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「ブレストウィッチ様。あまり本気になさらないでください。シスター・ブレアは大袈裟に褒めてくださっただけですから」

 ディアは釈明した。
 サラダやスープなどの簡単な料理しか作れないのに、本気にされたら堪ったものではない。
 ノーマンに落胆されて居心地が悪くなれば、バートラム家に戻ることはできず、母方の祖父の家に行くしかない。行くだけで、父親に疎まれていた状況がわかってしまう。
 母親があれほど実家に戻ろうとしなかった苦労を水の泡にするわけにはいかない。
 最悪の場合は、宿をとって勤め先を探すことになる。
 たった一つの綻びから、すべてが駄目になるのだ。
 いや、父親に押し付けられたのなら、自立することこそが最適解かもしれない、とディアは思った。

 だが、望んでいると言い、目を煌めかせてくれるノーマンからは離れ難かった。
 今も、わかってますとばかりに笑みを浮かべている顔を見て、胸がズキンと痛んだ。
 まだ会ったばかりだというのに、ノーマンはディアの心の中に深く入り込んでいた。
 気を許してはいけないと警戒していても、いつの間にかスルリスルリと入り込んできて、気付けば離れ難いと思うようになっていた。まだ数時間前に会ったばかりだというのに。
 不思議だった。
 元婚約者に連れられて出た夜会では下心から優しそうにしてきた男はいたが、ノーマンは彼らのように馴れ馴れしく近付いて来ない。必ず、ディアが安心できるような距離を空けてくれているのだ。
 だからだろうか。ノーマンが本人が言うように求婚したとは思えないのは。
 一歩引いたような距離感は心地良くとも求愛しているような熱を感じず、好意的な表情でなければディアの父親に彼女を押し付けられたようにさえ見える。

 そんな他人行儀な礼儀正しい距離だからこそ、好意的な言葉や表情が庇護されているような安心感を与える。
 信じられないはずなのに、心の中に忍び込んできて、深く根を張り巡らせてしまう。
 冷静になろうと、自分から距離を取りたくて離れると、寂しくなる。そんな絶妙な距離感。
 なんと矛盾に溢れていることか。
 数時間前にはその存在すら知らなかった人を、離れ難く感じてしまうなど、あり得ないことだった。
 これは家族に恵まれなかったディアだから起こった、というわけではない。
 人間誰しも自分に好意を持っているとわかっている相手に心を開かずにはいられない。貴族の社交が挨拶代わりに大袈裟に褒め合うのも、この心理を利用したものだ。
 その上で適度な距離を保たれれば好印象を持ってしまう。せっかく警戒心を緩めても、近くに来すぎれば馴れ馴れしいと警戒してしまうが、遠すぎれば褒めてきたのも礼儀を守っただけだったのだと判別がつく。
 ノーマンはそんな馴れ馴れしい距離よりは遠く、礼儀を守るには近すぎる距離に立っていた。
 この距離感には個人差があり、内向的な性格であれば社交的な性格よりも入って来られたくない距離が広い。
 そんな些細なところから、ディアの心は忍び込まれていた。
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