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サンタヤーナの警句(第十三話)
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十三
取材を始めてからここまで、あまりにうまくことが運んできた。そして初めて躓いた。果たしてこの壁は乗り越えられるのか--? それとも自分が進んできたこの道そのものが間違っていたのか--?
今の隆三が頼る先は井坂しかなかった。
面会場所は井坂の方から指定してきた。店内が薄暗いレトロな雰囲気の喫茶店だった。半ば枯れた観葉植物が視界を遮り、空間に区画をつくっている。低いテーブルに擦り切れたビロードのソファ、高い天井では南洋風の大きなファンがゆっくりと回っていた。それに何よりも、店中がタバコのヤニの匂いに覆われていた。自分も喫煙者だった頃はまったく気にならなかったくせに、タバコを止めた途端、他人の匂いがはた迷惑になった。ヤニの匂いが背広に染み付かないかと神経質になりながら、コーヒーをすすった。
「日銀の介入も効果なかったね」--。
井坂に教わった通り、隆三はドル円レートの推移をアメリカの5年もの実質金利の推移に重ね合わせてグラフにした。実質金利に沿っている限りは“実勢”に従っているのだから、当局の介入も効果は期待薄だ。その実質金利は5年も10年も9月15日に1%台へ乗せ、さらに上昇の気配を見せている。
円安は9月21~22日の日銀政策決定会合で大規模金融緩和政策の維持が確認されるや勢いを増し、一時145円84銭まで進んだ。そこで22日16時30分、日本政府はいよいよ円買いドル売り介入に踏み切ったため、わずか30分で3円50銭ほど円高へ振れた。
長年、円高と戦ってきた日本の金融当局が「円買い介入」を入れたのは実に24年ぶりのことで、翌日の朝刊はこぞって大きく報じた。しかし実質金利の上昇に勢いを得た円売りドル買い勢は週末の欧米市場で再び体制を立て直し、週明け26日からまたぞろ144円の壁を突破する勢いを見せている。
「確かに何だったんだろうなぁ、あの介入……。何か、『投げるぞぉ--、いいかぁ、投げるんだぞぉ』って予告してから石を投げるみたいなさ……。普通、介入ってマーケットの意表を突いて何ぼじゃん……」
井坂は当局の介入に冷ややかな態度を見せたが、返す刀で「ただ、ポンド売りはもっと凄いことになっているぜ」と付け加えた。発足したばかりの新政権が発表した、大幅減税を含む景気刺激策が市場に酷評されて26日未明のわずか1時間でポンドは対ドルで2.3%も急落した。“円安”が囁かれはじめた3月初旬からの騰落率では27.30%と、ついに円の26.46%を凌駕したのだった。
「俺からすれば、ポンドの方がはるかに投機が働いているように見えるがな……。イングランド銀行が利上げしているにもかかわらずだぜ……。ドル円レートばかりに目を奪われていると“円安”にしか映らないが、いま世界で何かが起こっているとするならば、それはあくまで円ではなくドルの世界に起こっているんだ」
井坂は確信めいた口調で自説を繰り返した。
「じゃあ、いずれ円安は終わるかね……」
「円安の方はまあ、実勢には逆らえないからな……。実質金利に沿っている限りは、日本の当局もしばらく黙るんじゃないかな……。そんでそれに調子づいたマーケットとかマスコミが、『何の意味もない介入だった』なんて騒ぎ出すんだろうね……」
「1ドル150円とか160円なんてのもありだと思う?」
「実質金利が上昇し続ける限り、何でもありだろうさ。中央銀行としてすべきことはできるだけ市場の“均衡”を保つことだと思うよ。ただポンドの急落はこの均衡にほころびを作った。これが伝播してこなかったらいいがな」
井坂は1ドル何円ということには関心を示さなかった。彼が気にしているのはマーケットの“流れ”のようなものなのだろう。
「基本的に“円安”を煽る連中というのは、今年3月以降のどこかで円を空売りする『ショートポジション』を組んだ訳だな。だから円が安くなればなるほど儲かる仕組みになっている」
市場の用語で買いは「ロング」、売りは「ショート」という。手許にないものを他所から借りてきて売るから、「ショート」は即ち空売りを意味する。
「1ドル144円を超えた辺りで日本の当局が神経を尖らせ始めたから、マーケットの足並みは乱れた。22日の介入が一定の成果を上げたのはこの防衛ラインを越えた達成感で、市場の足並みが乱れだしたと見て取ったからなんじゃないかな」
井坂は従順な“聞き役”を前に、嬉々として自説に酔った。
「ひとことに“マーケット”と言うが、結局はいろんな思惑を孕んだトレーダーたちの集団に過ぎない。超が付くほどの強気筋もいれば、安全運転第一の弱気筋もいる。度々言うように、マーケットが“凪”の間は比較的マーケットの足並みも揃いやすいから、中央銀行は“多勢に無勢”となる。だがポンドの急落がそこに波乱をもたらした。それに引きずられて相場が荒れれば金利要因なんてすっ飛ばして上へも下へもグワングワン揺れるだろう」
「おっかないね……」
「すると日本の防衛線なんてお構いなしに更なる“円安”へ向かう筋と、すでに積み上げた含み益を確定しておこうとする勢力に二分される。さらに言えば、ここから先の“円高”を予想して円買いのポジションを組む勢力だって現れて来ないとも限らない」
「へっ? 何で急に円高になっちゃうの?」
「それはマーケットが何を材料にするかによって変わってくる。実際、シンガポールのヘッジファンドがそういう動きをはじめているそうだ……」
隆三は井坂の突拍子もない“円高説”にただ呆れはてた。
取材を始めてからここまで、あまりにうまくことが運んできた。そして初めて躓いた。果たしてこの壁は乗り越えられるのか--? それとも自分が進んできたこの道そのものが間違っていたのか--?
今の隆三が頼る先は井坂しかなかった。
面会場所は井坂の方から指定してきた。店内が薄暗いレトロな雰囲気の喫茶店だった。半ば枯れた観葉植物が視界を遮り、空間に区画をつくっている。低いテーブルに擦り切れたビロードのソファ、高い天井では南洋風の大きなファンがゆっくりと回っていた。それに何よりも、店中がタバコのヤニの匂いに覆われていた。自分も喫煙者だった頃はまったく気にならなかったくせに、タバコを止めた途端、他人の匂いがはた迷惑になった。ヤニの匂いが背広に染み付かないかと神経質になりながら、コーヒーをすすった。
「日銀の介入も効果なかったね」--。
井坂に教わった通り、隆三はドル円レートの推移をアメリカの5年もの実質金利の推移に重ね合わせてグラフにした。実質金利に沿っている限りは“実勢”に従っているのだから、当局の介入も効果は期待薄だ。その実質金利は5年も10年も9月15日に1%台へ乗せ、さらに上昇の気配を見せている。
円安は9月21~22日の日銀政策決定会合で大規模金融緩和政策の維持が確認されるや勢いを増し、一時145円84銭まで進んだ。そこで22日16時30分、日本政府はいよいよ円買いドル売り介入に踏み切ったため、わずか30分で3円50銭ほど円高へ振れた。
長年、円高と戦ってきた日本の金融当局が「円買い介入」を入れたのは実に24年ぶりのことで、翌日の朝刊はこぞって大きく報じた。しかし実質金利の上昇に勢いを得た円売りドル買い勢は週末の欧米市場で再び体制を立て直し、週明け26日からまたぞろ144円の壁を突破する勢いを見せている。
「確かに何だったんだろうなぁ、あの介入……。何か、『投げるぞぉ--、いいかぁ、投げるんだぞぉ』って予告してから石を投げるみたいなさ……。普通、介入ってマーケットの意表を突いて何ぼじゃん……」
井坂は当局の介入に冷ややかな態度を見せたが、返す刀で「ただ、ポンド売りはもっと凄いことになっているぜ」と付け加えた。発足したばかりの新政権が発表した、大幅減税を含む景気刺激策が市場に酷評されて26日未明のわずか1時間でポンドは対ドルで2.3%も急落した。“円安”が囁かれはじめた3月初旬からの騰落率では27.30%と、ついに円の26.46%を凌駕したのだった。
「俺からすれば、ポンドの方がはるかに投機が働いているように見えるがな……。イングランド銀行が利上げしているにもかかわらずだぜ……。ドル円レートばかりに目を奪われていると“円安”にしか映らないが、いま世界で何かが起こっているとするならば、それはあくまで円ではなくドルの世界に起こっているんだ」
井坂は確信めいた口調で自説を繰り返した。
「じゃあ、いずれ円安は終わるかね……」
「円安の方はまあ、実勢には逆らえないからな……。実質金利に沿っている限りは、日本の当局もしばらく黙るんじゃないかな……。そんでそれに調子づいたマーケットとかマスコミが、『何の意味もない介入だった』なんて騒ぎ出すんだろうね……」
「1ドル150円とか160円なんてのもありだと思う?」
「実質金利が上昇し続ける限り、何でもありだろうさ。中央銀行としてすべきことはできるだけ市場の“均衡”を保つことだと思うよ。ただポンドの急落はこの均衡にほころびを作った。これが伝播してこなかったらいいがな」
井坂は1ドル何円ということには関心を示さなかった。彼が気にしているのはマーケットの“流れ”のようなものなのだろう。
「基本的に“円安”を煽る連中というのは、今年3月以降のどこかで円を空売りする『ショートポジション』を組んだ訳だな。だから円が安くなればなるほど儲かる仕組みになっている」
市場の用語で買いは「ロング」、売りは「ショート」という。手許にないものを他所から借りてきて売るから、「ショート」は即ち空売りを意味する。
「1ドル144円を超えた辺りで日本の当局が神経を尖らせ始めたから、マーケットの足並みは乱れた。22日の介入が一定の成果を上げたのはこの防衛ラインを越えた達成感で、市場の足並みが乱れだしたと見て取ったからなんじゃないかな」
井坂は従順な“聞き役”を前に、嬉々として自説に酔った。
「ひとことに“マーケット”と言うが、結局はいろんな思惑を孕んだトレーダーたちの集団に過ぎない。超が付くほどの強気筋もいれば、安全運転第一の弱気筋もいる。度々言うように、マーケットが“凪”の間は比較的マーケットの足並みも揃いやすいから、中央銀行は“多勢に無勢”となる。だがポンドの急落がそこに波乱をもたらした。それに引きずられて相場が荒れれば金利要因なんてすっ飛ばして上へも下へもグワングワン揺れるだろう」
「おっかないね……」
「すると日本の防衛線なんてお構いなしに更なる“円安”へ向かう筋と、すでに積み上げた含み益を確定しておこうとする勢力に二分される。さらに言えば、ここから先の“円高”を予想して円買いのポジションを組む勢力だって現れて来ないとも限らない」
「へっ? 何で急に円高になっちゃうの?」
「それはマーケットが何を材料にするかによって変わってくる。実際、シンガポールのヘッジファンドがそういう動きをはじめているそうだ……」
隆三は井坂の突拍子もない“円高説”にただ呆れはてた。
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