後宮の料理妃 霊獣の巫女と神龍の皇帝

及川 桜

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1巻

1-1

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   序章 拉致される花嫁


 皇帝からの求婚に抗える者などいない。
 しかも、舜殷国しゅんいんこく皇帝劉赫りゅうかくは、誰もが見惚れるほど見目うるわしく、武術にもけている。年頃の女であれば、自身の上に突然降りかかってきた幸運に、涙を流して喜びそうなものだが、はん雪蓉せつようだけは違った。

「お断りよ!」

 あろうことか、皇帝からの求婚を本人の前でばっさりと切り捨てたのだ。

「お前、自分がなにを言っているのかわかっているのか?」

 漆黒の駿馬しゅんめまたがり、雪蓉を見下ろしながら劉赫が言った。淡々とした口調だが、明らかに怒っている。

「ええ、十分理解しているわ。妃になんて絶対にならない!」

 雪蓉という女人は、天女が舞い降りたかのように可憐で美しいが、口が相当悪い。見た目に騙されて求婚し、撃沈した男は数知れず――だ。
 雪蓉の無礼な態度に、武官たちがざわつく。皇帝にこのような口をきいたら、不敬罪で捕らえるのがしきたりだ。だが劉赫は、怒る武官たちを鎮め、やけに慣れた様子で雪蓉の暴言を聞き流す。

「お前の言い分はわかった」

 感情の起伏を見せず、劉赫は冷静に言う。

「わかってくれたみたいで良かったわ」

 案外聞き分けが良かったことに、雪蓉はほっと胸をなで下ろす。しかし――

「捕獲しろ」

 劉赫の口から出た思わぬ言葉に、雪蓉は目を丸くする。

「ほ、捕獲!?」

 動物じゃあるまいし、と言いかけたところで、武官たちが雪蓉を取り囲む。

「待ちなさいよ、こんなの人権侵害よ! 卑怯者、鬼畜、人でなし! それと、ええと……甘えん坊!」

 やけになった雪蓉は思い浮かぶあらゆる悪口を並べ立て、武官に囲まれながら叫ぶ。妃になるくらいなら、不敬罪で処罰される方がましだ。

「それを言うなら甘党だ」

 眉間にしわを寄せ、心底不服そうに劉赫が訂正する。他の罵詈雑言はまったく気にしていないようだが、甘えん坊は別らしい。

「私は絶対、妃なんかにならない……から……ね――!」

 雪蓉の叫びの言葉尻は、武官たちに押さえ込まれ、はかなく消えていったのだった。



   第一章 饕餮とうてつの巫女


 碧天へきてんが広がる暖かな太陽の下、黄土色に輝く地面の上に、一人たたずむ美少女がいた。
 陽にすかすと濃紫色が浮き出る柔らかな長い黒髪は、腰元まで届いている。雪のように白い肌を持ち、まるで丹花が開いたかのような紅くあでやかな唇。長い睫毛まつげに縁どられた瞳は深い瑠璃色で、さながら大きな宝珠のようだ。歳は十八で、花盛りの瑞々みずみずしい輝きを放っている。
 そして、簡素な藍色の漢服をまとい、遠い空を物憂げに見上げる様は、ため息が出るほどうるわしい。
 解語之花かいごのはなと形容されるほど美しい雪蓉は、強風が吹けばたちまち倒れてしまいそうな、可憐な物言う花に見えた。
 彼女は集中するように深く息を吸い込むと、おもむろに大きなくわを頭上に持ち上げた。

「でぇいっ!」

 華奢きゃしゃな体のどこからそんな野太い声が出たのか、およそ乙女には相応ふさわしくない勇ましい掛け声と共に、雪蓉は鉄製のくわを振り下ろし、土に突き刺した。そして凄まじい速さでくわを振り下ろしては土を耕し、あっという間に耕耘こううんされた畑が出来上がった。
 遠くから雪蓉の様子を見守っていた小さな巫女仲間たちが、そっとささやき合う。

「相変わらず凄いね」
「大人しくさえしていれば、豪族に嫁げるくらいの美人なのに」
「無理だよ。この前も雪姐を見て一目惚れした村の若頭が口説きに来たけど、くわで追い払っていたもの」

 七、八歳ほどの小さな巫女たちは、妙齢である雪蓉の嫁ぎ先を心配して、大きなため息を吐いた。巫女とはいっても、一生巫女であり続けなければいけない縛りはない。年頃になれば結婚し、この土地を去るのが一般的だ。しかし、村一番の美人である雪蓉が最も結婚が難しいと彼女たちは憂えている。
 子どもに心配されているくらいだから、本人はさぞや気を揉んでいるだろうと思いきや、雪蓉は実にあっけらかんとしていた。『私、結婚する気なんて毛頭ないわ!』というのが彼女の口癖で、一生独身を貫く覚悟を決めている。
 雪蓉は貧しい農村の家に生まれた。幼い頃に疫病で母を亡くしたが、頼れる身内もなく男手一つで雪蓉を育てていくことは困難だったのだろう。このままでは父子共々餓死すると先を案じた父は、山奥の四凶しきょうの地の一つ、饕餮山とうてつざんと呼ばれる集落に雪蓉を残し、姿を消した。
 そこは別名〈子捨て山〉と呼ばれる、四凶の饕餮とうてつを鎮めるせんの住む聖域だった。四凶とは、饕餮、窮奇きゅうき檮杌とうこつ混沌こんとんと呼ばれる四匹の霊獣のことである。各々山に住み、その近くには彼らを鎮める仙と巫女が住む。饕餮山に捨てられた子どもは、饕餮を鎮める仙の手伝いをする巫女となるのだ。
 饕餮という怖ろしい霊獣の側で生活することになるが、衣食住は確保され、とりあえず死ぬことはない。嫌になったら、いつだって出て行っていい。ただ、親から捨てられた子どもに行き先などないので、ほとんどが子ども時代をここで過ごす。
 その中で、食料や生活用品を買うためにふもとの村に行くことがある。そこで出会った村人と恋仲となり、結婚して出て行くことが彼女たちの最大の目標だ。だから、子どもとはいっても結婚の話題には敏感なのである。

「お待たせ! さあ、帰りましょう」

 大きなくわを肩に担ぎながら、雪蓉は小さな巫女たちのもとへ戻ってきた。現在、巫女は雪蓉を入れて五人。いずれも親から捨てられた子どもたちだ。
 様々な家庭の事情はあるが、妓楼などに売られる子どもも多くいる中で、饕餮の巫女になったことを不幸と感じる者はいない。同じような境遇の者同士が身を寄せ合い、助け合って家族のように生活している。最初は泣き暮らしていた子も笑顔になっていく――ここはそんな温かな場所だ。
 畑仕事を終え、背負い籠の中に収穫した野菜を山盛りに入れて、雪蓉たちは家へと戻った。
 自分たちしか住んでいないこの土地はとても広く、建物も多かった。鶏小屋に、豚小屋と牛小屋、仙の居宅、巫女たちが眠る家屋、それにかわやや風呂場など、全てが独立した建物になっている。
 饕餮を鎮めるために国からは税が支給されているので、住まいはわりと快適だ。
 彼女たちは真っ直ぐに厨房専用の屋舎へと入ると、手際よく作業を始める。小さな巫女のうち、ひとりが石のすり鉢を押さえ、もうひとりが石のすりこぎを持って、香草と木の実をすり潰し始めた。
 巫女の一番の務めは、饕餮に捧げる料理作りだ。
 饕餮とは、悪神と呼ばれる四凶の一つで、暴食の化身である。ひとたび地に放たれれば、永遠に食べ続ける。人や動物、魚や虫、植物など手当たり次第に貪り続け、その欲望はとどまるところを知らない。
 そんな怖ろしい霊獣を鎮めるのが仙と呼ばれる者だ。仙は、山中に入り修行を極め、神変自在しんぺんじざいの術を得た者のことをいう。仙は食べ物に術をかけ、満腹を知らぬ饕餮の腹を満たすことができるのだ。
 巫女が食べ物を調理し、それに仙が術をかける――そうやって饕餮を鎮め続けてきたのである。

「さあ、始めるわよ」

 雪蓉は、かまどの上に置かれたていに水と香草を放り込んで、薪を燃やし始めた。
 五歳の時にこの地に捨てられ巫女となり、早いもので十三年となる。最初は包丁を持つことさえ危うかった少女が、今では立派な料理人となった。
 畑仕事も、鶏や豚を屠殺とさつするのもお手のものだが、一番得意で大好きな仕事は料理だ。料理を極めて仙になる――これが彼女の夢であり目標だった。仙を継ぎ、身よりのない子どもたちを育てたい。だから雪蓉は結婚する気など毛頭ない。
 最後に仙が術をかけるとはいっても、料理の出来は霊獣への術のかかりやすさに比例する。心のこもった美味おいしい料理を作れば少ない量でも満足してくれるが、出来の悪いものだと術が効きにくい。仙に言わせれば、技術が未熟な雪蓉たちは大量に料理を作らなければならないとのことだった。

「できたわ」

 雪蓉はひたいの汗を布で拭って言った。

美味おいしそう」
「さすが雪姐」

 小さな巫女たちは大量の料理を見ながら、生唾を呑み込んだ。
 大皿に山盛りになった青菜と春野菜の炒め物、豚の皮付きの三枚肉を少し甘めの濃厚な汁で蒸した一品に、山菜の衣揚げや塩味の豆花ドゥファを浮かべた鶏の澄まし湯など十人前以上はある。

「あなたたちも手伝ってくれたじゃない」

 褒められた雪蓉は、少し照れくさそうに言った。

「そうだけど……」

 雪蓉を除く巫女たちは、まだ小さいのでたいしたことはできない。早く雪蓉の役に立ちたいと思っているが、料理人としてはまだまだ未熟だ。

「さあ、冷めないうちに料理に術をかけてもらいに行きましょう」

 そう言って雪蓉は、大皿に積まれた皮付き豚の甘煮を持ち上げた。

「はい!」

 少女たちの可愛らしい声が厨房に響き渡る。
 仙の住む居宅の玄関の扉を開け、小さな巫女が声をかけた。

「仙婆~、できたよ~」

 仙婆と呼ばれた老婆は、奥の間から腰を屈めてのろのろと出てきた。
 綿毛のような白い髪を後ろで一つに結い、顔も手もしわくちゃだ。
 仙が作れば、たった一品でも饕餮が満足する料理になるらしいのだが、高齢なのを理由にめったに料理を作ることはない。いつも腰が痛いだの足が痛いだの言って、ほとんど居宅から出ないのだ。
 噂では、仙が馬よりも速く山を駆け上がる姿を見ただとか、木の枝に飛び移る姿を見ただとか言われているが、真偽は不明である。

「どれどれ」

 一品ずつ仙が味見をしていく。雪蓉にとっては緊張の瞬間だが、小さな巫女たちは気楽にしている。雪蓉の作る料理はとても美味おいしいと知っているからだ。

「うん、まあいいだろう」

 褒められはしなかったが合格したようなので、雪蓉はほっと安堵した。
 八年前に、雪蓉の姉代わりだった巫女がお嫁に行ってからというもの、当時十歳だった雪蓉が年長者となり、料理を一手に引き受けることとなった。最初の頃は駄目出しばかりで、泣きながら一日中料理をしていたものだ。
 厳しい指導に耐えた甲斐あって、今では誰よりも美味おいしい料理を作れるようになった。
 大皿に盛られた大量の料理に、仙がそっと手をかざす。すると、しわだらけの手の平から、淡い茜色の光が料理に降り注がれていく。

「いつ見ても綺麗」

 ほうとため息を吐くように、小さな巫女たちはうっとりとその光を見つめる。
 幼き頃の雪蓉も、仙の術に見惚れたものだ。だが、今は羨望の眼差しを向けるだけではなく、自分もいつかこの術を会得するのだと大志を抱いた目で見つめているのだ。
 無事、仙から料理に術をかけてもらった雪蓉たちは、今度はそれを抱え山奥へ入っていった。
 居宅から徒歩五分ほどの場所に、饕餮が住む洞窟がある。巨大な黒い洞窟の中に入ると、しめ縄で奥へ進む道が塞がれている。しめ縄には結界が厳重に張られており、饕餮は外に出られなくなっているのだ。
 饕餮のしめ縄には、佩玉はいぎょくが飾られていた。通常、佩玉はいぎょくは高貴な者が身分を示すために腰帯に垂らす装身具だが、平民も真似して装飾品として身に着ける風習がある。
 饕餮のしめ縄に飾られているものは、本物の佩玉はいぎょくではなく、玩具のような安物だ。白い玉板に、小さな青碧せいへき色の琅玕ろうかんを模した硝子ガラス細工がついている。なぜ饕餮のしめ縄に佩玉はいぎょくが飾られているのかは不明だが、饕餮が封じられた際につけられたらしい。
 真っ暗な洞窟の奥からは、不気味な重低音が聞こえてくる。饕餮のいびきだ。饕餮は食事時以外、めったに起きてこない。だから、雪蓉は十三年間毎日この洞窟に通っているが、はっきりと姿を見たことはなかった。
 人間には結界がきかないので、出入りすることは自由だ。だが、しめ縄の中に入ったが最後、饕餮は匂いを嗅ぎつけ、頭からひと息に喰らうだろう。
 手を入れることも危険なので、指叉サスマタで食事をしめ縄の中に押し込む。全てを入れ終わり、雪蓉はほっと息を吐いた。

「雪姐、早く行こう」

 雪蓉の袖を引っ張りながら、小さな巫女たちはおびえた眼差しで見上げてくる。
 いくら饕餮がしめ縄の外には出てこられないとわかっていても、怖いのだ。慣れている雪蓉でさえ、洞窟の中に入ると独特の緊張感に包まれる。

「ええ、そうね。早く出ましょう」

 不意に、いびきの音が止まる。饕餮が料理の匂いに気がついたのだ。
 雪蓉はしめ縄に背を向け、小走りで外へと向かう。その隣を、小さな巫女たちが全力で走っていく。
 背後が気になりそっと振り向くと、闇の奥に光る二つの目が見えた。小さな玉石のような目が、雪蓉を捉える。
 ぞくりと背筋が凍りつく。体が動かない。
 すると、小さな目に不釣り合いなほど大きな口が開いた。四本の大きな鋭い犬歯と、歯に絡まった唾液が糸を引き、闇の中で白く光る。その口は、雪蓉の身長ほどの大きさがあった。
 あまりの巨大さに、「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、雪蓉は逃げるように洞窟を出る。明るい日差しを浴びて、ようやく身の安全を感じた。

「雪姐、大丈夫?」

 息を荒らげている雪蓉を見上げ、小さな巫女が心配そうに尋ねる。

「ええ、大丈夫。何でもないわ」

 小さな巫女の頭をなでて、笑顔を向ける。けれど、心臓は早鐘を打つように鳴り続けていた。あの大きな口に呑み込まれたら、まず助からないだろう。雪蓉は自分が饕餮に喰われる姿を想像して、身震いした。
 そうして巫女としての仕事を終えた雪蓉たちだったが、まだゆっくり休めるわけではない。小さな巫女たちに豚や牛の世話を任せ、雪蓉は洗濯しに川へ向かった。
 もちろん井戸はあるのだが、井戸水は貴重なので川の水を使っている。
 川へ行くまではいいが、水を含んで重くなった衣類が入った竹籠を担いで山を登るのは大変な肉体労働だ。しかし、雪蓉はもう慣れたものだった。
 川原に着いた雪蓉は、竹籠を小石が敷き詰められた地面に置いた。
 水の流れはたわむれに鉱石の光を浮かび上がらせ、日の光が差し込んだ川原の石はだんを取っているかのようだ。空を見上げると、一面の青空にほうきで掃いたような繊維状の白い雲が流れていた。
 ひたいにうっすらと浮かび上がった汗を布で拭き、ふと蛇行している川を見ると、大きな黒い物体が打ち上げられていた。

「熊かしら。やったわ、今日は熊鍋よ!」

 動かないので死んでいると思った雪蓉は、沸き立つような嬉しさを顔に浮かべた。
 いかに雪蓉とて、熊を倒すことは難しい。それが死んだ状態で手に入るのだから、鴨がねぎを背負ってくるような状況といえる。
 弾むような足取りで近づいた雪蓉だったが、やがてお目当てのものが熊ではないことに気がついた。黒く汚れているが、服を着ていたのである。

「嘘! 人間!?」

 慌てて駆け寄ってみれば、横たわっていたのは酷い怪我を負った男だった。うつ伏せで倒れていたので仰向けにさせると、青白い顔が現れた。
 衣はいたみ、ところどころ破けていて、ついた血が乾いたのか赤黒く染まっている。黒髪は乱れ、わかめのように顔にへばりついている。
 川原に打ち上げられて数時間は経っているのか、服も髪もほとんど乾いていた。
 なんて痛ましい。遺体をこのままにしておくことはできないので、どうやって供養するか考えあぐねていたところ、男の胸が小さく上下に動いているのに目が向いた。

(生きている!)

 男の口元に頬を寄せると、かすかに吐息が感じられた。
 こんな状態で生きていることなんて奇跡だ。雪蓉は覚悟を決めて男を背負った。ずしりと肩に重さが食い込む。
 生きているなら助けなくては。人として見殺しにすることはできない。
 雪蓉は男の足を引きずるようにして、山を一歩一歩登り始めた。


 誰にも見つからないように注意深く辺りを見回しながら、雪蓉は牛舎の納屋に男を入れた。そしてしんわらが敷き詰められた上に、男をそっと寝かせる。

(こんなところにかくまうことしかできなくて申し訳ないとは思うけれど、饕餮山は男子禁制の場。誰かに見つかるわけにはいかないのよ)

 雪蓉は安心したように深く眠り込む男に、心の中で詫びを入れた。
 さて、これからどうしようか。医者に診てもらいたいけれど、いかなる理由があろうとも、官吏の許可がなければ男は入山できない決まりだ。発覚すれば厳しい処罰が下される。たとえ、川を流されてきたとしてもそれは変わらない。お役所仕事なので融通は利かないのだ。
 とはいえ、雪蓉の父のように、子を仙に預けるために饕餮山を登る者もいるし、巫女を口説きに来る男もいる。官吏に発覚すれば大変なことになるが、誰にも知られなければ問題ない。
 医者には診せられないので、とりあえず雪蓉ができる範囲の手当をしてあげようと体を見ると、全身傷だらけで痛々しかった。
 もっとも重い怪我は足首だろう。赤黒く腫れ上がっていて、もしかしたら骨折しているかもしれない。せめて腫れだけでも引くようにと、雪蓉は男の足に薬草をすり潰したものを塗ってあげる。
 他の場所にも塗っていたら、手持ちの塗り薬があっという間に底をついた。新たに薬を作らなければならない。雪蓉は石のすり鉢に薬草を入れ、すりこぎで押し潰す。それを傷口にたっぷり塗布する。これの繰り返しだった。
 薬草の知識は仙から教わった。饕餮山は集落から離れていて簡単に医者に診てもらえないので、病気や怪我をした場合は自分たちで治療するからだ。

(私にできることはこのくらいしかないわ)

 あとは、男の生命力に賭けるしかない。
 歳は十代後半から二十代前半くらいだろうか。顔は汚れている上、固く目が閉ざされているので、正確にはよくわからない。細身ではあるが筋肉質な体なので、体力はありそうだ。

(きっと大丈夫)

 雪蓉は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやく。
 それから、男は昏々こんこんと眠り続けた。途中、急に高熱を出して苦しみ出したので死んでしまうかと思ったが、男は持ち直した。
 生葉をすり潰した塗り薬は乾くと効能が薄れるので、頻繁に塗り直さなければいけないのでせわしない。
 日中は男のことが気になって仕方がなかった。仙や小さな巫女たちに男の存在を告げることはできなかったので、普段の生活をしながら男の様子を見に行くのは難儀だった。

(どうか、生きて)

 雪蓉の願いが届いたのか、男は三日三晩眠り続け、そしてようやくまぶたを上げた。
 朦朧もうろうとしているのか、男は二、三度目をまたたかせると、大きく息を吐き出した。
 雪蓉は驚いたあと、体の芯から安堵したように力が抜ける。
 深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、あえていつもの口調で声をかけた。

「あら、やっと起きたのね」

 喜びを全面に押し出すのも違うだろうと思った。男は赤の他人で、行きがかり上、助けたにすぎない。良くなったら、さっさと出て行ってもらわねば困るのだ。
 男が声に気がつき、顔を横に向ける。視線が合うと、男は希少なものを見つけたかのように驚きの表情を浮かべた。

「あなた、三日三晩高熱を出して寝続けていたのよ」
「お前が助けてくれたのか?」
「まあね。川原で横たわっていたから、ここまで運んできたの。あっ、牛舎の納屋で寝かせていたのは悪いと思っているわ。でも、仕方なかったのよ。ここは男子禁制で、男を運んできたなんて知られたら怒られちゃうから。牛舎の納屋とはいっても、牛の餌の乾草をしまっている場所だし、別に臭くないでしょ?」

 雪蓉が説明する中、男は納屋の中を見渡していた。そして、状況を理解したのか、起き上がろうとする。

「すまなかった。あとで礼はする。……痛っ」

 上半身を起こした男は足に痛みが走ったのか、体の動きを止めて苦痛に顔を歪ませた。

「なにやっているのよ! まだ寝てなさい。足はたぶん骨折しているだろうから、しばらく歩けないわよ」
「それは困る。早く戻らねばならない」
「困るって言ったって、仕方ないでしょ。死にかけていたのだから、もう少し体力が回復してからじゃないと帰れないわよ」

 せっかく治りかかっているのに無茶をしようとする男に対して、ついつい口調がきつくなる。
 男は雪蓉に強く言われたことに驚いたあと、言い返したそうに口を開いた。しかし、助けてもらった負い目があるのだろう、落ち着いた口調で話す。

「仕方ない。もう少し、世話になる」

 素直に引き下がったので、雪蓉は安心して笑みを浮かべた。男を責めたいわけではない。ただ、心配なだけだ。
 すると、男は雪蓉の微笑みに目を大きく見開いた。

「そういえば、あんたって凄い回復力ね。傷も深かったのに、どんどん治っていって――まるで、人間じゃないみたい」

 雪蓉が悪気なく放った一言に、男は絶句し、固まった。
 雪蓉は慌てて「やだ、冗談よ!」とバシバシ腕を叩く。

「痛い」

 男は眉を寄せ、小さな声で抗議する。しかし、雪蓉は口を大きく開けて笑ったままだ。
 こう見えて、雪蓉は浮足立っていた。死んでしまうかもしれないと思った男が目覚め、会話できるまでに回復したことが嬉しくて仕方がない。

「ねえ、どうしてあんな傷を負っていたの? あれは川で流されてできたような傷じゃなかったわ」

 雪蓉の問いに、男は目線を逸らして口をつぐむ。
 それを見て、「言いたくないなら、言わなくてもいいけど」と雪蓉はあっさりと引き下がる。
 男がわけありなのは明らかだった。そうでなければ、あんなところで倒れているはずがない。助けてもらったとはいえ、話す義理はないと判断するのは当然だ。

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