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第一章 王子様のプロポーズ
①
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「え、今すぐ帰ってこい⁉」
おしゃれなオフィスの内廊下で、白を基調としたシンプルなデザインの壁面に寄りかかりながら、携帯に向かって声を荒げた。
私、工藤捺美二十五歳。入社三年目の営業事務職。
会社は、近代的な四角のガラス張りの高層ビルで、地上三十五階・地下一階の構造となっている。営業一課がある二十三階が私の仕事場だ。
東京証券取引所プライム市場上場、研究や開発用の解析機器やビジネス情報機器、半導体などを扱う大手の一流企業に入社できたのは、私の人生の中で一番の幸運かもしれない。
「作り置きしたものがあるじゃない。それじゃ駄目なの?」
《もう食べちゃったわよ。早く帰ってきて、お腹空いて死にそう》
電話の相手は、二十六歳でフリーターの継娘だ。苛々した様子を隠すことなく無理難題をふっかけてくる。
「どこかで夕飯を買ってくればいいじゃない」
《はあ?》
おかしなことは言っていないはずだが、継娘の癪に障ったらしい。
《ちょっと、お母さ~ん、捺美が夕飯買ってこいだって》
近くにいるらしい母親に嫌味ったらしく告げ口をする。
ああ、もう面倒くさい。こめかみの辺りがズキズキしてきた。
《捺美、意地悪言ってないで、早く帰ってきなさいよ》
電話の相手は継娘から継母に代わった。
「意地悪じゃなくて、まだ仕事が残っているの。そんなに毎日、定時で上がれないわよ」
《生意気な子ね。お父さん、捺美が夕飯作らないって言っているわよ!》
継母は私を責めて、挙句の果てには父を出してきた。
《捺美、仕事が忙しいのか?》
継娘や継母とは違う、穏やかで優しいトーンで父は話した。
「……うん」
《そうか。だが、仕事はあとからいくらでもできるだろ。早く帰ってきなさい》
「……わかった」
父から言われると断れない私。継娘や継母はそれをわかって父を利用してくる。私が父の頼みを断れないように、父も継娘や継母の頼みを断れない。それが、どんな理不尽なことだとしても。
最先端のデザインオフィスは、クリアな白い空間にグリーンの観葉植物が配置されている。広々としたフロアには快適なデスクが並べられ、広々とした窓からは夕日の茜色が差し込んでいる。
自分のデスクに戻り、帰る準備をしていると、職場の同僚の女子たちがそれを目ざとく見つけて寄ってきた。
「工藤さん、また定時上がりですか?」
「飲み会とか?」
「可愛い子は飲み会に引っ張りだこでいいなぁ。私は仕事が忙しすぎてそんな暇ないもの」
ニヤニヤしながら嫌味を言ってくる。
私は鞄に書類を詰めながら、彼女たちの顔を見ないで返事をした。
「飲み会じゃないです。用事ができたからです」
(私だって仕事が忙しくて飲み会になんか行く暇ないってば)
心の中で毒づきつつ、苛々した気持ちが隠せなくて、乱暴にペンケースを鞄に押し込んだ。
彼女たちがこんな態度になったのは、自分にも責任があると思っている。慣れ合わないし、言いたいことは面と向かってはっきり言ってしまうし、生意気だと思われても仕方がない。
「ああ、彼氏ですか?」
わざと大きい声で彼女は言った。オフィスにいる男性たちに聞かせるためだ。
「いないですよ」
呆れるように肩をすぼめて言った私を、彼女たちはさらに煽ってくる。
「ええ、どうして? そんなに可愛いのに」
「顔入社だって言われているくらいなのに」
さすがにカチンときて、顔を上げて彼女たちを見据える。彼女たちは臆することなく、クスクスと笑っていた。
たしかに私の出身大学はいわゆるFランと呼ばれている底辺大学で、MARCHでさえ低いと思われている職場なのに、私はかなり特殊な存在だった。
だからこそ、仕事で挽回したいと思っているのに……。
言い返そうと思って顔を上げたけれど、言い返す言葉が見つからなかった。仕事を中途半端に放り出して帰ろうとしているのは事実だったからだ。
「別に何時に帰ったっていいだろ。やることをやっていれば」
悔しくて黙り込む私に助け船を出してくれたのは、同じ部署の佐伯哲治さんだ。
営業一課の絶対的エース。二十八歳の若さで課長になったほど優秀で、おまけに容姿端麗。
額に流れた黒髪に、一重瞼の鋭い瞳。口はいつも真一文字に結んでいて、めったに表情は崩れない。黒いスーツはまるで鎧をまとっているかのように見える。
とてつもなく不愛想で仕事に関しては容赦がなくて、ものすごく厳しいことで知られている。佐伯さんの下につく営業事務の女の子は、もって三ヶ月ほどで部署異動を願い出るほどの怖い存在だ。
「人のこと言っている暇があるなら、自分の仕事をしたらどうだ。この前俺が頼んでおいた……」
「ああ! 私、経理部に行かなきゃいけなかったことを思い出しました! 失礼します」
彼女たちはまるで蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「佐伯さん、ありがとうございます」
殊勝に頭を下げてお礼を言うと、佐伯さんは興味なさそうにタイピングを打ち始めた。
現在、佐伯さんの営業事務は私が担当している。今まで何人もの女の子たちが異動を願い出た気持ちが痛いほどわかるくらい、佐伯さんは厳しい。仕事の鬼といっていいくらいだ。私も佐伯さんは怖い。
佐伯さんに認められるほどの仕事はできていないし、むしろ怒られることの方が多いけれど、佐伯さんは理不尽なことや意地悪が目的で怒っているのではないことは、この半年で十分わかった。
おしゃれなオフィスの内廊下で、白を基調としたシンプルなデザインの壁面に寄りかかりながら、携帯に向かって声を荒げた。
私、工藤捺美二十五歳。入社三年目の営業事務職。
会社は、近代的な四角のガラス張りの高層ビルで、地上三十五階・地下一階の構造となっている。営業一課がある二十三階が私の仕事場だ。
東京証券取引所プライム市場上場、研究や開発用の解析機器やビジネス情報機器、半導体などを扱う大手の一流企業に入社できたのは、私の人生の中で一番の幸運かもしれない。
「作り置きしたものがあるじゃない。それじゃ駄目なの?」
《もう食べちゃったわよ。早く帰ってきて、お腹空いて死にそう》
電話の相手は、二十六歳でフリーターの継娘だ。苛々した様子を隠すことなく無理難題をふっかけてくる。
「どこかで夕飯を買ってくればいいじゃない」
《はあ?》
おかしなことは言っていないはずだが、継娘の癪に障ったらしい。
《ちょっと、お母さ~ん、捺美が夕飯買ってこいだって》
近くにいるらしい母親に嫌味ったらしく告げ口をする。
ああ、もう面倒くさい。こめかみの辺りがズキズキしてきた。
《捺美、意地悪言ってないで、早く帰ってきなさいよ》
電話の相手は継娘から継母に代わった。
「意地悪じゃなくて、まだ仕事が残っているの。そんなに毎日、定時で上がれないわよ」
《生意気な子ね。お父さん、捺美が夕飯作らないって言っているわよ!》
継母は私を責めて、挙句の果てには父を出してきた。
《捺美、仕事が忙しいのか?》
継娘や継母とは違う、穏やかで優しいトーンで父は話した。
「……うん」
《そうか。だが、仕事はあとからいくらでもできるだろ。早く帰ってきなさい》
「……わかった」
父から言われると断れない私。継娘や継母はそれをわかって父を利用してくる。私が父の頼みを断れないように、父も継娘や継母の頼みを断れない。それが、どんな理不尽なことだとしても。
最先端のデザインオフィスは、クリアな白い空間にグリーンの観葉植物が配置されている。広々としたフロアには快適なデスクが並べられ、広々とした窓からは夕日の茜色が差し込んでいる。
自分のデスクに戻り、帰る準備をしていると、職場の同僚の女子たちがそれを目ざとく見つけて寄ってきた。
「工藤さん、また定時上がりですか?」
「飲み会とか?」
「可愛い子は飲み会に引っ張りだこでいいなぁ。私は仕事が忙しすぎてそんな暇ないもの」
ニヤニヤしながら嫌味を言ってくる。
私は鞄に書類を詰めながら、彼女たちの顔を見ないで返事をした。
「飲み会じゃないです。用事ができたからです」
(私だって仕事が忙しくて飲み会になんか行く暇ないってば)
心の中で毒づきつつ、苛々した気持ちが隠せなくて、乱暴にペンケースを鞄に押し込んだ。
彼女たちがこんな態度になったのは、自分にも責任があると思っている。慣れ合わないし、言いたいことは面と向かってはっきり言ってしまうし、生意気だと思われても仕方がない。
「ああ、彼氏ですか?」
わざと大きい声で彼女は言った。オフィスにいる男性たちに聞かせるためだ。
「いないですよ」
呆れるように肩をすぼめて言った私を、彼女たちはさらに煽ってくる。
「ええ、どうして? そんなに可愛いのに」
「顔入社だって言われているくらいなのに」
さすがにカチンときて、顔を上げて彼女たちを見据える。彼女たちは臆することなく、クスクスと笑っていた。
たしかに私の出身大学はいわゆるFランと呼ばれている底辺大学で、MARCHでさえ低いと思われている職場なのに、私はかなり特殊な存在だった。
だからこそ、仕事で挽回したいと思っているのに……。
言い返そうと思って顔を上げたけれど、言い返す言葉が見つからなかった。仕事を中途半端に放り出して帰ろうとしているのは事実だったからだ。
「別に何時に帰ったっていいだろ。やることをやっていれば」
悔しくて黙り込む私に助け船を出してくれたのは、同じ部署の佐伯哲治さんだ。
営業一課の絶対的エース。二十八歳の若さで課長になったほど優秀で、おまけに容姿端麗。
額に流れた黒髪に、一重瞼の鋭い瞳。口はいつも真一文字に結んでいて、めったに表情は崩れない。黒いスーツはまるで鎧をまとっているかのように見える。
とてつもなく不愛想で仕事に関しては容赦がなくて、ものすごく厳しいことで知られている。佐伯さんの下につく営業事務の女の子は、もって三ヶ月ほどで部署異動を願い出るほどの怖い存在だ。
「人のこと言っている暇があるなら、自分の仕事をしたらどうだ。この前俺が頼んでおいた……」
「ああ! 私、経理部に行かなきゃいけなかったことを思い出しました! 失礼します」
彼女たちはまるで蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「佐伯さん、ありがとうございます」
殊勝に頭を下げてお礼を言うと、佐伯さんは興味なさそうにタイピングを打ち始めた。
現在、佐伯さんの営業事務は私が担当している。今まで何人もの女の子たちが異動を願い出た気持ちが痛いほどわかるくらい、佐伯さんは厳しい。仕事の鬼といっていいくらいだ。私も佐伯さんは怖い。
佐伯さんに認められるほどの仕事はできていないし、むしろ怒られることの方が多いけれど、佐伯さんは理不尽なことや意地悪が目的で怒っているのではないことは、この半年で十分わかった。
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