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コーヒーとクッキー(修哉視点)(6)
あぁ、やばいな。どんどん愛ちゃんにハマっていく……。
トレーニング中にもかかわらず、こんなことを思い出してしまうほど、修哉の中で愛の存在が大きくなりつつあった。
初めは、駅付近で何度か見かける程度だった。駅構内にあるコンビニの中や、駅前の信号待ちが一緒になったり、焼き鳥屋へ向かう道中に見かけたり。
特に気に留めることもなく「このあたりに住んでいるのだろうな」と思うくらいだった。いつもキリリとした表情で、よく資料らしき書類を見つめていた。
病院の診察室で会ったときは、その赤らんだ顔と苦しそうな呼吸──普段の繕った表情とは全く違う弱々しい一面を見て、思わず診察の順番を譲ってあげた。
きっと他者に弱みを見せたくない、強気な子なんだろうな。
猫のように吊り上がった印象的な眼もあって、勝手にそのようなイメージを持っていた。
見かけるときはいつも一人だから、おそらく一人暮らしだろうし、病気のときに役立つものでも渡してあげよう。
すぐ近くの薬局で必要なものをいくつか見繕い、愛の診察が終わるのを外で待つ。
愛に見舞いの品を渡すというときに、よくよく考えたら突然知らない男性にこんなものを渡されて気持ち悪がられないかと不安に駆られた。
「気持ち悪かったら、捨ててください」
見ず知らずの女の人に、自分はなんでこんなことをしているのだろう……とふと冷静になって、そう告げて背を向ける。
お礼がしたいと言う彼女に、行きつけの焼き鳥屋の店名だけを伝えて、名前も名乗らずその場を去った。
まぁ、もう会うこともないだろうし。
そう思っていたのに、まさか一週間も経たないうちに鳥このみで再会するとは思っていなかった。モクモクと煙が蔓延する、お世辞にも綺麗とは言えない居酒屋に、まさか女性一人で来店してくるとは思ってもみなかった。
話してみると礼儀正しく、気さくで真面目な人という印象に変わった。
修哉が会社関係者ではないからか、たまにポツリと弱みを見せる。そんな一面が垣間見えて、"不器用で意固地な可愛い人"だなと思うようになった。
会社では気を張って頑張っているのだろう。飲みたい気分……というのは、会社で嫌なことでもあったに違いない。まぁ、社会人なら誰にでもよくあることだ。
「実は彼女に振られて傷心中です。はは……」
修哉は初対面の女性と会うときは、必ずそう言うことにしている。
恋人なんて、体育大学を卒業して以来一人もいない。
大学三年生で本格的にスポーツクライミングの道へ進むことを決意した修哉は、元々の才覚があったのか、初めて出場した日本大会で三位の成績をおさめた。
スポーツクライミングの日本代表選手として、毎年世界大会へも出場を果たしている。
雪川修哉という名前が知れ渡り、スポーツ紙などでも小さくだが取り扱われるようになった。しかし知名度があがると、どうしてもゴシップ週刊誌の標的になりやすい。
実際に過去にクライマー選手で女遊びの激しかった人が、ゴシップ誌に悪行の数々を暴露され、世界大会への出場停止処分となっていた。
色恋沙汰で、何年もトレーニングしてきた努力を壊されては、たまったものではない。
最近ではわざとゴシップ誌に情報を売るために、スポーツ選手に近づく女性がいると聞いたこともある。
修哉はいかなる女性とも一定の距離を置くように、普段から気をつけていた。
自分の顔がそれなりに女性から人気があることは自覚している。さらに、世界で活躍する一流アスリートともなると、女性たちは目の色を変えて修哉に近づき、声をかけてくる。
そんなとき、「彼女に振られたばかりなんです」と言うと、女性からの誘いを断りやすくなって都合がいいことに気づいたのだ。
傷心中だから、すぐに他の女性のことは考えられない。そう言って断ると、女性たちは納得したように、あまりしつこく誘ってこなくなる。
クライマー選手として悪い印象も与えず、なおかつ相手の女性を無体に傷つけない、万能な嘘。
「また時間を置いて、落ち着いた頃に」とでも言っておいて、その場をやり過ごすのが修哉の常套手段だ。
もちろん初対面の愛に対しても、いつもの嘘をつく。
もしかしたらすぐにアスリート選手だとバレるかもしれない。予防線はあらかじめ張っておいたほうが得策だ。
こんなに楽しく飲んで、焼き鳥を堪能できるなんて、いつぶりだろう──。
きっと体育大学時代ぶりだ。
しかし愛は名を告げても特徴的な手を見ても、修哉がアスリート選手だということに気がつかない。あまりスポーツ界に興味がないのかもしれない。
だからこそ気兼ねなく、ただの同世代の友人として話ができる。そのことがすごく嬉しかった。
体育大学のときの友人も、ジム仲間も、みんな『アスリート雪川修哉』として修哉と接する。近づいてくる女性たちも同様だ。
この人と、今日限りの関係で終わらせたくない──。
そんな想いで修哉は愛に連絡先を伝えた。
結婚したくないから、恋人は作らない。そう言っていた愛が別れ際に言葉を詰まらせる。
愛も、自分と同じ気持ちでいてくれたのだと確信した。
「まだ時間ある? もう少し一緒にいたいな。愛ちゃんといると、振られたことを忘れられる……迷惑、かな」
傷心でもなんでもないくせに、そんなことを言って愛の同情心につけ込む。
恋人は要らないと言うくせに、まるで捨て猫みたいに寂しげな瞳を向けてくる愛に、男としての本能が湧き立った気がした。
気がつけば、互いが互いの寂しさを埋めるための、身体だけの不埒な契約関係を提案していた。
この条件ならば、愛が頷いてくれると思ったから。
アスリートにセフレがいる、なんて。間違いなくゴシップ誌の餌食になる情報だ。
しかし何年も築き上げてきたスポーツ選手生命より、目の前の愛に心を奪われる。
まるで警戒心の強い猫が、一歩距離を置きつつも自分の後ろに付いてきて離れない──そんないじらしさがあって。
愛ちゃんが、俺に甘えてくれてる。
たった一人の女に求められて、欲しがられて、全てをさらけ出されて……もう止まらなかった。
「可愛い、愛ちゃん」
女の子らしいアイテムで溢れた部屋。
レースのピンクの下着。
修哉と二人きりでいるときだけに見せる甘えた表情。
どんどん、沼にハマっていくのを実感していた。
会って杯を交わし、肌を重ねるたびに愛おしさばかりが募っていく。
今すぐ愛を正式な彼女にしたい。身体だけじゃなくて、心も繋がりたい。好きだと、愛してると伝えて、深く愛し合いたい。
けれどそれを言ってしまったら、愛は離れていくだろう。愛が修哉に心を開いて甘えてくれているのは伝わってくるが、絶対に深くまで距離を詰めない。セフレという一定の距離感を守り、肝心な部分を堅く閉ざしている。
頑なに恋愛と結婚を拒む、独身主義の愛。
十ヶ月交流を重ねて、その要因となっているのは、どうやら母の存在のようだと察した。
しかし、詳しい話は聞けない。今の関係性が崩れるのを恐れて、愛が離れていくのが嫌で、その一歩を踏み込むのが怖い。
愛との関係を進めたいのに、踏み出せない──。
ヤキモキした想いを抱えながら、修哉はもう一度、十五メートルの壁の前に立った。
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