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サンタヤーナの警句(第十六話)
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十六
「で、グラフの話に戻るけど……、左の山が下降に転じたのは政策の効果というより食料品価格、とくに農産物価格の下落が主な要因だったのさ。しかも物価が下がったのに賃金はむしろ上がっているだろ?」
「うん。そこなんだよ」
隆三はやっと痒いところに手が届いたような気になった。
「スタグフレーションの中で上昇し続けた失業率に、ようやく歯止めがかかった。するとすぐさま賃金は上昇しはじめた。つまり“買い手市場”から“売り手市場”になったということだな」
「インフレの元凶が賃金で、その賃金は失業率に反比例するという訳だね」
隆三は話を整理するため、井坂の説明を大まかな図式で言い直した。
「そもそもインフレには景気の過熱によって引き起こされる“デマンドプル”と、生産手段の値上げによる“コストプッシュ”の二大要因がある。賃金はあくまでコストプッシュ・インフレの一因で、さっきの食料品価格みたいな価格インフレもある。さらに言えば、原油価格の高騰ってのは価格インフレの部分的な要素に過ぎないんだ」
つと井坂の解説は学校の授業のような様相を呈した。経済学の教科書をめくってみれば、きっとそんなことが書いてあるのだろう。学生時代に学んだ高尚な学説や説話のどれほどが、実際の経済活動や政策、マーケットの攻防戦に生かされるのだろうか--。長年サラリーマンをやっていると、そうしたことへの意識なんかすっかり抜け落ちて、目先の“半径何メートル”の世界にしか関心がなくなる。
思えば「天災は忘れた頃にやってくる」ということわざは、忘れた過去を時おり思い出させる天の意志なのかもしれない……。隆三は柄にもなく殊勝な心持ちを呼び起こされた気になった。
「インフレ率は依然高いし、さらに賃金も上がってきた。そこで当時のニクソン政権は1971年の8月15日、『新経済政策』を打ち出して物価と家賃、賃金を90日間凍結すると発表したんだ。ついでにこのとき、アメリカから金の流出を止めるためにドルと金の兌換停止、いわゆる『ニクソンショック』も同時に発表された」
「ニクソンショック」というのはアメリカが一方的にドルと金の兌換を放棄したのだとばかり思っていたが、そう簡単な話じゃなかったんだな。とにかくインフレを抑えるためには、なりふり構わぬ大鉈を振るわねばならなかったというお家事情があったということか。
「でも全然、賃金が凍結されたようには見えないがな……」
確かに失業率も賃金も揃って高止まりしているように見える。
「そうだね……。だがよく見てみると、失業率が横ばいに転じてすぐに賃金がいったん下がって再び急上昇するところがあるでしょ? ちょうど71年の春先辺り……。そこから小さな山に続いてカルデラみたいに窪んだところがあるのが分かるかな? これが凍結きした期間に該当するんだ」
賃金凍結令なんて仰々しい名称の割には大したことのようには見えない。
「賃金凍結って言う割には随分と高いんだね」
「そこがこの話の難しいところなんだが……、一方で賃金・物価を抑えに掛かったものの、他方で失業が社会問題化していたから政府は再び財政金融の緩和政策をとったんだ。しかも政府の“凍結”が解除された後は労働組合との間に『賃金の上昇を5.5%に抑える』という“ガイドライン”を設けることで合意したのだが、実際にはこれが守られず、景気が上向くとともに賃金はまたぞろ急騰しはじめた。それでも統制令の効果は物価に作用したので、インフレ率は一時3%を切るまで下がったんだ」
なるほど複雑な経緯があったのだとうかがえる。つまりインフレを抑え込むのはそれほどの難事業だということなのだろう。翻って足元のインフレ対策はどうだろう? 昨今しきりに「FRBの確固たる態度」とか「利上げのドミノ」などというフレーズを耳にするが、半世紀前の涙ぐましい努力に比すれば「何とお気楽なものか」との気さえ起こってくる。しかも、これは70年代のインフレのほんの“入口”にすぎないのだ。
「そうやってせっかく抑え込んだインフレが、73年に入って再び高まったのは何でなの?」
「実はこれも食料品価格なんだよ。取り分け食肉の価格が異常に上がったので、肉の不買運動まで起こったっていうね……。この年には農産物価格も上昇に転じるし、失業対策で打ち出した国内景気振興策が需要を増大させたから、他の工業製品なんかもみんな上がって本格的なインフレを引き起こしてしまった訳よ」
「いや~、いろいろあったんだねぇ。最後にさ、73~74年の間は失業率が下がってきたのに賃金も下がったよね。しかもインフレはどんどん進んでいる……。これは今までの説明と矛盾しないか?」
「確かにね。これは確か、インフレマインドの定着に嫌気をさした世論から労働組合に向けて、『先に合意したガイドラインを守れ』という圧力が高まったためと聞いたな。アメリカと言えば自由主義経済の王道みたいな印象があるけど、所得政策の面ではかなり計画経済的な面があるんだぜ」
なるほど疑問は解けた。さて、これをどうまとめよう--。
出来上がりをイメージしながら思案を巡らしていたら、井坂はさらに話をこじらした。
「インフレって言うのはさ、最終的には“心理”との闘いなんだよ」
「で、グラフの話に戻るけど……、左の山が下降に転じたのは政策の効果というより食料品価格、とくに農産物価格の下落が主な要因だったのさ。しかも物価が下がったのに賃金はむしろ上がっているだろ?」
「うん。そこなんだよ」
隆三はやっと痒いところに手が届いたような気になった。
「スタグフレーションの中で上昇し続けた失業率に、ようやく歯止めがかかった。するとすぐさま賃金は上昇しはじめた。つまり“買い手市場”から“売り手市場”になったということだな」
「インフレの元凶が賃金で、その賃金は失業率に反比例するという訳だね」
隆三は話を整理するため、井坂の説明を大まかな図式で言い直した。
「そもそもインフレには景気の過熱によって引き起こされる“デマンドプル”と、生産手段の値上げによる“コストプッシュ”の二大要因がある。賃金はあくまでコストプッシュ・インフレの一因で、さっきの食料品価格みたいな価格インフレもある。さらに言えば、原油価格の高騰ってのは価格インフレの部分的な要素に過ぎないんだ」
つと井坂の解説は学校の授業のような様相を呈した。経済学の教科書をめくってみれば、きっとそんなことが書いてあるのだろう。学生時代に学んだ高尚な学説や説話のどれほどが、実際の経済活動や政策、マーケットの攻防戦に生かされるのだろうか--。長年サラリーマンをやっていると、そうしたことへの意識なんかすっかり抜け落ちて、目先の“半径何メートル”の世界にしか関心がなくなる。
思えば「天災は忘れた頃にやってくる」ということわざは、忘れた過去を時おり思い出させる天の意志なのかもしれない……。隆三は柄にもなく殊勝な心持ちを呼び起こされた気になった。
「インフレ率は依然高いし、さらに賃金も上がってきた。そこで当時のニクソン政権は1971年の8月15日、『新経済政策』を打ち出して物価と家賃、賃金を90日間凍結すると発表したんだ。ついでにこのとき、アメリカから金の流出を止めるためにドルと金の兌換停止、いわゆる『ニクソンショック』も同時に発表された」
「ニクソンショック」というのはアメリカが一方的にドルと金の兌換を放棄したのだとばかり思っていたが、そう簡単な話じゃなかったんだな。とにかくインフレを抑えるためには、なりふり構わぬ大鉈を振るわねばならなかったというお家事情があったということか。
「でも全然、賃金が凍結されたようには見えないがな……」
確かに失業率も賃金も揃って高止まりしているように見える。
「そうだね……。だがよく見てみると、失業率が横ばいに転じてすぐに賃金がいったん下がって再び急上昇するところがあるでしょ? ちょうど71年の春先辺り……。そこから小さな山に続いてカルデラみたいに窪んだところがあるのが分かるかな? これが凍結きした期間に該当するんだ」
賃金凍結令なんて仰々しい名称の割には大したことのようには見えない。
「賃金凍結って言う割には随分と高いんだね」
「そこがこの話の難しいところなんだが……、一方で賃金・物価を抑えに掛かったものの、他方で失業が社会問題化していたから政府は再び財政金融の緩和政策をとったんだ。しかも政府の“凍結”が解除された後は労働組合との間に『賃金の上昇を5.5%に抑える』という“ガイドライン”を設けることで合意したのだが、実際にはこれが守られず、景気が上向くとともに賃金はまたぞろ急騰しはじめた。それでも統制令の効果は物価に作用したので、インフレ率は一時3%を切るまで下がったんだ」
なるほど複雑な経緯があったのだとうかがえる。つまりインフレを抑え込むのはそれほどの難事業だということなのだろう。翻って足元のインフレ対策はどうだろう? 昨今しきりに「FRBの確固たる態度」とか「利上げのドミノ」などというフレーズを耳にするが、半世紀前の涙ぐましい努力に比すれば「何とお気楽なものか」との気さえ起こってくる。しかも、これは70年代のインフレのほんの“入口”にすぎないのだ。
「そうやってせっかく抑え込んだインフレが、73年に入って再び高まったのは何でなの?」
「実はこれも食料品価格なんだよ。取り分け食肉の価格が異常に上がったので、肉の不買運動まで起こったっていうね……。この年には農産物価格も上昇に転じるし、失業対策で打ち出した国内景気振興策が需要を増大させたから、他の工業製品なんかもみんな上がって本格的なインフレを引き起こしてしまった訳よ」
「いや~、いろいろあったんだねぇ。最後にさ、73~74年の間は失業率が下がってきたのに賃金も下がったよね。しかもインフレはどんどん進んでいる……。これは今までの説明と矛盾しないか?」
「確かにね。これは確か、インフレマインドの定着に嫌気をさした世論から労働組合に向けて、『先に合意したガイドラインを守れ』という圧力が高まったためと聞いたな。アメリカと言えば自由主義経済の王道みたいな印象があるけど、所得政策の面ではかなり計画経済的な面があるんだぜ」
なるほど疑問は解けた。さて、これをどうまとめよう--。
出来上がりをイメージしながら思案を巡らしていたら、井坂はさらに話をこじらした。
「インフレって言うのはさ、最終的には“心理”との闘いなんだよ」
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