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サンタヤーナの警句(第十話)
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十
翌朝、吉川が訝しそうな顔で隆三の許へやってきた。
「羽柴さん、インフレの元凶は原油高だって言うじゃないですか」
「まあ、世間一般にはそういうよね。違うの?」
「それが……。ちょっとこれ、見てください」
昨夜、隆三が為替レートと悪戦苦闘していた頃、吉川も原油価格と取っ組み合ったと見られる。さすがお見事と賞賛したくなったのも、彼が作ったのは隆三のような折れ線グラフではなく、株価の動向に使われる「ローソク足」と呼ばれるチャートだったからだ。
江戸時代に日本の酒田で生まれたこの罫線表は、一日の値動きを「始値」、「高値」、「安値」、「終値」の4つで表す画期的な手法である。その日の相場が上がっていれば赤や中抜き、下がれば青とか黒などに色分けして太線で描き、さらにそこから細く上に高値を、下に安値を伸ばす。その形はローソクから芯が伸びているように見えるため、この名前で呼ばれている。
ローソク足一本ではとくに意味をなさないが、これを一定期間ずらりと並べれば山になったり谷をつくったりする。その変動は種々のパターンをつくり、将来の相場に対する兆候として用いられる。もちろん「一日」をもっと伸ばして「一週間」や「一カ月」の値動きとしても用いられるし、反対に「五分刻み」とか「五秒刻み」のように超短期でも作れる。
隆三が作った為替レートのグラフも本来ならローソク足で表示すべきものだろう。だが彼の目的はトレンドを把握することにあったから、一日の「終値」をつないだグラフで十分だった。
これに対して吉川はやや長期にわたるトレンドを参照したかったので、一カ月ごとの値動きを見ることにした。さすがに一カ月となると、上にも下にも大きくブレる。その月が大きく上下する波乱の相場だったのか、凪いでいたのかもこのチャートなら一目瞭然だ。
吉川はそれを、難なくエクセルで作ってきたのだから感心この上ない。
「上にニューヨークの原油先物価格の推移、下の棒グラフには日本とアメリカのインフレ率を表示しました。日本のインフレは確かに原油との相関性が高いと言えますが、問題はアメリカです」
「フム、なるほど……。無関係とは言えないが、これをインフレの“元凶”とも言い兼ねる。何か別の、もっと大きな要因が潜んでいるのかも知れない」--。
ここで井坂が先だって言いかけたことを思い出した。
「違うね」--。
隆三がインフレの元凶を原油高や円安に求めたのに対する井坂の反応だった。吉川のグラフはそれを見事に示していた。
確かに原油価格は2020年4月に付けたマイナス40ドルという大底を境に、ゆっくりと上昇へ転じてきた。アメリカの消費者物価指数対前年比が1%台から2・6%へ上昇したのが2021年3月のことで、さらに翌4月には4・2%へ急騰するなどインフレに火が着いた頃、原油価格はまだ60ドル台だった。過去の価格水準と比較して「安値」とは言えないが、ようやくパンデミック前の水準を取り戻したレベルである。なぜそれが物価高騰の火付け役となったのか? これでは到底、説明がつかない……。
確かに原油が上がってインフレも高進した。だが原油価格よりもインフレ率の方がはるかに加速度的に上昇しているし、直近のピークを過ぎた後の下降局面では一転して原油の方が下げ足は早い。一言でいえば、何らかの要因でインフレに火が付き、一気に燃え上がったまま火勢はやや衰えたという表現が正しかろう。これは原油の動きとは明らかに異なる。
隆三は掛け値なしに吉川を「あっぱれ」と褒め上げたくなった。
「でかしたじゃないか。値千金だよ。ここをもう少し掘り下げれば、きっと面白い記事になるぜ」
他意のない賞賛を素直に喜んだのか、いつもなら斜に構えがちの吉川が少年のように得意顔をして見せた。
翌朝、吉川が訝しそうな顔で隆三の許へやってきた。
「羽柴さん、インフレの元凶は原油高だって言うじゃないですか」
「まあ、世間一般にはそういうよね。違うの?」
「それが……。ちょっとこれ、見てください」
昨夜、隆三が為替レートと悪戦苦闘していた頃、吉川も原油価格と取っ組み合ったと見られる。さすがお見事と賞賛したくなったのも、彼が作ったのは隆三のような折れ線グラフではなく、株価の動向に使われる「ローソク足」と呼ばれるチャートだったからだ。
江戸時代に日本の酒田で生まれたこの罫線表は、一日の値動きを「始値」、「高値」、「安値」、「終値」の4つで表す画期的な手法である。その日の相場が上がっていれば赤や中抜き、下がれば青とか黒などに色分けして太線で描き、さらにそこから細く上に高値を、下に安値を伸ばす。その形はローソクから芯が伸びているように見えるため、この名前で呼ばれている。
ローソク足一本ではとくに意味をなさないが、これを一定期間ずらりと並べれば山になったり谷をつくったりする。その変動は種々のパターンをつくり、将来の相場に対する兆候として用いられる。もちろん「一日」をもっと伸ばして「一週間」や「一カ月」の値動きとしても用いられるし、反対に「五分刻み」とか「五秒刻み」のように超短期でも作れる。
隆三が作った為替レートのグラフも本来ならローソク足で表示すべきものだろう。だが彼の目的はトレンドを把握することにあったから、一日の「終値」をつないだグラフで十分だった。
これに対して吉川はやや長期にわたるトレンドを参照したかったので、一カ月ごとの値動きを見ることにした。さすがに一カ月となると、上にも下にも大きくブレる。その月が大きく上下する波乱の相場だったのか、凪いでいたのかもこのチャートなら一目瞭然だ。
吉川はそれを、難なくエクセルで作ってきたのだから感心この上ない。
「上にニューヨークの原油先物価格の推移、下の棒グラフには日本とアメリカのインフレ率を表示しました。日本のインフレは確かに原油との相関性が高いと言えますが、問題はアメリカです」
「フム、なるほど……。無関係とは言えないが、これをインフレの“元凶”とも言い兼ねる。何か別の、もっと大きな要因が潜んでいるのかも知れない」--。
ここで井坂が先だって言いかけたことを思い出した。
「違うね」--。
隆三がインフレの元凶を原油高や円安に求めたのに対する井坂の反応だった。吉川のグラフはそれを見事に示していた。
確かに原油価格は2020年4月に付けたマイナス40ドルという大底を境に、ゆっくりと上昇へ転じてきた。アメリカの消費者物価指数対前年比が1%台から2・6%へ上昇したのが2021年3月のことで、さらに翌4月には4・2%へ急騰するなどインフレに火が着いた頃、原油価格はまだ60ドル台だった。過去の価格水準と比較して「安値」とは言えないが、ようやくパンデミック前の水準を取り戻したレベルである。なぜそれが物価高騰の火付け役となったのか? これでは到底、説明がつかない……。
確かに原油が上がってインフレも高進した。だが原油価格よりもインフレ率の方がはるかに加速度的に上昇しているし、直近のピークを過ぎた後の下降局面では一転して原油の方が下げ足は早い。一言でいえば、何らかの要因でインフレに火が付き、一気に燃え上がったまま火勢はやや衰えたという表現が正しかろう。これは原油の動きとは明らかに異なる。
隆三は掛け値なしに吉川を「あっぱれ」と褒め上げたくなった。
「でかしたじゃないか。値千金だよ。ここをもう少し掘り下げれば、きっと面白い記事になるぜ」
他意のない賞賛を素直に喜んだのか、いつもなら斜に構えがちの吉川が少年のように得意顔をして見せた。
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