サンタヤーナの警句

宗像紫雲

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サンタヤーナの警句(第九話)

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                 九

 帰りの電車は空いていた。
 パンデミック前ならまだ帰宅ラッシュの時間帯のはずだが、経済活動は壊れたままだ。のっぺりとした一日が終わり、まばらに空いた地下鉄の座席--。その一隅で隆三は、日中仕上げたグラフを思い浮かべつつにんまりとほうけた。マスクで顔が隠れていても雰囲気を感じ取るのか、向かいの席の女の娘が怪訝な視線を投げてきた。以前の彼ならそれに狼狽し、怯え、うつむいたことだろう。だが今日は違う。世界の真実を知ったとばかり、何か誇らしげだった。誰がなんと言ってもいい。うん、それでいい。

 井坂の話通り、作成したグラフは赤い太線で示したドル円レートが、黄色の5年もの米国実質金利に沿うかたちで右肩上がりにジグザクしながら上っていく。上へ行くほど1ドルで買える円の量が増えるという意味だから、「円が安くなる」訳だ。グラフの中央からやや右にずれた辺りで赤い太線が黄色から上方向へ乖離するが、これは「サマーラリー」と呼ばれるアメリカの株高の期間に相当し、9月初旬まで続く。それでもトレンド的にはこの期間でさえ実質金利に追従していることが見て取れる。
 この乖離は9月にいったん収まるが、すぐさま上方向への乖離が起こり、実質金利が下降に転じた後もグングン上へと突き上げていく。ここに日本の当局は“投機”の動きを見て取った。そして一気に145円へと向かう手前で「日銀がレートチェックを始めた」との報道が流れ、介入への動きが本格化する。
 冷や水を浴びせられたマーケットはそこでいったん身を潜め、143円台に留まったまま次の機会を窺うようになる。事態はなお進行中で予断は許さないが、赤のドル円レートが黄色の実質金利に沿っている間は市場参加者のほとんどがこのトレンドに付いていくから、当局の介入も首尾よい成果を上げられないだろう。反対に9月初旬のように実質金利を離れてジグザクを示したならば、マーケット側の足並みが乱れているのだろうから、もしかしたら……。

 さて、地下鉄の隆三に戻る。
 忘我の恍惚は束の間だった。家へ帰れば現実が待っていた。白けた空気、沈黙、孤独……。そんな彼には唯一の救いがあった。とても部屋とは言えない納戸に毛の生えた程度だが、一応のこと「書斎」と呼べる一角を確保していたことだ。
隆三は夕飯と入浴を終えると、いそいそそのオアシスへ逃げ込んだ。
 書斎のパソコンを立ち上げる。今日一日で手順は覚えた。昼間、ドル円レートでやった作業を、今度はドルとユーロ、英ポンドでやってみた。


 
 こちらどうも、日本円ほどきれいな連動がみられなかった。それでも“ドル高”のトレンドは確認できる。ついでに“円安”が囁かれ始めた2022年3月1日を起点に、直近の安値までの騰落率を見たら、日本円は25%も下落していた。同じ手法でユーロを見たら13%安、英ポンドにいたっては17%も下がっていた。
半年で二割の通貨安は確かに「急激な為替の変動」である。だが井坂の言ったように、アメリカの実質金利の変動が背景にあるとするなら、このトレンドから読み取るものは何なのか。果たして「日本だけが売りたたかれている」と見るに相応しいものなのだろうか?
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