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サンタヤーナの警句(第十七話)
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十七
「インフレは“心理”との闘い」--。
井坂はまたまたパズルを複雑にする仕掛けを持ち出した。
インフレと賃金と食料品価格に労働組合が出てきて、今度は“心理”ときたもんだ。何だ、それ--?
「日本の“デフレマインド”の逆だと思えばいい。デフレが長く続いて『ものの値段は下がる』という心理が染みついたろ? 逆にインフレ状態が長く続けば『ものの値段は上がる』のが当たり前になる。それこそ“新しい当たり前”だね。日本の場合はいったん染みついた“デフレマインド”から180度転回するのだからしばらく時間を要するかも知れないが、欧米諸国ではこれまでも少しずつではあるがものの値段は上がって来た。値上げのペースが速まるだけだから、意外と早く定着しちゃうかも知れないね」
“心理”なんて何でも飲み込むブラックホールじゃないか--。得体の知れないものを片っ端からブラックホールへ投げ込んでしまえば何でも言える。世の中の「陰謀論」の類はみんなそれだ。“心理”の世界を扱うなら心理学者や文学者、詩人の方が長けている。いっそのことインフレの話も経済記者や学者ではなく、文学者や詩人に書かせた方がいいではないか……。
「この当時、ニューヨーク連邦銀行の総裁をしていたアルフレッド・ヘイズという人物がいるんだが、その人がどこかで書いていたな--。アメリカのインフレの手に負えない執拗さは、後進国によく見られる『ある要因』から起こっているとね」
「おいおい、また何か謎かけのようじゃないか。何だいその『ある要因』というのは」
“心理”だの“ある要因”だのと、正直もうおなかいっぱいだ。そもそもインフレと賃金の相関性を確かめたいというのが最初の話だったはずなのに……。そろそろ答えを聞かせてもらいたい。
「ヘイズによればそれは、国民の生活水準その他諸々の社会的快適さをもっと向上させたいという『膨らみすぎた期待』なのだそうだ。アメリカにはこの国独自の『膨らみすぎた期待』があるんだってさ」
「だけどアメリカって貧富の差はあるけど、国としては世界有数の金持ちじゃないか。それでもまだ足りないというのかい? そもそもそんなの70年代初頭の話だろ?」
隆三はブラックホールへ引き込まれないよう、精いっぱいの抵抗をした。それでも井坂は、ニタリと笑みを浮かべて言い切った。
「人間の欲望にはキリがない。少し豊かになれば、そのときは満足する。だが社会全体が豊かになれば、それが“当たり前”になる。“当たり前”ではもの足りなくなって、次の豊かさを求める。だからこれでもう十分、もう沢山ということはないんだよ」
俗にいう“腹八分目”ということわざは、ここでは死語になっている。個人が行う徳行を社会全体に広げればきっと住みよい世の中になるはずだ。そう信じてきたつもりだが、年とともに経験を積み見識を広めるに従って、生き馬の目を抜く国際社会の中でそれはあまりに無邪気なポエムに過ぎないのではないかと思うようになった。
井坂の話に寄せて考えるならば、腹八分目の経済では停滞する。経済力の弱い国家は他国の覇権に飲み込まれるから、経済を強くするということは豊かさだけでなく自分の身の安全を確保すること同義になる。だが、そのためにはどこまでもメタボリックな欲望を抱きつづけなければならない……。世の中はどこまでも理不尽だという気がしてならない。
「俺が敢えて“心理”という言葉を持ち出したのは、財政や金融政策と違ってこちらには“即効性”が期待できないということなんだよ。羽柴さんだって経験あるだろ? だいたい人に考え方を変えさせるなんて、至難の業じゃないか」
確かにいったん信じ込んだ考えを消したり変えたりするのは容易なことではない。自分自身の考えを改めるのですら難儀するのに、いわんや赤の他人の“心理”をいじるとなればをや--である。
「頑固なインフレマインドがさらなる賃上げ要求へと駆り立て、一層のコストプッシュインフレを引き起こすというインフレスパイラルを形成するんだ。この連鎖は金利政策にも作用して、結果的に金融市場を機能不全に陥れる。ここが問題なんだよ」
井坂は金融政策のところで語気を強めた。ここのところ値上げ値上げという言葉が飛び交っているからと、軽い動機ではじまった今回の企画--、井坂の言に従うならば途方もないところへ着地することになるかも知れない。今さらながらに隆三は、とんでもないことに足を突っ込んだものだと気づかされた。
「インフレは“心理”との闘い」--。
井坂はまたまたパズルを複雑にする仕掛けを持ち出した。
インフレと賃金と食料品価格に労働組合が出てきて、今度は“心理”ときたもんだ。何だ、それ--?
「日本の“デフレマインド”の逆だと思えばいい。デフレが長く続いて『ものの値段は下がる』という心理が染みついたろ? 逆にインフレ状態が長く続けば『ものの値段は上がる』のが当たり前になる。それこそ“新しい当たり前”だね。日本の場合はいったん染みついた“デフレマインド”から180度転回するのだからしばらく時間を要するかも知れないが、欧米諸国ではこれまでも少しずつではあるがものの値段は上がって来た。値上げのペースが速まるだけだから、意外と早く定着しちゃうかも知れないね」
“心理”なんて何でも飲み込むブラックホールじゃないか--。得体の知れないものを片っ端からブラックホールへ投げ込んでしまえば何でも言える。世の中の「陰謀論」の類はみんなそれだ。“心理”の世界を扱うなら心理学者や文学者、詩人の方が長けている。いっそのことインフレの話も経済記者や学者ではなく、文学者や詩人に書かせた方がいいではないか……。
「この当時、ニューヨーク連邦銀行の総裁をしていたアルフレッド・ヘイズという人物がいるんだが、その人がどこかで書いていたな--。アメリカのインフレの手に負えない執拗さは、後進国によく見られる『ある要因』から起こっているとね」
「おいおい、また何か謎かけのようじゃないか。何だいその『ある要因』というのは」
“心理”だの“ある要因”だのと、正直もうおなかいっぱいだ。そもそもインフレと賃金の相関性を確かめたいというのが最初の話だったはずなのに……。そろそろ答えを聞かせてもらいたい。
「ヘイズによればそれは、国民の生活水準その他諸々の社会的快適さをもっと向上させたいという『膨らみすぎた期待』なのだそうだ。アメリカにはこの国独自の『膨らみすぎた期待』があるんだってさ」
「だけどアメリカって貧富の差はあるけど、国としては世界有数の金持ちじゃないか。それでもまだ足りないというのかい? そもそもそんなの70年代初頭の話だろ?」
隆三はブラックホールへ引き込まれないよう、精いっぱいの抵抗をした。それでも井坂は、ニタリと笑みを浮かべて言い切った。
「人間の欲望にはキリがない。少し豊かになれば、そのときは満足する。だが社会全体が豊かになれば、それが“当たり前”になる。“当たり前”ではもの足りなくなって、次の豊かさを求める。だからこれでもう十分、もう沢山ということはないんだよ」
俗にいう“腹八分目”ということわざは、ここでは死語になっている。個人が行う徳行を社会全体に広げればきっと住みよい世の中になるはずだ。そう信じてきたつもりだが、年とともに経験を積み見識を広めるに従って、生き馬の目を抜く国際社会の中でそれはあまりに無邪気なポエムに過ぎないのではないかと思うようになった。
井坂の話に寄せて考えるならば、腹八分目の経済では停滞する。経済力の弱い国家は他国の覇権に飲み込まれるから、経済を強くするということは豊かさだけでなく自分の身の安全を確保すること同義になる。だが、そのためにはどこまでもメタボリックな欲望を抱きつづけなければならない……。世の中はどこまでも理不尽だという気がしてならない。
「俺が敢えて“心理”という言葉を持ち出したのは、財政や金融政策と違ってこちらには“即効性”が期待できないということなんだよ。羽柴さんだって経験あるだろ? だいたい人に考え方を変えさせるなんて、至難の業じゃないか」
確かにいったん信じ込んだ考えを消したり変えたりするのは容易なことではない。自分自身の考えを改めるのですら難儀するのに、いわんや赤の他人の“心理”をいじるとなればをや--である。
「頑固なインフレマインドがさらなる賃上げ要求へと駆り立て、一層のコストプッシュインフレを引き起こすというインフレスパイラルを形成するんだ。この連鎖は金利政策にも作用して、結果的に金融市場を機能不全に陥れる。ここが問題なんだよ」
井坂は金融政策のところで語気を強めた。ここのところ値上げ値上げという言葉が飛び交っているからと、軽い動機ではじまった今回の企画--、井坂の言に従うならば途方もないところへ着地することになるかも知れない。今さらながらに隆三は、とんでもないことに足を突っ込んだものだと気づかされた。
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