サンタヤーナの警句

宗像紫雲

文字の大きさ
2 / 46

サンタヤーナの警句(第二話)

しおりを挟む
                                                    二

「編集会議を開きますので、関係の方は会議室へお集まりください」
 副編集長の種村がそう言いながら、率先して席を立った。指折り数えるほどしかいない小所帯で、「関係の方」もないだろう。種村がわざわざそんな言い方をする理由に、隆三には十分過ぎるほど思い当たった。
 身から出たさびとは言え、あの一件があってから世間並みの出世街道を大きく外れることになった。会社はそれとなく辞表を提出するよう促したが、それでは生計が立たないからと曖昧な態度のまま今日に至っている。種村のように自分を“腫れ物”扱いする後輩たちには済まないと思いつつ、その一方でひとたびよろいを脱いでしまえばこんなにも身が軽くなるものか--という不埒ふらちな心地よさも覚えつつある。もっともそれは、そこまで“能天気”になり切れればの話だが……。

 二時間続いた会議の末に、次号で「インフレーション」を取り上げることになった。「雑誌が出る頃までにインフレが収まってたらどうするんですか?」という意見も出たが、「少なくとも年内は続くのじゃないか」という声の方が勝って、それなら早くやるに越したことはないというところへ落ち着いた。
 問題は--である。
隆三を除く編集部内の誰一人として、インフレを知る者がいないことだった。そこで是非ともと、今回の特集のキャップを半ば押し付けられた。
 隆三にしたところで、インフレなんて記憶の彼方の教室の片隅にチョコンと座っていた同級生のような、薄い影の跡に過ぎない。せいぜい思い起こすのはトイレットペーパー騒動くらいだろうか……。それにしたって直接の記憶だったかどうかも曖昧だ。
 さりとて、今さら引き返す訳にもいかない。

 まあいい。今の自分はある意味“自由人”の立場にある。この際、目いっぱいその恩恵に預からしてもらおう。そうと決まれば、好きにやらしてもらうことにしよう。

 隆三をキャップにかつぎ上げた特集チームには、入社十年目の吉川幸一と二年目の鉾田ななみが加わった。全体の構成をどのように組み立て、各人がどの分野を担当するかを決めねばなるまい。今風のやり方で進めるならば、先ず二人が何をやりたいかという“希望”を聞くのが筋だろう。だがそもそもインフレを知らない世代に“希望”を募るなど、それこそ無茶ぶりというものだ。ここは古風な“昭和世代”式で進めることにする。

「私が小学生の頃、自動販売機の缶ジュースは1本50円でした。父親に100円をもらって2本買い、それを兄弟二人で飲んだのを覚えています」
 自ら企画を練ろうと、「インフレ」をキーワードに動画を検索した。するとパソコン画面に現れた人物が、自分の幼少期の体験を語りはじめた。缶ジュース1本50円っていつの頃だろう? 隆三は先ずもって、話者の体験談に自分の記憶を重ね合わせた。
 まぶたに浮かんだおぼろな記憶は、缶ジュースではなく兄に連れられて行った野球の試合だ。あれは自分がいくつの頃だったろう……。確か兄のお下がりか近所の誰かの“お古”をもらったんじゃなかったかな……。その日、彼は生まれて初めて野球のユニフォームを身に着けた。あれはもう小学校に上がってたかな、それより前だったかな……。ぼんやりとした記憶の糸を手繰り寄せてみたが、ちょうど失敗した釣りのように糸は切れて獲物は海中へ姿を消した。
 そうそう、隆三が思い出そうとしたのはそんなことではなく、試合が終わった後、みんなで近くのパン屋か何かに行って、初めて自分のお金でジュースを買ったことだった。もっともそれは缶ジュースではなく、瓶のファンタか何かだったはずだ。うん。確かあれは30円だった--。何であの時30円持ってたんだろう--? それは思い出せないが、とにかくあの時自分は30円持っていて、そのお金でファンタを買ったんだ。
 あの頃、ジュースというのはもっと高嶺たかねの花だと思ってた。特別な日に大人の人が買ってくれなければ飲めないものと思っていた。それを自分で買った--。兄と一緒に買った--。何か自分がすごく大人になったような気がして、うれしかった。ジュースの味よりそのイメージが鮮明に浮かび上がった。

「ところがですね……」
 すっかり上の空になった隆三を現実世界へ引き戻すように、画面の人物は言葉を継いだ。
「1973年にすごいことが起こったのです。ジュースの値段が10円上がったんですね。1本60円ですから、100円で2本買えなくなったんです。私は父の許へ行ってもう20円くれるよう頼みましたが、『俺の給料はそんなに上がってない』と断られ、仕方ないから1本を2人で分け合いました。これ、インフレなんですね」--。
 生まれ育った時代や環境の違いだろうか? 隆三には少年時代と自販機の記憶が重なり合わない。そんなどうでもいいことで堂々巡りしていたら、話者はたたみかけるように続けた。
「翌年さらに10円、その後また10円と、短期間にモノの値段が上がっていきました。しかもその間、給料は上がらなかったのです……」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...