後宮の料理妃 霊獣の巫女と神龍の皇帝

及川 桜

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1巻

1-2

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「それよりも、お腹空いている? なにか食べられそう?」
「食べようと思えば……」
「なによそれ。まあいいわ。待っていて、今作ってくるから」

 雪蓉が納屋を出ると、空が茜色に染まり始めていた。
 厨房専用の屋舎に着くと、すぐにかまどに火をつける。そして、猛烈な勢いで野菜を切っていく。
 顔が綻んでいるのが自分でもわかる。目覚めた時、本当は泣き出しそうなくらい感極まっていた。三日三晩、必死でお世話をしたのだから。
 でも、早く出て行ってもらわなければ困るのも事実なので、過度に介入せず一定の距離を保たねばならない。
 それに、余計な勘違いをされても困る。たしかに男子禁制のおきてを破ってまで男を助けかくまってはいるが、それは大怪我をしていたからである。命を助けるのは、人として当然のことだ。
 あまり仲良くなりすぎないようにと自戒する代わりに、雪蓉は心を込めて料理を作る。早く怪我が完全に治りますようにと願いながら。
 仙や小さな巫女たちの夕飯も作らなければいけないので、急いで仕上げた。それに、暗くなる前に届けたい。
 お盆に小さな土鍋を載せて、仙や小さな巫女たちがいないか確認してから厨房を出る。そして、見つからないように注意しながら納屋へと走った。
 雪蓉が納屋に入ると、横になっていた男が、ゆっくりと上半身だけ起き上がった。眠り込んでいる男の顔ばかり見ていたので、目を開けるとまた雰囲気が変わることに驚く。汚れているのではっきりとはわからないが、整った美麗な顔立ちをしているようだ。
 雪蓉はお盆を地面に置き、蓋を開けた。
 温かな湯気の奥には、柔らかく煮込んだ米と野菜が入っている。米が輝き、緑の茎や葉が彩りを添えている。
 土鍋の中を見た男が、ごくりと唾を呑み込んだ音が聞こえた。
 雪蓉は土鍋からお椀に少量よそい、ふうふうと息を吹きかける。そして、さじですくったお粥を男の口へ運ぶ。まだ満足に手を動かせないからだ。
 男はゆっくりと咀嚼そしゃくした。しばらく舌の上で味わうと、大きく目を見張る。

「味がする」
「そりゃそうでしょう。残っていた豚足で出汁だしをとったの。しっかり下処理しているから、臭みもないでしょ」

 男は静かに頷き、口の中で十分に味わったあと、お粥を呑み込む。

「もっとくれ」
「はいはい、熱いからゆっくりね」

 男は全てを平らげると、急激に眠気が襲ってきたのか、まぶたが閉じそうになっている。必死に眠気を堪えている姿が可愛らしい。
 無事食事がとれたこと、味に満足してくれたことに、雪蓉は安心して目を細める。

「じゃあ、ゆっくり寝るのよ。また明日」

 雪蓉がそう言うと、男は横になって睡魔に引っ張られるように眠りに落ちた。小さく寝息を立てながら眠る男の顔を見て、雪蓉は自然と頬を緩める。

(寝ている顔はあどけないのね。目を開けていると意外と男らしくて驚いたわ)

 男はおそらく、雪蓉よりも年上だろう。耳に心地いい重低音の声だった。
 早く良くなってほしいけれど、離れるのが少し寂しく感じる。ずっと介抱していたから情が移ってしまったのかもしれない。怪我が治り、男が山を下りれば、もう二度と会うことはないだろう。
 それでいいのだと自分に言い聞かせ、雪蓉は納屋から出て扉を閉めた。


 次の日、朝食を作ってきた雪蓉は、男がまだ寝ているかもしれないことを考え、音を立てないようにゆっくりと扉を開けた。
 すると、男は納屋の端の方で、まるで気配を消すように膝を立てて座っていた。

「もう起きていたの? おはよう。その顔色を見ると、よく眠れたみたいね」

 男は声を出さずに頷く。まるで警戒心の強い野良犬のようだ。

「朝食を持ってきたわ」

 雪蓉がお盆を床に置くと、男はおずおずと近づいてくる。その姿に頬が緩む。
 白い湯気を立てる丼の中には、ふわふわの雲呑ワンタンと鶏肉と野菜、それらに隠れるように半透明の米麺が入っている。
 男は顔を輝かせながら、背筋を伸ばして丼を持った。そして、綺麗な所作で米麺をすする。
 とても品の良い食べ方なので驚いた。衣は酷く汚れていたんでいるが、育ちがいいのかもしれない。
 男は雲呑ワンタンも頬張ると、蕩けるように目を細めた。

「これが、旨みのある深い味というものなのか」

 男が感心したように丼を見つめながらつぶやくので、雪蓉は呆れて言った。

「随分遠回しな褒め方ね」

 男は無我夢中といった様子で麺をすする。それでもがさつな食べ方ではなく、見ていて清々しい様だった。それだけ味を気に入ったのかと、雪蓉は満更でもない顔で男を見つめる。

「昨日は起き上がることができなかったのに、今日は自力で起き上がれるのね。本当に凄い回復力」

 雪蓉は感心してつぶやく。
 しかも、米麺をあっという間に平らげてしまった。次はもっと量を増やそうと心に決める。
 男は丼をお盆に戻すと、顔を上げて雪蓉を見据える。

「ここはどこだ?」

 男の問いに、詳しく話していなかったことに気づく。昨日は彼が目覚めたことが嬉しくて、今いる場所を説明するのを忘れていた。

「ここは四凶の地の一つ、饕餮の住む山よ。私は饕餮を鎮める巫女なの」
「饕餮山……ああ、だから男子禁制なのか。饕餮の巫女と言ったが、お前は親に捨てられたのか?」
「あんた、はっきり言うわね。普通はそういうことを心の中で思っても聞かないものよ。……って、これ、私がよく人に言われることだわ」
「だろうな。お前は失礼なことを平気で言いそうだ」
「助けてもらった分際でよく言うわね!」

 雪蓉の物言いに男が面食らったような顔をしたので、はっとして口をつぐんだ。

(しまった、いつもの癖が出てしまったわ)

 決まりの悪さを感じながらも、今さら女性らしく振る舞っても仕方ないので開き直る。
 気を取り直して、雪蓉は桶に入った水で布を濡らすと、それでぞんざいに男の顔を拭き始めた。

「おい、なにをする!」
「真っ黒に汚れた顔を拭いてあげているだけじゃない」
「それにしたって、もっと拭き方というものがあるだろう。床にこびりついた汚れを落とすように力強く拭くやつがあるか!」
「顔の切り傷に塗っていた薬が乾燥して固まってしまったから、これくらい力を入れないと取れないのよ」
「い、痛い! いいから、自分で拭く!」

 雪蓉から布を取り上げて、男は顔を拭いた。
 顔についた汚れと共に、わかめのように顔にへばりついた髪の毛も拭く。前髪の上がった男の顔を見て、雪蓉は驚きを隠せなかった。
 もとから整った顔立ちをしているなとは思っていた。長い睫毛まつげに、真っ直ぐに伸びた鼻梁びりょう。まともな身なりをしたら、男前と呼ばれるたぐいかもしれないと。
 しかし、実際に汚れが取れ、きりりとした一文字の眉毛があらわになった顔を見て、想像以上の美貌だったことを知る。

「あんた、汚れていて気づかなかったけど、整った顔をしているのね。特に蒼玉色のその瞳……とっても綺麗」

 雪蓉は感嘆するように、男の顔をじっくり見つめた。男は気恥ずかしいのか、ふいと顔を背ける。

「俺は自分の顔が嫌いだ」
「どうして? こんなに整っているのに」
「嫌いなものは嫌いなのだ」

 男は投げやりに答えた。心底嫌がっている様子に、雪蓉はなんだか悲しくなった。

「そんなこと言ったら、親が悲しむわよ」

 雪蓉の言葉に、男の顔が一瞬にして強張る。遠くを見つめて固まり、なにかを思い出すかのように顔が青ざめる。
 余計なことを言ってしまったと後悔して謝ろうとした雪蓉に、男は冷たい眼差しで口を開く。

「親に捨てられたくせに、よく言うな」

 男は言ったあとすぐに、はっとした表情になり、気まずそうに視線を下げる。

「悪い、今のは……」

 弁解しようとする男に、雪蓉は軽く首を横に振って、気に留めていないことを伝える。

「たしかにここは子捨て山と呼ばれているけど、親を憎んでいる子なんていないわ。私が生まれた農村は、とても遠い場所にあるの。父は数日かけて、わざわざここまで私を連れてきた。ここに来るまでに全ての所持金を使い果たしてまで。売ることだってできたのに、それをしなかった」

 一度小さく息を吐いて、雪蓉は言葉を続ける。

「農村は貧しくて私を引き取ってくれる余裕のある人はいない。私を助けるためにはここしかないと、父は考えたのだと思う。その後、父がどうなったかはわからないわ。生きているかもわからない。だから、恨んではいないのよ。恨みようがないとも言えるけど」

 雪蓉の過去を聞いた男は、決まりが悪くなったのか口を閉ざした。
 まったく気にしていないと言えば嘘になるが、男を咎める気持ちは一切湧かなかった。それよりも、男の内側に抱える心の傷のようなものに一瞬触れてしまったことに負い目を感じる。
 男はなにかを考え込んでいる様子で黙り込んでいる。憂いのある男の横顔がやけに気になって仕方がなかった。


 男が目を覚ましてから三日目の朝。
 驚異的な回復力によって、男はどんどん良くなっている。骨折していると思ったが、足を引きずりながらも歩いてはいるので、もしかしたら捻挫だったのかもしれない。それでも、足の怪我の完治にはまだ時間がかかりそうだ。
 男のことを思えば、早く治って下山した方がいいとはわかっているが、まだ一緒にいられることに安堵する気持ちもある。
 普段は子どもたちと仙くらいしか接する機会がないので、歳がわりと近そうな人と話すのは新鮮だからなのかもしれない。

「おはよう、ご飯持ってきてあげたわよ。感謝して敬いなさ~い」

 雪蓉は足で扉を開け、器用にまた足で扉を閉める。両手がお盆で塞がっているとはいえ、なんとも粗野な開け方に、男は呆れたような表情を浮かべる。

「感謝して敬えと言われると、途端にありがたみが失せるな」
「助けてあげたのに、あんた本当に偉そうね」

 お互いの口の悪さを認識し、軽く受け流せるほど距離感は近くなった。

「今日の飯はなんだ?」
「焼き飯団おにぎりよ」
「それだけか。どんどん質素になっていくな」
「あんたね、タダ飯食べている分際のくせに文句言わないでくれる? 米だって高いのよ」

 雪蓉が押しつけるように口の前に焼き飯団おにぎりを突き出すと、男は素直にそのまま一口頬張った。

「なんだ、この味は」

 男は雪蓉から焼き飯団おにぎりを奪うようにして持つと、夢中になってかぶりつく。

「口の中で広がる香ばしい醤油の味わい。ホロリとほどける米の旨味。三食三晩これでもいいぞ。一生これだけしか食えなくても後悔はない」
「また回りくどい褒め方ね。ま、気に入ってくれたみたいで良かった」

 雪蓉は、男が自分の作った料理を美味おいしそうに食べてくれることが嬉しかった。
 夢中で食べる男の顔は、どんな褒め言葉やお礼よりも雪蓉の心を満たす。
 目を細めて微笑みながら眺める雪蓉の視線に気がついた男は、なぜか耳まで赤くなり、目を泳がせた。

「さすがにこれだけじゃかわいそうだから、これもあげる」

 雪蓉はふところから袋を取り出し、中からあるものを一つ摘まみ上げた。半透明の輝く四角い個体は、まるで宝石のようだ。

「それは?」
氷蓮糖ひょうれんとうっていうのよ。子どもたちの大好物なの」

 そう言って、雪蓉は半ば強引に男の口に氷蓮糖ひょうれんとうを押し入れた。氷蓮糖ひょうれんとうとは、蜂蜜と海藻を煮固め、紅花やちょうまめせんじるで淡く色づけした菓子だ。表面はしもをまとったように結晶化し、かすかなはすの香が涼やかに漂うことから、その名がついた。

「お、おい!」

 有無を言わさず口に入れられた氷蓮糖ひょうれんとうを、男は仕方ないと言いたげにゆっくりと咀嚼そしゃくする。シャリシャリと小気味のいい音がした。
 次第に呆けたように味わう様子の男を見て、雪蓉は不思議そうに顔を覗き込む。

「もしかして、甘いもの苦手だった?」

 男は勢いよく首を横に振る。

「それなら……あ、わかった! 美味おいしすぎて感動のあまり言葉が出ないのね」

 雪蓉の指摘に、男から否定する言葉は出ず、黙ったままだ。世の中にこんなに美味うまい食べ物があったのかと衝撃を受けている様子だった。

「あんたって甘えん坊だったのね」

 不愉快極まりないことを言われたのか、男は怪訝な顔で雪蓉を睨みつける。

「甘えん坊? もしかして甘党と言いたかったのか?」
「ああ、そうそう、それ!」
「二度と間違えるな」

 本気で怒っている男に対して、雪蓉は気にする様子もなく話題を変えた。

「そういえば、長袍ちょうほうと下衣を持ってきたの。仙婆が着なくなったものを継ぎはぎして作ったものだから、見た目はあれだけど……今の汚れた衣よりはまだいいでしょ」

 謙遜ではなく、本当に見た目は酷かった。布の色がおかしなところで変わっているし、そもそも布生地も違う。けれど、血がべっとりと固まった服よりはましだろう。
 しかし、男は少し顔を逸らして小さく息を吐く。

「ちょっと、こっそりため息吐かないでくれる?」
「着替えるから、一旦外に出るか、後ろを向いていてくれないか。俺の裸が見たいと言うなら止めないが」
「ため息の件、思いっきり無視したわね。まあいいわ。あんたの裸なんか見たくもないから外に出ている」

 外に出ると朝靄あさもやがまだ残っており、雪蓉は肌寒さに腕をさすった。
 小さな巫女たちはまだ寝ているだろう。戻ってから彼女たちの朝食の支度をしなければいけない。男の世話をしていることにより日々の負担が増えたし、慣れない裁縫で寝不足だが、不思議と心は晴れやかだった。

「終わったぞ」

 男から声がかかったので、扉を開き中へと入る。
 ようやくまともな身なりとなってたたずんでいる男を見て、雪蓉は目を見開いた。

「驚いた。精悍せいかんっていうか気品があるというか、農民の雰囲気ではないわね。あんた、一体何者?」

 雪蓉の問いに、男は目を逸らす。

「そういえば、あんたの名前聞いてなかったわね。私は、潘雪蓉」

 朗らかに微笑んで、雪蓉は男の返答を待った。すぐに別れることになるのだから、名前を聞く必要もないと思っていたけれど、せっかく生死を心配するほど看病した相手なのだから、思い出として知っておくのも悪くないだろう。

「忘れた」
「えっ!」

 まさかの返答に、雪蓉はうろたえる。

「頭でも打ったのかしら。まともそうに見えたけど。いや、そうでもないわね。図々しいし生意気だし……たしかに変ね、変だわ」

 顎に手を当てた雪蓉は、妙に納得した様子で、本人を前にとんでもなく失礼なことを口走る。
 男は不服そうに眉を寄せてその言葉を聞いていたが、ふいに真面目な顔になった。

「雪蓉」

 初めて名を呼ばれたことに驚きながらも、雪蓉は男を見つめた。

「礼は、必ずする」
「なによ、改まって。別にいいわよ、礼なんて。それより、自分の名前もわからないのにどうやってお礼する気よ」

 黙り込む男に、雪蓉は快活に笑う。

「じゃあまたね、ゆっくり休むのよ」

 本当はまだ少しだけ男の側にいたかったけれど、小さな巫女たちの世話もあるのでそうもいかない。
 後ろ髪引かれる思いで納屋から出ようとすると、男が真剣な眼差しで雪蓉を見ていることに気がついた。
 妙に胸がざわめくと思いつつ、雪蓉は扉を閉める。あまりにも熱のこもった男の瞳が脳裏から離れない。

(どうしたのかしら、私)

 雪蓉の胸の動悸は、その後しばらく落ち着かなかった。


 男を納屋でかくまうようになってから一週間が経過した。
 その日はすっかり太陽が沈むと、屋舎を叩きつけるような風が吹きすさんだ。木々や草は海の大波のように躍り上がり、強風が全てを呑み込むようにざわめく。
 そんな中、風の音を怖がる小さな巫女たちを雪蓉が寝かしつけて、男の食事を作っている時だった。
 突然扉が開いた音がしたので、風で扉が壊れたかと思って振り返ると、そこにいたのは仙だった。

「なにをしておる」

 小さな巫女たちとたいして変わらない背丈の仙は、いぶかしげに雪蓉を見上げて言った。
 男のことがばれたのかと内心慌てた雪蓉だったが、平静を装って笑顔で答える。

「明日の朝ご飯の下ごしらえをしていたの。それに、少しお腹が空いたから夜食もね。仙婆も食べる?」
「いや、いらん。それよりも、今夜は戸締りを厳重にしてさっさと寝た方がいい。ここ最近、動物たちが荒れておる。狼が襲撃してくるやもしれん」
「狼ですって?」

 雪蓉は手を止めて、信じられないといった面持ちで仙を見た。
 狼の襲撃は、不吉の前触れであると怖れられている。狼の群れは集落に住む人間たちを皆殺しにできるほどの力を持っているが、彼らはめったなことでは人間を襲わないし、この山には饕餮がいるのでそもそも野性動物は近寄ってこない。

「饕餮もここ最近落ち着かない。不純な気が山に入り込んでいるのかもしれん。夜、寝たあとは、どんなことがあっても外に出るでないぞ」

 雪蓉は背中が粟立あわだつのを感じた。
 この土地が男子禁制なのには理由がある。霊獣を鎮める場所は清浄であらねばならないが、男性の気は荒々しく、周囲を汚すと考えられている。未婚の巫女しか饕餮山にいられないことからも、鎮めの土地に穢れはご法度なのだ。
 雪蓉は必死に心の乱れを抑えつけ、仙に答える。

「わかったわ。気をつける」

 雪蓉の返事に仙は軽く頷くと、厨房を出て行った。
 部屋で眠る小さな巫女たちのことも心配だが、納屋にいる男の方が危険度は高い。ここは頑丈な造りだから心配ないものの、納屋は脆弱で、狼が本気を出せばすぐに破壊できるだろう。
 しかも今夜は、嵐のような暴風が吹き荒れている。納屋の屋根がめくれ、いつ壁が吹き飛んでもおかしくない。
 それに、男はまだ歩くことすらままならない。襲われたら逃げることもできないだろう。
 雪蓉は急いで男の食事作りを再開した。終わると、大きなお盆を片方の手で器用に支え、もう片方の腕には提灯ちょうちんの取っ手を通し、あるものを持って納屋へと急いだ。

「ごめんね、遅れちゃって」

 いつものように足で扉を開けて納屋に入った雪蓉は、息を切らしながら暗闇に向かって声をかける。
 提灯ちょうちんを大きく左右に振り、明かりに照らされた男の姿を見つけ、「いた、いた」と微笑んだ。床に提灯ちょうちんを置くと、暗い納屋を丸い光が照らし出す。
 夕飯、というよりも、もはや夜食の時分だが、男は文句も言わずに与えられた食事を口にする。皿にこんもりと盛られたのは焼飯だ。胡麻油とにんにくとねぎの香ばしい匂いが香る。シャキシャキと歯切れよく噛む音が聞こえるのは青菜で、満足そうに食べる男の顔を見ると心が満たされる。
 あっという間に平らげた男は、始終外の様子を気にしている雪蓉に声をかける。

「さっきからどうした。それに、手に持っている物はなんだ」
「これ? 平低鍋フライパンよ」

 雪蓉は得意気に、狼対策として持ってきた平低鍋フライパンを掲げた。

「それくらい知っている。なぜここに平低鍋フライパンを持ってきたのかと聞いている」
「狼が襲撃しに来るかもしれないのよ。武器になりそうなものといったら、これくらいしかなくて」
「狼だと? なぜ狼がここへ……ああ、俺のせいか」

 男はすぐに納得した様子で頷く。

「早くここを出なくてはいけないな」
「でも、まだうまく歩けないのに山を下りるなんて、それこそ自殺行為よ」
「用を足しに納屋から出ることくらいはできる」
「その間に狼に襲われたら? 山を下りる時は一緒に行くわ」

 男は不思議なものを見るように、まじまじと雪蓉の顔を見た。

「自分の危険を顧みず、俺を助けようとしているのか?」
「せっかく助けたのに死なれては、後味が悪いじゃない」
「そもそも、どうして俺を助けた」
「人を助けるのに、理由なんていらないでしょう」

 雪蓉の言葉に、男は目を見開いて驚いた。

「さすが巫女は尊いこころざしを持っている。いや、巫女だからではない。お前だからか」

 男は穏やかな眼差しでささやくように零した。意味ありげに見つめる瞳はあまりにも魅惑的だ。
 その時だった。大きな風が吹き、轟音ごうおんと共に納屋が揺れる。それと同時に、不穏な気配を感じて、雪蓉は身震いした。
 納屋の外からけものの足音や息遣いが聞こえ、じわじわと忍び寄ってくる。いつの間にか、見えない糸で絡まれたように密かに危険が迫っていたのだ。
 雪蓉は平低鍋フライパンを片手に、扉を見据えたまま男を自分の背の後ろに隠した。
 雪蓉の行動に、男は感心したようにつぶやく。

「お前は、息を吸うように誰かを守るのだな」

 雪蓉は男の言葉に反応する余裕もなく、扉を睨み続けている。

「嫌な予感がするわ」
「ああ、もうすでに囲まれている」

 男がやけに悠長に構えているのはなぜだろうか。いかに怪力の雪蓉といえど、狼相手に勝てる算段はない。このままだと、二人一緒に死んでしまう。

(この人だけでも逃がすことはできないかしら。いいえ、自由に動けないのに無理よ。私がおとりになったとしても、一人では逃げられない。この場で狼を倒すしか方法はないわ)

 ふと気づけば、納屋の外からたくさんのけものの足音が聞こえる。狼は一匹だけでも脅威なのに、群れと対峙するなど不可能だ。
 体当たりする大きな音がした直後、扉が開いた。そもそも納屋の扉には鍵がなく、あっという間に突破されてしまった。
 暗闇に浮かぶ狼の瞳が光る。黒い剛毛に、垂れた大きな尾。納屋の中から見えるだけでも、外には十匹近くの狼がいるようだった。
 その中でも一際大きく威厳のある狼が、ゆっくりと中に入ってきた。ひたいには稲妻のような傷がある。まるで熊ほどの大きさのある体躯たいくで、この狼が大将であることが一目瞭然でわかった。
 男を背中で隠しながらも、平低鍋フライパンを持つ雪蓉の手は震えている。

(しっかりしなさい。今、この人を守れるのは私しかいないのよ)

 自分に言い聞かせ、決意を固める。

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