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サンタヤーナの警句(第三十話)
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三十
「ちょっとこれをご覧ください」
春日はやや唐突に、見慣れない棒グラフを机に置いた。
「いまの世界の縮図がこの1枚に描かれています」--。
それは経常収支の黒字国と赤字国を並べただけの単純なグラフで、表題に「グローバル・インバランス」とあった。
「はぁ……」
当然、隆三には何のことやらさっぱり分からない。
「2009年の世界金融危機を受けて、IMF(国際通貨基金)は世界経済の構造的な不均衡が政治的な不安定要因になっていると警鐘を鳴らしたのです。2010年に提唱され、日本でも一時期議論が高まりましたが、2015年頃を境に立ち消えになっていきました」
日本では「リーマン・ショック」の俗称で言い馴らされている世界的なバブルの崩壊は、2007年のサブプライム問題に始まり世界同時株安や欧債務危機へと連鎖的に広がった。このため国際的には「世界金融危機(Global Financial Crisis)」の名称が一般的である。
「一見してお分かりの通り、最大の経常赤字国がアメリカで、その赤字幅が極限まで広がったときに世界は不安定化します」
確かにグラフはアメリカの住宅バブルが膨らんだ2006年のところで大きく下へ向かって伸びている。そして住宅ローンが焦げ付いて「サブプライム問題」となった07年、「リーマン・ショック」と呼ばれる株価の暴落が起きた08年以降激減する。それがパンデミックで世界が揺れた2020年から再び急拡大し直近では赤字幅が過去最大に膨らんでいる。
「これに対する黒字国の顔ぶれをよく御覧なさい」
春日は骨董品を愛好家に品評させる古美術商のような振る舞いで、隆三の鑑定眼を瀬踏みした。
「ドイツの黒字が目立ちますね……。あと、思いのほか中国の黒字が不安定ですね……」
春日は隆三の読解力に少し失望したような目をして、長い説教を聞かす上司のように居住まいを正した。
「ドイツは日本と同じく、安全保障上の理由から面と向かって合衆国と対立できない立場にあります。それがゲアハルト・シュレーダー政権時代にイラク戦争を批判した頃から、両者の関係に“微妙”な亀裂が生まれました。そもそも第一次世界大戦後の歴史的な経緯もあって、元々この国は紛う方なき親中国です。その伝統はシュレーダーを引き継いだアンゲラ・メルケル政権下でより鮮明になります。オバマ政権末期に外交戦略を180度転換して『反中政策』へ舵を切ったワシントンは、自国の外交政策をドイツに押し付け、何やかやと難癖をつけ続けました」
「それは存じませんでした。勉強になります」
隆三がまだ少年の頃、街には今よりもっとドイツ製品が並んでいた。その頃ドイツのセールスマンがリップサービスでこう言ったという話を覚えている。
「今度はイタ公抜きでやろうな!」
「ドイツもそうですが、一番手前のところを御覧なさい。見事なくらいにメンツが揃っているでしょう」
春日はそう言って、再び隆三に考えさせた。隆三も今度こそはとじっくりグラフを眺めた。
「うわっ、ドイツ、中国、ロシアですね……。スゴイっ!」
「そして一番上の茶色の棒がOPEC、なかんずくサウジです……」
偶然というにはあまりに役者が揃っていた。
「ノルドストリーム2が稼働すればドイツとロシアの経済は2度と引き離せないほど一体化すると見られていました。これを何としても引き裂かなければなりません」
「では……」
隆三は相手が話の先を引き取ってくれることを期待したが、彼が伸ばした手はついぞ握られなかった。
「私は国際政治を語っているのではありません。地図を読んでいるのです」
隆三の手を握らないどころか、自分で煽っておきながらさっと身を翻す。まるで「マッチポンプ」ではないか。
「このグラフの来年版がどうなるかを占ってみようじゃないですか」
さんざん人を翻弄し、今や「世界をわが手に」とでも言いだしそうなこの男は、地球儀の未来像まで手を伸ばそうとしている。
「……」
「今度の一件でドイツ経済は壊滅的な打撃を受けました。不動産バブルの破裂した中国経済もかなりの後退を余儀なくされるでしょう。日本や台湾のようにエネルギーを海外に頼っている国の経常収支は軒並み悪化を避けられません。反対にロシアは西側の制裁によって輸入が途絶えましたから、貿易黒字は増加するはずです。同様にOPEC諸国、就中サウジアラビアのプレゼンスが見まがうほどに高まると予測されます」
“普通”に考えれば誰でも同じ考えにいたるだろう。隆三はその解釈に異論はなかった。
「そう言っていたら、最近のニュースでワシントンの高官がOPECの減産を『ロシア寄り』と非難して、サウジアラビアとの関係を見直すと発言しましたね」
「ああ、そうか……。そうでしたね……」
「世界をわが手に」も卑近な例に紐づけられたら急に説得力を持つようになる。
「従来でしたらサウジもアメリカとの正面対決は避けたでしょうが、今の両国関係は完全に冷え切っています。このグラフを踏まえるならば、今後の対立はより“非妥協的”なものとなるでしょう……」
「つまり、今度は中東で何かきな臭いことが起こるということでしょうか?」
春日の思わせぶりな話は隆三の好奇心をくすぐったが、同時に井坂とは比べ物にならないほどの空恐ろしさを焼き付けた。
「ちょっとこれをご覧ください」
春日はやや唐突に、見慣れない棒グラフを机に置いた。
「いまの世界の縮図がこの1枚に描かれています」--。
それは経常収支の黒字国と赤字国を並べただけの単純なグラフで、表題に「グローバル・インバランス」とあった。
「はぁ……」
当然、隆三には何のことやらさっぱり分からない。
「2009年の世界金融危機を受けて、IMF(国際通貨基金)は世界経済の構造的な不均衡が政治的な不安定要因になっていると警鐘を鳴らしたのです。2010年に提唱され、日本でも一時期議論が高まりましたが、2015年頃を境に立ち消えになっていきました」
日本では「リーマン・ショック」の俗称で言い馴らされている世界的なバブルの崩壊は、2007年のサブプライム問題に始まり世界同時株安や欧債務危機へと連鎖的に広がった。このため国際的には「世界金融危機(Global Financial Crisis)」の名称が一般的である。
「一見してお分かりの通り、最大の経常赤字国がアメリカで、その赤字幅が極限まで広がったときに世界は不安定化します」
確かにグラフはアメリカの住宅バブルが膨らんだ2006年のところで大きく下へ向かって伸びている。そして住宅ローンが焦げ付いて「サブプライム問題」となった07年、「リーマン・ショック」と呼ばれる株価の暴落が起きた08年以降激減する。それがパンデミックで世界が揺れた2020年から再び急拡大し直近では赤字幅が過去最大に膨らんでいる。
「これに対する黒字国の顔ぶれをよく御覧なさい」
春日は骨董品を愛好家に品評させる古美術商のような振る舞いで、隆三の鑑定眼を瀬踏みした。
「ドイツの黒字が目立ちますね……。あと、思いのほか中国の黒字が不安定ですね……」
春日は隆三の読解力に少し失望したような目をして、長い説教を聞かす上司のように居住まいを正した。
「ドイツは日本と同じく、安全保障上の理由から面と向かって合衆国と対立できない立場にあります。それがゲアハルト・シュレーダー政権時代にイラク戦争を批判した頃から、両者の関係に“微妙”な亀裂が生まれました。そもそも第一次世界大戦後の歴史的な経緯もあって、元々この国は紛う方なき親中国です。その伝統はシュレーダーを引き継いだアンゲラ・メルケル政権下でより鮮明になります。オバマ政権末期に外交戦略を180度転換して『反中政策』へ舵を切ったワシントンは、自国の外交政策をドイツに押し付け、何やかやと難癖をつけ続けました」
「それは存じませんでした。勉強になります」
隆三がまだ少年の頃、街には今よりもっとドイツ製品が並んでいた。その頃ドイツのセールスマンがリップサービスでこう言ったという話を覚えている。
「今度はイタ公抜きでやろうな!」
「ドイツもそうですが、一番手前のところを御覧なさい。見事なくらいにメンツが揃っているでしょう」
春日はそう言って、再び隆三に考えさせた。隆三も今度こそはとじっくりグラフを眺めた。
「うわっ、ドイツ、中国、ロシアですね……。スゴイっ!」
「そして一番上の茶色の棒がOPEC、なかんずくサウジです……」
偶然というにはあまりに役者が揃っていた。
「ノルドストリーム2が稼働すればドイツとロシアの経済は2度と引き離せないほど一体化すると見られていました。これを何としても引き裂かなければなりません」
「では……」
隆三は相手が話の先を引き取ってくれることを期待したが、彼が伸ばした手はついぞ握られなかった。
「私は国際政治を語っているのではありません。地図を読んでいるのです」
隆三の手を握らないどころか、自分で煽っておきながらさっと身を翻す。まるで「マッチポンプ」ではないか。
「このグラフの来年版がどうなるかを占ってみようじゃないですか」
さんざん人を翻弄し、今や「世界をわが手に」とでも言いだしそうなこの男は、地球儀の未来像まで手を伸ばそうとしている。
「……」
「今度の一件でドイツ経済は壊滅的な打撃を受けました。不動産バブルの破裂した中国経済もかなりの後退を余儀なくされるでしょう。日本や台湾のようにエネルギーを海外に頼っている国の経常収支は軒並み悪化を避けられません。反対にロシアは西側の制裁によって輸入が途絶えましたから、貿易黒字は増加するはずです。同様にOPEC諸国、就中サウジアラビアのプレゼンスが見まがうほどに高まると予測されます」
“普通”に考えれば誰でも同じ考えにいたるだろう。隆三はその解釈に異論はなかった。
「そう言っていたら、最近のニュースでワシントンの高官がOPECの減産を『ロシア寄り』と非難して、サウジアラビアとの関係を見直すと発言しましたね」
「ああ、そうか……。そうでしたね……」
「世界をわが手に」も卑近な例に紐づけられたら急に説得力を持つようになる。
「従来でしたらサウジもアメリカとの正面対決は避けたでしょうが、今の両国関係は完全に冷え切っています。このグラフを踏まえるならば、今後の対立はより“非妥協的”なものとなるでしょう……」
「つまり、今度は中東で何かきな臭いことが起こるということでしょうか?」
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