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サンタヤーナの警句(第十九話)
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十九
「つまりさ、社会の中で“働かない人”が増えているんだよ。手厚い失業保険が何度も何度も延長されたものだから、“まじめに働くのが馬鹿らしい”って人たちがこの下降線をつくったと言われている」
そう言ってから井坂は、「もっとも、他人の受け売りだがね」と苦笑いした。
「延々と続いた失業保険がようやく切れて、さあ正常化へ向かうか--、というところで今回の事態が起こった」
「だけどさっき、今回の局面では失業保険の申請件数が増えてないって、言ってたじゃないか」
確かに井坂は失業が問題になっていないと言ったはずである。
「前回の反省を踏まえて米政府は今回、早々に失業保険を打ち切った。もっともさっき言った通り、そもそも人手が足りないのだから失業対策を講じる必要もなかったんだがね……」
隆三の指摘はあらかじめストーリーに組み込まれていたようだ。話の続きを聞こう。
「問題は、ここからだ……」
ほんのちょっと脇道へ逸れたつもりが、どんどん遠く行っている。果たしてこの先、元へ戻れるだろうか?
「いわゆるリーマン・ショックを受けてFRBは大規模な金融緩和を実施した。従来7000億~8000億ドル規模だったFRBの総資産を4兆ドル規模へ拡大し、市中にマネーを流し込んだという話は知ってるよね」
「ああ、当時“ヘリコプター・ベン”とか言ってたね。しかし、あれってもう回収したんじゃなかったの? 一時期盛んに『テーパリング』とか言ってたじゃん」
井坂は今度も隆三の反応を待ち構えていたように、スマホの画面を開いて見せた。
「ジャン!」
彼が新たに表示したのは、ニューヨーク連邦銀行が公表しているFRBの総資産の推移だった。井坂の言う通り2008年9月のところで一気に2兆ドル強へ急増した後、しばらく横ばいで推移。13年春に当時のベン・バーナンキ議長が「そろそろ資産購入を停止する」との意思を示したところ、長期金利が爆騰するという「バーナンキ・ショック」が起こった。
不思議なことに、当時はすでに金融危機も収束していたにもかかわらず、FRBの総資産はさらに倍の約4兆4500億ドルへ引き上がっていく。これが2017年12月頃から下落へ転じ、約3兆7650億ドル辺りを底に再び約4兆1760億ドルへ戻る。つまりFRBの『テーパリング』とは、ほんの一時だけ総資産額を約6850億ドル削減したが、5か月後には縮小幅を約2740億ドルへ縮めていたものだった。
そして今回の事態を受けるや、ふたたび総資産額は約7兆1690億ドルへ飛びあがり、その後も右肩上がりに9兆ドル近くまで拡大していったのである。
「何かもっと減らしたのかと思っていた。こうやって見ると、こんなものだったのかなぁ--という感じだね」
海外旅行へ行ってあこがれの観光地を訪れた旅行客のほとんどが、実物を見て幻滅して帰ってくる。「写真で見たのとイメージが違う」というものだ。井坂が見せた曲線は、隆三に同じような気持ちを起こさせた。
「ここが市場関係者と一般人との間の情報格差というものだと思う。当時は“テーパリング”という耳慣れない言葉が『バランスシート正常化プログラム』という名称とともに流布されたので、あたかも急場の凌ぎで膨らましたバランスシートを元へ戻すものとばかり思ったとしても無理はない」
「当時、あまり新聞を真面目に読んでいなかったのかなぁ。すっかりその気になっていた」
隆三は面目ないといった風に頭を掻いた。
「実際は『バランスシート正常化』など名ばかりで、その意味するところは『満期落ちや期限前償還した債券のうち、再投資しない国債やモーゲージ債券(MBS)の上限額を段階的に引き上げる』というものだった。それも最初の1年は月間合わせて100億ドル、2年目は500億ドルが上限だというのだから、単純に考えて3兆7、8000億ドルも積み上げた資産を“正常化”するのに一体何年かかるんだという体のものなのさ」
「中央銀行がお金を刷って株を買うなんて、なんか八百長みたいだね」
住宅バブルに浮かれていたアメリカ国民が奈落の底へと引きずり落されたのが、サブプライム問題とその先に起こったリーマン・ショックだ。そうして家を失った国民の生活再建に中央銀行の株価買い支えが寄与したのもまた事実である。そうは言っても一番喜んだのがマーケットだったから、FRBのなんちゃって“正常化”はレジェンドとして歴史に刻まれることになった。
「話は横道に逸れたが、中途半端な『テーパリング』が終わって幾ばくも無いうちに、今回の事態が起こった。決して俺はここに陰謀なんて持ち出すつもりはないよ。そうではなくて、またまた中央銀行の資金によって市場が買い支えられ、長きに及ぶ株高、債券高が繰り返されたと言いたいのさ」
「そういえば日銀も随分と資産を購入したって言うけど、実感ないね」
「そりゃ株も投信も買ってないんだろ?」
そう言われて隆三は「あちゃ~」というように肩をすくめた。
「そうして株価や債券価額、不動産価値までが上がっていった結果、普通の人たちまでが何となく金持ちになったような気になった。仕事を早々に辞めて“悠々自適”の生活に入る人たちが一定の“層”をつくるようになったのさ。そういうのを『FIRE(Financial Independence, Retire Early)』と呼ぶんだ)」
また聞きなれない言葉だなぁ~。帰って整理するのが大変そうだ。それにしても今日の話のいくつが記事に使えるだろうか?
「ここでやっと結論だが、そういう人たちを考慮に入れれば労働参加率はこの先も戻らないし、人手不足は解消しない。そして賃金圧力を一層押し上げ、インフレを高止まりさせるという、負のスパイラルを描く恐れがあるということなんだ」--。
随分と恐ろしいことを考えるものだ。世界の危機とかインフレスパイラルだとか、まるでマッドサイエンティストが描くディストピアの世界みたいではないか--!
「つまりさ、社会の中で“働かない人”が増えているんだよ。手厚い失業保険が何度も何度も延長されたものだから、“まじめに働くのが馬鹿らしい”って人たちがこの下降線をつくったと言われている」
そう言ってから井坂は、「もっとも、他人の受け売りだがね」と苦笑いした。
「延々と続いた失業保険がようやく切れて、さあ正常化へ向かうか--、というところで今回の事態が起こった」
「だけどさっき、今回の局面では失業保険の申請件数が増えてないって、言ってたじゃないか」
確かに井坂は失業が問題になっていないと言ったはずである。
「前回の反省を踏まえて米政府は今回、早々に失業保険を打ち切った。もっともさっき言った通り、そもそも人手が足りないのだから失業対策を講じる必要もなかったんだがね……」
隆三の指摘はあらかじめストーリーに組み込まれていたようだ。話の続きを聞こう。
「問題は、ここからだ……」
ほんのちょっと脇道へ逸れたつもりが、どんどん遠く行っている。果たしてこの先、元へ戻れるだろうか?
「いわゆるリーマン・ショックを受けてFRBは大規模な金融緩和を実施した。従来7000億~8000億ドル規模だったFRBの総資産を4兆ドル規模へ拡大し、市中にマネーを流し込んだという話は知ってるよね」
「ああ、当時“ヘリコプター・ベン”とか言ってたね。しかし、あれってもう回収したんじゃなかったの? 一時期盛んに『テーパリング』とか言ってたじゃん」
井坂は今度も隆三の反応を待ち構えていたように、スマホの画面を開いて見せた。
「ジャン!」
彼が新たに表示したのは、ニューヨーク連邦銀行が公表しているFRBの総資産の推移だった。井坂の言う通り2008年9月のところで一気に2兆ドル強へ急増した後、しばらく横ばいで推移。13年春に当時のベン・バーナンキ議長が「そろそろ資産購入を停止する」との意思を示したところ、長期金利が爆騰するという「バーナンキ・ショック」が起こった。
不思議なことに、当時はすでに金融危機も収束していたにもかかわらず、FRBの総資産はさらに倍の約4兆4500億ドルへ引き上がっていく。これが2017年12月頃から下落へ転じ、約3兆7650億ドル辺りを底に再び約4兆1760億ドルへ戻る。つまりFRBの『テーパリング』とは、ほんの一時だけ総資産額を約6850億ドル削減したが、5か月後には縮小幅を約2740億ドルへ縮めていたものだった。
そして今回の事態を受けるや、ふたたび総資産額は約7兆1690億ドルへ飛びあがり、その後も右肩上がりに9兆ドル近くまで拡大していったのである。
「何かもっと減らしたのかと思っていた。こうやって見ると、こんなものだったのかなぁ--という感じだね」
海外旅行へ行ってあこがれの観光地を訪れた旅行客のほとんどが、実物を見て幻滅して帰ってくる。「写真で見たのとイメージが違う」というものだ。井坂が見せた曲線は、隆三に同じような気持ちを起こさせた。
「ここが市場関係者と一般人との間の情報格差というものだと思う。当時は“テーパリング”という耳慣れない言葉が『バランスシート正常化プログラム』という名称とともに流布されたので、あたかも急場の凌ぎで膨らましたバランスシートを元へ戻すものとばかり思ったとしても無理はない」
「当時、あまり新聞を真面目に読んでいなかったのかなぁ。すっかりその気になっていた」
隆三は面目ないといった風に頭を掻いた。
「実際は『バランスシート正常化』など名ばかりで、その意味するところは『満期落ちや期限前償還した債券のうち、再投資しない国債やモーゲージ債券(MBS)の上限額を段階的に引き上げる』というものだった。それも最初の1年は月間合わせて100億ドル、2年目は500億ドルが上限だというのだから、単純に考えて3兆7、8000億ドルも積み上げた資産を“正常化”するのに一体何年かかるんだという体のものなのさ」
「中央銀行がお金を刷って株を買うなんて、なんか八百長みたいだね」
住宅バブルに浮かれていたアメリカ国民が奈落の底へと引きずり落されたのが、サブプライム問題とその先に起こったリーマン・ショックだ。そうして家を失った国民の生活再建に中央銀行の株価買い支えが寄与したのもまた事実である。そうは言っても一番喜んだのがマーケットだったから、FRBのなんちゃって“正常化”はレジェンドとして歴史に刻まれることになった。
「話は横道に逸れたが、中途半端な『テーパリング』が終わって幾ばくも無いうちに、今回の事態が起こった。決して俺はここに陰謀なんて持ち出すつもりはないよ。そうではなくて、またまた中央銀行の資金によって市場が買い支えられ、長きに及ぶ株高、債券高が繰り返されたと言いたいのさ」
「そういえば日銀も随分と資産を購入したって言うけど、実感ないね」
「そりゃ株も投信も買ってないんだろ?」
そう言われて隆三は「あちゃ~」というように肩をすくめた。
「そうして株価や債券価額、不動産価値までが上がっていった結果、普通の人たちまでが何となく金持ちになったような気になった。仕事を早々に辞めて“悠々自適”の生活に入る人たちが一定の“層”をつくるようになったのさ。そういうのを『FIRE(Financial Independence, Retire Early)』と呼ぶんだ)」
また聞きなれない言葉だなぁ~。帰って整理するのが大変そうだ。それにしても今日の話のいくつが記事に使えるだろうか?
「ここでやっと結論だが、そういう人たちを考慮に入れれば労働参加率はこの先も戻らないし、人手不足は解消しない。そして賃金圧力を一層押し上げ、インフレを高止まりさせるという、負のスパイラルを描く恐れがあるということなんだ」--。
随分と恐ろしいことを考えるものだ。世界の危機とかインフレスパイラルだとか、まるでマッドサイエンティストが描くディストピアの世界みたいではないか--!
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