後宮の料理妃 霊獣の巫女と神龍の皇帝

及川 桜

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1巻

1-3

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 そもそも、雪蓉が男を饕餮山にかくまってしまったのがいけないのだ。狼を倒してその責任を取らなければいけない。たとえ、ここで死のうとも。
 そんなことを考えていると、後ろで座っていた男がおもむろに立ち上がった。

「その平低鍋フライパンをよこせ」
「駄目よ、まともに歩けないあなたになにができるというの?」

 しかし、しっかり柄を握っていたにもかかわらず、ひょいと簡単に男に平低鍋フライパンを奪われた。

「お前が俺を守るのではない。俺がお前を守るんだ」

 足を引きずりながら雪蓉の前に立った男は、不敵な笑顔で狼と相対する。
 男から放たれる威厳と貫禄は、狼の大将をも上回る圧倒的なものだった。絶対的自信に満ちた威容に、思わず平低鍋フライパンを取り返すことも忘れて見惚れてしまう。
 大将と思われる狼が男に向かって飛びかかる。獰猛どうもうな口先から鋭利な牙が光った。
 男は体をかがめ、飛び込んできた狼の顎に平低鍋フライパンの柄を突き上げた。狼は甲高く一鳴きすると、大きな体ごと納屋の天井に叩きつけられた。そしてそのまま地面に落ちる。
 床に倒れ込み、絶命しているように見えた狼の大将だったが、仲間が心配そうに囲んで鼻先を押しつけると、目を開けてゆっくりと起き上がった。
 恨めしそうな目で狼は男を見つめる。しばらく互いに見つめ合うと、狼はきびすを返して納屋から出て行った。子分たちも大将のあとを追う。
 狼が去ると、風が猛烈な勢いで納屋を揺らした。まるで竜巻のような突風が右往左往している。
 男は足を引きずりながらも扉を塞ぐが、狼に突進された衝撃で上手く閉まらない。壊れた扉の取っ手に平低鍋フライパンの柄を差し込み、無理やり扉を閉めた。
 外の風は相変わらずうるさかったが、ひとまず平穏が訪れる。
 男が膝をつき、呆気に取られて座り込む雪蓉の肩をさする。

「怖かっただろう、大丈夫か?」

 雪蓉は我に返った途端に恥ずかしくなって、顔を背けた。

「大丈夫よ! ほんの少し、驚いただけ」

 守ってもらった経験などなかったので、動揺していた。男性との関わりもほとんどなかったし、これまで雪蓉より強い男性なんて見たこともなかった。村の若頭が求婚に来て追い返した時も、雪蓉の方が強かったくらいだ。
 だからこそ、生まれて初めて女性扱いされたことに戸惑ってしまう。

「あいつは俺を認めた。もう狼は来ないから安心しろ」

 男は雪蓉の頭をなでる。
 顔から火が出るように真っ赤になっているのが自分でもわかり、雪蓉は両手で顔を覆ってうつむいた。こんな顔を見られては、雪蓉が男のことを意識しているように思われるではないか。守ってもらった経験が初めてで、自分がかよわい女性になってしまったみたいで気恥ずかしかっただけだ。

「泣いているのか?」

 男が心配そうに雪蓉の顔を覗き込んでくるので、余計に顔が赤くなる。

「違うわ。納屋の扉が壊れてしまったことを嘆いているのよ」
「ああ、それはすまなかった」

 自分が壊したわけではないにもかかわらず、男は申し訳なさそうに平低鍋フライパンの柄がはまった扉を見つめる。
 もちろん、雪蓉は扉が壊れてしまったから落ち込んでいるわけではない。

「しかし、平低鍋フライパンというのは万能だな。調理にも使えるし、狼を撃退するにも役立ったし、今はかんぬきの代わりにもなっている」

 男の飄々ひょうひょうとした物言いに、雪蓉は「なにを言っているのよ」と呆れながらも、狼の襲撃という大変な目に遭っても泰然とした様子に男らしさを感じる。

(もう、どうしたっていうのよ、私!)

 雪蓉は顔を覆っていた両手を離し、空になった皿が載ったお盆と提灯ちょうちんを持って立ち上がった。

「帰るから、扉を開けるわよ」

 せっかく閉まっていた扉から平低鍋フライパンを引っこ抜くと、扉が今にも壊れて吹き飛んでいきそうになる。外はまだ強い風が吹いているのだ。

「狼はもう来ないが、風は強い。ここで夜を明かしては?」

 男の提案に、雪蓉は耳まで真っ赤になりながら大きな声で答える。

「走ればすぐだから大丈夫よ! それと、ええと……。あ、ありがとう。それじゃ!」

 雪蓉は男の顔を見ずにおざなりに礼を言うと、平低鍋フライパンを置いて一気に走り出した。
 風に吹かれながらも雪蓉は勢いよく走り、あっという間に家屋に着いた。
 入る前に納屋を見ると、男は納屋の外から雪蓉を見守っていたらしく、目が合った。雪蓉は逃げるように家屋に入る。暴れるような胸の鼓動が、収まってくれる気配はまったくなかった。


 納屋の扉が壊れてしまったので、別の場所に男を隠さなくてはいけないかと思い悩んでいたが、それは杞憂に終わった。
 なぜなら昨晩の猛烈な風の影響で、至るところで建物が破損しており、それの修復に朝からてんやわんやだったからだ。納屋の扉が不自然に曲がっていても、不思議に思う者はいなかった。
 朝ご飯を届けに行けないほど忙しく、昼はなんとか飯団おにぎりを届けることができたが、納屋の前に置いてきたので男の顔を見ることはできなかった。
 というのも、仙に怪しまれているのか、常に視線を感じるのだ。日中は目立った動きはせず、皆が寝静まるのをじっと待っていた。
 そうして夜も更け、すっかり静まり返った時分に雪蓉は納屋に赴いた。
 扉の鍵は補強されていて、平低鍋フライパンは必要なくなったのか、地面に置かれていた。

「凄いわね、道具もなしにどうやったの?」
「朝から巫女たちが修復に勤しんでいただろう。その道具を少しの間、拝借した」
「納屋から出たの? 仙婆に見つかったら大変だわ!」
「大丈夫だ。そんなへまはしない」

 男はまだ足を引きずってはいるが、随分良くなっているようだ。別れの時は近いのかもしれない。

「仙婆に怪しまれているから、夜中に厨房で料理をすることができなかったの。飯団おにぎりばかりでごめんなさい」

 笹の葉にくるまれた飯団おにぎりを渡すと、男は嬉しそうにそれを受け取った。

「まったく問題ない」

 昼と同じ飯団おにぎりなのに満足そうに食べる男を見て、いつもあまり良い物を食べていなかったのではないかと心配になる。
 自分の名前を忘れてしまったこの男は、この先どうやって暮らしていくのだろう。働き先のあてはあるのだろうか。
 夢中で飯団おにぎりを頬張る男の姿を見つめながら、雪蓉はつい男の身の上を案じてしまう。

「俺のことを今、かわいそうだと思って見ていただろう」

 食べ終わると、男は心底不服だと言わんばかりの顔で眉を寄せる。

「ええと、そんなことはないけれど……」

 雪蓉は男から視線を外し、目を泳がせた。
 今まさに、そう思っていたところだったので決まりが悪い。
 男はこれみよがしに大きく嘆息したあと、やけに真剣な表情で雪蓉を見つめる。

「雪蓉、お前の望みはなんだ」
「なによ、急に」
「いいから答えろ」

 男が真面目に聞くので、雪蓉も真面目に考えてみる。

「そうね、私の望みはただ一つよ。食を極め仙となり、この地を守る。身よりのない子どもたちを預かって、心と体を癒し、生きる術を教えて自立を見届ける。私は死ぬまでこの土地を離れない。だから結婚もしない」

 予想しなかった答えだったのか、男は驚いていた。

「仙は駄目だ」

 勢いよく否定され、雪蓉は面食らう。

「どうして」
「どうしてと言われても……」

 男は気まずそうに視線を外した。
 雪蓉は不思議に思ったが、それよりも頭の中に浮かんだ将来の自分の姿が気になる。どんどんかたちになるその夢をうっとりと語る。

「仙の術は、その道を極めれば得ることができると言うわ。仙婆のように強い力はないけど、私の作った料理には不思議な力が宿るの。きっと、毎日饕餮のために料理を作って、仙婆の力を見ているからだわ。ここで修行を積めば、いつか必ず――」

 雪蓉はここでの生活が気に入っていた。料理を作ることも好きだし、自分よりも小さい子どもたちの世話をすることも好きだ。だからずっとここにいたい。そして夢を叶えるのだ。そのためにも、男にうつつを抜かしている暇はないと自分に言い聞かせる。

「仙にならずとも幸せになる方法を知っている」
「え?」

 男は真っ直ぐに雪蓉を見つめて続ける。

「後宮の妃となれば、美味うまいものは食べ放題で贅沢し放題。皇帝からの寵を得られれば、いくら低い身分であろうとも誰も歯向かえず、立場は安泰。どうだ、悪い話ではないだろう?」

 男がなにを言い出すかと身構えていた雪蓉は、大きく口を開けて笑った。

「あはははは! 後宮の妃? なに馬鹿なことを言っているの、頭おかしいんじゃない? ……ああ、ごめん、頭をぶつけていたのよね、冗談にならないわ」

 雪蓉は笑ってしまった自分を反省する。
 男は一瞬むっとしたようだが、すぐに真剣な表情に切り替えて近寄ってきた。
 急に距離が近くなり、雪蓉は体を固くした。男の雰囲気が変わり、妙な圧力を感じたからだ。さらに男は雪蓉よりも頭一つ分大きく、ふいに美丈夫であることを意識してたじろいでしまう。

「お前は美しい。そして純真だ。もっと、女としての幸せを考えたらどうだ?」

 甘い言葉で男はささやく。雪蓉の瞳を見つめ、白い頬に指を這わす。
 絡み合った目線に、時が一瞬止まったように感じた。

「あのね。仙になりたいなんて言う女が、世間一般の女たちが憧れることに興味あると思う? 美味おいしいものなら自分で作るし、華麗な衣装だって動きにくくて邪魔なだけ。寵愛を得ることに躍起になる人生なんて息苦しいだけよ。男に頼らずとも、私は生きていける。だから、結婚なんてしないの」

 雪蓉のはっきりとした意志を感じさせる言葉に、甘い雰囲気は一瞬で消えた。男は不満げに言う。

「だとしても、わざわざ仙にならなくてもいいだろう。霊獣の近くに住み続け、この土地から出られない幽閉されたような身の上だ」
「それでいいのよ。私がこの土地に居続ければ、身よりのない子どもたちが巣立ったあとも、帰る場所になれる。故郷ができるの。私は仙婆のように、来る者拒まず、去る者追わず、いつでも帰ってこられる場所としてあり続けたい」

 雪蓉の瞳に迷いはなかった。
 しかし、男の瞳にも迷いはない。

「仙にはさせない。絶対に」

 男は冷淡な眼差しで、まるで命令を下すように言った。

「どうしてあんたにそんなこと言われなきゃいけないの!」

 怒って抗議する雪蓉の腕を、男が掴み、引き寄せた。抵抗する間もなく押し付けられた唇に、雪蓉は目を丸くして固まった。

「お前はもう、俺のものだからだ」

 次の瞬間、静かな夜の闇の中で、バチーンと頬を叩く音が響き渡った。


     ◆


 雪蓉が、図々しくて生意気で、挙句の果てに無理やり人の唇を奪った失礼千万な不埒な男を助けてから一ヵ月余り。
 雪蓉はすっかりもとの生活に戻っていた。というのも、男の頬を渾身の力で平手打ちし、「馬鹿! 変態! 最低男!」と思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた次の日の朝、男は忽然と姿を消してしまったのだ。
 まだ完治していなかったのに、一人で山を下りるなど自殺行為だ。近くを探したが、結局見つからなかった。あんな最低な奴でも、助けた手前無事だろうかと心配になる。

(でも、きっと大丈夫よね。どうしてかはわからないけれど、凄まじい回復力だったし。もしかしたらあの平手打ちで、急に記憶が戻ったのかもしれないわ)

 そうであればいいと、雪蓉は密かに願う。清らかな水底のような蒼玉色の瞳、整った顔立ち、見上げるほど高い背丈。雪蓉の作った料理をとても美味おいしそうに食べる姿。そして、狼を倒した勇敢な姿――
 思い出すと、胸の奥がちりちりと痛む。互いに口は悪かったけれど、本気で腹は立たなかった。

(元気だと、いいな)

 雪蓉は大きな雲を見上げながら、心の中でつぶやく。
 今日も無事に饕餮に食事を捧げ、洞窟から帰る道すがら、騒がしい物音がした。馬の鳴き声や、何人もの人の声。それらは雪蓉たちの住む家屋の辺りから聞こえてきた。
 小さな巫女たちと何事かと目を合わせ、急いで家屋へと走る。
 そこには馬に乗り、鎧で身を固めた武官が大勢いた。物々しい雰囲気に、小さな巫女たちは震え上がる。
 仙の居宅を取り囲むようにして並ぶ武官たちに、腰の曲がった小さな仙が一人で対応しているようだ。

(なにを話しているの?)

 雪蓉は震える小さな巫女たちを抱きしめながら、彼らの様子をうかがう。
 すると彼らは大きな声で「潘雪蓉はおるかー」と叫んでいた。

(あの人たちの目的は、私?)

 林から彼らの前に出て行こうとする雪蓉の裾を、小さな巫女が掴んだ。不安そうに見つめる彼女たちに、雪蓉はにっこりと微笑む。

「大丈夫よ、私はなにも悪いことなどしていないもの」
(そうよ、大丈夫。なにが目的かわからないけど、仙婆一人に任せて隠れているわけにはいかないわ)

 小さな巫女たちをなだめたあと、雪蓉は意を決し、彼らの前に歩み出た。

「潘雪蓉は私よ!」

 遠くまで響く威勢のいい声に、大勢の武官たちが一斉に雪蓉の方に振り向く。
 体格が良く頑強そうな男たちの視線を一身に浴び、さすがの雪蓉も肝が冷えた。しかし、それをおくびにも出さず、背筋をしゃんと伸ばす。
 男たちを睨みつけるようにたたずんでいると、仙と話していた位の高そうな武官が雪蓉に歩み寄ってきた。

「貴女が雪蓉か。なるほど」

 その武官は、まるで雪蓉を値踏みするように全身に視線を向ける。当然、いい気分などしない雪蓉は毅然として口を開いた。

「私に何の用があって?」
「ある御方が貴女に用があるとのことで、兵を引き連れ参った」
「ある御方?」

 おそらく相当高い身分なのであろう。そんな人物に心当たりがあるはずもなく、雪蓉は首を捻った。
 すると、向こうから馬のひづめの軽やかな音がして、武官たちが一斉に道を開ける。
 黒い毛並みが美しい馬に乗り、紅色の鎧兜をした男が雪蓉にゆっくりと近づいてくる。
 先ほどまで仙と話していた武官も位が高そうだと思ったが、その比ではない。威風堂々とした姿で、駿馬しゅんめまたがっていることからも、兵の大将であることがうかがい知れる。
 男は雪蓉の側で馬を止めると、おもむろに紅色の鎧兜を外した。
 現れた顔は、息を呑むほどに整った見目うるわしい青年だった。流れるような漆黒の髪に、鋭くも色気を含んだ蒼玉色の瞳。

(こんなに綺麗な顔をした男の人、初めて見た)

 雪蓉は圧倒されながらも男を見上げた。

「久しぶりだな、雪蓉」

 固く結んだ男の唇が、わずかに綻ぶ。すると、威圧されるような雰囲気がいくぶん和らいだ。

「ええと、どちら様ですか?」

 見るからに高い身分であるこの男と会ったことがあるはずもないし、その顔に見覚えもなかった。戸惑う雪蓉を見て、男は眉根を寄せる。

「鎧兜を取っているのに思い出せないとは……お前の脳みそは鶏以下だな」

 精悍せいかんな顔立ちに似合わない暴言を吐かれ、雪蓉は「あっ」と声を出した。
 この生意気な口ぶり、なにより蒼玉色の瞳。髪はわかめのように垂れ下がっていたから雰囲気が随分違うけれど、間違いない。

「あんたは、あの時の……!」

 雪蓉は腕をぴんと張り、男を指さした。

「思い出してくれたみたいで光栄だな」

 不躾ぶしつけに指をさされたにもかかわらず、男はにやりと口の端を引き上げる。
 どうして行き倒れ男がここにいるのか不思議ではあるけれど、その前にうっかり流してしまいそうになった先ほどの発言を指摘する。

「脳みそ鶏以下とは相変わらず失礼な男ね!」

 無礼極まりない口ぶりと態度に、武官が慌てて会話に割って入る。

「おい、女! この御方は、舜殷国皇帝、劉赫様であられるぞ!」

 ……舜殷国、皇帝?

「まさか」

 から笑いをすると、周りの武官たちはまなじりきつく雪蓉をめつける。
 その雰囲気に、どうやら本当のことであると察する。

「嘘……」

 途端に血の気が引く。なにしろ雪蓉は、時の皇帝に渾身の平手打ちをおみまいし、罵詈雑言を浴びせかけたのである。

「そんな……もしかして、あの時のことを恨んで私を処罰しに来たの!?」

 なんという執念深い底意地の悪さ!
 雪蓉は心の中で叫んだ。

「お前、今、心の中で俺のことを粘着質な野郎だとか思っただろう」
「いや、そこまでは……」

 だいぶ近いことを心の中で叫んでいたが、少し言い方が違う。意味は同じだが。
 しどろもどろになる雪蓉を見て、劉赫はため息を吐いて言った。

「処罰しに来たのではない」
「じゃあ、なにをしに?」

 いぶかしむ雪蓉に、劉赫は不敵に微笑む。

「俺が皇帝だとわかっても、口調も態度も改めないとはさすがだな」

 呆れるような口ぶりだが、それでこそ雪蓉だと喜ぶような満足げな笑みを漏らし、劉赫は言った。
 雪蓉は巫女なので世俗とのしがらみがない。そもそも、立場や権力で態度を変える性格ではなかった。

「あっ! お礼しに来てくれたの?」

 雪蓉の顔がぱっと華やぐ。

「お礼……そうだな。最高の幸せをお前に与えに来た」

 劉赫の言葉に、なぜか嫌な予感がして、雪蓉は自然と身構えた。

「お前を後宮の妃に召し上げる」
「は?」

 驚いたのは雪蓉だけではない。そっと成り行きを見守っていた小さな巫女たちや仙さえも言葉を失った。

「俺と結婚しろ、雪蓉」

 勝ち誇った劉赫の笑みに、冗談ではなく本気で言っているのだと悟る。
 雪蓉は泡を吹いて倒れそうになったが、気合で意識を取り戻す。ここで倒れたら、起きた時には後宮の妃にされていそうだ。

「お断りよ!」

 雪蓉はもう一度皇帝の頬に平手打ちをかましそうな勢いで言った。

「お前、自分がなにを言っているのかわかっているのか?」

 駿馬しゅんめまたがり、雪蓉を見下ろしながら劉赫が目を細めて言う。声は抑えていたが、怒っているのは明白だった。しかし、雪蓉はひるまない。

「ええ、十分理解しているわ。妃になんて絶対にならない!」

 雪蓉は仙になることが夢なのだ。後宮というおりに入れられるなんてまっぴらごめんである。
 雪蓉の無礼な態度に、武官たちがざわつく。だが劉赫は怒ることなく、武官たちを鎮める。

「お前の言い分はわかった」
「わかってくれたみたいで良かったわ」

 案外あっさりと引いてくれたことに、雪蓉はほっと胸をなで下ろす。しかし、劉赫の口から出た次の言葉に目を丸くした。

「捕獲しろ」
「ほ、捕獲!?」

 皇帝の一声で、武官たちが雪蓉を取り囲む。

「待ちなさいよ、こんなの人権侵害よ! 卑怯者、鬼畜、人でなし! それと、ええと……甘えん坊!」

 やけになった雪蓉は、襲いかかる武官に囲まれながらも、思い浮かぶあらゆる悪口を並べ立てる。妃になるくらいなら、不敬罪で処罰された方がいい。

「それを言うなら甘党だ」

 劉赫は眉間にしわを寄せたかと思うと、他の悪口には一切触れず、そこだけ訂正してきた。
 逃げようと必死で抵抗する雪蓉だったが、多勢に無勢。
 いかに怪力で名をとどろかせている雪蓉でも、多くの武官の力にはかなうはずもなかった。

「私は絶対、妃なんかにならない……から……ね――!」

 雪蓉の叫び声は、押し寄せてきた武官たちの影に飲まれていったのだった。



   第二章 怪力女の輿こし


 こんなはずではなかった。
 劉赫は漆黒の駿馬しゅんめまたがりながら、人知れず嘆息する。
 最高のもてなしをして雪蓉を後宮入りさせるべく、心を弾ませて自ら迎えに行った。しかし、雪蓉が想定以上に暴れるので猿ぐつわをつけ、さらには手足を縛って輿こしに乗せて運ぶことになってしまった。
 当初の目論見もくろみでは、輿こしに飽きた雪蓉を自慢の駿馬しゅんめに乗せて、後ろから抱きしめるような形で仲睦まじい時を過ごす予定だったので、どうしてこうなったのかと頭が痛い。
 看病されている間に雪蓉におのれの身分を打ち明けなかったのは、皇帝だと知ってしまったら態度を改められて距離ができると思ったからだ。
 雪蓉は無遠慮で粗暴なところはあるものの、そんなところも新鮮で好ましく感じていた。
 実際、皇帝だと素性を明かしても、これまでと同じ口調で態度も変えないとは恐れ入る。それでこそ自分が初めて惚れた女だ、と胸を張って自慢したい気持ちになったほどだ。
 しかし、まさかこれほど暴れて拒絶されるとは思ってもみなかった。
 後宮の妃という立場に興味がないようだったので、すんなり承諾されないとは覚悟していたが、皇帝自らが求婚すれば話は変わると楽観視していた。
 やはり富も権力も寵愛も、彼女には不要なものらしい。そこにも惹かれたのだが、逆にそれが障壁となろうとは。
 駿馬しゅんめまたがりながら、劉赫は空を見上げた。
 青白磁せいはくじ色の空には、白雲がかすみを帯び、うららかな日差しが降り注いでいる。
 雪蓉が乗っている輿こしを護衛するかのように隣につき、ゆったり馬を進ませながら皇居へ急ぐ中、劉赫はひと月余り前の出来事を思い出していた――


 人に災いをもたらす四凶の一つ、檮杌の結界が破られた。
 神龍を体に宿し、霊獣と対抗できる唯一の人間は皇帝のみ。劉赫は単身で征圧に赴くこととなった。
 檮杌は犬のような長い毛並みと豚のような牙を持ち、体は虎に似た霊獣である。知能は低いが、気性が荒い。
 広大な荒地に檮杌を呼び寄せると、劉赫は体から神龍を解き放った。
 皇帝は霊獣と対抗できると言われているが、神龍を解き放てばただの人間だ。神龍と檮杌の戦いの最中に、生身の人間がその地にいるというだけで命が危うい。
 彼らは劉赫なぞ見えておらず、木々をなぎ倒し、風を竜巻のように舞い上がらせる。最終的に劉赫は、神龍の尾に吹き飛ばされてしまった。
 さすがにもう駄目かと思った。もとより死は怖れていない。むしろ死を望み続けながらも、それが叶わなかった身の上だ。

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