れぬ幸福感を抱いたのだった。
プラネタリウムが終わって周囲が明るくなってしまえば、アントワーヌはいつものようにフロレルをエスコートする。先ほどまでの甘い雰囲気ではなく、貴族の婚約者同士に相応しい背筋の伸びた姿勢で天文館の中にある展示物を見てまわる。二人は通常通りのつもりであったが、いつものアントワーヌとフロレルの様子を知っている者ならば、確実に距離が近づいているのがわかる雰囲気だ。
後に、天文館を歩いているアントワーヌとフロレルの仲睦まじい様子が、社交界の話題となることを、二人はまだ知らない。
フロレルとアントワーヌが婚約者になってからは、天文館の帰りには、王都の丘陵公園に向かうのが常となっていた。
二人は東側にあるベンチに並んで腰をかけ、陽が暮れたばかりの濃い青色の空に浮かぶ十三番目の月を眺めた。
「満月ではないけれど、十三番目の月も趣があって美しいね」
「そうだね、明るく輝いていて、まるで薄雲の前に月があるかのように見えるよ」
フロレルが呟く声に頷きながら、アントワーヌはその華奢な体を抱き寄せた。
「ねえアンヌ、十三番目の月に祈ると幸せな婚姻ができるという言い伝えを知っている?」
「え、満月に祈ると願いが叶うという物語は読んだことがあるような気がするが、十三番目の月の話は聞いたことがないな」
フロレルの話に出て来る十三番目の月の話は知らなかったものの、満月には幾度となく願いをかけていたアントワーヌは少しばかり心臓を騒めかせた。アントワーヌの願いというのはまさしくフロレルとの『幸せな婚姻』というものであったのだから。
そんなアントワーヌの胸の内を知ってか知らずか、フロレルは十三番目の月の話を続けた。
「古代語の研究の中に、十三番目の月の話が出てくるのだ。これは天文の話というよりは、伝承といわれるような話ではあるのだけれど」
フロレルはアントワーヌの手を少し握ってから、十三番目の月の伝承を語った。
十五番目の満月が願いを叶えてくれるという伝説は、昔から各地にある。丸く輝く欠けた所のない月に、昔から人は思いを馳せて願掛けをしたのだろう。
しかし古代の伝承の中には、満月に祈るだけで叶うのは片方の思いだけだというものがあるのだ。
自分の願いだけを叶えて婚姻を結んでも相手の気持ちが伴わないため、片思いで婚姻を結んでしまうことになると。
古の姫君は満月に願って恋する騎士と婚姻を結ぶことができたが、騎士の思いは姫君にはなかった。姫君は、片恋を抱えたまま不幸な婚姻生活をすることになった。
そんなある日、思いを返してもらえず悩む姫君の夢枕に月の女神が立った。月の女神は姫君に、『十三番目の月に相手の気持ちを得られるようにと願いなさい』と伝えたそうだ。姫君は女神の言葉に従って、十三番目の月に祈り続け、ようやく騎士の思いを得ることができたという。
その物語とともに、十三番目の月に願掛けをして相手の気持ちを自分に向けてもらう努力をし、十五番目の月に婚姻を結ぶ願掛けをして願いを叶えてもらうことで、円満な家庭を築くことができるようになると言い伝えられているという古代語の碑文がある。
「おそらく月は関係なくて、権力により強引に結んだ婚姻だけでは幸せになれない。婚姻後も、円満になるための努力をしなければならないという話なのだろうと思うけれど」
「フロル、それは……」
フロレルは、アントワーヌの言葉を遮るように人差し指を彼の唇にあてた。
「わたくしは、アンヌと幸せな婚姻を結びたい。それを今宵の十三番目の月に願おうと思うのだ。アントワーヌ、愛しているよ」
そう言うフロレルの手をアントワーヌは握りしめて自分の頬に添える。
「フロル、いつから……」
「いつからだったのか、わからない……。本当はともに星を見て眠ったあの頃から、わたくしはアンヌのことを愛していたのかもしれない……」
アントワーヌの問いかけに、フロレルは自然にそう答えていた。そう、記憶を辿れば、フロレルはいつもアントワーヌのことばかりを考えていたのだ。
「フロル、わたしも十三番目の月に祈るよ。フロルと幸せな婚姻を結んで、そして、いつまでも幸せでいられますようにと」
「アンヌ……」
アントワーヌはフロレルの手を自分の肩の上に乗せる。そして、フロレルの顎を掬ったアントワーヌはその唇を自分の唇で塞いだ。
アントワーヌは、フロレルの唇をついばむようにキスをした。そして、一度唇を離し、黄金の瞳を見つめる。
潤んだフロレルの瞳を見たアントワーヌはたまらない気持ちで、再びその唇に自分の唇を重ねる。喜びに溢れたアントワーヌは、フロレルの薔薇色の唇を食べるようにキスを続けた。
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