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1 ご機嫌な朝
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その日は、雲一つない晴天だった。
ユージーンは、何度も読んで擦り切れた絵本をゆっくりと閉じる。内容はなんてことない、お姫様と王子様が試練を乗り越え結ばれる話。ありふれていて、ひねりがなくて、一度読んだら飽きてしまうような。けれど、ユージーンにとっては特別な一冊だった。
ふぅ、とユージーンは深く息を吐く。
興奮を抑えるためにいつものルーティーンで絵本を読んで気持ちを落ち着けようとしていた。けれど、その甲斐なくかつてないほど心臓は高鳴り、普段はピクリとも動かない表情筋が緩んでにやけるのを止められない。
口から笑い声が漏れてしまいそうなのを我慢していると、ドタドタと慌ただしい音が近づいてきた。
「ユージーン!お前抜け駆けだぞ!!」
研究室にノックもなく飛び込んできた同僚の無礼も、今日のユージーンは気にしない。
「抜け駆けだなんて、人聞きの悪い」
「俺だって!俺だってやりたかったのに!!なんで!なんでお前だけ!!ずるい!外道!人でなし!!」
眉を吊り上げ、威嚇する子犬のようにキャンキャンと喚くトムソンに、ユージーンは慈愛の微笑みを向ける。
もし立場が逆だったなら、ユージーンもまたトムソンに噛みついただろう。そう思うと、哀れなトムソンの失礼な物言いも甘んじて受けようとユージーンはうんうんと頷く。
一通り喚いて少し落ち着きを取り戻したトムソンは、普段とあまりに違うユージーンの対応に気味悪そうに顔を歪ませる。
いつものユージーンなら、うるさい足音に苛つき、ノックがないことに憤り、許可なく入室したことをネチネチと詰め、悪態には嫌味で応戦する。
「……なんだよ、気持ち悪ぃな」
「なんとでも言え。今日の私はかつてないほど気分がいいんだ。なんたって今日は私の人生で最も素晴らしい一日になるんだからな。お前の無念は痛いほどわかるから、今日だけはお前の悪態を許そう」
「くそっ……逆にムカつく」
舌打ちをしたトムソンは、近くにあった年季の入った椅子に乱暴に腰掛ける。これも、普段ならばユージーンを苛立たせるものだったのに、彼はなんの反応もしない。
足を組んで下から睨み上げてくるトムソンに、やはりユージーンは微笑む。
「つーかお前笑えたのかよ。見慣れないから気持わりぃ」
「さすがに失礼だろう。私が微笑むと周りがうるさいから普段は気をつけてるんだ」
「いやお前……昔はどうだったか知らねぇけど、ボサボサの頭で汚ねぇ髭面が微笑んだところで不気味なだけだわ」
「……ふむ。そう言われればそうか。さすがに身なりは整えないとな。第一印象は大事だろうし」
ユージーンは研究者で、普段はあまり人と会うことがない。会うとしてもトムソンのような同じ研究者だけで、そのほとんどが見目なんて気にしていないから、自然と身なりに気を使うことがなくなってしまった。ユージーンは最後に鏡を見たのがいつかもわからない。そういえば、なんだか口元がもじゃもじゃしている気がする、と手を顎に当ててその毛量に驚く。
対して、トムソンは常に綺麗に短髪を整え、皺のないシャツときちんとセンタープレスされたスラックスを履いており、研究者の中では珍しい存在だった。
「なんでこんな髭面が……相手は要人だろ? 俺の方が適任だろ……」
「研究者に必要なのは功績だろう」
「くそ……わかってるさ」
ユージーンは己が半年前に発表した論文を思い出す。ユージーンは長らく解読されなかった文書の解読を成功させ、学会で話題になった。偶然文書中に他の研究に有用な記述があったためその功績は大きく評価され、ユージーンは国王から直々にお褒めの言葉を授かった。
「でもさ、お前一人じゃなくてもいいじゃねぇか、俺も同行しちゃダメ?」
「それは向こうとの関係上難しいらしいぞ。なんせ100年ぶりの交流だからな、最低限の人間しか参加できないんだと。……というか、なんでトムソンは知ってるんだ?公になってないはずだが」
「さっきセインに会ったんだよ。残念だったなって言われて、なんだと思って聞いたらさぁ!!」
セインとは、宰相補佐室に勤務する、トムソンの学生時代の同級生だった。トムソンからは敬意のかけらも感じられないが、ユージーンは一応二人の先輩にあたる。
セインにはユージーンも何度か会ったことがあるが、少しおっちょこちょいなところがある人物だ。本来、今回のことは現段階で外部に漏らしてはいけないはずなので、どう考えても失態である。
「トムソン、私以外にもこのこと話したのか?セイン飛ばされるぞ?」
「言ってねぇよ。セイン、言った後にやばって顔して誰にも言わないでくれって懇願してきたからな。でもユージーンはいいだろ当事者だから。チクったりしないだろ?」
「まあ……面倒だしな」
半泣き顔のセインの顔が脳裏に浮かんで、いつか大きな失敗をする前に飛ばされた方がいいのでは、と頭をもたげるが、それは自分の役目ではないなとユージーンは頭を振る。
「それにしてもやっぱり悔しい!俺も獣人に会いたいのに!!」
再び喚き出したトムソンを無視し、ユージーンは髭を剃るためにどこかにあるはずの剃刀を探し始めた。
ユージーンは、何度も読んで擦り切れた絵本をゆっくりと閉じる。内容はなんてことない、お姫様と王子様が試練を乗り越え結ばれる話。ありふれていて、ひねりがなくて、一度読んだら飽きてしまうような。けれど、ユージーンにとっては特別な一冊だった。
ふぅ、とユージーンは深く息を吐く。
興奮を抑えるためにいつものルーティーンで絵本を読んで気持ちを落ち着けようとしていた。けれど、その甲斐なくかつてないほど心臓は高鳴り、普段はピクリとも動かない表情筋が緩んでにやけるのを止められない。
口から笑い声が漏れてしまいそうなのを我慢していると、ドタドタと慌ただしい音が近づいてきた。
「ユージーン!お前抜け駆けだぞ!!」
研究室にノックもなく飛び込んできた同僚の無礼も、今日のユージーンは気にしない。
「抜け駆けだなんて、人聞きの悪い」
「俺だって!俺だってやりたかったのに!!なんで!なんでお前だけ!!ずるい!外道!人でなし!!」
眉を吊り上げ、威嚇する子犬のようにキャンキャンと喚くトムソンに、ユージーンは慈愛の微笑みを向ける。
もし立場が逆だったなら、ユージーンもまたトムソンに噛みついただろう。そう思うと、哀れなトムソンの失礼な物言いも甘んじて受けようとユージーンはうんうんと頷く。
一通り喚いて少し落ち着きを取り戻したトムソンは、普段とあまりに違うユージーンの対応に気味悪そうに顔を歪ませる。
いつものユージーンなら、うるさい足音に苛つき、ノックがないことに憤り、許可なく入室したことをネチネチと詰め、悪態には嫌味で応戦する。
「……なんだよ、気持ち悪ぃな」
「なんとでも言え。今日の私はかつてないほど気分がいいんだ。なんたって今日は私の人生で最も素晴らしい一日になるんだからな。お前の無念は痛いほどわかるから、今日だけはお前の悪態を許そう」
「くそっ……逆にムカつく」
舌打ちをしたトムソンは、近くにあった年季の入った椅子に乱暴に腰掛ける。これも、普段ならばユージーンを苛立たせるものだったのに、彼はなんの反応もしない。
足を組んで下から睨み上げてくるトムソンに、やはりユージーンは微笑む。
「つーかお前笑えたのかよ。見慣れないから気持わりぃ」
「さすがに失礼だろう。私が微笑むと周りがうるさいから普段は気をつけてるんだ」
「いやお前……昔はどうだったか知らねぇけど、ボサボサの頭で汚ねぇ髭面が微笑んだところで不気味なだけだわ」
「……ふむ。そう言われればそうか。さすがに身なりは整えないとな。第一印象は大事だろうし」
ユージーンは研究者で、普段はあまり人と会うことがない。会うとしてもトムソンのような同じ研究者だけで、そのほとんどが見目なんて気にしていないから、自然と身なりに気を使うことがなくなってしまった。ユージーンは最後に鏡を見たのがいつかもわからない。そういえば、なんだか口元がもじゃもじゃしている気がする、と手を顎に当ててその毛量に驚く。
対して、トムソンは常に綺麗に短髪を整え、皺のないシャツときちんとセンタープレスされたスラックスを履いており、研究者の中では珍しい存在だった。
「なんでこんな髭面が……相手は要人だろ? 俺の方が適任だろ……」
「研究者に必要なのは功績だろう」
「くそ……わかってるさ」
ユージーンは己が半年前に発表した論文を思い出す。ユージーンは長らく解読されなかった文書の解読を成功させ、学会で話題になった。偶然文書中に他の研究に有用な記述があったためその功績は大きく評価され、ユージーンは国王から直々にお褒めの言葉を授かった。
「でもさ、お前一人じゃなくてもいいじゃねぇか、俺も同行しちゃダメ?」
「それは向こうとの関係上難しいらしいぞ。なんせ100年ぶりの交流だからな、最低限の人間しか参加できないんだと。……というか、なんでトムソンは知ってるんだ?公になってないはずだが」
「さっきセインに会ったんだよ。残念だったなって言われて、なんだと思って聞いたらさぁ!!」
セインとは、宰相補佐室に勤務する、トムソンの学生時代の同級生だった。トムソンからは敬意のかけらも感じられないが、ユージーンは一応二人の先輩にあたる。
セインにはユージーンも何度か会ったことがあるが、少しおっちょこちょいなところがある人物だ。本来、今回のことは現段階で外部に漏らしてはいけないはずなので、どう考えても失態である。
「トムソン、私以外にもこのこと話したのか?セイン飛ばされるぞ?」
「言ってねぇよ。セイン、言った後にやばって顔して誰にも言わないでくれって懇願してきたからな。でもユージーンはいいだろ当事者だから。チクったりしないだろ?」
「まあ……面倒だしな」
半泣き顔のセインの顔が脳裏に浮かんで、いつか大きな失敗をする前に飛ばされた方がいいのでは、と頭をもたげるが、それは自分の役目ではないなとユージーンは頭を振る。
「それにしてもやっぱり悔しい!俺も獣人に会いたいのに!!」
再び喚き出したトムソンを無視し、ユージーンは髭を剃るためにどこかにあるはずの剃刀を探し始めた。
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