サンタヤーナの警句

宗像紫雲

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サンタヤーナの警句(第十四話)

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                 十四

 意外なことに、これほどヤニ臭い喫茶店を指定しておきながら、井坂は店に入ってからこれほど込み入った話をする間も一向にタバコを吸い出す気配をみせなかった。それどころか、煩わしそうにテーブルの灰皿を脇へ押しやったのである。

「タバコ、いいの?」
「何が?」
「いや、タバコ、吸わないの?」
「吸わないよ」
 何でそんなこと聞くの--とでも言うように、井坂はごく平然と言った。
「じゃあ、何でこんなところにしたの?」
 井坂は隆三の真意をすぐには捉えられ兼ねたが、少し間を置いて「ああ」と理由を語りはじめた。
「時節柄さ、いい大人が昼間から心置きなくくっちゃべれる場所ってほかにあるか?」
「……」
 答えは実にシンプルだった。なるほど確かに彼の言う通りだ。街角にはもっと安価でおしゃれなコーヒーショップが並んでいるが、そうした店の中で大っぴらに会話を交わすのは、どこかはばかられる。そうした店の中は独り黙々とサンドイッチを食べる客とかスマホをいじっている客、受験勉強に勤しむ学生風の客とか、スポーツ新聞に目を通す初老の客ばかりが目に付く。たまに二人連れがいても、会話は最小限。それも小声でといった風情である。
 井坂がこの店を選んだ理由は思いのほか合理的だった。そう思うと、結構隅に置けない奴なんだなと、今さらながらに感心した。

「ところで今日はこんなの作って来たんだ。1970年代のインフレと原油価格の推移と、賃金上昇率の動静を重ねたものなんだけど……」
 “円高説”まで飛び出した井坂の話にもう少し付き合うのも悪くないが、本日の本題は70年代のインフレと賃金の関係を探ることだ。隆三はカバンから自作のグラフを取り出して、テーブルに置いた。



「はぁ~、羽柴さんも随分まじめに勉強するんだね。いやぁ、感心、感心」
 井坂はフムフムと隆三のグラフを眺めながらうなずいて見せた。
「オイルショックがインフレに火を着けたとしたならば、ここの茶色い楕円の説明がつかない……」
「そうそう。原油より先にインフレが高まるんだよね……」
「あっ、やっぱ知ってたの? 井坂さんは……」
「もちろんさ。今では俗に『オイルショックがインフレを引き起こした』なんて言うけど、古い書きもの読んでいると、とくに70年代のレポートとか読んでるとはっきり『賃金インフレ』って書いてあるんだ。どこでねじ曲がっちゃったのかね……?」
 原油高はインフレの火に油を注いだだけだったという事実は、吉川が拾い出した「特ダネ」だと思っていた。しかしそれはすでに旧聞に帰するらしい。せっかく新大陸を発見したと思ったのに、大きな街に行き当たっちゃったような残念さと安心感が折り重なった。
「まあ世間に誤解が蔓延しているのだから、却って新鮮に見えるんじゃないかな。いいと思うよ」
 井坂は打ちひしがれた友人を慰めるように背中を押してくれた。その好意を素直に受け止めよう。ただこのグラフには難点がある。それを取り除きたいのだ。

「そう言ってもらえれば心強い。それでね……、インフレの元凶が原油ではなく賃金だと思ってこのグラフを作ってみたんだけど、どうもこの赤丸の部分の説明がつかなくて難儀しているんだ。そこで井坂さんのお知恵を借りたい訳ですよ……」
 井坂は気心の知れた古い友人だが、今では同業他社に属する人間である。そうした相手にネタをばらすのは、記者としてあるまじき行為に当たる。吉川や鉾田、まして副編集長の種村には決して知られてはならない“秘め事”である。だがせっかくのグラフをお蔵入りすべきか、記者としての禁を破るべきかで考えた揚げ句、後者を選んだ。

「ああ、これな……。恐らく『賃金凍結令』だろう。この頃の話は結構、込み入ってるぞ……」
「賃金凍結令?」
 また聞きなれない用語が飛び出したので、思わすオウム返しをしてしまった。何十年も前に同じ釜の飯を食った者どうしとは言え、旧友はいつしか底知れない数の引き出しを備えるにいたった。その得体の知れなさに、隆三はどことなく空恐ろしさを感じた。
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