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第七章 離婚までのカウントダウン
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夕闇が外を包み、時計の針は二十時を指している。
定時を過ぎたオフィスは、だんだんと人が減っていく。まばらに残った椅子に座る社員たちの中で、私も散らかった書類と未完了の仕事をデスクに広げながら残業していた。
いつも定時上がりで、周りから小言を言われていた私が、社長と結婚した途端に残業をしまくるようになっていた。
営業部長的には、社長夫人に負荷はかけさせたくないらしく、定時で上がってほしいという圧は感じるけれど、残業できることが嬉しくてたまらない。
大翔は私に、『あまり無理するなよ』と言ってくるけれど、私が『ずっと残業したかったの!』と嬉々として言うので大目に見てもらっている。
睡眠も足りているから集中力も抜群だ。サクサク仕事が進むけれども、佐伯さんの求めるレベルは高いので、いくら時間があっても足りないというのが現状だ。
「まだ帰らないのか?」
斜め前のデスクに座る佐伯さんが声をかけてきた。
「はい、もう少しだけ。佐伯さんもまだ帰らないのですか?」
佐伯さんはとにかく効率的で仕事が早い。とんでもない仕事量を抱えているのに、遅くまで残業するということは少ない。
「生産部でトラブルがあって、その処理をしなければいけないから」
「そうだったのですね。私にできることはありますか?」
「いいよ、大丈夫。それより最近、絶好調だな」
「絶好調、ですか?」
思わず手を止めて、佐伯さんの顔を真っ直ぐに見つめる。佐伯さんはいつものポーカーフェイスのままだ。
「社長と結婚してから体調が良さそうだ」
「まあ、いいもの食べさせてもらっているので」
至れり尽くせりで本当にもう、ありがたいことです、と心の中でつけ足しておくが、さすがに佐伯さんにそんな雑談を聞かせるわけにはいかない。
「なんか、明るくなったな」
「そうですか?」
根は変わっていないけどなと思いつつも、職場ではいつも時間に追われていて眉間に皺を寄せながら必死だった自覚はあった。佐伯さんがそう言うのもわかる気はする。
「幸せそうだな」
佐伯さんはどこか寂しそうだったけれど、言葉のニュアンスは温かった。
「そう、ですね、今は」
いつまで続くかわからないけれど。大翔の気分次第では、明日にもバツ一になっていてもおかしくはない。
急に離婚したと知ったら、会社の人たちはどんな風に変わるのだろう。
想像すると、やっぱり怖い。辞める気はまったくないから、乗り切るしかない。きっとみんなからの風当たりはきつくなるけど、佐伯さんは変わらないような気がした。
「幸せになるってなにかを失うことなのでしょうか」
つい、ポツリと本音が口から零れた。
実家から離れられることが人生における最大の目標だった。彼らから逃れられたら幸せになれると思っていた。
私の幸せな人生は、彼らから逃れなければ始まらない。だから、大翔からの提案に乗ったし、呪縛からも解き放たれた。
でも、大翔と離婚したら失うものが大きすぎるということに、たくさんのものを手に入れたからこそ気づいてしまった。
人は、得たものを失うことの方がストレスを感じるらしい。
なにもなかった私は知らなかった。今後の仕事のことも不安だし、一人暮らしすることも心細い。なにより、大翔と離れることが一番辛い。
これは、契約時では想定していなかった悩みだ。まさか、好きになってしまうなんて。
「今、辛いのか?」
佐伯さんはとても真剣な顔をして私を見つめて言った。
「う~ん、まあ、そりゃ色々ありますよね」
私は笑いながら誤魔化す。
「社長と結婚したことがいきなりすぎて疑問だった。なにかあるのではないか、この結婚に」
探るような鋭い目つき。あまりにも的を射る言葉に胸が騒ぐ。
「まあ、そりゃ、なにもないのに電撃結婚しないですよ」
佐伯さんは口が堅いだろうし、なによりもうすぐ離婚することになると思うので、先に匂わせていた方がいいかなと思った。
「ここじゃあれだから、ちょっと場所を変えて話さないか?」
どうしよう、断るなら今だ。大翔とのことは他人に話すようなことではない。でも、佐伯さんには伝えていた方がいいかもしれない。
だって、離婚したら社内での風当たりは相当強いものになる。誰か理解者がいた方がいいのではないか。佐伯さんなら、味方になってくれるかもしれない。
「そう、ですね」
私たちはノートパソコンとメモ帳を片手に立ち上がり、奥のミーティングルームへ向かった。会議のために移動するのだと周りに思わせるためだ。
六人掛けのテーブルがあるミーティングルームに入り、ドアを閉める。これで、私たちの会話は誰にも聞かれることはない。
椅子に座り対面すると、これから本当に会議するような気持ちになった。
「話せる範囲でいいから教えてくれないか? 俺にできることがあれば、工藤の役に立ちたい」
佐伯さんは結婚したあとも、私のことを工藤と呼んでいる。そちらの方がありがたい、だってすぐに工藤に戻るわけだから。
私は佐伯さんをじっと見て、覚悟を決めた。
「もうすぐ、私たちは離婚します」
「え⁉」
予想外の言葉だったらしく、いつも冷静な佐伯さんが驚いて動揺している。
「もとからそういう契約でした。私たちは契約結婚です」
「す、すまん、ちょっと、事実を飲み込むのに時間がかかっている」
不謹慎にも、あからさまに動揺する佐伯さんが可愛いと思ってしまった。佐伯さん、こんな表情もするのか。
「社長のおじい様からの命で、社長は急遽誰かと結婚しなければいけなかったのです。要は誰でも良かったわけです。その時たまたま、私がいたというだけで」
自分の言葉に、自分で傷つく。
そうだ、誰でも良かったのだ……。
「つまり、工藤と社長はつきあってなかったってことか?」
「はい」
夕闇が外を包み、時計の針は二十時を指している。
定時を過ぎたオフィスは、だんだんと人が減っていく。まばらに残った椅子に座る社員たちの中で、私も散らかった書類と未完了の仕事をデスクに広げながら残業していた。
いつも定時上がりで、周りから小言を言われていた私が、社長と結婚した途端に残業をしまくるようになっていた。
営業部長的には、社長夫人に負荷はかけさせたくないらしく、定時で上がってほしいという圧は感じるけれど、残業できることが嬉しくてたまらない。
大翔は私に、『あまり無理するなよ』と言ってくるけれど、私が『ずっと残業したかったの!』と嬉々として言うので大目に見てもらっている。
睡眠も足りているから集中力も抜群だ。サクサク仕事が進むけれども、佐伯さんの求めるレベルは高いので、いくら時間があっても足りないというのが現状だ。
「まだ帰らないのか?」
斜め前のデスクに座る佐伯さんが声をかけてきた。
「はい、もう少しだけ。佐伯さんもまだ帰らないのですか?」
佐伯さんはとにかく効率的で仕事が早い。とんでもない仕事量を抱えているのに、遅くまで残業するということは少ない。
「生産部でトラブルがあって、その処理をしなければいけないから」
「そうだったのですね。私にできることはありますか?」
「いいよ、大丈夫。それより最近、絶好調だな」
「絶好調、ですか?」
思わず手を止めて、佐伯さんの顔を真っ直ぐに見つめる。佐伯さんはいつものポーカーフェイスのままだ。
「社長と結婚してから体調が良さそうだ」
「まあ、いいもの食べさせてもらっているので」
至れり尽くせりで本当にもう、ありがたいことです、と心の中でつけ足しておくが、さすがに佐伯さんにそんな雑談を聞かせるわけにはいかない。
「なんか、明るくなったな」
「そうですか?」
根は変わっていないけどなと思いつつも、職場ではいつも時間に追われていて眉間に皺を寄せながら必死だった自覚はあった。佐伯さんがそう言うのもわかる気はする。
「幸せそうだな」
佐伯さんはどこか寂しそうだったけれど、言葉のニュアンスは温かった。
「そう、ですね、今は」
いつまで続くかわからないけれど。大翔の気分次第では、明日にもバツ一になっていてもおかしくはない。
急に離婚したと知ったら、会社の人たちはどんな風に変わるのだろう。
想像すると、やっぱり怖い。辞める気はまったくないから、乗り切るしかない。きっとみんなからの風当たりはきつくなるけど、佐伯さんは変わらないような気がした。
「幸せになるってなにかを失うことなのでしょうか」
つい、ポツリと本音が口から零れた。
実家から離れられることが人生における最大の目標だった。彼らから逃れられたら幸せになれると思っていた。
私の幸せな人生は、彼らから逃れなければ始まらない。だから、大翔からの提案に乗ったし、呪縛からも解き放たれた。
でも、大翔と離婚したら失うものが大きすぎるということに、たくさんのものを手に入れたからこそ気づいてしまった。
人は、得たものを失うことの方がストレスを感じるらしい。
なにもなかった私は知らなかった。今後の仕事のことも不安だし、一人暮らしすることも心細い。なにより、大翔と離れることが一番辛い。
これは、契約時では想定していなかった悩みだ。まさか、好きになってしまうなんて。
「今、辛いのか?」
佐伯さんはとても真剣な顔をして私を見つめて言った。
「う~ん、まあ、そりゃ色々ありますよね」
私は笑いながら誤魔化す。
「社長と結婚したことがいきなりすぎて疑問だった。なにかあるのではないか、この結婚に」
探るような鋭い目つき。あまりにも的を射る言葉に胸が騒ぐ。
「まあ、そりゃ、なにもないのに電撃結婚しないですよ」
佐伯さんは口が堅いだろうし、なによりもうすぐ離婚することになると思うので、先に匂わせていた方がいいかなと思った。
「ここじゃあれだから、ちょっと場所を変えて話さないか?」
どうしよう、断るなら今だ。大翔とのことは他人に話すようなことではない。でも、佐伯さんには伝えていた方がいいかもしれない。
だって、離婚したら社内での風当たりは相当強いものになる。誰か理解者がいた方がいいのではないか。佐伯さんなら、味方になってくれるかもしれない。
「そう、ですね」
私たちはノートパソコンとメモ帳を片手に立ち上がり、奥のミーティングルームへ向かった。会議のために移動するのだと周りに思わせるためだ。
六人掛けのテーブルがあるミーティングルームに入り、ドアを閉める。これで、私たちの会話は誰にも聞かれることはない。
椅子に座り対面すると、これから本当に会議するような気持ちになった。
「話せる範囲でいいから教えてくれないか? 俺にできることがあれば、工藤の役に立ちたい」
佐伯さんは結婚したあとも、私のことを工藤と呼んでいる。そちらの方がありがたい、だってすぐに工藤に戻るわけだから。
私は佐伯さんをじっと見て、覚悟を決めた。
「もうすぐ、私たちは離婚します」
「え⁉」
予想外の言葉だったらしく、いつも冷静な佐伯さんが驚いて動揺している。
「もとからそういう契約でした。私たちは契約結婚です」
「す、すまん、ちょっと、事実を飲み込むのに時間がかかっている」
不謹慎にも、あからさまに動揺する佐伯さんが可愛いと思ってしまった。佐伯さん、こんな表情もするのか。
「社長のおじい様からの命で、社長は急遽誰かと結婚しなければいけなかったのです。要は誰でも良かったわけです。その時たまたま、私がいたというだけで」
自分の言葉に、自分で傷つく。
そうだ、誰でも良かったのだ……。
「つまり、工藤と社長はつきあってなかったってことか?」
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