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サンタヤーナの警句(第十八話)
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十八
「羽柴さんがどんなスタンスでインフレに切り込むつもりかは知らないが、日本は原材料輸入への依存度が高いから、基本的にインフレの“輸入国”だ。これに反してアメリカや昔のイギリスのような基軸通貨国は、インフレを“輸出”する国なんだよ。経済のグローバル化が進んだ世界で、インフレは日本国内だけでは完結しない。この点だけはしっかり押さえておけよ」
賃金と物価の関係、そしてインフレを煽る“心理”の作用まで一気に種を明かした井坂は、また新しい命題を投げかけてきた。
日本はインフレの輸入国で、アメリカは輸出国--。
日本のインフレが原材料価格の高騰に起因するものだというのは疑いを入れない。自分も為替の動向には十分注意を払っているつもりだ。しかし井坂は輸入価格の上昇とは正反対の「円高説」などを唱えだした--。
「さっき言いかけた円高説だけど、いったい何を根拠にそう思うんだい?」
差し当っての宿題が片付いたから、仕掛りになっていた「円高説」の真意を聞いてみた。
「誤解を与えたかも知れないけど、俺は何も“円高”がどうこう言うつもりはないんだ。ただ足元で日銀へ政策変更を求める圧力が高まっているのを気にしている。この種の雑音が却って投機の動きを引き寄せて、相場を搔き乱すトリガーとなりはしないか心配しているんだよ」
井坂は単なる“円高説”ではない何かを考えている。果たしてそれは、自分の特集に関係することなのだろうか?
「どういうこと? それ?」
「日頃目にするドル円レートとは別に、『実質実効為替レート』というのがある。貿易の量や物価の水準を勘案してはじき出す、文字通り“通貨の実力”を表す指標なのだが、これをもとにテクニカル分析をしているアナリストがいる」
そういえばFXトレードも当たり前になったから、随分と詳しい人がいるんだろうな。自分なんかが下手なこと書いたらきっと火傷するに違いない。
「そういうのを参考にすると、羽柴さんの言った通り円安はまだまだ進む余地があると言ってもおかしくなはない。まあほとんどがマーケットの“ポジショントーク”だがね……。それはともかく、いま本当に気にすべきなのは……」
今回もまた、井坂は何かのチャートなりグラフを頭に描きながら話をしている。隆三の手許にはそれが無いから何とも応じ兼ねる。
「投機筋が円安を煽った後には必ず短期の資本移動が起こって、ドルが暴落するということなんだ」
ドルの暴落というのは、急激な円高と同義ではないか。それならなぜ、井坂は敢えて“円高説”を撤回したのだろうか。
「だけど……、ドルが売られる理由って何なの? 今の円高は日米金利差だけでなく、原油高や円安で日本の貿易赤字が膨らんだ結果だという話もあるじゃないか。片やアメリカは、7月の貿易黒字が過去最高を記録したってニュースもあったし……。そうした『ファンダメンタルズに目を向けるべき』という論者もいるぜ……」
隆三は聞きかじりの情報を総動員して、井坂の真意に迫ろうとした。すると井坂は「待ってました」とばかりに目を輝かせた。
「うん、その通り。ファンダメンタルズなんだよ」
「……?」
「そうだなぁ……、何というか……。ファンダメンタルズにも“枝葉”と“幹”がある--ということだと思うね」
井坂はここを先途と、弁舌一層滑らかに温めてきた持論を展開した。
「もしファンダメンタルズを“貿易収支”という一点に絞るなら、その論者の言うことは正しい。だが俺に言わせれば、それはあくまで“枝葉”の話に過ぎないのさ」
「と、いうと?」
「だって今年のアメリカ経済って、マイナス成長じゃん」
「えっ、ウソっ……。ホント……?」
アメリカ経済は調子がいいって、みんなが口を揃えて言っているじゃないか。マイナス成長だなんて……、またまた変なことを言い出すな……。怪訝な顔をした隆三へ、井坂は自信たっぷりにダメを押した。
「本当さ。ウソだと思うなら、調べてみればいい」--。
「ちょっと待って、いま調べるから」
隆三はすぐさまスマホを取り出して、「アメリカ」、「GDPマイナス」で検索してみた。
するとジェトロのレポートが出てきて、「2022年1-3月期のアメリカのGDP成長率はマイナス1.6%、4-6月期はマイナス0.9%で、2期連続のマイナス」と書かれていた。さらに検索すると、ジャネット・イェレン財務長官が「労働市場が堅調だから、これは景気後退ではない」と発言した報道にも行き当たった。その発言通り、失業率も失業保険の申請件数も高まっていないという。
「ふふっ、笑っちゃうね」--。
イェレン長官のコメントを聞いた井坂は噴き出した。
「アメリカの労働参加率は依然として回復していないのだから、恒常的な人手不足の状態にある。そんな状態で失業率の話なんてしたってしょうがないじゃないか。むしろそうした人手不足が賃金を押し上げ、却ってインフレ圧力を高める要因になっているんだから」
そう言うと自分のスマホをいじくって何かのサイトを探し当てた。
「これが……、アメリカの労働参加率を長期にわたって表すグラフさ。商務省の公表データを基にセントルイス連邦銀行がサイトに上げている」
「1965年まではジェンダーの壁があって参加率は6割に満たないが、そうした壁が取り払われるにつれて徐々に上昇していく。それが67%くらいのところで頭打ちになるから、これが社会構造に照らした本来の参加率なのだろう……」
グラフの左半分には公民権運動やウーマン・リブ運動など「人権の確立」を巡る、気高い闘いの歴史が刻まれていた。
「ところが2000年代に入ると、一転してこれが下降しはじめる。はじめはいわゆる『ITバブル』崩壊の時期に該当するのだが、ここで何があったかはまだ確かめていない。はっきり言えるのは2008年の『リーマン・ショック』後の下降線なんだ。これ、なぜだと思う?」
「かなりのペースで下がっているね」
自分の余計なひと言でまた話が横道へ逸れてしまった。本街道へ戻るには、取り敢えずこの話を完結させねばならない。
「失業保険」--。
そう言って井坂は謎解きの答えを明かした名探偵のような得意顔をしてみせた。
「羽柴さんがどんなスタンスでインフレに切り込むつもりかは知らないが、日本は原材料輸入への依存度が高いから、基本的にインフレの“輸入国”だ。これに反してアメリカや昔のイギリスのような基軸通貨国は、インフレを“輸出”する国なんだよ。経済のグローバル化が進んだ世界で、インフレは日本国内だけでは完結しない。この点だけはしっかり押さえておけよ」
賃金と物価の関係、そしてインフレを煽る“心理”の作用まで一気に種を明かした井坂は、また新しい命題を投げかけてきた。
日本はインフレの輸入国で、アメリカは輸出国--。
日本のインフレが原材料価格の高騰に起因するものだというのは疑いを入れない。自分も為替の動向には十分注意を払っているつもりだ。しかし井坂は輸入価格の上昇とは正反対の「円高説」などを唱えだした--。
「さっき言いかけた円高説だけど、いったい何を根拠にそう思うんだい?」
差し当っての宿題が片付いたから、仕掛りになっていた「円高説」の真意を聞いてみた。
「誤解を与えたかも知れないけど、俺は何も“円高”がどうこう言うつもりはないんだ。ただ足元で日銀へ政策変更を求める圧力が高まっているのを気にしている。この種の雑音が却って投機の動きを引き寄せて、相場を搔き乱すトリガーとなりはしないか心配しているんだよ」
井坂は単なる“円高説”ではない何かを考えている。果たしてそれは、自分の特集に関係することなのだろうか?
「どういうこと? それ?」
「日頃目にするドル円レートとは別に、『実質実効為替レート』というのがある。貿易の量や物価の水準を勘案してはじき出す、文字通り“通貨の実力”を表す指標なのだが、これをもとにテクニカル分析をしているアナリストがいる」
そういえばFXトレードも当たり前になったから、随分と詳しい人がいるんだろうな。自分なんかが下手なこと書いたらきっと火傷するに違いない。
「そういうのを参考にすると、羽柴さんの言った通り円安はまだまだ進む余地があると言ってもおかしくなはない。まあほとんどがマーケットの“ポジショントーク”だがね……。それはともかく、いま本当に気にすべきなのは……」
今回もまた、井坂は何かのチャートなりグラフを頭に描きながら話をしている。隆三の手許にはそれが無いから何とも応じ兼ねる。
「投機筋が円安を煽った後には必ず短期の資本移動が起こって、ドルが暴落するということなんだ」
ドルの暴落というのは、急激な円高と同義ではないか。それならなぜ、井坂は敢えて“円高説”を撤回したのだろうか。
「だけど……、ドルが売られる理由って何なの? 今の円高は日米金利差だけでなく、原油高や円安で日本の貿易赤字が膨らんだ結果だという話もあるじゃないか。片やアメリカは、7月の貿易黒字が過去最高を記録したってニュースもあったし……。そうした『ファンダメンタルズに目を向けるべき』という論者もいるぜ……」
隆三は聞きかじりの情報を総動員して、井坂の真意に迫ろうとした。すると井坂は「待ってました」とばかりに目を輝かせた。
「うん、その通り。ファンダメンタルズなんだよ」
「……?」
「そうだなぁ……、何というか……。ファンダメンタルズにも“枝葉”と“幹”がある--ということだと思うね」
井坂はここを先途と、弁舌一層滑らかに温めてきた持論を展開した。
「もしファンダメンタルズを“貿易収支”という一点に絞るなら、その論者の言うことは正しい。だが俺に言わせれば、それはあくまで“枝葉”の話に過ぎないのさ」
「と、いうと?」
「だって今年のアメリカ経済って、マイナス成長じゃん」
「えっ、ウソっ……。ホント……?」
アメリカ経済は調子がいいって、みんなが口を揃えて言っているじゃないか。マイナス成長だなんて……、またまた変なことを言い出すな……。怪訝な顔をした隆三へ、井坂は自信たっぷりにダメを押した。
「本当さ。ウソだと思うなら、調べてみればいい」--。
「ちょっと待って、いま調べるから」
隆三はすぐさまスマホを取り出して、「アメリカ」、「GDPマイナス」で検索してみた。
するとジェトロのレポートが出てきて、「2022年1-3月期のアメリカのGDP成長率はマイナス1.6%、4-6月期はマイナス0.9%で、2期連続のマイナス」と書かれていた。さらに検索すると、ジャネット・イェレン財務長官が「労働市場が堅調だから、これは景気後退ではない」と発言した報道にも行き当たった。その発言通り、失業率も失業保険の申請件数も高まっていないという。
「ふふっ、笑っちゃうね」--。
イェレン長官のコメントを聞いた井坂は噴き出した。
「アメリカの労働参加率は依然として回復していないのだから、恒常的な人手不足の状態にある。そんな状態で失業率の話なんてしたってしょうがないじゃないか。むしろそうした人手不足が賃金を押し上げ、却ってインフレ圧力を高める要因になっているんだから」
そう言うと自分のスマホをいじくって何かのサイトを探し当てた。
「これが……、アメリカの労働参加率を長期にわたって表すグラフさ。商務省の公表データを基にセントルイス連邦銀行がサイトに上げている」
「1965年まではジェンダーの壁があって参加率は6割に満たないが、そうした壁が取り払われるにつれて徐々に上昇していく。それが67%くらいのところで頭打ちになるから、これが社会構造に照らした本来の参加率なのだろう……」
グラフの左半分には公民権運動やウーマン・リブ運動など「人権の確立」を巡る、気高い闘いの歴史が刻まれていた。
「ところが2000年代に入ると、一転してこれが下降しはじめる。はじめはいわゆる『ITバブル』崩壊の時期に該当するのだが、ここで何があったかはまだ確かめていない。はっきり言えるのは2008年の『リーマン・ショック』後の下降線なんだ。これ、なぜだと思う?」
「かなりのペースで下がっているね」
自分の余計なひと言でまた話が横道へ逸れてしまった。本街道へ戻るには、取り敢えずこの話を完結させねばならない。
「失業保険」--。
そう言って井坂は謎解きの答えを明かした名探偵のような得意顔をしてみせた。
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