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サンタヤーナの警句(第二十四話)
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二十四
禍福は糾える縄の如し--。
吉川が引き抜かれ、鉾田もつむじを曲げた今回の企画だったが、幸運にも浅井美由紀へのインタビューに続いて翌日、大手銀行系シンクタンクのアポイントが取れた。今度は鉾田も出勤してくるので、機嫌取りも兼ねて同行取材することにした。
「カメラ忘れないでな」
「ちゃんと持ちましたよ~」
あっかんべぇでもするような口調で鉾田ななみが口答えをした。オンナは切り替えが早くていい。一昨日のことなんか何もなかったように、普段の彼女に戻っていた。むしろいつまでも女々しく後ろ髪を引かれたままなのは、隆三の方であった。
今度の訪問先は“ザ・オフィス街”、大手町のど真ん中にある。バブル真っ盛りの頃に建てられたそのツインビルは、かつてこの街のランドマークとして異彩を放ったものだ。しかし東京のオフィス街も随分と建て替えが進んで、周囲の方が次々と近代的なビルへ取って代わられた。時代に取り残されくすんでいくその姿は何だか幼少の頃に読んだバージニア・リー・バートンの絵本、『ちいさいおうち』を思い出させた。
1階のロビーにカウンターがあって、備え付けの記入用紙に会社名と住所・氏名、連絡先、さらに訪問先と目的を書き込む。これを受付へ持っていき、引き換えにカードをもらう。このカードを差し込むとエレベーター前のエントランスが開く仕組みだ。
このビルへは何度か来たことがあるから、鉾田を前に恥をかくこともなく目的の階へたどり着いた。
1階のロビーと違って会社の受付は無人だった。備え付けの電話から窓口となる人物を呼び出した。しばらく待っていると、奥からネイビーのスリムなスーツを着た若い男性が現れた。鉾田と吉川の間位の年次なのだろう。銀行からの出向なのか、実にそつのない物腰でオフィスの中へ通された。
「こちらへどうぞ」と案内された部屋は、明らかに社内用の会議室だった。それはとくに問題ではなかったが、後から入ってきた人物が窓口となった男よりも若そうに見えたのには驚いた。
「渦巻リサーチ・インスティテュート
調査部 マーケット・エコノミスト
高橋天馬」
名刺に書かれた肩書と不釣り合いな童顔に、ややもすれば相手を見くびりかけたが、意思の強そうな芯の通った声をしていた。鉾田の頬がポッと赤く染まるのを横目でチラ見した。
「私どもは大きく3つの要因から、この先も円安が続くだろうと予測しています」
毅然とした語り口の高橋へ、鉾田はカメラのレンズを向けてパシャパシャむやみやたらとシャッターを切った。
「ひとつ目はご承知の通り、日米の金利差です」--。
この話は何度も聞いた。だいたいメールのコメントと同じようなことで、FRBが利上げを続けるのに反して日銀は政策金利を引き上げないから、金利差に引き寄せられた円安が一層進むという見立てである。
「ふたつ目は実需の要因です」--。
必要以上に高橋の写真を撮ったかと思えば、今度は席へ戻って熱心にメモを取り出した。思いがけないところで鉾田の“乙女心”が顔をのぞかせた。
「今年8月の貿易赤字は季節調整済で2兆3713億円。1~8月累計では8兆8997億円と、過去最大の赤字だった2014年度の12兆7813億円を遥かに超えそうです。1日あたり数百兆円もの取引がある外国為替市場においては、さして大きな金額ではありませんが、市場参加者は伝統的に貿易収支を重視します」
さすが銀行系シンクタンクだ。金利差の話は耳にタコができるほど聞かされたが、実需の話をしてくれたのは高橋が初めてだった。そして感心したのは隆三以上に“乙女”だった。
「パンデミックにともなう厳しい入国制限措置によってインバウンド需要が減った分、外国人の円買いが消えてサービス収支も減退しました」
憧れの先生の授業を真剣に受講する女学生のようなまなざしで、鉾田は高橋の話を聞き漏らすまいと努めていた。
「そして日本企業が過去に行った海外への直接投資などによって、子会社から送られてくる利益配当などが『第一次所得収支』となってこれらの赤字を埋める訳ですが、通常は後からまとめて親会社へ送られてくるので、おおむね1年ほどのタイムラグを伴います」
すっかり隆三の存在を忘れた鉾田はそこで大きく何度もうなずいた。
「これらを勘案して、21年度分の経常収支が悪化した分、1年の時間差を経て今年度のドル円相場の押し下げ要因となりました。この傾向はしばらく続きます」
恋する“乙女”は忙しい。鉾田はメモを取ったり大げさにうなずいたり、再びカメラを取り出したりと八面六臂の大活躍で存在をアピールしている。
「そして最後が投機の要因ですが、アメリカの行政機関のひとつにCFTC(米商品先物取引委員会)というのがありまして、毎週火曜日に米国内の先物取引のポジション、つまり建玉を公開しています。建玉とは未精算のまま残った取引のことで、空売りなどの状況を把握するのに役立ちます」
昨日の浅井女史は聞き手の感情に訴えかけてきたが、高橋は極めて理詰めで攻めてきている。話はあらかじめ整理されているが、投機筋の話に鉾田はちょっと眉をしかめた。
「こちらは1週間の通貨取引のうち円買いと円売り、そして両者を相殺した数量を『板』と呼ばれる単位で示します。2021年3月から円は売り越しが続いており、今年4~5月にかけては10万枚を超えやや『売られ過ぎ』の水準となりました。通常、10万枚を境に『売られ過ぎ』か『買われ過ぎ』かを判別します。意外なことにドル円相場が乱高下した9月以降は8万枚程度で、投機が過熱したとは言い難い。それでも円売りの基調は続いています」
いよいよ話が難解になってきた。“乙女”の方はというと、うすむいたまま固まっていた。
禍福は糾える縄の如し--。
吉川が引き抜かれ、鉾田もつむじを曲げた今回の企画だったが、幸運にも浅井美由紀へのインタビューに続いて翌日、大手銀行系シンクタンクのアポイントが取れた。今度は鉾田も出勤してくるので、機嫌取りも兼ねて同行取材することにした。
「カメラ忘れないでな」
「ちゃんと持ちましたよ~」
あっかんべぇでもするような口調で鉾田ななみが口答えをした。オンナは切り替えが早くていい。一昨日のことなんか何もなかったように、普段の彼女に戻っていた。むしろいつまでも女々しく後ろ髪を引かれたままなのは、隆三の方であった。
今度の訪問先は“ザ・オフィス街”、大手町のど真ん中にある。バブル真っ盛りの頃に建てられたそのツインビルは、かつてこの街のランドマークとして異彩を放ったものだ。しかし東京のオフィス街も随分と建て替えが進んで、周囲の方が次々と近代的なビルへ取って代わられた。時代に取り残されくすんでいくその姿は何だか幼少の頃に読んだバージニア・リー・バートンの絵本、『ちいさいおうち』を思い出させた。
1階のロビーにカウンターがあって、備え付けの記入用紙に会社名と住所・氏名、連絡先、さらに訪問先と目的を書き込む。これを受付へ持っていき、引き換えにカードをもらう。このカードを差し込むとエレベーター前のエントランスが開く仕組みだ。
このビルへは何度か来たことがあるから、鉾田を前に恥をかくこともなく目的の階へたどり着いた。
1階のロビーと違って会社の受付は無人だった。備え付けの電話から窓口となる人物を呼び出した。しばらく待っていると、奥からネイビーのスリムなスーツを着た若い男性が現れた。鉾田と吉川の間位の年次なのだろう。銀行からの出向なのか、実にそつのない物腰でオフィスの中へ通された。
「こちらへどうぞ」と案内された部屋は、明らかに社内用の会議室だった。それはとくに問題ではなかったが、後から入ってきた人物が窓口となった男よりも若そうに見えたのには驚いた。
「渦巻リサーチ・インスティテュート
調査部 マーケット・エコノミスト
高橋天馬」
名刺に書かれた肩書と不釣り合いな童顔に、ややもすれば相手を見くびりかけたが、意思の強そうな芯の通った声をしていた。鉾田の頬がポッと赤く染まるのを横目でチラ見した。
「私どもは大きく3つの要因から、この先も円安が続くだろうと予測しています」
毅然とした語り口の高橋へ、鉾田はカメラのレンズを向けてパシャパシャむやみやたらとシャッターを切った。
「ひとつ目はご承知の通り、日米の金利差です」--。
この話は何度も聞いた。だいたいメールのコメントと同じようなことで、FRBが利上げを続けるのに反して日銀は政策金利を引き上げないから、金利差に引き寄せられた円安が一層進むという見立てである。
「ふたつ目は実需の要因です」--。
必要以上に高橋の写真を撮ったかと思えば、今度は席へ戻って熱心にメモを取り出した。思いがけないところで鉾田の“乙女心”が顔をのぞかせた。
「今年8月の貿易赤字は季節調整済で2兆3713億円。1~8月累計では8兆8997億円と、過去最大の赤字だった2014年度の12兆7813億円を遥かに超えそうです。1日あたり数百兆円もの取引がある外国為替市場においては、さして大きな金額ではありませんが、市場参加者は伝統的に貿易収支を重視します」
さすが銀行系シンクタンクだ。金利差の話は耳にタコができるほど聞かされたが、実需の話をしてくれたのは高橋が初めてだった。そして感心したのは隆三以上に“乙女”だった。
「パンデミックにともなう厳しい入国制限措置によってインバウンド需要が減った分、外国人の円買いが消えてサービス収支も減退しました」
憧れの先生の授業を真剣に受講する女学生のようなまなざしで、鉾田は高橋の話を聞き漏らすまいと努めていた。
「そして日本企業が過去に行った海外への直接投資などによって、子会社から送られてくる利益配当などが『第一次所得収支』となってこれらの赤字を埋める訳ですが、通常は後からまとめて親会社へ送られてくるので、おおむね1年ほどのタイムラグを伴います」
すっかり隆三の存在を忘れた鉾田はそこで大きく何度もうなずいた。
「これらを勘案して、21年度分の経常収支が悪化した分、1年の時間差を経て今年度のドル円相場の押し下げ要因となりました。この傾向はしばらく続きます」
恋する“乙女”は忙しい。鉾田はメモを取ったり大げさにうなずいたり、再びカメラを取り出したりと八面六臂の大活躍で存在をアピールしている。
「そして最後が投機の要因ですが、アメリカの行政機関のひとつにCFTC(米商品先物取引委員会)というのがありまして、毎週火曜日に米国内の先物取引のポジション、つまり建玉を公開しています。建玉とは未精算のまま残った取引のことで、空売りなどの状況を把握するのに役立ちます」
昨日の浅井女史は聞き手の感情に訴えかけてきたが、高橋は極めて理詰めで攻めてきている。話はあらかじめ整理されているが、投機筋の話に鉾田はちょっと眉をしかめた。
「こちらは1週間の通貨取引のうち円買いと円売り、そして両者を相殺した数量を『板』と呼ばれる単位で示します。2021年3月から円は売り越しが続いており、今年4~5月にかけては10万枚を超えやや『売られ過ぎ』の水準となりました。通常、10万枚を境に『売られ過ぎ』か『買われ過ぎ』かを判別します。意外なことにドル円相場が乱高下した9月以降は8万枚程度で、投機が過熱したとは言い難い。それでも円売りの基調は続いています」
いよいよ話が難解になってきた。“乙女”の方はというと、うすむいたまま固まっていた。
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