14 / 46
サンタヤーナの警句(第十四話)
しおりを挟む
十四
意外なことに、これほどヤニ臭い喫茶店を指定しておきながら、井坂は店に入ってからこれほど込み入った話をする間も一向にタバコを吸い出す気配をみせなかった。それどころか、煩わしそうにテーブルの灰皿を脇へ押しやったのである。
「タバコ、いいの?」
「何が?」
「いや、タバコ、吸わないの?」
「吸わないよ」
何でそんなこと聞くの--とでも言うように、井坂はごく平然と言った。
「じゃあ、何でこんなところにしたの?」
井坂は隆三の真意をすぐには捉えられ兼ねたが、少し間を置いて「ああ」と理由を語りはじめた。
「時節柄さ、いい大人が昼間から心置きなくくっちゃべれる場所ってほかにあるか?」
「……」
答えは実にシンプルだった。なるほど確かに彼の言う通りだ。街角にはもっと安価でおしゃれなコーヒーショップが並んでいるが、そうした店の中で大っぴらに会話を交わすのは、どこか憚られる。そうした店の中は独り黙々とサンドイッチを食べる客とかスマホをいじっている客、受験勉強に勤しむ学生風の客とか、スポーツ新聞に目を通す初老の客ばかりが目に付く。たまに二人連れがいても、会話は最小限。それも小声でといった風情である。
井坂がこの店を選んだ理由は思いのほか合理的だった。そう思うと、結構隅に置けない奴なんだなと、今さらながらに感心した。
「ところで今日はこんなの作って来たんだ。1970年代のインフレと原油価格の推移と、賃金上昇率の動静を重ねたものなんだけど……」
“円高説”まで飛び出した井坂の話にもう少し付き合うのも悪くないが、本日の本題は70年代のインフレと賃金の関係を探ることだ。隆三はカバンから自作のグラフを取り出して、テーブルに置いた。
「はぁ~、羽柴さんも随分まじめに勉強するんだね。いやぁ、感心、感心」
井坂はフムフムと隆三のグラフを眺めながらうなずいて見せた。
「オイルショックがインフレに火を着けたとしたならば、ここの茶色い楕円の説明がつかない……」
「そうそう。原油より先にインフレが高まるんだよね……」
「あっ、やっぱ知ってたの? 井坂さんは……」
「もちろんさ。今では俗に『オイルショックがインフレを引き起こした』なんて言うけど、古い書きもの読んでいると、とくに70年代のレポートとか読んでるとはっきり『賃金インフレ』って書いてあるんだ。どこでねじ曲がっちゃったのかね……?」
原油高はインフレの火に油を注いだだけだったという事実は、吉川が拾い出した「特ダネ」だと思っていた。しかしそれはすでに旧聞に帰するらしい。せっかく新大陸を発見したと思ったのに、大きな街に行き当たっちゃったような残念さと安心感が折り重なった。
「まあ世間に誤解が蔓延しているのだから、却って新鮮に見えるんじゃないかな。いいと思うよ」
井坂は打ちひしがれた友人を慰めるように背中を押してくれた。その好意を素直に受け止めよう。ただこのグラフには難点がある。それを取り除きたいのだ。
「そう言ってもらえれば心強い。それでね……、インフレの元凶が原油ではなく賃金だと思ってこのグラフを作ってみたんだけど、どうもこの赤丸の部分の説明がつかなくて難儀しているんだ。そこで井坂さんのお知恵を借りたい訳ですよ……」
井坂は気心の知れた古い友人だが、今では同業他社に属する人間である。そうした相手にネタをばらすのは、記者としてあるまじき行為に当たる。吉川や鉾田、まして副編集長の種村には決して知られてはならない“秘め事”である。だがせっかくのグラフをお蔵入りすべきか、記者としての禁を破るべきかで考えた揚げ句、後者を選んだ。
「ああ、これな……。恐らく『賃金凍結令』だろう。この頃の話は結構、込み入ってるぞ……」
「賃金凍結令?」
また聞きなれない用語が飛び出したので、思わすオウム返しをしてしまった。何十年も前に同じ釜の飯を食った者どうしとは言え、旧友はいつしか底知れない数の引き出しを備えるにいたった。その得体の知れなさに、隆三はどことなく空恐ろしさを感じた。
意外なことに、これほどヤニ臭い喫茶店を指定しておきながら、井坂は店に入ってからこれほど込み入った話をする間も一向にタバコを吸い出す気配をみせなかった。それどころか、煩わしそうにテーブルの灰皿を脇へ押しやったのである。
「タバコ、いいの?」
「何が?」
「いや、タバコ、吸わないの?」
「吸わないよ」
何でそんなこと聞くの--とでも言うように、井坂はごく平然と言った。
「じゃあ、何でこんなところにしたの?」
井坂は隆三の真意をすぐには捉えられ兼ねたが、少し間を置いて「ああ」と理由を語りはじめた。
「時節柄さ、いい大人が昼間から心置きなくくっちゃべれる場所ってほかにあるか?」
「……」
答えは実にシンプルだった。なるほど確かに彼の言う通りだ。街角にはもっと安価でおしゃれなコーヒーショップが並んでいるが、そうした店の中で大っぴらに会話を交わすのは、どこか憚られる。そうした店の中は独り黙々とサンドイッチを食べる客とかスマホをいじっている客、受験勉強に勤しむ学生風の客とか、スポーツ新聞に目を通す初老の客ばかりが目に付く。たまに二人連れがいても、会話は最小限。それも小声でといった風情である。
井坂がこの店を選んだ理由は思いのほか合理的だった。そう思うと、結構隅に置けない奴なんだなと、今さらながらに感心した。
「ところで今日はこんなの作って来たんだ。1970年代のインフレと原油価格の推移と、賃金上昇率の動静を重ねたものなんだけど……」
“円高説”まで飛び出した井坂の話にもう少し付き合うのも悪くないが、本日の本題は70年代のインフレと賃金の関係を探ることだ。隆三はカバンから自作のグラフを取り出して、テーブルに置いた。
「はぁ~、羽柴さんも随分まじめに勉強するんだね。いやぁ、感心、感心」
井坂はフムフムと隆三のグラフを眺めながらうなずいて見せた。
「オイルショックがインフレに火を着けたとしたならば、ここの茶色い楕円の説明がつかない……」
「そうそう。原油より先にインフレが高まるんだよね……」
「あっ、やっぱ知ってたの? 井坂さんは……」
「もちろんさ。今では俗に『オイルショックがインフレを引き起こした』なんて言うけど、古い書きもの読んでいると、とくに70年代のレポートとか読んでるとはっきり『賃金インフレ』って書いてあるんだ。どこでねじ曲がっちゃったのかね……?」
原油高はインフレの火に油を注いだだけだったという事実は、吉川が拾い出した「特ダネ」だと思っていた。しかしそれはすでに旧聞に帰するらしい。せっかく新大陸を発見したと思ったのに、大きな街に行き当たっちゃったような残念さと安心感が折り重なった。
「まあ世間に誤解が蔓延しているのだから、却って新鮮に見えるんじゃないかな。いいと思うよ」
井坂は打ちひしがれた友人を慰めるように背中を押してくれた。その好意を素直に受け止めよう。ただこのグラフには難点がある。それを取り除きたいのだ。
「そう言ってもらえれば心強い。それでね……、インフレの元凶が原油ではなく賃金だと思ってこのグラフを作ってみたんだけど、どうもこの赤丸の部分の説明がつかなくて難儀しているんだ。そこで井坂さんのお知恵を借りたい訳ですよ……」
井坂は気心の知れた古い友人だが、今では同業他社に属する人間である。そうした相手にネタをばらすのは、記者としてあるまじき行為に当たる。吉川や鉾田、まして副編集長の種村には決して知られてはならない“秘め事”である。だがせっかくのグラフをお蔵入りすべきか、記者としての禁を破るべきかで考えた揚げ句、後者を選んだ。
「ああ、これな……。恐らく『賃金凍結令』だろう。この頃の話は結構、込み入ってるぞ……」
「賃金凍結令?」
また聞きなれない用語が飛び出したので、思わすオウム返しをしてしまった。何十年も前に同じ釜の飯を食った者どうしとは言え、旧友はいつしか底知れない数の引き出しを備えるにいたった。その得体の知れなさに、隆三はどことなく空恐ろしさを感じた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
