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サンタヤーナの警句(第二話)
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二
「編集会議を開きますので、関係の方は会議室へお集まりください」
副編集長の種村がそう言いながら、率先して席を立った。指折り数えるほどしかいない小所帯で、「関係の方」もないだろう。種村がわざわざそんな言い方をする理由に、隆三には十分過ぎるほど思い当たった。
身から出た錆とは言え、あの一件があってから世間並みの出世街道を大きく外れることになった。会社はそれとなく辞表を提出するよう促したが、それでは生計が立たないからと曖昧な態度のまま今日に至っている。種村のように自分を“腫れ物”扱いする後輩たちには済まないと思いつつ、その一方でひとたび鎧を脱いでしまえばこんなにも身が軽くなるものか--という不埒な心地よさも覚えつつある。もっともそれは、そこまで“能天気”になり切れればの話だが……。
二時間続いた会議の末に、次号で「インフレーション」を取り上げることになった。「雑誌が出る頃までにインフレが収まってたらどうするんですか?」という意見も出たが、「少なくとも年内は続くのじゃないか」という声の方が勝って、それなら早くやるに越したことはないというところへ落ち着いた。
問題は--である。
隆三を除く編集部内の誰一人として、インフレを知る者がいないことだった。そこで是非ともと、今回の特集のキャップを半ば押し付けられた。
隆三にしたところで、インフレなんて記憶の彼方の教室の片隅にチョコンと座っていた同級生のような、薄い影の跡に過ぎない。せいぜい思い起こすのはトイレットペーパー騒動くらいだろうか……。それにしたって直接の記憶だったかどうかも曖昧だ。
さりとて、今さら引き返す訳にもいかない。
まあいい。今の自分はある意味“自由人”の立場にある。この際、目いっぱいその恩恵に預からしてもらおう。そうと決まれば、好きにやらしてもらうことにしよう。
隆三をキャップに担ぎ上げた特集チームには、入社十年目の吉川幸一と二年目の鉾田ななみが加わった。全体の構成をどのように組み立て、各人がどの分野を担当するかを決めねばなるまい。今風のやり方で進めるならば、先ず二人が何をやりたいかという“希望”を聞くのが筋だろう。だがそもそもインフレを知らない世代に“希望”を募るなど、それこそ無茶ぶりというものだ。ここは古風な“昭和世代”式で進めることにする。
「私が小学生の頃、自動販売機の缶ジュースは1本50円でした。父親に100円をもらって2本買い、それを兄弟二人で飲んだのを覚えています」
自ら企画を練ろうと、「インフレ」をキーワードに動画を検索した。するとパソコン画面に現れた人物が、自分の幼少期の体験を語りはじめた。缶ジュース1本50円っていつの頃だろう? 隆三は先ずもって、話者の体験談に自分の記憶を重ね合わせた。
瞼に浮かんだおぼろな記憶は、缶ジュースではなく兄に連れられて行った野球の試合だ。あれは自分がいくつの頃だったろう……。確か兄のお下がりか近所の誰かの“お古”をもらったんじゃなかったかな……。その日、彼は生まれて初めて野球のユニフォームを身に着けた。あれはもう小学校に上がってたかな、それより前だったかな……。ぼんやりとした記憶の糸を手繰り寄せてみたが、ちょうど失敗した釣りのように糸は切れて獲物は海中へ姿を消した。
そうそう、隆三が思い出そうとしたのはそんなことではなく、試合が終わった後、みんなで近くのパン屋か何かに行って、初めて自分のお金でジュースを買ったことだった。もっともそれは缶ジュースではなく、瓶のファンタか何かだったはずだ。うん。確かあれは30円だった--。何であの時30円持ってたんだろう--? それは思い出せないが、とにかくあの時自分は30円持っていて、そのお金でファンタを買ったんだ。
あの頃、ジュースというのはもっと高嶺の花だと思ってた。特別な日に大人の人が買ってくれなければ飲めないものと思っていた。それを自分で買った--。兄と一緒に買った--。何か自分がすごく大人になったような気がして、うれしかった。ジュースの味よりそのイメージが鮮明に浮かび上がった。
「ところがですね……」
すっかり上の空になった隆三を現実世界へ引き戻すように、画面の人物は言葉を継いだ。
「1973年にすごいことが起こったのです。ジュースの値段が10円上がったんですね。1本60円ですから、100円で2本買えなくなったんです。私は父の許へ行ってもう20円くれるよう頼みましたが、『俺の給料はそんなに上がってない』と断られ、仕方ないから1本を2人で分け合いました。これ、インフレなんですね」--。
生まれ育った時代や環境の違いだろうか? 隆三には少年時代と自販機の記憶が重なり合わない。そんなどうでもいいことで堂々巡りしていたら、話者はたたみかけるように続けた。
「翌年さらに10円、その後また10円と、短期間にモノの値段が上がっていきました。しかもその間、給料は上がらなかったのです……」
「編集会議を開きますので、関係の方は会議室へお集まりください」
副編集長の種村がそう言いながら、率先して席を立った。指折り数えるほどしかいない小所帯で、「関係の方」もないだろう。種村がわざわざそんな言い方をする理由に、隆三には十分過ぎるほど思い当たった。
身から出た錆とは言え、あの一件があってから世間並みの出世街道を大きく外れることになった。会社はそれとなく辞表を提出するよう促したが、それでは生計が立たないからと曖昧な態度のまま今日に至っている。種村のように自分を“腫れ物”扱いする後輩たちには済まないと思いつつ、その一方でひとたび鎧を脱いでしまえばこんなにも身が軽くなるものか--という不埒な心地よさも覚えつつある。もっともそれは、そこまで“能天気”になり切れればの話だが……。
二時間続いた会議の末に、次号で「インフレーション」を取り上げることになった。「雑誌が出る頃までにインフレが収まってたらどうするんですか?」という意見も出たが、「少なくとも年内は続くのじゃないか」という声の方が勝って、それなら早くやるに越したことはないというところへ落ち着いた。
問題は--である。
隆三を除く編集部内の誰一人として、インフレを知る者がいないことだった。そこで是非ともと、今回の特集のキャップを半ば押し付けられた。
隆三にしたところで、インフレなんて記憶の彼方の教室の片隅にチョコンと座っていた同級生のような、薄い影の跡に過ぎない。せいぜい思い起こすのはトイレットペーパー騒動くらいだろうか……。それにしたって直接の記憶だったかどうかも曖昧だ。
さりとて、今さら引き返す訳にもいかない。
まあいい。今の自分はある意味“自由人”の立場にある。この際、目いっぱいその恩恵に預からしてもらおう。そうと決まれば、好きにやらしてもらうことにしよう。
隆三をキャップに担ぎ上げた特集チームには、入社十年目の吉川幸一と二年目の鉾田ななみが加わった。全体の構成をどのように組み立て、各人がどの分野を担当するかを決めねばなるまい。今風のやり方で進めるならば、先ず二人が何をやりたいかという“希望”を聞くのが筋だろう。だがそもそもインフレを知らない世代に“希望”を募るなど、それこそ無茶ぶりというものだ。ここは古風な“昭和世代”式で進めることにする。
「私が小学生の頃、自動販売機の缶ジュースは1本50円でした。父親に100円をもらって2本買い、それを兄弟二人で飲んだのを覚えています」
自ら企画を練ろうと、「インフレ」をキーワードに動画を検索した。するとパソコン画面に現れた人物が、自分の幼少期の体験を語りはじめた。缶ジュース1本50円っていつの頃だろう? 隆三は先ずもって、話者の体験談に自分の記憶を重ね合わせた。
瞼に浮かんだおぼろな記憶は、缶ジュースではなく兄に連れられて行った野球の試合だ。あれは自分がいくつの頃だったろう……。確か兄のお下がりか近所の誰かの“お古”をもらったんじゃなかったかな……。その日、彼は生まれて初めて野球のユニフォームを身に着けた。あれはもう小学校に上がってたかな、それより前だったかな……。ぼんやりとした記憶の糸を手繰り寄せてみたが、ちょうど失敗した釣りのように糸は切れて獲物は海中へ姿を消した。
そうそう、隆三が思い出そうとしたのはそんなことではなく、試合が終わった後、みんなで近くのパン屋か何かに行って、初めて自分のお金でジュースを買ったことだった。もっともそれは缶ジュースではなく、瓶のファンタか何かだったはずだ。うん。確かあれは30円だった--。何であの時30円持ってたんだろう--? それは思い出せないが、とにかくあの時自分は30円持っていて、そのお金でファンタを買ったんだ。
あの頃、ジュースというのはもっと高嶺の花だと思ってた。特別な日に大人の人が買ってくれなければ飲めないものと思っていた。それを自分で買った--。兄と一緒に買った--。何か自分がすごく大人になったような気がして、うれしかった。ジュースの味よりそのイメージが鮮明に浮かび上がった。
「ところがですね……」
すっかり上の空になった隆三を現実世界へ引き戻すように、画面の人物は言葉を継いだ。
「1973年にすごいことが起こったのです。ジュースの値段が10円上がったんですね。1本60円ですから、100円で2本買えなくなったんです。私は父の許へ行ってもう20円くれるよう頼みましたが、『俺の給料はそんなに上がってない』と断られ、仕方ないから1本を2人で分け合いました。これ、インフレなんですね」--。
生まれ育った時代や環境の違いだろうか? 隆三には少年時代と自販機の記憶が重なり合わない。そんなどうでもいいことで堂々巡りしていたら、話者はたたみかけるように続けた。
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